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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第64話 働き者たちの月曜日〜仕事をください

 間もなくして、イニスの指示を受けたと言うキュエリがジェイスの交代要員としてやって来ると、アスティはジェイスと一緒に食堂へ向かった。しかし、一緒にテーブルについたジェイスは「キュエリを長々待たせるのは悪いから。」とサンドイッチを頬張るなり、すぐに食堂を飛び出してしまい、アスティはキーロの傍らで独りぼんやりと黄金色のオムライスの山を切り崩すことになった。食堂のオムライス、それ自体とてもおいしいようで、ヨルンに妙なデコレーションをされない時に食べておいた方がいいというジェイスの勧めで選んだものだ。ジェイスの言うとおり、確かに、オムライスはおいしい。ただ少し味気ないのは、その感想を伝える相手がいないことだ。
 食堂にいた他の騎士団員に声を掛けても良かったのだが、みんなどうにも忙しそうで、掻き込むように手早く食事を済ませると慌ただしく食堂を飛び出していく。ゆっくり食事を取っているように見える者も、よく見ると携帯端末装置モバイル・ギアを操作していたり、傍に置いた分厚い書類の束に目を落としていたりと、どうにも話し掛けづらい。
 アスティは昼食を済ませた後、キーロと共に図書室へ戻ることにした。本宮の入口には既にジェイスが立っていて、アスティを認めるなりピシッと敬礼をした。やや緊張した面持ちなのは、先ほどイニスに立ち話を咎められたからだろうか。仕事の邪魔をしては悪いと思い、アスティも会釈だけ返してその場を通り過ぎた。
 結局、図書室で読んだ本に出てきた難しい言葉は、わざわざメモを持ち歩いていたにも関わらず、誰にも問えないまま、アスティは再び「基本書」と向き合うことになった。
 分からない言葉を自力で本から調べることには限界があると悟って、アスティは分からない言葉を飛ばして先を読み進めることにした。最初はさっぱり意味の分からなかった文章も、読み進めるうちに分からない言葉の意味を文脈から推察できるようになり、読む速度も上がってきた。書かれていることはこの国の歴史なのだ。かつて絵本で読んだ英雄的物語は必ずしも正確な歴史ではなかったけれど、記憶を辿れば、どこかで聞いたような話の流れに行き当たる。
 ただ、建国の歴史の章を読み終えたアスティがはっきりと理解したことは、この本があまり面白い本ではないということだった。淡々とした記述はそれが物語ではなく歴史書であることを踏まえればやむを得ないことではあるのだが、問題は、そこではない。知らなかったことを知ること自体は面白いはずなのに、読み進めれば読み進めるほど腑に落ちないことが増えていくのだ。初代の国王が成し遂げた様々な偉業は丁寧に解説されているが、土曜日にナウルから聞いた『正史』とは異なる「もう一つの歴史」には全く触れられていない。先のページをぺらぺらとめくってみても、化学部門の研究室でバウンスから聞いたウェルフスの悲劇について触れられていないのはもちろん、ウェルフス王子の存在にすらほとんど触れられていない。西の森の戦争の経緯に関する記述は、エルタワーでナウルとイニスから聞いた内容とほぼ同じだったが、「西の森の自治体性における不十分な教育のために科学技術の有用性についての理解に乏しいことが、西の森の民の開発に対する強固な反対の原因となった。」という一文は、アスティの心をざわつかせた。
 確かに、科学技術の素晴らしさを知らなければ、そのための開発に賛同できるはずはない。しかし、西の森の民が開発に反対した理由は、科学技術の有用性を理解していなかったからだけではないはずだ。
