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エウレールの森の民 作者:アヤキリュウ
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第31話

 しばらくして、食堂に甘い匂いが漂い始めた。
「皆さん、デザートのチェルベリーパイが焼き上がりましたよ!」
 マリアンヌが大きなパイを乗せた大皿を手に、食堂の奥にあるらしい調理室から出て来た。
「おおっ、うまそー。いっただきー!」
 ジェイスが歓喜の声を上げてチェルベリーパイの載った大皿に手を伸ばした瞬間、パシンッという乾いた音が響いた。
「……痛ってー!」
 ジェイスがマリアンヌに叩かれた手を引っ込めて悲鳴を上げる。
「全く、主役を差し置いて一番に手を出すだなんて、はしたないにもほどがありますわ。」
 マリアンヌが澄ました顔で言う。
「さあ、まずはアスティ様とキーロ様に。」
 マリアンヌは大皿をテーブルに置き、既に一人分ずつ切り分けられているチェルベリーパイを一切れずつ小皿に乗せると、アスティの分とキーロの分の二皿をアスティに差し出した。
 一人前のチェルベリーパイは、既にだいぶ御馳走を食べているキーロには少々大きすぎる気もしたが、食いしん坊のキーロは食べる気満々な様子で、嬉しそうに声を上げる。
「俺は鳥より後かよ。」
 ジェイスが不満そうに漏らすと、キーロが笑うようにアスティの肩で鳴いた。
「当然です! あなたは一番最後ですよ、ジェイス!」
 チェルベリーパイの載った小皿をアスティに手渡したマリアンヌは、きっぱりとジェイスに向かって言い切った。
「最後……? まあ、別に良いですけどね。なんかマリアンヌ侍女長、俺にだけ態度厳しくありません?」
 ジェイスはため息を吐いて側の椅子に腰掛け、不満を漏らす。
「そんなことありませんわ。教養のない下っ端に対する当然の待遇です。」
 マリアンヌはつんとジェイスから顔を背け、みんなにチェルベリーパイを配っていく。
「教養のない下っ端って……そりゃあ俺は入団してからの日も浅いし、下っ端なのは間違いありませんけど、マリアンヌ侍女長にそこまで馬鹿にされる筋合いないと思うんですけど。」
 むすっとした表情でジェイスが言う。
「あら、筋合いはありますわ。この王宮内で、麗しい淑女に向かって『おばさん』などと言う蔑称を使う無教養な人間を一人前と認めることはできません!」
 マリアンヌはジェイスに向かってぴしっと人差し指を向けると言い切った。
「……はあぁ!?」
 ジェイスが驚いた表情で声を上げる。
「あの……『おばさん』って?」
 アスティは隣のヨルンをつついて小声で尋ねた。
「ジェイスはね、騎士団に入団したその日、中庭を通りかかったマリアンヌ侍女長を呼び止めちゃったんだよ。」
「呼び止めちゃいけなかったんですか?」
「……呼び止めるのはいいんだけど、呼び止め方がまずかったんだよね。マリアンヌ侍女長に向かってその、つまり……。」
「『おばさん』って言っちゃった?」
「わわわっ、しっ、しーっ! ……まあ、要するにそういうことなんだけど、今の単語、マリアンヌ侍女長の前では禁句だから、絶対に口に出しちゃだめだからね!」
 小声ながらもヨルンに力強く念を押され、アスティは頷いたが、「おばさん」と言って呼び止めることがいけないのなら、ジェイスはどうやってマリアンヌ侍女長を呼び止めればよかったのだろう。マリアンヌがマリアンヌであることも侍女長であることも知らない場合、名前や肩書きで呼ぶことはできない。ギムニクとそう変わらない年齢に思えるマリアンヌに対して「お姉さん」と呼ぶというのも、少々違和感があるところなのだけれど。
「おば……じゃなかった、マリアンヌ侍女長。まだあのこと根に持ってるんっすか! そのことなら俺、何度も謝ってるじゃないですか!」
「謝って済む問題ではありません! 現に今も、あの忌まわしい呼び方を使おうとしたでしょう!? あなたが心から反省して真の教養を身に付けるまで、あなたは永久に下っ端です!」
 マリアンヌは人差し指をジェイスの鼻先に突きつけて言った。
「……あー、はいはい、どうせ俺は無教養な下っ端ですよ! 名家の出身でもないし、大学出の優秀な皆さんと違って士官学校上がりの凡人ですからね!」
 ジェイスが投げやりな態度でマリアンヌに返し、テーブルの上のグラスを煽る。
「士官学校?」
「国王軍の幹部を養成するための全寮制の学校だよ。生徒は全員、入学と同時に陸軍兵士の資格を得て、一般で学ぶような教養に加えて兵士としての訓練を受けるんだ。」
 耳慣れない単語にアスティが聞き返すとヨルンが教えてくれた。
「国王軍の幹部……じゃあ、ジェイスさんは優秀な方なんですね!」
 アスティが言うと、ジェイスが首を振った。
「あー、その反応、完全な誤解! 優秀さで言ったら大学出てるこっちの皆さんの方が圧倒的に上だよ。」
 ジェイスは手のひらでゴートンたちを示しながらため息混じりに言った。
