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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第39話 大河エウレールと歴史の傷跡

 大きな窓の外に広大な東の森を眺めながら自動昇降機の乗降口の反対側へ回り込むと、そこには北側の景色とは異なる景色が広がっていた。
 全面に広がる広大な森と、それを貫く大河——そしてその先に青く輝く広がりは——きっと、間違いなく。
「どや、ええやろ? これがこの国の象徴、大河エウレール。王都の拡大でこの辺はあちこち地下水路にされてもうとるけど、支流が合流した先の本流はまだ元のまんまや。なかなかのもんやろ。」
 ナウルの説明に頷きながら、アスティは窓ガラスへ近付いた。東の森を流れる小川とは比べものにならない大きな川は、王都へ入る時に越えた川よりも更に大きい。緩やかな流れに小さな船が浮かんでいるが、たぶんそれは小さく見えるだけで、実際にはきっとかなり大きな船に違いない。
「ほんでその先、きらきらしとる青いんが何や分かるか? 空とちゃうで。」
 笑みを含んだ声でナウルが問う。
「海……ですよね?」
 アスティはガラスの向こうの景色を見つめたまま答えた。声は自然と高くなり、微かに震える。
 かつて、絵本に描かれた海について尋ねたアスティに、祖父は「大きな池のようなもの」と答えてくれたが、その大きさは完全にアスティの想像を超えていた。
 そもそも、こんなにも遠くが見渡せる場所にいながら、海の対岸は全く見えない。海のその先に見えるのは、もう空だ。
 ——あの先には何があるのだろう。
 かつて読んだ絵本の主人公の気持ちが重なった。
「海を見るのも初めてか?」
 背後から、イニスの声に問われる。
「はい。本物を見るのは初めてです。絵本で見るよりずっと大きくてびっくりしました!」
 アスティが振り向いて答えると、イニスは微かに笑った。先ほどの思い詰めたような表情は消えていて、アスティはほっとする。
「海っちゅうのはなぁ、ほんまはもっと近くで見るんがいっちゃん面白いんやで! 浜辺に立つと、波がざっぱぁんて足下に寄せてくんねん! 真っ白い海鳥はキーキー鳴いとるし、海ん中の生き物も川ん中とは違う奴がようけおって……海は森と同じ、神秘の宝庫やねん!」
 ナウルは両手を広げ、大げさな身振りと共に語った。
「神秘の宝庫……。」
「原初の生物は海で生まれたとも言われている。その意味で、海は全ての生き物の故郷らしい。」
 ナウルの説明を継ぐように、イニスがこぼす。イニスにしては珍しく、ナウルの大げさな説明に対する賛同的な言葉だった。先ほど二人の間にあった緊張した空気はとっくに霧散しているらしい。
 イニスはぼんやりと遥か輝く水面を見つめていて、その穏やかな表情はどこか懐かしそうだ。
「イニスさんは海に……浜辺に行ったことがありますか?」
「ああ、一度だけな。悪くないところだよ。」
 思わず尋ねると、イニスは視線を遠く海に向けたまま答える。優しい声音は、「悪くない」という言葉以上に、海を良いところのように思わせた。
「私も行ってみたいです。」
 そっとこぼすと、ナウルがイニスとアスティの間に割り込んだ。
「そやね。さすがに今日は無理やけど、また今度連れてったるわ。森も海も俺の方がイニスよりずーっと詳しいさかい、いくらでも案内したるで!」
 ナウルの背後で、押し退けられたイニスが一瞬、不愉快そうに顔をしかめたが、もはやいつも通りとも言うべき状況に、アスティは小さく笑った。
「楽しみにしています。」
 アスティが微笑んでナウルに答えると、キーロも「クエッ!」と楽しそうな声を上げ、ナウルは満足げな笑みを見せる。
 アスティは満ち足りた気持ちで再び窓の外の景色を眺めた。眼下の大河エウレールの緩やかな流れの如く、穏やかな昼下がりだ。
「……うっ。」
 突然、イニスが呻いた。振り向けば、イニスは口元を押さえながら膝を折り、崩れ落ちる。
「イニスさん? 大丈夫ですか?」
 アスティは驚いてしゃがみ込み、イニスの肩に手を添えた。イニスは片手の拳を震わせながら、何も答えない。急にお腹でも痛くなったのだろうか。
 おろおろしていると、突然、イニスが顔を上げ、ナウルを睨んだ。
