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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第62話

 「ふぇんふぁふぁふぁふぁっふぁ?」
 アスティがジェイスたちのテーブルに近付くと、口の中をパンケーキとクリームでいっぱいにしたヨルンがもごもごと口を動かしながらアスティに笑顔を向けてきた。
「お前は口の中のもんを飲み込んでから喋れ!」
 ジェイスがヨルンに呆れ顔で突っ込みを入れると、ヨルンはごくんと喉を鳴らし、「電話は終わった? 叔父さんとちゃんと話せた?」と尋ねてきた。
「はい。叔父とも従弟ともお話しできました。その場にいない人とお話ができるなんて、すごいですね。」
 アスティは今度はきちんと聞き取れた問いに笑顔で答え、初めて使った音声通信機についての感想を添えた。
「まあ、音声通信の技術自体は結構古くて、ここの据え置き型の通信機も旧式だから声しか届けられないけどな。最新型は三次元型ホログラム映像もリアルタイムに送れるから、直接会って話すのと変わらないみたいだぜ。」
「ジェイスさんは最新の通信機をお使いになったことがあるんですか?」
「いや、さすがに三次元型ホログラム機能付きの通信機は、俺の給料じゃまだ手が出ないよ。公用の携帯端末装置モバイル・ギアも音声通信時の三次元ホログラム映像まではサポートしてないし、俺たちが私費で買える通信機だと、小さな画面に平面映像を映すのがせいぜいだよ。それもいまいち画質が良くないんだけどな。」
 そう言いながら、ジェイスは胸ポケットから手のひらサイズの四角い板を取り出して、アスティの前に示した。四角い板の中では、数人の子供たちが一番前を取り合うように押し合いへし合いしながら騒いでいる。
『兄ちゃーん!』
『押すなよ、馬鹿!』
『見てる、見てるー?』
 時々映像が乱れてぼやけるけれど、画面は早朝の水たまりよりもずっとはっきり子供たちの表情を映し出している。
「これは録画だけど、大体こんな感じで画面に通信相手の映像を映し出しながら話せるんだよ。」
「……この子たちは、ジェイスさんの弟さんと妹さんですか?」
 ジェイスの隣に腰を下ろし、アスティは賑やかな画面を覗き込みながら問う。
「ああ。実家に連絡する度にこんな感じでさ、六人もいるからうるせぇんだ。」
 そう言うジェイスの顔は綻んでいて、弟たちを可愛がっているらしいことが分かる。映像の子供たちの様子を見ても、ジェイスは慕われているらしい。
「賑やかで楽しそうな御家族ですね。」
 アスティは微笑んでジェイスに告げた。政府の移住勧奨を受けて、東の森の集落は一気に人が少なくなってしまったけれど、かつての故郷にはアスティと同い年の子供たちもたくさんいて、こんな風に賑やかだった。記憶はもうだいぶ遠くなってしまっているけれど。
「ああ、うちは家族の仲の良さと元気の良さだけは自慢できるよ。」
 ジェイスは穏やかに微笑んで、小さな通信機をポケットにしまった。
「これでも意外に良いお兄ちゃんなんだよ、ジェイスは。」
「その『これでも』と『意外に』は余計じゃないか?」
 ヨルンの中途半端な褒め言葉に、ジェイスが怪訝そうに眉をひそめる。
「そぉ?」
 ヨルンはジェイスの問いに含まれた不満げな響きに気付いているのか、いないのか、無邪気に首を傾げて、ジェイスが諦めたようなため息と共に顔を背けた。
「それで、アスティちゃんはお昼、何にするの? 食堂にあるものは今日の僕のお勧めはオムライスだよ! 今なら、僕がティメットソースで芸術的にデコレーションしちゃうよ!」
 言いながら、ヨルンはテーブルに置かれていた赤い調味料の入った容器を取って構えた。
「芸術的にデコレーション……ですか?」
