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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第48話 緊急の程度

 アスティたちはルリや母親とたわいもないお喋りをしながらヤンの帰りを待った。話の中心はもちろんナウルで、ルリはナウルが話す森の珍しい動植物の話に熱心に耳を傾けていた。彼女は特に七色の長い尾を持つ七色鳥と、彼女と同じ名前を持つ青い小鳥の話に興味を引かれたようだった。
 しばらくして、ヤンが薬と食料、そして焼きたてのたこ焼きを持って帰って来ると、ナウルは薬について丁寧な説明を始めた。そして、ナウルの説明が終わると、アスティたちは笑顔のルリに見送られてヤンの小屋を出た。
 結局、イニスはヤンが彼にしたことを母親に告げなかった。小屋の前で、イニスは訪問の目的は調査だとヤンに告げたが、どうやらその調査と言うのは、病気にかかっているらしいヤンの家族の病状を確認することを意味していたようだ。
「あのお母さん、いい人でしたね。貧民街の人も、政府のことを嫌っている人ばかりじゃないんですね。」
 アスティは隣のイニスを見上げ、努めて明るい声で言った。貧民街に足を踏み入れて以来、周囲から注がれる嫌悪の視線やお好み焼き屋でのラディックによる挑発、そしてヤンがイニスに向けた殺意——と、暗澹たる気持ちになる出来事が少なくなかったが、最後にヤンの母親と妹ルリが見せてくれた笑顔は救いだ。
 ヤンだけは別れ際も不機嫌そうにイニスとナウルを睨み付けていたけれど、それも決して当初のような殺気に満ちた視線ではなかった。誤解に基づくとは言え、一度は本気で殺そうとまで憎んだ相手への態度をヤンが完全に改めるにはもう少し時間が掛かるのだろうが、別れ際の彼の不満げな表情の半分は照れ隠しだったのではないかと思えて、アスティはホッとしていた。
「……見えてないんだよ。視線が音にしか反応しなかった。」
 イニスがぼそりと答え、アスティは首を傾げた。しばらく考えて、イニスの言わんとしたことを悟る。イニスの沈んだ声には、もしヤンの母親の目が見えていたなら——即ち、彼が「悪魔の犬」の異名を持つ王宮騎士団長であると彼女が気付いていたなら、あのような友好的な態度で接せられることはなかっただろうという意味が言外に含まれていた。
「でも……。」
 アスティは、彼女ならたとえイニスが王宮騎士団長であることに気付いたとしても、その厚意を喜んでくれたと思うと言い掛けて、やめた。
 ヤンは、父親の死をイニスのせいだと思い込んで恨んでいた。ヤンの母親にとっては、ヤンの父親の死は夫の死だ。母親がイニスに対する誤解をヤンと共有していたかどうかは分からないが、自身も重い病を抱えながら幼い子供と共にゴミ山の小屋で暮らす彼女にとって、夫の死は大きな痛手だろう。その死が決してイニスのせいではないとしても、彼女が日頃、政府に対して何一つ不満を抱かずに暮らしていると考えるのは楽観的に過ぎる。そして、この貧民街で見聞きした政府に対する根深い不信感を思えば、薬や食事を多少分け与えたところで、それが直ちに好感に変わるとも思えない。むしろ、純粋な厚意さえ、何か企んでいるのではないかと疑われただろう。事実、ヤンの態度がそうだった。
「たぶん、夜盲症やろね。薄暗いテントの中やから、よう見えんのも当然や思て本人は気付いてへんかもしれへんけど。」
 先を歩くナウルが呟いた。どうやらナウルもヤンの母親の目が見えていないことに気付いていたようだ。自分だけが気付いていなかったのかと思うと、少し悲しい。
「ほかにも色々と深刻な欠乏症が出とるみたいやったし、ちょっと危ないかもしれへんな。」
「危ないって?」
 ナウルの呟きに、アスティは問い返す。