「ナウルっ……お前、何を仕込んだっ……。」
 ナウルを見上げるイニスの目にはじんわりと涙が浮かんでいる。一瞬、きょとんとしたナウルが「ああ!」と手を叩いた。
「もしかして、もしかせんでも、さっきお前にあげた飴ちゃん、やっぱりナウル様特製の激辛蜂蜜飴やったんやね!?」
 ナウルが嬉々として声を上げる。
「激辛……?」
 蜂蜜というのは、普通、甘いものではなかったか。現に、まだアスティの口の中に小さく残っている飴玉は甘い。
「蜂蜜飴ん中に、特別に調合した香辛料を入れてみたんや。小さい玉の真ん中に仕込むんが難しゅうて、上手いこと作れたんは、結局、一個だけやったけど。そういうわけやから、それ、当たりやで。味わって食べてや。」
 ナウルはにこにこと笑いながらイニスを見下ろしているが、イニスは口元を押さえながら完全にうずくまっている。
「しっかし、蜂蜜の甘さと香辛料の辛さが口の中で混ざり合うと、未だかつてない最高の味を産み出すはずっちゅう俺の読みは完璧やな。御覧の通り、涙が出るほどのおいしさっちゅうわけや!」
 ナウルはイニスを見下ろしながら満足げに頷くが、どう考えても、イニスの涙はおいしさに感動したからではなく、香辛料が辛過ぎたせいだろう。
「お、お水か何か……。」
 持ってきましょうか、と言いたいところだが、あいにく、アスティは水筒を持っていなかった。展望室の中を小川が流れているはずもなく、王都中に張り巡らされているという水道と呼ばれる人工の小川も見当たらない。
 涙目で耐え凌いでいたイニスが、突然立ち上がり、ナウルを突き飛ばして駆け出した。
「……イニスさん!?」
「放っときぃ。どうせ便所でも行ったんやろ?」
 ナウルがけらけらと笑いながらアスティを引き留める。
「で、でも……。」
「心配せんでも、辛いだけで死なへんから大丈夫や!」
 ナウルは言うが、死ななければいいと言うのはあまりにも乱暴だ。
「ま、しばらくしたら戻って来るやろ。先にぐるっと一周しよや。」
 ナウルに促され、アスティは既に姿の見えないイニスを心配しつつも、外の景色を眺めながら西側の窓へと移動した。
 西側にも、広大な森が広がっている——はずだった。東の森と西の森はそれぞれ豊かな植生を持ち、森の民は独自の文化を育ててきた。幼い頃、アスティは祖父ムリクからそう教えられたし、先ほど図書館でナウルから聞いた説明もそれを裏付けるものだった。
 それなのに——。
 確かに、緑の森は存在していた。しかし、その森の中央に黄土色の剥き出しの大地が広がっている。昨日、王宮へ向かう途中にも西に黄土色の山肌が見えたが、展望室から見下ろした西の森には、そこを森と呼ぶことが躊躇われるほどに草木のない土地が広がっていた。
「あれは……?」
 窓際へ寄りながら、アスティは呆然と呟いた。
「西の森や。」
 隣でナウルが端的に答える。が、知りたいことは、そういうことではない。
「あ、あそこ、全然木がなくなって……。」
 アスティは不安と共にナウルを振り返った。キーロも不思議そうに首を傾げて小さく鳴く。
「……まぁ、戦場跡やね。」
 小さくため息を吐いた後、ナウルは手すりにもたれながら言った。
「戦場跡?」
「十年前、西の森で戦争があったんは知っとるやろ?」
 ナウルの問いに、アスティは頷いた。
「おじいちゃんから聞いたことがあります。大勢の人が亡くなったって……。」
 そして、一年に渡る戦争が終わってもなお争いの火種が残り、簡単には解決されそうもない問題を抱えていることは、昨日、イニスから聞いた。
「これはその跡や。つまり、十年前の一年戦争で、国王軍が西の森を焼き討ちにした跡っちゅうこっちゃ。」
「焼き討ち?」
 アスティは思わずその攻撃的な言葉を繰り返して、聞き返す。
「そ。公式発表では西の森の火災は銃火器の暴発で生じた爆発に起因する事故の結果で意図的なものやなかったっちゅうとるけど、怪しいもんや。そもそも西の森の民は東の森の民と同じく原初的な生活をしとって、国王軍のようなごっつい銃火器は持ってへん。そんな相手んとこに、国王軍は爆弾積んだ戦車で突っ込んで行ったんやから、そら、初めから燃やしたる気満々に決まっとるやんな? 元々、装備からして西の森の民が国王軍にかなうはずあらへんのに、国王軍が西の森を焼き払って、西の森の民はほとんど全滅や。一年戦争なんて言うとるけど、戦争が始まった瞬間に勝敗は決まっとる。最後は拡大した山火事をどう食い止めるかっちゅうだけの話や。それも、王都が被害を被らへんようにせなあかんっちゅうだけで、王都と反対側がほとんど消火の試みもされへんかった。それで結局、この様っちゅうわけや。」
