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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第46話 晴れぬ心

 しばしの沈黙の後、イニスがゆっくりとため息を吐いた。
「話を聞く限り、お前の狙いは端から俺だったんだろう? どうしてアスティの荷物を狙った?」
「あんたから盗るより楽そうだったからに決まってんだろ? この貧民街でこれ見よがしに現金を腰からぶら下げてぼんやりしてるんだから、むしろ盗ってくれって言われてんのかと思ったよ。どうせ、あんな人通りのある場所じゃ殺せねえし。」
 泣き止んだヤンは平静を取り戻したようで、不満げに膨れながら答える。
「つまり、俺を路地裏におびき寄せるために無関係なアスティの荷物を盗ったってわけか。」
「ああ。たとえお前が追ってこなくても、逃げ切れればそのまま売り上げになるからな。」
 ヤンはふんっと鼻を鳴らして得意げな笑みを見せた。残念ながら、ヤンの見込みは外れ、逃げ切ることはできなかったわけだが。
「人から盗んだ金が『売り上げ』か。」
 イニスが冷ややかな視線でヤンを見下ろす。
「金持ちが貧乏人から搾り取った金だって『売り上げ』になるんだ。俺は、そいつを取り戻しただけだよ。そうやって世の中をぐるぐるお金が回るのが『経済』なんだろ?」
 得意顔のヤンを見下ろしながら、イニスは再び大きなため息を吐く。
「……その理解は不正確だな。」
「そうかよっ、けどお前たち政府の政策広報には、そう書いてあるってラディックさんは言ってたぜ? ま、俺たち貧乏人にはそんなこと知ったって腹の足しになるわけでもないんだから、どうでもいいけどな!」
 イニスの反応にヤンはあからさまな不快感を示し、叫ぶように言い捨てた。アスティは「貧乏人」との言葉に引っかかりを覚え、改めて地面に伏したヤンの全身を眺めた。
 ナウルに蹴飛ばされ、イニスに押さえ込まれて何度か地面に転がったことによる汚損を差し引いても、ヤンの服はひどく汚れ、また、継ぎ当てだらけの生地は所々擦り切れている。靴も履いておらず、膝上で断ち切られたズボンの裾から覗く足は寒々しい。
 かつてはアスティも従弟のティムと共にヤンと似たような格好で森の中を走り回っていたし、木の実の染みや泥で服を汚し、毎晩のようにムリクに叱られてもいたから、子供の服が汚れていること自体を珍しいとは思わない。しかし、それにしたってヤンの服の傷み具合は酷過ぎたし、オフィス街を行き交う人々の洗練された服装や、ユミリエールやエリーの華やかなドレスを見た後ではなおのこと、ヤンの身なりに貧しさを感じずにはいられなかった。
「お前は彼女を金持ちだと思うのか?」
 イニスが問うと、ヤンはその意図をはかりかねたのか、一瞬怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「当然だろ? 悪魔なんかと一緒にいる奴はみんな悪魔に魂を売った意地汚い金持ちに決まってるんだ! わざわざ貧民街までやって来て、悪事で稼いだ金で贅沢三昧……全く良い御身分だよなぁ!」
 ヤンの最後の台詞はアスティに向かって発せられたが、アスティは何と答えればいいのか分からず、戸惑いながらイニスを見遣る。イニスが一文字に口を結び、あからさまに顔をしかめているのは、ヤンが口にした「悪魔」という言葉のせいだろうか。
「どうせお前は小銭が少し盗まれたって大して困らないんだろ? 金が足りない時は、代わりにお付きの悪魔が出してくれるんだもんな。」
 ヤンはイニスの態度の変化に構うことなく、笑いながら続けた。きっとヤンは、たこ焼き屋の前でのイニスとアスティのやり取りを見ていたのだろう。
 アスティは決して贅沢三昧をしようと思って貧民街にやって来たわけではないし、昼食にお好み焼きやたこ焼きを食べることがそんなにも贅沢なことなのか、アスティには判断がつかない。森で自給自足の生活をしていたアスティからすれば、お金を払わなければ手に入らない王都の品物は全て高価な贅沢品に違いないが、王都の人々はそれで普通に暮らしているはずだ。見た目の華やかさや料理の数で言えば、昨晩の歓迎会の方がずっと豪華だった。