「んー……まあ、病気が治らんかもしれん、てことやな。」
 ナウルは空を見上げながらややもったいぶった口調で答えた。
「こないだ会うた時も携行食を少し置いてきたんやけど、あの様子やときっとみんな子供たちに食べさせてもうて自分はほとんど食べてへんのやろ。今日渡した栄養剤は薬や言うたから、さすがにそれはちゃんと自分で飲んでくれるやろけど。」
 ぶつぶつと呟くナウルの台詞を聞きながら、アスティは引っかかる。
「栄養剤って、お薬ではないんですか?」
 アスティの記憶では、ナウルは先ほど、母親の分の薬について「症状のない人間には毒になる薬やから、間違うてルリちゃんに飲ませたら絶対にあかんで。」と脅すように説明していた。
「まあ、薬は薬やで。」
「病気の人以外が飲むと毒になってしまう危険な……?」
「そら、状況によっては栄養剤も過剰摂取が有害になることもあるけど、まあ、今回渡した奴は普通の人がいっぺんに飲んだとしても特に問題はあらへんやろな、実際。」
 ナウルはあっさりと認めて笑う。
「えっと、それはつまり、毒になるというお話は嘘だったってことですか?」
「正直に栄養剤や言うたら、あのおかん、育ち盛りの子供たちの方がたくさん栄養をとるべきだからとか何とか言いそうやろ? そやからまあ、ちょっと……な。」
 ナウルはアスティに照れくさそうな笑みを見せたかと思うと、正面に向き直る。アスティは唖然としてナウルの背中を見つめていた。ナウルが平然と嘘を吐いていたことに、ではない。嘘を吐くのは良くないことだと習ったが、ナウルの嘘が決して悪いものではないということはアスティにも分かる。
 アスティが驚いたのは、ナウルの周到さだ。ナウルは、イニスがヤンの家を訪ねると言い出した意図も早々に察していたようだし、ヤンの母親の目が見えなくなっていることにも気付いていた。その察しの良さとそれを踏まえた機転の利かせ方には感心するほかない。
 アスティはぼんやりしていた自分の頭を恨めしく思ったが、たぶん、アスティの頭は人並みに働いていた。イニスとナウルの頭が特別なのだ。
 アスティはつい忘れがちだが、常に飄々としている目の前のお調子者の青年も、王立大学の医学部を首席で卒業したという曰く付きの優等生なのだ。不思議なことに、日頃の態度からはとてもそうは見えないのだけれど……。
「それで、あの母親の症状は単なる栄養失調ってだけでいいんだな?」
 イニスが先を歩くナウルの背中に向かって強い口調で問い掛ける。
「基本的にはそうやろね。」
 ナウルは前を向いたまま端的に答える。
「基本的には?」
「体の中んことはちゃんと検査せんことには分からへんけど、まあ、精神的なもんもあるんとちゃう? ずっと寝込んでるっちゅう割には、俺らと普通に話せよったし。病は気からっちゅうこっちゃ。ま、家族ん中で唯一の稼ぎ手やった夫を突然殺された挙げ句、子供二人抱えて生きてかなあかんのやから、そら落ち込みもするやろ。」
 ナウルは何気なく、しかしはっきりと「殺された」と言った。一瞬、イニスの表情が強ばったが、こちらに背を向けているナウルが気付くはずもなく、ナウルは話を続ける。
「あそこの親父もほんまに飲んだくれのダメ男やったけど、彼女はそれを健気に支えて何とか子供二人を育てよったんやで? それを全く……アホな兵士はろくなことせえへんのやから。」
 ナウルはやれやれとため息を吐き、肩を竦めた。イニスは眉間にしわを寄せ、沈黙している。アスティは足を早めてナウルに並び、ナウルに尋ねた。
「あの、ナウルさんはヤンさんのお父さんやお母さんと以前から仲良くされていたんですか?」
「んー? まあ、別に仲良くしとったっちゅうほどでもあらへんけど、親父の方は何度かお好み屋で会うたことがあんねん。おかんの方はこないだ財布盗まれた時に一度会っただけやけどな。」
