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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第45話

 イニスとキーロを追ったアスティが彼らの消えた角を曲がると、路地裏の道は複雑に入り組んでいた。空の箱やゴミの山が所々で行く手を塞ぎ、まるで迷路のようだ。
「クエッー!」
 キーロの鳴き声を頼りに、アスティは狭い道を辿っていく。途端、ガラスの割れるような甲高い音が響いて、アスティは身を竦めた。思わず閉じてしまった目を開くと、目の前の十字路をころころと口の欠けたガラス瓶が転がって行く。
「待てっ!」
 イニスの声だ。
 アスティがハッとして十字路に飛び出すと、左手から少年が駆けてきた。危うくぶつかりそうなところを何とか避けた——と思った次の瞬間、少年の腕がアスティの首を抱えるように絡み付いて来て、アスティは身動きが取れなくなった。
「……え?」
「動くな! こいつがどうなってもいいのか!?」
 少年が叫び、アスティの首筋に冷たく硬いものが触れる。それが鋭く尖ったガラスの破片だということに気付いて、アスティは息を止めた。
 イニスが足を止め、眉をひそめてじっとこちらを見つめている。
「武器を置け。」
 少年の要求に、イニスは一瞬躊躇いの表情を見せたものの、ため息を吐いて剣を装備した帯革を外し、地面に置いた。不満そうな表情を浮かべてはいるが、動揺している様子は見られない。
「下がれ。」
 少年の命令に、イニスが数歩後ずさる。
「もっとだ!」
 興奮した少年の声に、イニスが更に後ずさると、少年はガラス片を左手に持ち変えると、左腕をアスティの首に巻き付けたままイニスの帯革に近付き、右手で素早く短剣を抜き取った。
「両手を挙げて後ろを向け。」
 少年の要求に、イニスが怪訝そうに顔をしかめた。
「お前の顔は覚えた。ここで逃げ切ってもすぐに捕まるぞ。」
「黙れっ! 早くしないと、こいつの首、掻っ切るぞ!」
 少年が叫び、イニスは渋々背中を向けて頭の上まで両手を挙げる。
「なあなあ、ちょっとお願いがあるんやけど。」
 不意に、背後から緊迫した空気の中では場違いな間の抜けた声が掛かった。
「うるさいっ、こっちは取り込み中……だ?」
 反射的に怒鳴り返した少年が怪訝そうに語尾を上げる。
「何や、先に邪魔して来たんはそっちやのに、失礼な奴やね。」
 背後の声に気を取られたためか、少年が背後を振り返ると同時に、アスティの首筋に当てられたガラス片が僅かに浮いた。途端、少年が不自然に上体を傾け、アスティもよろめく。アスティの首に絡んでいた少年の腕が離れた。
「アスティちゃんは返してもらうで。」
 声と同時に誰かがアスティの腕を掴み、強く引く。突如目の前に壁が現れ、アスティは受け身もままならずに顔から壁へと倒れ込む。
 ポスン——予想に反し、壁は柔らかくアスティを受け止めてくれた。
「……怪我してへんか?」
 降って来た優しい声音に顔を上げると、見知った顔が目の前にあった。
「ナウルさん!」
 あの癖のある喋り方と飄々とした態度は彼しかいないと思ってはいたものの、しっかりとその顔を確認し、アスティは思わず声を上げた。たこ焼き屋の前で待っていればいいなどと言っていたのに、ちゃんとアスティの後を追いかけて来て助けてくれたことにほっとする。
「ナウル様の必殺足払い、かっこよかったやろ。惚れてもええで?」
 得意げな笑みを見せながら、ナウルはアスティの頭を撫で、もう片方の手でくるくると何かを回していた。お好み焼き用のコテ……ではなく、イニスの短剣だ。いつの間にか少年の手から奪い取ったらしい。
 背後で何が起こったのかアスティには全く見えていなかったのだが、「必殺足払い」と言うからには、ナウルは足を引っかけて少年を転ばせたのだろう。地面に転がった少年の背中を見ると、見覚えのある足跡がはっきりと描かれていた。元からあったシャツの模様とは思えないから、ナウルはアスティを引き寄せると同時に、よろめいた少年の背中に止めの蹴りまで入れたようだ。
 不意を突いたとは言え、アスティを助けると同時に武器も奪い取ったのだから、賞賛すべき手並みである。