 アスティも、王都の科学技術については王都に来るまではほとんど知らなかったが、イニスやバウンスから新しいプラントの建設が王都の暮らしにとって必要なものであると聞いて、東の森での新しいプラントの建設を悪いことだと言い切ることが難しくなった。それでもなお、アスティは東の森でのプラント建設には賛成できない。アスティの祖父ムリクが、東の森の守護者として東の森でのプラント建設に異議を唱えていたのは、単に科学技術の素晴らしさを知らなかったからではない。プラント建設で潰されてしまう東の森に、科学技術よりも、少なくとも科学技術と同じくらい素晴らしいものがあることを知っていたからだ。
 焚き火を囲みながら聞いたムリクの長話は、時に繰り返しが多くて少々しつこくもあったけれど、森と森に暮らす命への愛に溢れていた。森の民が科学技術の素晴らしさを理解していないのなら、王都の人々もまた森の素晴らしさを理解してはいない。鳥のさえずり、川のせせらぎ、葉ずれの音に、煌めく木漏れ日……それは、イニスと共に見た王都の無数の灯と同じくらい素敵なものなのだ。そのことを、王都の人々は知らない。少なくとも、森の民ほどには理解していない。アスティが、森の民が、王都の人々ほどには「科学技術の有用性」を理解していないのと同じように。
 目の前の本には、大事なことが書かれていない。
 ナウルによれば、この基本書はこの国の歴史、政府が認めた『正史』に基づいたもので、歴史的事実が正しく記されているはずだが、アスティには、この本が「真実」を伝えているとは思えなかった。アスティが知っていることも、知らないことも、この本には明らかに欠落がある。
 国王やイニスは、王都の人々は、この本の内容を信じているのだろうか。この本の「欠落」に気付いているのだろうか。この国の歴史をどう見ているのだろうか。
 彼らを説得するには、まず彼らの考えを知らなければならない。アスティがこの国の歴史を知ろうと思ったのは、そのための手段としてだった。彼らは何を知っていて、何を知らないのだろう。
 アスティが本当に知るべきことは、きっと本には書かれていない。だから、確かめなくてはならない。自分の目で、耳で……彼らと直接話さなければ。
 アスティは本を書棚に戻すと、キーロと共に図書室を出た。
 途端、アスティは何かとぶつかり、白いものがばさばさと音を立てて床に広がった。
「わわっ!」
 アスティとぶつかって慌てた声を上げたのはヨルンだ。床に散らばったのは、彼が手にしていた書類である。
「ごめんなさい!」
 アスティが慌てて謝罪すると、ヨルンは「ああ、大丈夫。僕もよそ見してたから、ごめんね。」と彼にしては珍しく早口に言って床にしゃがみ込み、散らばった書類を手早く拾い集めていく。
「図書室でお勉強してたの? 何か面白い本あった?」
「あ、はい。でも、少し難しくて……。」
 アスティも書類を拾うのを手伝いつつ、ヨルンの問いに答える。
「まあ、この図書室の蔵書は専門書も多いしね。ゆっくり読み進めたらいいと思うよ、頑張ってね。」
 散らばった書類を全て拾い集めると、ヨルンは立ち上がった。
「あ、はい。ありがとうございます。あの……。」
「じゃあ、またね。」
 アスティは自分が拾い集めた分の書類をヨルンに手渡しつつ、この国の歴史についての質問を繰り出そうとしたのだが、ヨルンは書類を受け取るなり足早に去って行ってしまった。廊下の角を曲がる頃にはほとんど駆け足になっていたところを見るに、随分と急いでいたらしい。
 忙しいヨルンを追いかけても質問の機会はなさそうなので、アスティはヨルンが去って行った方向とは反対の方向へ廊下を進むことにした。
「つまり、該当個所の修正が必要ということか。」
「ええ。既に担当者に再計算の指示は出していますが、期限が近いので、できれば一時的に人員を増やして対処させた方が良いかと……。」
 廊下の先から、聞き覚えのある声がした。アスティが角を曲がると、カーディアルとキュエリが連れ立って歩いている。
「全く、面倒なことをばかり増えるな。この件は提案どおりで良い。で、次は?」
「カーディアルさん、キュエリさん!」