 アスティが聞き返すと、ヨルンが答えるよりも早くジェイスが陰鬱なため息を挟んだ。
「俺はそれは勧めない……せっかくの食事が確実に食欲の失せる代物になる……。」
 問い返したアスティの隣で、ジェイスが心底嫌そうな顔をして呟く。
「えー、そんなことないよー! こないだ僕がジェイスのオムライスに描いた人体解剖図、すごくリアルだって褒めてくれたじゃない!」
「あれは褒めたんじゃない! つーか、リアルな人体解剖図の載ったオムライスなんか誰が食う気になるんだよ!」
「えー、このメーカーのティメットソース、程良い酸味と甘さですごく美味いんだよ?」
 ヨルンがしつこく食い下がると、ジェイスは「味の問題じゃない!」と叫んでテーブルに両拳を打ちつけた。
「おうおう、何や盛り上がっとるやん、俺も混ぜてー!」
「クエッ!」
 大盛りの皿を器用に片手に載せてナウルがアスティたちのテーブルへ近付いてくると、キーロが真っ先に嬉しそうな声を上げた。歓喜の一声の理由はナウルに対する歓迎と言うよりは、ナウルのお皿の上に載っている大好物のマリイヤに対するものだろう。ナウルの皿の上に載っているのは、幾層にも重ねられたパンケーキと彩り鮮やかな果物。金色に輝く蜂蜜がとろりと頂上から滴っている。
「わあ、おいしそうですね!」
 ヨルンも瞳を輝かせて歓喜の声を上げる。
「……おいしそうって、今、お前が食べてるのと同じだろ。」
 ジェイスが呆れ顔で突っ込みを入れるも、ヨルンは「違うよ!」と即座に反論した。
「ナウルさんのは『季節限定・果物たっぷり南国風パンケーキ』で、僕のは『本日の特別パンケーキ・チェルベリー天国』! 載ってる果物の種類も違うし、ナウルさんのパンケーキのソースは蜂蜜だけど、僕のはチェルベリーの樹液から作られてて……!」
「……あっそ。」
 瞳を輝かせたヨルンの熱心な説明を、ジェイスがつまらなそうな相槌で打ち切ると、ヨルンは不満げに頬を膨らませたが、ヨルンが不満を口にする前に、ジェイスは話題を切り替えた。
「で、アスティさんは昼飯どうするの?」
「え、ええと……。」
 アスティはお腹に手を当てて考えた。正直なところ、まだそれほどお腹は空いていない。お昼抜きになってしまうのは少々辛いけれど、ヨルンのように山盛りのパンケーキを独りで食べ切れるほどお腹に余裕はない。化学部門の研究室で食べたカロナの手作りケーキ以上に、おかわりしたマリイヤの香り付きのお茶がまだお腹の中でたぷたぷしているような気がする。
「野菜サンドで良いなら、俺の半分、食べる? 食べ残しで悪いけど、こっちの半分は手付けてないから。」
 ジェイスが小皿を差し出してきた。
「ジェイスさんはもう食べないんですか?」
「ああ。あんまり腹減ってないし、ヨルンの食いっぷり見てたら何かもうそれだけで気持ち悪い……。」
 ジェイスはちらりとヨルンの正面に積み上がったパンケーキをちらりと見たかと思うと、心底嫌そうな表情を浮かべて視線を逸らした。
 確かに、ヨルンのパンケーキタワーは、最初に見た時よりはだいぶ高さを減らしているものの、未だ巨塔と呼ぶに十分で、たっぷりのクリームに赤いチェルベリーを散らした可愛らしい装飾もいささか過剰で、見ようにとっては少々毒々しい。ナウルのパンケーキ塔も並べば尚のこと、「見ただけでお腹いっぱい」という気になってくる。
「じゃあ、お言葉に甘えて、この野菜サンドを頂きますね。私も一人前は多いと思っていたので……ありがとうございます。」
 アスティはジェイスに礼を述べると、野菜サンドに齧りついた。
「おっ、今日の野菜サンドは野生種のフロウリー入りなんやね!」
 ヨルンの隣、アスティの向かいに腰掛けたナウルが、もしゃもしゃと野菜サンドを咀嚼するアスティをちらりと見て声を上げた。