 イニスもこちらを振り向き、背後で起こった逆転劇にほっとした様子でゆっくりとこちらへ歩いて来る。
「くそっ……。」
 地面に転がった少年が、舌打ちをしながらよろよろと立ち上がる。三対一では、明らかに少年にとって不利な状況だ。その上、ナウルに蹴飛ばされた背中が痛むのか、少年の動きは緩慢になっている。イニスとナウルに挟み込まれていては、もはや逃げ出すことも容易ではないだろう。
「クエッ、クエッ!」
 不意に足下でキーロの声がした。視線を落とすと、キーロがアスティの荷物をくわえてずるずると引きずっている。
「おお、アスティちゃんの荷物取り返したんか。お手柄やで、キーロ。」
 ナウルはそう言ってしゃがみ込むと、キーロの頭を撫でた。キーロは荷物を取り返したと言うよりも、アスティと引き換えに少年が道端に放り出した荷物を拾っただけに思えるのだが、褒められたキーロは得意げに胸を張る。
「さて、荷物も取り返したことやし、俺らはデザートでも食いに行こか。」
 ナウルが拾い上げた荷物をアスティが受け取ると、ナウルは手にしていた短剣をつまらなそうに投げ捨てた。
「え?」
 アスティが驚いたのは、ナウルが柄に王国政府の紋章が入った高価そうな短剣を粗雑に扱ったからではなく、ナウルが投げ捨てた短剣が狙い定めたかのように少年の足下に転がっていったからだ。これでは、せっかく奪い取った短剣を少年に返してやったに等しい。少年が再びそれを手にして攻撃してこないとも限らないと言うのに。
 アスティが驚いて隣のナウルの顔を見上げたのも束の間、ナウルは突然、腰を落とし、次の瞬間、アスティは膝からすくい上げるようにナウルに抱え上げられていた。
「ええっ!?」
 アスティが驚いて声を上げるも、ナウルは動じない。
「さ、行きまひょか、お姫様。」
 ナウルがおどけて言うが、アスティがお姫様なら、ナウルの方は悪者からお姫様を救い出した勇者と言ったところか。確かそんな場面が昔読んだ絵本にあったような気もするが、今はそんなことを考えている場合ではない。
 現に、少年は腰を屈め、今まさに足下の短剣を拾い上げようとしているのだ。陰になった少年の表情はよく見えないが、これまでの流れからして「落とし物を拾いました。」と言って持ち主に届けてくれることを期待するのはあまりにも楽観的に過ぎるだろう。
「ちゅうわけで、俺らはもう関係あらへんってことで!」
 ナウルは、アスティを抱き上げたまま一方的に宣言すると、くるりと少年に背を向けた。自分たちはもう関係ないというナウルの主張に少年が納得してくれるかどうかも疑問だが、そもそもこのままナウルとアスティが立ち去れば、取り残されるのは少年だけではない。
「あ、あのっ、イニスさんは?」
 少年に短剣を奪われたイニスは、そのまま帰るというわけにはいかないだろう。長剣が装着されたままの帯革も、ナウルの足下に近く、つまりイニスからはだいぶ遠いところに落ちているのだ。
「んー……そやね、煮くなり焼くなり好きにしてもらえばええんとちゃう?」
 ナウルはちらりとイニスに目線を向けた後、にこりと微笑んで答えた。ナウルの表情からは、それが冗談なのか本気なのか分からないが、このままイニスと少年を残して立ち去るのはあまりにも冷たい。アスティはイニスのおかげで荷物を取り戻せたと言うのに、そのお礼すら伝えていない。それに何より、そもそもイニスが武器を奪われたのは、アスティが人質になってしまったせいなのだ。
「ま、それができるならの話やけどな。」
 アスティが戸惑っていると、ナウルがぼそりと独り言のように言い足し、アスティを抱き上げたまま横道へと入って行く。
「あの、それはどういう……?」
 ナウルに聞き返しつつ、アスティはナウルの肩越しに少年を見た。意外なことに、イニスの短剣を拾い上げた少年は既にアスティやナウルへの関心を失っているようで、真っ直ぐにイニスの方を睨み付けている。
 その時初めて、アスティは少年の顔をはっきりと見た。その険しい横顔は、間違いなく、先ほどお好み焼き屋で会った少年のものだった。王宮前広場での反政府デモを率いていた男ラディックと共に店にやって来て、今と同じように強くイニスを睨み付けていたあの少年——確かヤンと呼ばれていたはずだ。