 しかしそれでも、ヤンにとってお好み焼きやたこ焼きを食べることは「贅沢」なのだ。日々の着る物にも困るような少年にとって、お腹いっぱい食べるということ自体がきっと特別なことであるに違いない。
 アスティが暮らしていた東の森は実り豊かな地域だったが、数十年に一度と言われる寒波が森を襲った年の冬は、食べ物を得るのに苦労した。蓄えていた木の実だけではとても冬を越せそうになくて、行商人から食料を買おうとしたら、普段の倍以上の金額を請求された。だから、アスティにも、お腹いっぱい食べることができない辛さや持てる者に対する恨めしい気持ちはよく分かる。
 分かるがゆえに、アスティは何も言い返すことができなかった。代わりに口を開いたのはイニスだった。
「お前が盗んだ金は彼女がおじいさんと一緒に少しずつ貯めたものだ。そのおじいさんを、彼女は数日前に事故で亡くした。」
「え……?」
 ヤンが虚を突かれたように目を見開き、戸惑いの表情でアスティを見つめる。アスティは静かに目を伏せた。
 イニスの口から告げられた事実に、悲しみが甦る。
 ムリクはもうこの世にいない。けれど、アスティは独りぼっちではない。イニスがいる、ナウルがいる、キーロもいる——初めて訪ねた王都で、アスティを快く迎えてくれた人たちがいる。そして、生前のムリクが残してくれたものもある。ムリクと一緒に貯めたお金のことではない。もっと大切なものだ。
 ——誰かを恨んだところで心は晴れんよ。
 かつてのムリクの言葉だ。両親を亡くした直後、「両親を食い殺した獣を捕まえて復讐する」と言ったアスティに向かって、ムリクは言った。そしてアスティの頭を優しく撫でながら、彼は穏やかな口調で続けた。
「悲しい時は、ただ泣きなさい。涙が涸れる頃には、きっと笑顔を思い出せる。」
 優しく抱き締められ、幼いアスティは堰を切ったように泣いた。泣いて、泣いて、泣いて。泣き疲れ果ていつの間にか眠ってしまったけれど、夢の中ではみんなが東の森に伝わる古い歌を歌っていた。
 ——風がそよぎ、雲が流れる。星は巡り、雨は大地に染み渡る。
 ——暗闇に抱かれ、眠りなさい。新しい朝、森の生命いのちと目覚めなさい。
 母が好み、アスティが父から譲り受けた笛で初めて演奏した曲だ。
 森の木々に囲まれてこの曲を奏でる時は、いつも不思議と風が優しく頬を撫で、葉擦れの音が伴奏した。父から譲り受けた笛で祖父が好きだった曲を奏でる時、アスティはすぐそばに大切な人たちがいるような気がしていた。
 この世を去った人の魂は空へ上り、星になるのだと昔話に聞いた。そしていつも、愛する人を静かに見守っているのだ、と。
 涙はもうこぼれない。森で、ちゃんと泣いたから。今はもう、大丈夫——。
「……アスティ、荷物の中身は全部あるか?」
 不意にイニスが小さくため息を吐き、顔を上げてアスティを見た。
「え? あ、はい……。」
 アスティは慌てて荷物の中を覗き込み、父から譲り受けた大事な横笛が入っていることを確認し、それから荷物の重さを確かめた。腰の袋に入っていたものでそれなりに価値がありそうなのは、父の横笛と少しずつ貯めた硬貨くらいだが、硬貨の方が全部でいくらあったのか、アスティも正確には知らない。ただ、大体の重さからすれば、盗まれる前と比べて特段減ってはいないようだ。
「……ナウル、こいつの家に案内しろ。知ってるんだろう。」
 突然、イニスがヤンの手を離して立ち上がった。
「な、何で家に行くんだよっ!? 警察に引き渡すんじゃないのかよっ!」
 ヤンは半身を起こすも、地面に突き刺さった短剣に袖を押さえられたままで、立ち上がることができない。
「気が変わった。子供一人捕まえるために自治警察を煩わせるのは気が引ける。」
 そう言ってイニスはヤンの袖を地面に留めていた短剣を引き抜き、地面に落ちたままの帯革に向かって歩いて行く。