 ナウルが首だけ振り向けてアスティに答える。
「そう、だったんですか……。」
 お好み焼き屋やたこ焼き屋の店主と顔見知りであったことを踏まえても、ナウルは頻繁に貧民街を訪ねていたのだろうし、この辺りに知人や友人が複数いてもおかしくはない。だから、なのだろうか。ナウル自身、政府の人間であるにもかかわらず、政府に対する態度が厳しいのは。
「それより問題は妹ん方や。あの咳、こないだ会うた時から続いとるようやし、たぶん、ただの風邪やのうて結構たちの悪い感染症や。菌自体の感染力は強くあらへんけど、この辺は衛生環境も悪いし、元々弱っとる奴も少なくあらへんから、放っとくと広まってんまうんとちゃうかなぁ。」
 頭の後ろで腕を組みながら、ナウルが呟く。独り言のようにも聞こえるが、内容からして背後のイニスに向けた言葉だろう。
「貧民街の衛生環境の改善については保健衛生省が予算を組んで努力してるよ。」
 イニスがすぐに応じた。
「努力してあの状態なんか? そら、早ようアホな役人の尻叩かんと、王都中ゴミだらけになってまうな。」
 ナウルが挑発的な笑みを浮かべて振り返り、後ろ向きに歩きながらイニスを見つめる。イニスは答えず、ナウルの顔からも笑みが消えて真剣な表情に変わる。
「感染症は一度広まり出したら簡単には止められへんよ。感染が拡大して被害が目に見えるようになってから感染者を隔離しよ思ても、無知な上に政府を信用してへん奴らは政府の命令を無視して我先にと逃げ出すはずや。そういう連中のせいで感染地域が拡大すれば、もはや貧民街だけの問題やないで。中途半端な治療は薬剤耐性菌を生む可能性があるし、そないなったらもう手の施しようがあらへん。」
 流れるように語るナウルを、イニスは渋い顔をして見つめている。ナウルの話には聞き慣れない言葉が多く、アスティはその内容を完全に理解することはできなかったが、ナウルが悪い病気が流行って大変なことになると警告していることは分かった。それがどれほど大変なことなのかは、アスティにはよく分からなかったけれど。
 間もなく、イニスが小さくため息を吐いた。
「……戻ったら、貧民街に保健師を派遣して緊急の健康調査をするよう陛下に進言するよ。」
 諦めたような表情でイニスが言うと、ナウルはニッと笑顔を浮かべる。
「そら悪くない案や。この際、軍の倉庫で眠っとる期限切れ間近の備蓄薬品も放出したらええんとちゃう?」
「検討させる。」
 イニスが端的に答えるとし、ナウルは満足げな笑みを浮かべた。
「放っておいたってどうせ廃棄処分になるだけやしな。ついでに、貧民街に無料の診療所も作ってくれるとええんやけど。」
「……お前、それがついでとして言うことか? 設備費と人件費にいくら掛かると思ってるんだ。」
 イニスが額に片手を当ててため息を吐く。
「建物はその辺の空き家でも仮設小屋でもええねん。医者や看護師は王立病院から少し借りてくればええやろ。」
「簡単に言うな。人手不足で騎士団の専属医すら確保できてないんだぞ?」
 気軽な口調のナウルに対し、イニスは呆れた表情で問い返す。
「なら、看護師だけでもええよ。カロナを連れてくればええやん。」
「これ以上、彼女の負担は増やせない。」
 イニスは眉間のしわを深くして苛立たしげに言い、歩みを早めてナウルを追い越して行く。またしても喧嘩が始まりそうな雰囲気に不安が募るが、アスティには二人がテンポよくやり取りする言葉の意味を理解しようと注意して耳を傾けるのが精一杯で、とても口を挟むことはできなかった。
「そやったら、俺が診よか?」
 ナウルも早足でイニスを追いかけ、イニスに並びながら自分を指差して笑む。
「無資格者に公設診療所を任せられるわけないだろう!」
 イニスは怒気を帯びた声を張り上げ、立ち止まった。
「……緊急事態には資格なんてどうでもええ言うたくせに。」