 ナウルがすらすらと語る戦争の経緯に、アスティは何と言えばいいのか分からなかった。初めてその露わになった山肌を見た時に感じた違和感は痛々しさに変わり、胸の奥でちくちくと揺れている。
「まあ、これだけ全部焼き払われたらどうしようもあらへんわな。人間はもちろん、動植物も全滅や。戦争が終わって九年も経つんに、焼き払われた一帯はずーっとそのまんま、草木も生えん不毛の地になってもうとる。西の森特有の貴重な動植物はほとんど絶滅してもうた。」
「どうしてそんな、ひどいこと……。」
 思わず顔をしかめ、アスティはこぼした。昨日初めて会った国王は、穏やかな人だった。十年前はまだ先代国王の統治下だったはずだが、その先代国王は現国王の父親であり、ユミリエールの祖父だ。直接の面識はなくとも、彼らの祖先がこんなにも惨いことをする人とは思えなかったし、思いたくなかった。けれど、戦争があったということは、そういうことなのだ。戦争というのは、そういうものだから……。
「西の森の民がどうして国王と対立して戦争になったか知っとる?」
 ナウルの問いに、アスティは少し考えて首を振った。ムリクは西の森の頑固者と王都の分からず屋が後先考えずに大喧嘩したせいだと言っていたような気がするが、それが具体的にどういうことなのかアスティにはよく分からなかった。これがただの喧嘩が生み出した結果だと言うならば、あまりにもひどい。
「ほな、図書室で説明した王国史の続きから説明しよか。北の森の民が渡来人を受け入れてエウレール王国を建国したっちゅうとこまでは図書室で説明したやろ? 建国後、エウレール王国は大いに発展して、東の森や西の森をもその一部として取り込んだ。ちゅうても、別に侵略したわけやあらへんで。渡来人の技術を取り入れて発展したエウレール王国は外国との商いにも積極的で、王都の商人が東西の森の民の伝統的な工芸品を高値で買い取って外国に売り込んだりしとるうちに、王都の連中が東西の森を含めたエウレールを代表するようになったっちゅうだけの話や。初代のエウレール国王が存命中に、東西の森の民と自治協定が結ばれ、国王は森の民がそれぞれの領域でそれぞれの伝統に従って暮らすことを認めた上で、王国議会に東西の森の民の代表を受け入れた。」
 ナウルの説明を聞きながら、アスティは首を傾げる。
「つまり、みんな仲良く暮らしていたってことですよね?」
 ナウルの説明の通りなら、戦争は起こりそうもない。
「まあ、少なくとも十年前まではそうやった。」
 ナウルはもったいぶった笑みを見せる。
「十年前に、何があったんですか?」
「西の森の開発計画が決定されたんや。」
「開発……計画?」
 心臓がどきりと跳ね、アスティは恐る恐る聞き返した。森の開発計画をきっかけに対立が生じたと言うのなら、それは今、東の森に起こっていることと同じだ。
「そ。当時の王都は科学技術の飛躍的な発達に伴って発展著しく、人口も急増しとったから、産業用地はもちろん、住宅地や農業用地が不足しとったんや。けど、王都周辺の開発用地はもう限界、未開発で残されとった森は森の民の領域やった。自治協定で森のことは森の民が決めるっちゅうことになっとったから、国王の独断で森の開発を決定することはできひん。開発の是非は、東西の森の民も代表を送り込んどる王国議会の議題になった。自分たちの領域を削られる森の民からすれば、そら基本は反対に決まっとる。議会での議論は三日三晩に及んで大荒れやった。けど、結局、西の森の一部を切り開いて住宅地や農地にすることが決定されたんや。」
「それは、みんなで話し合ってそう決めたんですよね?」
 東西の森の民も代表を出して話し合った結果ならば、それは仕方のないことのように思われた。東の森がまだ賑やかだった頃、森で困ったことが起きた時には、集落の長が集まって話し合いをしていた。そこで決まったことは森の決まり事として周知され、異論を唱える者がいなかったわけではないが、みんなその決定を受け入れていた。よく叔父のトールクが「それで決まったなら仕方ねえ。」と口癖のように呟いていたのを覚えている。