「……お前みたいな悪魔がいるからいけないんだ……。」
 突如、不穏な呟きが耳に飛び込んできた。もちろん、今度の呟きの主はナウルではない。アスティがハッとしてナウルの肩から身を乗り出すと同時に、ヤンが駆け出した。
「悪魔は、倒されるべきなんだ……!」
 短剣を握り締め、ヤンは真っ直ぐイニスに向かって行く。対するイニスは丸腰で、彼の長剣はナウルの足下に転がったままだ。
「イニスさん……!」
 アスティが思わず手を伸ばして叫ぶと、よろめいたナウルがアスティを解放した。アスティの足が地に着くと同時にヤンがイニスに突進し、アスティは立ち竦んで息を飲む。
 全ては一瞬の出来事だった。
 地面に倒れ込んだ彼が顔を歪めて呻く。地面に伏したヤンは、手首を捻り上げられ、イニスに押さえつけられていた。
 たぶん、ヤンには何が起きたのかさえよく分からなかったに違いない。はたから見ていたアスティでさえ、分かったのは、イニスがぎりぎりのところでヤンの突進をかわしたらしいことと、それとほぼ同時にヤンの手首を掴んでヤンを地面に押さえつけたことだけだ。ヤンが自ら地面に倒れ込んだかのようにさえ見えたが、たぶん、そうではない。また、確かにイニスはヤンの攻撃をぎりぎりのところかわしたのだが、それは、危うげながら何とかかわしたという風ではなく、それで避けられると判断したからこその最小限の動作と思われた。素人目にも、実力の差は明らかだった。
「イニスさん! 大丈夫ですか?」
 駆け寄って思わずそう尋ねたが、イニスが大丈夫であることは今更確認するまでもない。
「ああ。」
 予想通り、イニスからは端的な答えが返ってくる。
「全く……相変わらずアホやねぇ。相手にする奴はよう選ばな、身の程知らずは早死にするでぇ。」
 アスティの後からふらふらと近付いて来たナウルは、ヤンの傍らにしゃがみ込み、その頬をつんつんと指先でつついた。
「……お前、こいつを知ってるのか?」
 イニスは片膝をヤンの背中に乗せて押さえ、怪訝そうにナウルを見遣る。
「さっきお好み屋で会うたやん。物覚えの悪いやっちゃなぁ。」
 ナウルがけらけらと笑うのを、イニスが「違う。」と苛立たしげな声で打ち消した。イニスも先ほどお好み焼き屋でヤンと会ったことは覚えているのだろう。たぶん、イニスがナウルに「知っているのか」と問うたのは、ナウルが「相変わらず」と言ったせいだ。普通、今日初めて会った相手に「相変わらず」とは言わないはずだから。
「こいつは何者なんだ? 前から知ってるんだろう?」
 イニスがナウルを睨み付ける。
「そらまぁ、この界隈じゃ有名なスリ師やからね。俺も先月、お好み屋を出たところでこいつに財布摺られたんよ。おかげで一文無しになってもうて、エリーの店に行けんようなって……そうや、そうや! 俺がさっきエリーに叱られたんも全部こいつのせいやねん!」
 ナウルは突然、思い出したように叫んで立ち上がると地団駄を踏む。
「……お前は一体何をしてるんだ……。」
 イニスのため息混じりの呟きは、イニスが「いかがわしい店」と呼んだエリーの店に行こうとしていたことに対する非難と言うよりも、ヤンに財布を摺られた迂闊さに対する非難なのだろう。ヤンの泥棒ぶりを下手くそだと評しながら、そのヤンに自分も財布を盗まれているというのではあまりにも情けない。
「いずれにしても、常習犯なら見逃すわけにはいかないな。自治警察に引き渡そう。」
 そう言ってイニスが片手を携帯端末装置モバイル・ギアに添えた時だ。ヤンがイニスの腕を振り払うように跳ね起きて逃げ出した——ように見えた……のに。
「……言わなかったか? お前の顔は覚えた。今更逃げても罪が重くなるだけだ。」
 ヤンは再びイニスによって地面に押さえつけられ、その眼前には先ほどまで地面に転がっていたはずの短剣がヤンの服の袖を貫いて突き立てられていた。
 イニスの口調は穏やかだったが、それゆえ圧倒的だった。目の前の刃に一瞬表情を強ばらせたヤンは、ぎゅっと唇を噛みしめる。
「……畜生っ!」
 力を振り絞るようにヤンが叫んだ。その目にじわりと涙が浮かぶ。
「……畜生……。お前なんかに、お前みたいな悪魔に……。」