「最近、王都で流通しとるフロウリーは、病気抵抗性を強化した育成種ばかりで野生種のフロウリーはなかなか見つからへんから困ってねんねやけど、さすが王宮やね。ええもん仕入れとるわ。野生種のフロウリーが入っとるんなら、俺も今日のお昼は野菜サンドにしようかなぁ。」
 ナウルの言う通り、確かにアスティの食べている野菜サンドには、独特の香りを持つ緑色のは野菜であり香草としても使われる「フロウリー」が入っていた。苦味を含んだ毒録の味と香りは、間違いなく野生種のフロウリーだとアスティも思う。
 かつて、アスティが東の森で採集していたフロウリーは全て野生種だったが、プラント建設のための検査や工事、そして森の民への移住勧奨のために王都の人々が度々森を訪れるようになってから、東の森の野生のフロウリーにも育成種が混じるようになっていた。見た目上の主な違いは葉の先の微妙な尖り具合だけだが、味には明らかな違いがある。育成種にはフロウリー特有の苦みが少なく、ゆえに食べやすいとも言えるのだが、その苦みは香草としてのフロウリーの爽やかな香りの源でもある。頑固な祖父ムリクは決して育成種のフロウリーを食べず、アスティがうっかり育成種のフロウリーを料理に使った時は、ひどく不機嫌になっていた。野菜サンドに使う葉野菜としてなら、野生種と育成種どちらのフロウリーを使うかは好みの問題も大きいが、肉料理の臭み消しとして使うフロウリーは、絶対に野生種でなければならない。香りの弱い育成種のフロウリーを香草として使えば、せっかくの御馳走を台無しにすることになるし、実際、アスティはそれで久々の御馳走を台無しにしたことがある。
 つまり、それだけ野生種のフロウリーと育成種のフロウリーを見分けることは難しいわけで、ナウルが野菜サンドの端から僅かはみ出している葉の端一目見ただけで即座にそれを野生種判断したナウルの見識はさすがである。
「あのぉ……今『今日のお昼は』っておっしゃいましたけど、ナウルさんはもう大盛りのパンケーキを食べてますよね?」
 ジェイスが呆れた様子でそう指摘した時、ナウルの『季節限定・果物たっぷり南国風パンケーキ』は既に最後の一枚がナウルの口に詰め込まれているところだった。隣のヨルンの食べっぷりも十分すごいのだが、ナウルの食べる速さは尋常ではない。
「そら御覧のとおり、食べたけど、これは朝飯やからな。俺、さっき起きたとこやし。」
 ナウルがけたけたと笑う。
「いや、でも、この時間帯に食べるならそれはもう昼食……。」
 ジェイスが怪訝そうに続けると、ナウルはきょとんとして首を傾げた。
「そやで? そやから、俺はこれから食べるその昼食を野菜サンドにしよて言うたやん。」
「これから食べるって……今、パンケーキを食べたばかりなのに?」
「あれは朝飯で、これから食べるのは昼飯や。全く、ほんまに人の話聞かへんやっちゃな。」
 ナウルは大げさにため息を吐いて席を立つと、ジェイスに背を向けた。
「いや、お話はちゃんと聞いてましたけど、だからこそ、ナウルさんの言ってることの意味が分からないです……。」
 ジェイスが困惑の表情でナウルを見つめるが、ナウルはもはやジェイスの話を聞いてはいない。
「もうこんな時間やし、腹ぺこは腹ぺこやねんけど、天気もええから、少し歩いて外で食べよかなぁ。」
 ナウルは窓の外へと視線を向けながら呟く。
「いいですね、ピクニック! それなら僕らも一緒に……。」
「あー、それはあかん。俺は今日はまだやらなあかんことがあって忙しいねん。」
 同行を願い出ると同時に腰を浮かせたヨルンが最後まで言い終わらぬうちに、ナウルはひらひらと手を振ってヨルンを椅子に戻した。
「え、でも、お昼を食べるとこまででも……。」
 なおもヨルンが食い下がるが、ナウルは左右に首を振る。
「ぞろぞろ連れ立って歩いとったら、目立ってまうからあかんねん。」
「目立っちゃいけないって……あ、もしかして何か秘密の特命でも受けてるんですか?」