 アスティは笑顔で二人に駆け寄ったが、カーディアルはアスティを一瞥することさえなくぶつぶつと不満げに呟いていて、キュエリも「ごめんなさい。今は時間がないので。」と一瞬申し訳なさそうな表情を見せたものの、すぐにカーディアルに向き直って何やら難しそうな話をしながら去って行ってしまった。
 どうにも、今日はみんな忙しいらしい。その後も何人かの騎士団員とすれ違ったが、足早に行き交う彼らには声を掛けづらく、アスティはぐるりと本宮内を一周して、宿所のある中庭まで戻ってきた。
 出入り口に立っていたジェイスは既に他の騎士団員と交代したようだったが、ジェイスに代わって立っているのはナウルではなく、見覚えのない顔の騎士団員だ。アスティが会釈をすると、笑顔で敬礼を返してくれたが、話し掛けるのは躊躇われた。ぼんやり立っているだけに見えても、彼は仕事中なのだ。先刻のジェイスのように立ち話を咎められることになっては申し訳ない。初対面の相手ならなおさらである。
 王都の人々の話を聞こうと張り切って図書室を出たはずなのだが、今日は朝からみんな忙しいようで、アスティの「勉強」には付き合ってもらえそうもない。
 仕方なく自室に戻りかけて、ふと視界の端に食堂の扉が見えた。夕食にはまだ早いが、もしかしたら誰かがおやつを食べながら休憩しているかもしれない。たとえば、キーロ以上に食いしん坊のナウルとかが……。
「クエッ!」
 アスティの視線が食堂へ向くと、食いしん坊のキーロが期待の込もった声で鳴いた。
 キーロの賛同を得たアスティは、真っ直ぐ食堂へ向かうと、勢いよくその扉を押し開こうとした——が、その瞬間すっと扉が引っ込んで、アスティは前につんのめった。
「クエッ!」
 ——ばふんっ!
 体勢を立て直す間もなく、アスティは顔面から布切れの山に突っ込んだ。そう、アスティが顔面を押し当てたのは、硬い床ではなく、白布の山だった。幸いにも、完全に転倒することなく、アスティは白布の山から頭を引き抜くことができた。
「あら、ごめんなさい!」
 アスティの眼前の白布の山が甲高い声で謝罪した——否、声の主は、白いテーブルクロスをたっぷりと盛ったかごを抱えた侍女長マリアンヌである。その姿は白布の山の向こうに隠れているが、特徴的な声もかごの下に見える白い前掛けも間違いなく彼女のものだ。
「お怪我はございません?」
 白い山がずれて、マリアンヌが顔を覗かせた。
「あ、はい、私は……。」
 答えながら肩の上のキーロの様子を確認しようと辺りを見回すと、キーロは白布の山の上から不思議そうにアスティを見下ろしている。どうやら、衝突前に空中へ避難したらしい。
「それは良かったですわ。イニス様の大事なお客様に怪我をさせていたら、大変なことですもの!」
 アスティの回答に、マリアンヌはほっとした表情を見せると、すぐに「よいっしょ!」と白布の入った重そうなかごを持ち直した。
「クエッ!」
 揺れ動いた白布の山から飛び上がったキーロは、再びアスティの肩の上へと戻ってくる。
 マリアンヌが閉まり掛けた扉の隙間に身を捻り込み、アスティは慌てて扉を押さえた。
「あら、ありがとうございます。」
「あ、あの……それ、どちらまで運ぶんですか? お手伝いしましょうか?」
 マリアンヌの抱える重そうなかごを見ながら、アスティは問う。
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですのよ! これくらいはいつも独りで運んでいますし、イニス様の大事なお客様にこんな雑用させられませんわ!」
 マリアンヌはアスティに穏やかな笑みを見せると、「よいしょっ!」と再びかごを持ち直した。それと同時に、マリアンヌの陰で宿所の扉の開閉音がして、見ると、ジェイスが自室から出て来たところだ。
「あ、お疲れ様っす。」
 ジェイスは一言そう告げると、マリアンヌとアスティに背を向けて本宮へ向かおうとする。
「ジェイス!」
 突然、キッっと眉を吊り上げてマリアンヌが一喝、ジェイスを呼び止めた。
「あなたは、か弱い女性が目の前で苦労しているのに手も貸さずに通り過ぎるおつもりですの?」
 マリアンヌが張り上げた声に、ジェイスが戸惑いげに振り返る。