「確かに、形式的に見れば議会のみんなで決めたことや。けど、当時、実際に東西の森の民が議会に送り込んでいた代表は一人ずつ。それぞれの領域での自治を認める代わりに、森の外の王国のことには口出しせえへんっちゅうのが基本やったから、議会の構成員は王都の住民が圧倒的多数派やった。話し合われたのは、開発をするかしないかやのうて、東の森と西の森のどこを潰すかっちゅうことや。当初の案は東西の森の両方を少しずつ開発するっちゅうもんで、王都の窮状を理解した東の森の代表はその案を受け入れたけど、西の森の民の代表は納得せえへんかった。自分たちの領域である西の森は一ミリたりとも開発させへん、って異を唱えたわけや。」
 ナウルの説明に、アスティは考え込んだ。森の開発をやめてほしい森の民としては、西の森の代表の主張も分かる。ただ、王都の人々にも森を開発しなければならない理由があったわけで、それを完全に拒んでしまうことが正しいことなのかと問われると、今のアスティには判断がつかない。
「それで、戦争になってしまったんですか?」
 アスティは陰鬱な気持ちで、ナウルに先を促した。
「最終的には。多数派の連中は、西の森の代表の強硬な姿勢に反発して、わざわざ西の森だけを大きく開発する案を出し直した。元々西の森の民は気性が荒い言われて王都の人間とは対立しがちやったから、互いにそういう積もり積もったもんがあったわけや。温厚な東の森の代表は両者の和解を呼び掛けたようやけど、既に手遅れ。西の森の代表は、エウレールからの独立を宣言して議会を辞し、西の森の開発を実力で阻止することにしたっちゅうわけや。」
「その実力で開発を阻止する手段が戦争……?」
「必ずしもそうとは言い切れへん。西の森の民としては、開発計画が取り消されればそれでええはずやからな。西の森の代表の行動は、議会の混乱を受けて国王が議会の決定を覆すことを狙ったもんやったはずや。当時も今も国政の最終決定権者は国王で、議会は国王に助言する諮問機関に過ぎひんからな。とは言え、当時の国王は既に高齢で病気療養中や言われとって、実質的には王太子の現国王が執政に当たっとった。そんな状況やから、国王の名をもって議会の決定を覆すんも簡単やなかったんやろ。そんで、しばらくは事実上、両者睨み合いの状態が続いてもうた。それでも、次第に、国王が和解案を提示するつもりらしいっちゅう噂が流れて、硬直した事態の打開に期待が高まるようになったんや。それが、ある日突然……。」
「国王が和解のために西の森に派遣した使者を西の森の民が殺害したんだ。国王はこれを西の森勢力による事実上の宣戦布告と見なし、本格的な戦争が始まった。」
 ナウルの言葉を引き継いだのはイニスだった。
「イニスさん……もう、大丈夫なんですか?」
 アスティが尋ねると、イニスは「ああ。」と端的に答えて、傍らのナウルを睨みつけた。
「ナウル様特製蜂蜜飴はどうやった? なかなか刺激的な味やったやろ?」
 ナウルは冷たい視線に臆することなく、にこりと笑ってイニスに問う。
「ああ、そうだな。次は自分で味わってみることを勧めるよ。」
 怒鳴り付けても意味がないと諦めているのか、イニスは頬をひきつらせながらも、手にしていたボトルのキャップを捻りながら答える。
 いつの間にか、イニスはボトルを二本、手にしていた。一本は透明なボトルで既に中身は空っぽだが、ラベルに書かれた文字を読む限り、「エウレールのおいしい水」が入っていたようだ。もう一本は、まだ半分ほど中身が残っており、どうやらマリイヤジュースらしい。
 確か、展望室の東側の壁際には飲み物を並べた箱が置いてあったような気がするから、きっとそこから取って来たのだろう。既に一本が空になっているのは、口の中の辛さをすすぐために慌てて飲み干したからに違いない。
「クエッ、クエッ!」
 イニスがマリイヤジュースに口を付けると、キーロが物欲しそうに鳴いた。本当に、キーロはマリイヤには目がないようだ。
 キーロの催促を聞きながら、マリイヤジュースを一口飲み込んだイニスが不満そうにキーロを見つめる。
「クエッ!」
 キーロは苛立たしげに鳴いて、イニスの手にしていたボトルを突いた。
「ダメだよ、キーロ。それはイニスさんのなんだから。」