 はっとした表情で問い返したのはヨルンだ。
「んー、まあ、そんなとこや。」
「どうせイニスさんに仕事さぼってるのが見つかるとまずいとかそういうのじゃないんすか?」
 ジェイスが訝しげに呟くと、ナウルは一瞬慌てた表情を見せて顔を背けた。
「とにかく、俺は今日はやらなあかんことがようけあるんや! 人生は一度きりや、アスティちゃんも一日一日悔いのないように過ごさなあかんで!」
 ナウルはウィンクをすると、食べ終えた食器を手にテーブルを離れた。食器を食堂の隅の返却台に置き、再び注文口の列に並ぶかと思いきや、ちょうど注文の品を受け取ってテーブルを探していた騎士団員に声を掛けるなり、彼のトレイから素早く野菜サンドを一つ掴み取ってするりと食堂の扉の隙間をすり抜けて行った。瞬く間に野菜サンドを奪われた騎士団員は、呆然と閉じた扉の先を見つめている。
「良いこと言ってるはずなのに、ナウルさんが言うと全く説得力がないな。」
 ジェイスがため息混じりに呟いた。
「そう……ですか?」
 アスティは思わず同意し掛けたが、ナウルに失礼だと気付いて慌てて語尾を付け替える。
「少なくとも俺には、毎日のように仕事をさぼってばかりのあの人が一日一日を大切にして生きているとは思えねぇよ。」
 ジェイスが失笑気味に呟く。
「うーん、でも僕は、あれだけ貪欲に自分の好きなことばかりしてるんだから、少なくともナウルさん自身は悔いの残る生き方はしてないように思うけどなぁ。」
 ヨルンはナウルが去った食堂の入り口を見つめながら、穏やかな微笑みを浮かべて言う。どうやらその言葉には、いくばくかの羨望も込められているらしい。
「……その好きなことしかしてこなかったツケを後で支払うことにならなければそうかもしれないけどな。」
 ジェイスは呆れたようにため息を吐いた。
「それで、午後はどこを見て回る? アスティさんはどこか行きたいところはある?」
「いえ……まだどんなところがあるのかもよく分かっていないので……。」
「だよな。」
 ジェイスが笑いながら肩を竦める。
「じゃあさじゃあさ、今日はせっかくお天気も良いし、外に行くのはどう?」
 ヨルンがテーブルに身を乗り出しながら提案してきた。
「外って、王宮の外ですか?」
「ううん。王都の街は昨日、ナウルさんたちが案内してくれたんでしょう? もちろん、王都の見所はたくさんあるし、アスティちゃんの希望ならいくらでも案内するけど、今、僕が考えているのは王宮の中だよ。食後のお散歩としてもちょうど良いだろうし、調子が良ければ少し走らせられると思うんだよね。どうかな?」
「はい。ヨルンさんのお勧めの場所があるなら、ぜひ。」
 ヨルンがアスティをどこへ案内しようとしているのかは分からないが、たとえどこだとしても、アスティに案内を拒む理由はない。建物の外で王宮の中ということなら、廊下の窓から少しだけ見えた、植木が等間隔に並んだ庭園でも案内してくれるのかもしれない。それなら確かに、食後の散歩にも良さそうだ。

 そして食後、アスティとキーロがジェイスとヨルンに案内された場所は、アスティが予想していた庭園とは違っていた。
 宿所の中庭から本宮へは向かわず、宿所の裏手に回り込むようにして、小さな森の如き木立の間を抜けた先。ギムニクの作業小屋よりも大きく、少々古めかしくて薄汚れたその小屋は、何とも香しい臭いを放っていた。
「じゃじゃーん! 厩舎でーす!」
 小屋の入り口でくるりと一回転したヨルンが、小屋の中を指し示して宣言すると、中から「ぶふんっ!」という荒い鼻息が聞こえてきた。
 白色、茶色、そして黒色……小屋の中では、柵に囲まれた空間、十頭以上の馬が柵に取り付けられた餌箱に頭を突っ込んで食事中だ。
「王宮で馬を飼っていらっしゃるんですか?」