「え、か弱い? あ、いや、お手伝いしたいのは山々なんですけど、俺もこれからまだ事務仕事が……。」
「問答無用! 下っ端は雑用を進んで引き受けるのが務めです!」
 そう言うと、マリアンヌは抱えていたカゴをどんっとジェイスに押しつけた。
「あ、あの、それを運ぶだけなら私がお手伝い……。」
「だめですよ! アスティ様はイニス様の大事なお客人で、ユミリエール姫の貴重な御友人なんですから。お客様に仕事を手伝わせるなんて、侍女長のプライドが許しませんわ!」
 アスティが慌てて申し出るも、両手があいて身軽になったマリアンヌは、くるりと身を翻し、アスティの両肩を掴んで力強く説いた。
「でも、ジェイスさんは他にもお仕事があるのに……。」
 ジェイスに申し訳ないと思いながら、アスティはマリアンヌの肩越しにジェイスを見やる。
「あ、大丈夫、大丈夫。アスティさんは気にせず部屋でゆっくりしてて。」
 テーブルクロス入りの特大のかごを押しつけられたジェイスが、マリアンヌの肩越しに苦笑しながらアスティに答える。
「洗濯室まで急いで運んでくださいね! 今日中に洗い上げて乾かしてしまわないと、明日はお天気が悪いようですから!」
 マリアンヌに急かされ、ジェイスが本宮へ向かって歩き出す。
「……ったく。別に、テーブルクロスを洗濯室に運ぶくらいなら手伝いますけど、もう少し感謝の気持ちを持って頼めませんか? 俺だって、今日は結構忙しいんですよ。」
「あら、力仕事で腕力が鍛えられるんですから、むしろこっちが感謝されても良いくらいじゃありません? それに、忙しいのは私の方ですのよ。通常の業務に加えて、来月の舞踏会の準備も進めなくてはならないんですもの。本当に、猫の手も借りたい忙しさですわ!」
 ジェイスの不満に、マリアンヌが負けじと声を張り上げている。アスティとしては、猫の手代わりに自分の手を使ってほしかったのだが、一度断られた以上、無理に引き受けるものでもないだろう。アスティはぼんやりと二人の背中を見送った後、自室に戻った。マリアンヌとぶつかった時にちらりと覗いた食堂の中には、期待していたナウルの姿はもちろん、他の騎士団員の姿もなかったからだ。
 しかし、ジェイスにはゆっくりしていて、と言われたものの、独り——キーロも一緒ではあるが——部屋でぼんやりしていても特段楽しくはない。
 しばらく、手持ち無沙汰にベッドに腰掛けたり、寝転がったり、窓を開けて机に向かってみたりしたが、どうにも退屈だ。キーロはマリアンヌ特製のタオルベッドに収まって、うたた寝を始めている。
 週末が終わったからだろうか。騎士団員たちは皆それぞれの仕事に忙しそうで、のんびり話を聴かせて貰うのはしばらくは難しいのかもしれない。
 彼らが仕事に勤しんでいる間、アスティも図書室での読書に励めれば良いのだが、一日中机に向かって難しい本を読み進めるのは本を読み慣れていないアスティには、あまりにも負担が大きい。アスティが本から読み取った内容が正しいことなのかどうかも自信がない。せめて誰かの助力を仰ぎたいところなのが、その助力を提供してくれそうな人々はみんな忙しく働いているわけで……。週末になれば、気さくな彼らはまたアスティのために時間を作ってくれるのかもしれないが、それまでの数日をただぼんやりして過ごすのが良いこととも思えない。せめて忙しい彼らの手伝いでもできれば、休日の時間を分けてもらうことも頼みやすくなるのだけれど……。
 ——ピピッ……バタン。
 隣室の電子錠の開く音がした。ナウルの部屋の方ではない。イニスの部屋である。
(イニスさんも、忙しいのかな……。)
 アスティはしばしぼんやりと考えていたが、ふと思い立って椅子から立ち上がり、部屋を出た。
 イニスの部屋の前に立ち、深呼吸する。大きく息を吸って、吐いて……アスティが息を吐きながら肩を落とし、やや前屈みの姿勢を取った時、突然、目の前の扉が開いた。
「……アスティ?」