 アスティが慌ててキーロの体を押さえ込むと、キーロは不機嫌そうに低い声を漏らし、イニスを見上げて睨み付ける。イニスの方もキーロを見下ろし、妙な緊張感が漂った。一触即発の事態だ。
「……やるよ。」
 先に緊張を解いたのはイニスの方だった。アスティの眼前にマリイヤジュース入りのボトルが差し出され、キーロがきょとんと首を傾げた。
「いいんですか……?」
 アスティは差し出されたボトルを遠慮がちに受け取りつつ、イニスを見上げる。
「俺はもう十分飲んだから。」
 イニスはキーロから視線を逸らすようにこちらに背を向けて答えた。申し訳ない気がしつつも、ここでイニスにボトルを突き返してキーロが機嫌を損ねたら一大事だ。最悪、イニスが一番の被害者になりかねない。
「キーロ、ちゃんとイニスさんにお礼を言ってね?」
 アスティがボトルのキャップを捻りながらキーロに念を押すと、キーロは嬉しそうに一声鳴いた後、イニスを見つめ、振り向いたイニスと視線が合ったかと思うと、ふいっと横を向いた。これがキーロ流の「お礼」の仕草——であるはずもない。
 一瞬、イニスが不機嫌そうに眉を顰めた気がしたが、すぐに手摺りにもたれて窓の外へと視線を向けてしまった。
 アスティは小さくため息を吐きながら、キーロを左腕にとまらせる。キーロは上を見上げながら大きくくちばしを開き、アスティは右手に持ったボトルからとくとくとマリイヤジュースを注いでやった。キーロは満足げな表情で喉を動かし、アスティはボトルに残っていた量の半分ほどを注いだところで一旦止めた。
「あ、あの……これ、全部頂いちゃっても構いませんか?」
「どうぞご自由に。」
 念のため問うたアスティに、イニスは窓の外を眺めたままつまらなそうに返す。
「では、お言葉に甘えて……。」
 イニスの許可を得て、アスティは残り四分の一ほどとなったマリイヤジュースのボトルに自ら口を付けた。
「えっ……おい、お前が飲むのか?」
 イニスが驚いた様子で目を見開いてアスティを振り向き、アスティは慌てて口に含んだマリイヤジュースを飲み込むと、口許を拭った。
「す、すみませんっ。私も喉が渇いていたので……だ、駄目でしたか?」
 アスティは驚きながら恐る恐る聞き返す。イニスがもう飲まないのなら、残りをキーロが独りで飲もうがアスティと分けようがイニスにとってはどちらでも同じことだろうと思ったのだが、そんなに驚かれるとは予想外だった。
「いや、別に……俺は構わないけど。」
 イニスは口元を押さえながらぼそぼそと答える。斜め下を向いた視線はさまよいがちで、明らかに戸惑っている様子だ。自分はそんなにもおかしなことをしたのだろうかと不安になる。
「ほんなら俺にも一口ちょうだい!」
 不意にナウルがイニスを押し退けて飛び出して来て、アスティの手からマリイヤジュースのボトルを奪い取った。
「ちょっと待て!」
 ナウルが奪ったボトルを、イニスが更に奪い返す。
「何でや! 俺も喉渇いてんねん!」
「何か飲みたきゃ自分で買ってこい! お前にやる義理はない!」
「ええやん! どうせお前はもう飲まへんのやろ? 誰が飲んだって同じやん!」
 ナウルの抗議に、イニスは「同じじゃない!」と一喝し、アスティを振り返った。
「お前が飲もうがその鳥に飲ませようが好きにしていい。ただし、ナウルにだけはやるな。絶対に、だ。」
 イニスは目線を合わせてアスティに念を押し、ボトルをアスティの手に押し付ける。ナウルが不満げに頬を膨らませてイニスの背中を睨んでいるが、自業自得と言えなくもない。そもそもイニスはナウルのせいで水やジュースを大量に飲まなければいけない事態に追い込まれたのだ。ナウルを利するような親切はそうそう働きたくないというのは当然の心情だろう。
「……自分だけ間接ちゅーしよって。」
 イニスの背後でぼそりとナウルが呟いた。その瞬間、イニスは表情を強ばらせ、くるりと振り返ったかと思うと、ナウルに思い切り跳び蹴りを食らわせていた。
 ——間接……何とナウルは言ったのだろう?
 イニスの反応からして、何かイニスを侮辱するような言葉だったのだろうが、アスティにはよく聞き取れなかった。

最新の執筆状況(更新予定)等はTwitter(@ayaki_ryu)で呟いています。

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