 アスティは驚きながら尋ねた。
 東の森に野生の馬はいないが、アスティも東の森を抜ける旅人や行商人が連れている馬を見たことはある。もちろん、絵本の中でも魔王の手から姫を救い出す勇者が颯爽と乗りこなしていた。
「ああ。最近は国王陛下の御移動も自動車を使うことが多いけど、外国からの使節を出迎える時とか式典のパレードとか、格式が重んじられる行事では馬車を使うのが伝統だからな。」
「馬車の御者は専任官がいるけど、先導の騎馬隊は僕たち騎士団で務めるんだよ。」
 ジェイスの説明をヨルンが補足する。
「じゃあ、ジェイスさんやヨルンさんもこの馬たちに乗れるんですね!」
 アスティは思わず歓声を上げた。脳裏に浮かぶのは、絵本の中の勇者の如く似た二人の姿である。
「いや、俺は無理! 移動用円盤ディスク・ボードが普及した今じゃ乗馬なんて金持ちの道楽くらいで、俺のような庶民には全く縁がないし。俺みたいな下っ端には国王陛下の車列の先導なんて名誉ある任務はそうそう回ってこないし。」
 アスティの期待を裏切って、ジェイスがきっぱりと言い切った。
「えー、でも、僕は別にお金持ちじゃないけど乗れるよー?」
 ヨルンがジェイスとアスティの間に割り込むと、ジェイスが肩を落としてため息を吐いた。
「お前は無駄に器用だからな……。」
「そうそう、先月の外交使節はイニス団長と僕で先導したんだよ!」
 憂鬱げなジェイスの隣で、ヨルンがはしゃいだ声を上げる。
「じゃあ、イニスさんも馬にお乗りになるんですね。」
 ヨルンに微笑み返しながら、アスティは馬に跨がるイニスの姿を思い描いていた。絵本の中の勇者は白馬に跨がっていたけれど、イニスなら黒い馬の方が似合うかもしれない。ちょうど厩舎の奥にいる黒い馬が、イニスと同じ優しげな黒い瞳でアスティを見つめていた。
「うん。国王陛下の馬車は必ず騎士団長が先導することになってるし、上級職になるは乗馬訓練が必修だからね。少なくとも部門長以上はみんな乗れるはずだよ!」
「侍医のフォール先生とギムニクのおっさんを除いてな。」
 ジェイスが言い添えて笑った。
「ギムニクさんは馬には乗れないんですか?」
「ほら、二人とも年だから。」
 ジェイスの言葉に、アスティは思わず「なるほど。」と納得し掛けたものの、高齢と聞く侍医はともかく、先日の宴会で聞いた限りでは、ギムニクはまだ四十代、さほど高齢ではなかったはずだ。馬に乗るということがよほど体力を使う仕事で、鍛え上げられた若者でなければとても乗りこなせないようなものなのか、そうでなければジェイスの冗談なのだろうが、アスティには判断がつきかねた。
「この子、可愛いでしょー? 先月僕が乗った子だよ。スノウって言うんだ。イニスさんが乗ったのが隣の黒い子、スペードだよ。」
 ヨルンが厩舎の奥へと歩を進め、白い馬——スノウに手を伸ばした。スノウはおとなしく頭を下げ、幸せそうにヨルンに撫でられている。
「可愛いですね。」
 アスティもヨルンに歩み寄り、そっとスノウに手を伸ばすと……。
「ぶふんっ!」
「わっ!」
 突然、スノウが鼻息を荒くして、アスティは慌てて伸ばした手を引っ込めた。
「……ああ、だめだめ。その馬、ヨルンにしか懐いてないんだ。これまでにも乗ろうとした騎士団員を蹴飛ばしたり、振り落としたりして大怪我させてるひどいじゃじゃ馬でさ……ヨルン以外近付かない方が身のためだよ。」
 そう言うジェイスは、確かにスノウとは距離を取って、黒毛のスペードの側で柵にもたれている。
「じゃじゃ馬なんかじゃないよー。ちょっと人見知りなだけで。ね、スノウ? ……彼女はアスティちゃんで、こっちがキーロ。ふたりとも僕のお友達だよ。仲良くしてね。」
 ヨルンが穏やかにスノウに語りかけると、スノウはその意味を理解したのか、ゆっくりとアスティたちの方へ首を向けた。大きな円らな瞳がじっとアスティを見つめる。