「ま、待てよ……今回のことは俺が勝手にしたことなんだ! 母さんもルリも関係ない。」
 ヤンが立ち上がり、慌ててイニスに追い縋る。
「だから? 身内を案ずる頭があるんだったら、事を起こす前に使っておくべきだったな。」
 イニスは素っ気なく言い放ち、短剣の鞘と帯革を拾い上げて装着する。
「……この悪魔! 人でなし!」
 ヤンがイニスの背に向かって叫んだ。イニスは装備を整え、ゆっくりと振り返る。
「……そうだよ。お前は、最初からそうと知って俺を殺そうとしてたんじゃないのか?」
 振り返り、ヤンを見つめたイニスの顔には、表情がなかった。その顔を見た瞬間、ヤンを宥めようと立ち上がったアスティは、片足を踏み出したまま動きを止めた。
 怒りも悲しみもない、嘲笑でもない。敵意も殺気も何もない。ただ、全く感情の読み取れないその表情には得体の知れない不気味さがあって、イニスの存在が急に遠のいた気がした。
 一瞬脳裏に浮かんだ「悪魔」の言葉を慌てて打ち消して我に返ると、ヤンもアスティの前で何も言わずに固まっている。
「ナウル、案内しろ。」
 イニスが命じると、壁にもたれて退屈そうに欠伸をしていたナウルは「しゃあないなぁ。これ、貸し一やで。」と面倒くさそうに歩き出した。

 イニスに前を歩くよう言われ、アスティは先頭を行くナウルと並んだ。キーロはいつもの定位置、アスティの肩に乗っている。イニスはアスティたちの数歩後ろを歩き、ヤンも最後尾を付いてくる。アスティがちらりと背後を振り返ると、ヤンは不満そうな表情を浮かべてはいるものの、先ほどまでとはうって変わって大人しい。イニスとナウルの二人が相手では、逃げこともイニスたちがヤンの家へ向かうことも防ぎようもないと悟ったのだろう。
 アスティには、イニスが一体何のためにヤンの家へ向かおうとしているのか分からなかった。ヤンの母親に会ってヤンが泥棒をしていることを告げ、母親からもヤンを叱ってもらおうとでも考えているのだろうか。病気らしい母親が息子の悪事を知って心痛で病状を悪化させるようなことにならなければいいのだけれどと思いながら、アスティはイニスに意見することどころかその意図を確認することさえできなかった。無表情でアスティの後ろを歩くイニスは、先ほどからずっと緊張した空気を纏っていて、どうにも声を掛けにくい。
 落ち着かない空気を背中に感じながら、アスティは気を紛らわせるために、隣を歩くナウルにもう一つの疑問をぶつけることにした。
「あの……ナウルさんはどうしてヤンさんのお家を御存知なんですか?」
 アスティは歩きながらナウルを見上げる。お好み焼き屋の前で財布を盗まれただけならヤンの家の場所まで知るはずはないし、家の場所が知られている泥棒なんて、とっくに捕まっていそうなものだ。
「そら、財布盗まれた時に家まで追いかけたったからや。ちゃんと追いついて取り戻したんやで!」
「え? 取り戻したんですか?」
 アスティは驚いて聞き返した。ナウルは財布を盗まれて一文無しになってエリーのお店にも行けなくなったと言っていたはずだが、財布を取り戻せたのなら、その後でエリーの店へ行くことができそうなものだ。
「もちろん! 財布を盗まれてそのまま泣き寝入りするほど落ちぶれてへんよ、俺は。」
 ナウルは自信満々に胸を張るが、アスティの脳裏には疑問符が浮かんだままだ。アスティは問いを重ねようとしたが、一瞬早く、ナウルが声を上げた。
「おっと……着いたで。ここや、ここ!」
 灰色の薄汚れた壁の間に挟まれた狭い空き地の前で、一行は足を止める。
「あの奥んがこいつの家や。」
 そう言ってナウルが指さしたのは、空き地の奥に渦高く積まれたゴミの山——否、ゴミに囲まれた小さな小屋で、家と呼ぶには少々心許ない様相を呈していた。屋根は大きく撓んでいるし、壁も種類の違う様々板が乱暴に打ち付けられていて、継ぎ目の穴には空き瓶や奇妙な部品が押し込まれている。壁に開いた四角い穴は窓なのだろうが、ガラスははまっておらず、入り口らしき縦穴に下げられた古布は所々穴が空いていて染みだらけだ。何より、建物全体が傾いていて、下手に触れるとそのまま倒れてしまうのではないかと不安になる。