 部屋から出て来たイニスが不思議そうにアスティを見下ろしている。心の準備が整う前に扉が開くという予想外の事態に、アスティは、吐き切った息を吸うことを忘れて、しばしぱくぱくと口を動かした。
「俺に何か用か?」
 イニスに問われ、慌てて息を吸い直す。
「え、えっと、あの……私に仕事をください!」
 呼吸を整えたアスティは一息に言い切った。
「……仕事?」
 イニスは怪訝そうな表情を浮かべたままだ。
「あの、その、何もしないで騎士団の宿所に置いていただいているのは申し訳ないと言うか……。」
「別に気にする必要はない。誰かに何か言われたなら、そいつには指導しておく。」
 イニスが小さくため息を吐いた後、端的に答えた。
「い、いえっ、違うんです。ただ、皆さんお忙しいようなので、私も少しでもお手伝いできたらと思って……。難しいことはできませんけど、お掃除とかお洗濯とかなら私もできるので、その、マリアンヌ侍女長のお手伝いとか……。」
「それはナウルの入れ知恵か?」
 慌てて説明したアスティに、イニスが不満げな口調で問う。
「え? ナウルさん? あ、今日はどこにも姿が見えなくて……。」
 アスティが問いの意味を理解しかねて聞き返すと、イニスはため息混じりで首を振った。
「いや、悪い。忘れてくれ。確かに、一日中図書室にこもって本を読むだけじゃ退屈かもしれないな。仕事のことは考えておく。」
 イニスの答えは淡泊だったが、前向きな回答であることは間違いない。
「ありがとうございます!」
 笑顔で礼を述べると、イニスは一歩部屋の外に出て、後ろ手に扉を閉めた。どうやらこれから再び出掛けるらしい。
「イニスさんはこれからまだお仕事ですか?」
「ああ。今日中に各部門の予算書を見直さなきゃならない。宿所には食事を取りに寄っただけだ。」
 アスティの問いに、イニスはつまらなそうに答えた。
「もうお夕食を済まされたんですか?」
 アスティは驚いて聞き返す。そろそろ夕方とは言え、夕食にはまだ少し早い時間だ。先ほど覗いた食堂にイニスの姿はなかったし、自室で食べたにしても、アスティが先ほど聞いた扉の開く音がイニスが自室に戻ってきた時の音だとしたら、だいぶ素早く食事を済ませたことになる。東の森で過ごした数日や金曜日の宴席でのイニスの様子を見る限り、イニスがナウルやヨルンのような速度で食事をするとは思えかった。
「いや、俺はこれから仕事をしながらこれを食べようと……。」
 妙に気まずそうに答えるイニスの手には、手のひらサイズの小さな箱が握られていて、箱には「完全携帯食 マリイヤ味」とだけ書かれている。
「それは……お菓子ですか?」
 アスティは首を傾げつつイニスに問うた。商品名だけが書かれた外装はだいぶ地味だが、「マリイヤ味」には少し惹かれる。部屋に残してきたキーロが見たら喜びそうだ。
「いや、これが俺の……夕食。」
 イニスはおずおずと小さな声で答える。
「お夕食……それだけなんですか?」
 ゴートンほどではないにしても、アスティよりは体の大きいイニスの夕食が手のひらサイズの小さな箱に収まってしまうとは意外である。ナウルやヨルンなら、間違いなく「おかわり!」の声が飛んでくるはずだ。
「……ああ。必要な栄養素は含んでいるし、吸収率も最適化されるように作られてて一番効率が良いから。」
 イニスは小さな箱を手の中に隠すように持ち直した。小さ過ぎる夕食の仕組みは気になるが、これから仕事だと言うイニスに質問を重ねて長々と引き止めるわけにもいかない。
「そんな小さな箱に一食分の食事が収まってしまうなんて、王都の発明品はすごいですね!」
 アスティが端的に感想を述べると、イニスは一瞬きょとんとした表情を見せた後、「あ、ああ、そうだな。」と戸惑い気味に答え、「じゃあ、俺は仕事があるから……。」とアスティに背を向けて本宮へと歩き出した。
「お仕事、頑張ってください!」
 アスティがイニスの背中に呼び掛けると、イニスは背中を向けたまま軽く片手を挙げて応えてくれた。

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