「クエッ!」
 肩の上のキーロが方翼を広げて一声鳴き、アスティもドキドキしながらそれに倣ってスノウに挨拶をした。
「こ、こんにちは……。」
 アスティが微笑むと、スノウがそっと目を閉じて頭を垂れる。
「ほら、もう大丈夫だよ。」
 ヨルンに促され、アスティは恐る恐るスノウに手を伸ばし、その頭を撫でた。スノウは大人しく頭を垂れたままだ。
「油断しない方がいいぞ。そいつは本当に凶暴なんだ。」
 ジェイスは苦笑いを浮かべながらそう言うと、凭れていた柵にひょいと飛び乗るように腰掛け直し、大人しく草を食んでいるスペードに手を伸ばす。すると、スノウは再びすっと首を上げ、キッとジェイスを睨んだ……ような気がして、その殺気とでも呼ぶべき何かに気圧されたアスティが思わず一歩後ずさった時だ。
「ぶふぇひひーん!」
 突然、スノウが首を大きく振ってヨルンの腕をふりほどく前脚を大きく振り上げて、今にもジェイスに飛びかからんとするように後ろ脚で立ち上がった。
「うわぁ!?」
 驚いたジェイスは仰け反ったが、彼が腰掛けていたのは、厩舎の細い柵の上。当然のようにバランスを崩して、そのまま頭を地面に——いや、干し草の山の中に突っ込んだ。
「……痛ってー!」
 柔らかそうな干し草の見た目とは裏腹に、ジェイスが大きな悲鳴を上げて干し草の中から転がり出てきた。
「それはこっちの台詞や! いきなり何すんねん、このあほんだら!」
 ジェイスに続いて、もう一人、怒声と共に干し草の山から顔を出す。
「ナウルさん!?」
 アスティが驚いて声を上げると、アスティを視界に入れたナウルの表情がぱっと笑顔に変わった。
「お? なんや、アスティちゃんやん。こないなところでどないしたん?」
 ナウルは干し草の山からのそのそと這い出してくると、いつもどおりのへらっとした笑顔を浮かべて言い放った。予想外の彼の登場に、アスティは返す言葉が見つからない。
「……いや、『どないしたん?』って、それこそこっちの台詞ですよ。」
 ジェイスが後頭部を押さえながらこぼし、ふらふらとナウルの背後で立ち上がる。
「そら、御覧のとおり、俺はこの干し草のふかふかベッドで昼寝しとっただけやで? 図書館の棚の上がお気に入りやねんけど、さっき黒ん坊に邪魔されたばかりやし、ちょっと硬いのが難点やからなあ。ここは干し草の香りも気持ちええし……。」
 そう言ってナウルは鼻孔を広げると、恍惚の表情を浮かべる。周囲には、干し草の香り以上に何とも言い難い芳しい香りが漂っているのだが、ナウルは気にならないらしい。
「じゃあ、秘密の特命はもう済んだんですね?」
 ヨルンがにこりと微笑んでナウルに問うと、一瞬、ナウルの表情に明らかな困惑の色が浮かんだ。
「え? あ、いや、それはまだや。そもそも俺がここにおったのは、厩舎の馬たちの日常の行動を観察するっちゅう国家機密に関わる重大な研究を兼ねとってやね……いや、まあ、詳細は秘密やから言えへんのやけど。」
 ナウルは指先で頬を掻きながら答えるが、その視線は不自然のあちこちをさまよっている。アスティには、馬の観察がどうして国家機密になるのかよく分からないが、ここには国王陛下の馬たちもいるわけだから、その馬には何か国にとって重要な秘密があるのかもしれない。
「ああ、ナウルさんは生き物のことに詳しいから、馬の観察は適任のお仕事ですね!」
 ヨルンは屈託のない笑顔でナウルの答えを受け入れている。王宮騎士団員である彼には「国家機密」の理由も分かっているのだろうか。
「『昼寝しとっただけ』じゃなかったのかよ。」
 ジェイスは不満げに呟ていていたが、その声はナウルとヨルンの耳には届いていないようだ。
「さて、俺はここで昼寝……いや、仕事の続きをせなあかんねんけど、この仕事は秘密やさかい、俺がここにおることは他の奴には黙っとってな。特に、イニスには言うたらあかんで。」