 東の森のアスティたちのテントも王都の石造りの家々や高層ビル群と比べたら質素なものではあるが、それでも、目の前の小屋よりは住居らしい体裁が整えられていたのではないだろうか。
 ゴミの山の頂上から小屋の屋根に張り渡されたロープにぶら下がった洗濯物が時折風に揺れ、ここで人が暮らしている気配を僅かに漂わせていたが、辺りはシンとした静寂に包まれていた。
「クエッ!」
 キーロがアスティの肩から飛び立ち、小屋の屋根に留まって羽繕いを始めた。どうやらキーロはいつ崩壊するとも知れない窮屈そうな小屋の中まで入るつもりはないようだ。
 ナウルに続いて空き地に足を踏み入れ、アスティは漂ってきた腐臭に顔をしかめる。見れば、小屋の脇のゴミの山には、干からびた果物の芯や割れた空き瓶が転がり、誰かの食べ残しらしき何かも容器からこぼれて落ちていた。所々に残る黒い炭と白い灰は、この空き地で誰かがたき火でもしたのだろうか。
「や、やっぱりちょっと待ったっ!」
 最後尾のヤンが走り出てナウルの進路を塞いだ。
「本当に、本当に俺一人でやったことなんだ! 母さんもルリも何も知らない。俺は牢屋にぶち込まれても斬り殺されても良いから、母さんとルリには何もしないでくれ! 頼む!」
 ヤンが地面に座り込んで頭を下げた。ヤンの必死さにアスティは戸惑い、考える。どうしてヤンはこんなにも必死にイニスを止めようとするのだろう。母親や妹に泥棒をしていたことを告げ口されるのがそんなにも都合の悪いことなのだろうか。それとも、斬り殺されてでもイニスを家の中に入れたくない理由が何か他にあるのだろうか。そこまで考えて、ハッと気が付いた。ヤンにとって、イニスは「悪魔」なのだ、と。政府にとって都合の悪い人間を片っ端から殺していく——そういう人物としてヤンはイニスを理解しているのだ。即ち、母親と妹には何もしないでと懇願するヤンの意図は、母親と妹を殺さないでくれという意味だと考えるべきだろう。
 とんでもない誤解だが、本当に誤解だろうかと考えてアスティは青くなった。裏路地で振り向いたイニスの感情の読み取れない顔、そして、ここへ来るまでの緊張した空気——ヤンの懸念は、本当にあり得ないことだと言えるだろうか。
「……何を勘違いしているのか知らないが、そんなつもりで訪ねて来たわけじゃない。」
 イニスがヤンを見下ろしてぼそりと答え、その答えに、アスティは止めていた息をそっと吐き出した。
「じゃ、じゃあ、どういうつもりで……?」
 ヤンが戸惑いの表情を貼り付けて顔を上げる。
「調査。」
 イニスは一言、端的に答えた。
「調査?」
 ヤンが聞き返すが、イニスはそれ以上答えずにヤンの脇を通り過ぎようとする。
「ま、待った! 目的が何だとしても! 母さん、本当にひどい病気なんだ。余計な心配させて病気が悪くなると困るし、病気がうつる可能性だってあるし……。」
 ヤンは咄嗟にイニス服の裾を掴み、イニスを見上げてその表情を窺う。
「余計な心配を掛けさせてるのはお前であって俺の知ったことではない上、短時間の接触でうつるような病気なら、先に一緒に暮らしている自分の身を案じるべきだな。」
 イニスは表情を変えることなくヤンの手を振り払った。イニスが入り口の布を押し上げると、布の端に結び付けられた空き缶がカランと音を立てる。
「で、でも……!」
 なおもイニスにすがりつこうとしたヤンの腕をナウルが掴んで引き止めた。その間に、イニスはヤンの手をすり抜けて小屋の中へと入って行く。
「まあ、悪いようにはせえへんから。」
 ナウルは笑いながらポンポンとヤンの背中を叩き、「ほな、お邪魔しますよって。」と小屋の中に声を掛けてイニスの後を追った。
 ヤンはしばらく、不安げな表情を浮かべて入り口に立ち尽くしていたが、アスティが小さく「お邪魔します。」と述べてナウルに続いて小屋に入ると、ヤンもその後に続いた。

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