 ヤンの声は次第に細くなったが、その声には確かな憎しみがこもっていた。
「また随分と恨まれとるんやねぇ。」
 ナウルがイニスを見遣りながらくつくつと笑ったが、アスティには分からなかった。どうしてヤンはこんなにもイニスを嫌うのだろう。髪の色が人と違うから? 森の開発を進める政府の人間だから? そんな理由で、ヤンはイニスを殺そうとしたのだろうか。
「どうして……どうしてそんなにイニスさんのことを嫌うんですか?」
 思わず、アスティは口にしていた。ヤンが怪訝そうにアスティを見上げる。
「イニスさんは、あなたに何もしていないのに……。」
 アスティがそう口にした瞬間、ヤンの表情が変わった。
「……何もしてない……だって!? 散々やってるだろ、こいつは俺の親父を殺したんだ! こいつのせいで俺たちがどんな目に遭ったか、お前は何も知らないんだ!」
 ヤンは握り締めた拳で地面を叩き、声を張り上げた。砂利にまみれた手に、微かに血が滲んでいる。
 ヤンの主張にアスティが戸惑っていると、イニスが一瞬ハッとしたように表情を変え、静かに口を開いた。
「……お前、デモで死んだ男の息子か?」
 イニスの言葉を待っていたかのように、ヤンが叫んだ。
「そうだよっ、俺の親父はお前に殺されたんだ!」
 ——デモで死んだ男。先月、王宮前広場の抗議デモで死者が出たという話は、アスティも昨日イニスから聞いた。その男がヤンの父親だったと言うことか。
 でも、そうだとしたら、ヤンの父親を殺したのはイニスではあり得ない。それどころか、その男は——。
「お前の親父を取り押さえたのは陸軍の兵士だ、俺じゃない。」
 イニスが落ち着いた口調で答えた。
「同じだろ! 軍はこいつの支配下にあるんだからな!」
「俺が国王軍に対して直接的に指揮命令権を持つのは戦時だけだ。平時の陸軍の活動に騎士団は関与しない。」
「そんなの単なる言い訳だ! お前が全ての黒幕なんだ! お前が政府を牛耳って政府に都合の悪い奴を片っ端から殺してるんだ……!」
 ヤンは両目に涙を浮かべながら、しつこくイニスに食い下がる。イニスは冷静に答えているが、それゆえに、アスティにはヤンの主張が言いがかりのようにしか聞こえなかった。東の森でイニスと出会ってからまだ数日、アスティもイニスの全てを知っているわけではない。ただ、本当にイニスが政府に都合の悪い人間を片っ端から殺しているのなら、政府が進めたい東の森の開発に反対しているアスティは真っ先に殺されているはずだ。
 ヤンの主張の根底には、きっと政府に対するそもそもの不信感があるのだろう。叔父のトールクと同様、イニスのことをよく知らないから、素直に街の噂やラディックの主張を鵜呑みにしてイニスを悪者だと思い込んでいるだけなのかもしれない。
 でも、それでイニスの命を奪おうとまでするのなら、それは、政府に都合の悪い人間を片っ端から殺すこととそう変わらない——そう思ったが、口には出さなかった。ヤンが言ったとおり、アスティはまだ「何も知らない」。
「父親を亡くして悔しいのは分かるが、あれは事故だ。そもそも、事の発端はお前の父親が酔っぱらって警備の兵士に殴り掛かって来たことだ。酒に酔っていたとは言え、不当な攻撃を受けたのは兵士の方だ。」
 イニスが穏やかな口調で告げた。散々ヤンに罵られても、イニスが感情的に言い返すことはない。所詮言いがかりでしかないヤンの主張には一々腹を立てる気にもならないということなのだろうか。それとも……。
「そんなの知るかよっ! 確かに親父は呑んだくれでどうしようもない奴だったけど、それでも俺たちにはあいつが必要だったんだ! あいつが死んだせいで、母さんは薬も買えなくなって、ルリまで……。」
 ヤンは地面に伏したまま、拳を握り締めて嗚咽した。両目からこぼれた涙が地面を濡らす。薬を必要としているということは、ヤンの母親は病気なのだろうか。
「あの、ルリと言うのは……。」
「こいつの妹や。」
 アスティの疑問にすかさず答えたのはナウルだった。
「……全部、お前のせいだ! お前がこの国をダメにしたんだ!」
 手の甲で涙を拭ったヤンは、再びイニスを睨み付けた。

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