 ナウルはイニスに冷ややかな視線を送り、不満げに頬を膨らませる。
「緊急の程度が違うだろうが。」
「まあ、そら、確かに違うやろな。」
 あっさりとナウルがイニスに同意し、腕を組んだ。口喧嘩でナウルが素直に引き下がることは珍しい——と思ったのも束の間。
「俺やって、寿命に近い爺さん一人が死に掛かってる状況よりも、大勢の未来ある子供たちが飢えや病気で苦しんどる状況の方がずっと緊急事態やと思うわ。」
 一瞬、譲歩したかに見えたナウルは、イニスに挑発的な笑みを向け、イニスが苦々しげに唇を噛んだ。
 イニスが言う「緊急の程度が違う」と、ナウルの言う「違う」は、同じ「違う」でも全然違うのだということはアスティにも分かった。ナウルの言う「寿命に近い爺さん」が、アスティの祖父ムリクを指しているということも。
 ——少しだけ、胸の奥が苦しい。
 森で密猟者に撃たれたムリクは、あの時、間違いなく生命の危機に瀕していた。実際には、イニスとナウルが駆けつけた時には既に手遅れでさえあったのだが。一方で、貧民街で出会ったルリやヤンは、病気や空腹を抱えていたとは言え、素人目には十分元気そうで、アスティたちと話し、笑うこともできていた。生きるか死ぬかの問題で言えば、ムリクが直面していた状況の方がより緊急的だったとは思う。イニスが言った「緊急の程度」とはそういう意味だ。
 でも、ムリクは高齢で、あそこで助かったとしてもその先の人生はそう長くはなかったかもしれない。その点、ルリたち貧民街の子供たちにはより長い未来が期待できる。貧民街で病気が広まれば、ルリやヤンだけではなく、もっと大勢の人が危険に晒される可能性があるという意味でも、予測される被害はムリクの場合よりも深刻だと言えるかもしれない。そして、重要なのはより多くの価値ある命を救うことであり、それこそがより緊急に対応すべきことなのだと言うならば、あの時のムリクの状況よりも今の貧民街の状況の方がずっと緊急事態だと言うナウルの主張も間違いではない、と思う。でも——。
 ムリクはアスティにとって永く唯一の家族で、かけがえのない存在だった。彼の命がルリたちの命よりも価値の低いものだったとは思えない。思いたく、ない。しかし、ルリたちを助けることがムリクを助けることよりも価値の低いことになるのかと問われたら、その答えも否だ。アスティだって、ルリやヤンを助けたい。もしもルリが病気で苦しんで亡くなるようなことになれば悲しいと思うし、ムリクの代わりに彼らが犠牲になるようなことを望む気もない。
 一つ一つ異なる命の重さを比べることなんて、できるはずもない。アスティは胸元でぎゅっと拳を握り締めながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……貧民街に低所得者向けの公設診療所を開設することについては保健衛生省も検討してる。ただ、議会の承認なしには動けない。」
 イニスがため息混じりで言う。
「ああ、去年、与党内の取りまとめに失敗して、関連法案が野党案として議会に出た奴やね。結局、一度も審議されないまま廃案になったんやっけ? 保衛省がめげずに検討続けとるんは立派やけど、一体いつになったら実現できるやろねえ。」
 ナウルは再びイニスに背を向けて、独り言のようにこぼす。
「……保健局に保健師を定期的に巡回させられないか検討させる。すぐにできるのはそこまでだ。」
「そこまでならすぐにやってくれるん? 優しいんやね。」
 ナウルは満足げな笑みを浮かべてイニスを振り返ったかと思うと、再び正面を向いて歩き出した。機嫌良さそうに鼻歌まで歌っている。その背後で、イニスが眉間にしわを寄せたまま、小さなため息を吐いていた。

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