 言いながら、ナウルは周辺の干し草をかき集めつつ干し草の山に潜って行く。
「イニス団長にも……ってことは、国王直々の勅命ですか!?」
 ヨルンが驚きの声を上げる。確かに、王宮騎士団の長でありナウルの上司でもあるはずのイニスですら知ってはいけない秘密の仕事となれば、ナウルにそれを命じ得るのは国王くらいのものだろう。
「ヨルン、この人と真面目に議論するのは時間の無駄だ。」
 ジェイスが片手で額を押さえながら、もう一方の手をヨルンの肩に載せた。
 アスティとしても、干し草の山に潜り込んでする仕事が一体どういうものなのか気になるところではあるが、ナウルの仕事が国王直々の命令に基づく「秘密の仕事」なら、詳細を聞いても教えてはもらえないだろう。
「はい、帰ろ、帰ろ。大事なお仕事の邪魔になるからなー。」
 ジェイスは「お仕事」の語にだけ妙に力を込めながら言い、厩舎の出入り口へと向かって行く。
「あ、あの……スノウを連れて行っても良いですか? 少し走らせてやりたいんですけど。」
 ジェイスを追いかけようとしたヨルンが振り返り、不安げな表情で干し草の山に問い掛ける。
「勝手にしいやー。」
 既にトレードマークの黄金のしっぽだけを残して干し草に埋まったナウルは、右手の先だけ干し草の山から出すと、ひらひらと振った。

 その後、アスティはヨルンが厩舎から連れ出したスノウにヨルンと一緒に乗せてもらい、王宮の北側に広がる草原を少しだけ走った。開けた丘陵地帯は、王宮内の牧場兼運動場でもあるらしく、爽やかな風が吹き抜けていた。キーロも嬉しそうに広い空を飛び回る。草原の先には大河エウレールの源流が東西から流れ込む交点があり、その先には東の森とも西の森とも異なる植生を持つ北の森があるのだと、走りながらヨルンが教えてくれた。
 この間、馬に乗れないジェイスは自力でスノウと併走していたのだが、途中で転び、危うくスノウ蹴り飛ばされそうになるという事故——ジェイスはスノウがわざとジェイスを蹴飛ばそうとしたと主張するが、ヨルンはあくまでも事故だと言っている——はあったけれど、幸い両者とも大きなけがはなく、食後の腹ごなしは無事に終了した。
 スノウを厩舎に連れ帰った後、アスティとキーロはヨルンとジェイスの案内で再び本宮に戻って本宮の中央塔にあるという綺麗な礼拝堂を見学した。国王陛下やユミリエール姫、そして騎士団員や王宮内の使用人たちが日々の祈りを捧げる場所であると言うそこは、正面に飾られた大きな白い石像を除けば装飾の少ない広間で、大きな声で話すことが自然とはばかられるような凛とした空気の漂う場所だった。
 更に、本宮内の調理場や侍女の控え室の場所などを教えてもらいながら王宮内をさまよっていると、気が付けば廊下に西日が射し込んでいて、あっという間に夕食時になってしまった。
 三人一緒に再び宿所の食堂へ戻ると、夕食を取りがてら、ヨルンがとても芸術的な王宮内の地図を描いてくれた。地図としての正確性はともかく、各部屋の主の似顔絵が入った地図は、とても独創的で楽しげだ。
「もし王宮内で迷子になったら近くの騎士団員か侍女を捕まえて道を聞けば良いよ。僕もいつもそうしてるから!」
 ヨルンが実用的な助言をくれたが、地図を描いてくれた本人が「いつも迷子になっている」のだとしたら、貰った地図はやはりあまり役立ちそうにはない。
 食事の最中、金曜日の歓迎会の時には見かけなかった騎士団員が何人か声を掛けてきて、ジェイスとヨルンがアスティに彼らを紹介してくれた。どの騎士団員も皆、気さくで優しい人のように思えた。
 そうして、アスティが王宮で過ごす三日目の夜は穏やかに更けていった。

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