「今時、士官学校なんて人並みの体力さえあればどんなバカでも入れるんだ。国王軍の幹部っつったって、戦時には王宮騎士団の指揮下に入る仕組みだから、最大限出世したって冴えない中間管理職だよ。全寮制の食事付きで学費不要な上に給料まで出るから、俺みたいに貧乏な家に生まれて頭の出来もあまり良くない人間にはいい食い扶持だけど、訓練はきついし、その割に給料低いし、万が一戦争になれば最前線で戦車乗って敵陣に突っ込むか、小銃担いでお偉いさんの弾避けになった挙げ句、真っ先にあっけなく死ぬのが仕事なわけで……優秀な人間はまず選択しない進路です。」
 ジェイスがきっぱりと言い切る。
「……死ぬのが……仕事?」
 アスティは驚いて、ぎゅっと右手の拳を胸の前で握った。ジェイスは笑いながら話していたが、アスティは笑えなかった。家が貧乏なために大学に行けず、士官学校に入って厳しい訓練を受けながらろくに給料ももらえず、戦争になったら真っ先に死んでしまうだなんて、あまりにも悲しい。
「ジェイスさん……。」
 ついこの間のムリクとの別れを思い出し、熱いものがこみ上げてくる。視界が微かに揺れたのは、両目に滲んだ涙のせいだ。
「あ、いや、戦争になったらって話ね! 今のとこ、エウレールは平和だし! それに、万が一戦争になったとしても、俺はもう陸軍から騎士団に所属替えになってるから、前線に出ることはそうそうないよ!」
 アスティの動揺に気付いたのか、ジェイスが慌てた様子で言い足した。アスティは少しだけほっとして微笑み返したが、それでもなお、胸中の不安は完全には消えなかった。騎士団の所属替えになったジェイスが前線に出ることはないとしても、一度戦争になれば、誰かしら戦地へ赴くことになるのだ。厳しい訓練を受けて士官学校を卒業し、騎士団には入れなかった誰かが……。アスティは背筋にぞくりと悪寒が走るのを感じた。
「ジェイスは家族を養うために早くから働こうと士官学校を選んだんだよね? 小さい弟や妹を学校に行かせてあげるために、さ。僕、ジェイスのそういう家族想いなとこ、尊敬するなあ。」
 ヨルンがにこにこと微笑みながらジェイスに言う。
「別にお前に尊敬されてもね……。」
 ジェイスは素っ気なくヨルンに返すが、頭をかきながら視線を落としたのは照れくささもあるのだろう。
「ジェイスさんにも御兄弟がいらっしゃるんですね。」
「ああ。弟と妹が三人ずつで、七人兄弟なんだ。おかげで、親父とお袋が全力で稼いでもあっと言う間に金が食費に消えていくってわけ。」
 アスティの問いに、ジェイスが苦笑して答えた。
「七人……ですか。」
 確かにそれは多い。東の森の集落がまだ賑やかだった頃でも、七人兄弟というのは会ったことがなかった。
「まあ、士官学校に行ったのは、単に大学の奨学金取るには成績が桁違いで足りなかったってのが最大の理由だけどな!」
「論外だな。バカにもほどがある。」
 ジェイスが笑うと、カーディアルが遠慮なく断じた。
「だからさっきからそう言ってるじゃないですか! 俺は自分がバカだと悟る程度には賢いんです!」
 ジェイスはカーディアルに言うと、腕組みをしてぷいと横を向いた。
 カーディアルは論外だと言ったが、大学の奨学金を取ることは決して容易なことではない。アスティのいとこのティムは、幼い頃から集落の子供たちの中では飛び抜けて優秀だと言われていたが、それでも王都の大学に進学するのための奨学金を得ることはできなかった。それでやむなく、ティムの両親であるトールクとメリルは、政府の移住勧奨に応じることで支給される給付金を学費に充ててティムの大学進学の夢を叶えようと、家族で東の森を出たのだ。
 奨学金を得て大学に進学できるのは王都でもほんの一握りの人々と聞いている。奨学金を貰えなかったからといって、バカとは限らない。少なくとも、ジェイスはアスティよりもずっと物知りで賢そうだ。
「確かに、現状、士官学校生の社会的地位は高くありませんけど、ジェイスの場合はその士官学校での頑張りを認められて騎士団に入団したわけですから……。士官学校枠での採用は数年に一度あるかどうかですし、イニスさんがわざわざ指名して引っ張ってこられたんですもの、優秀な方なのは間違いないと私は思いますよ。」
 キュエリが微笑んで言うと、ジェイスが照れくさそうに頭を掻いた。
「イニスさんがジェイスさんを指名したんですか?」
 アスティが、いつの間にかみんなの輪から離れて食堂の壁際に寄っているイニスを振り返ると、脇からヨルンが答えてくれた。
「王宮騎士団は、通常の採用試験のほかに、士官学校の生徒を対象とした特別な採用試験を毎年やってるんだ。戦時には国王軍は騎士団の下部組織として機能するから、多少は人的交流があった方が良いって趣旨でね。もっとも、試験は毎年やってるけど、実際にそこから合格者が出るのは数年に一度のあるかないかの狭き門。そもそも受験できるのも士官学校長の推薦を受けた成績上位者に限られてるんだ。で、ジェイスは、成績はあんまり良くなかったんだけど、観閲式の時に——あ、観閲式っていうのは、国王軍の訓練を騎士団長が視察する行事のことなんだけど、その時にイニスさんが演舞として剣技を披露することになって、たまたまジェイスがその相手をすることになったんだよね。それでジェイスの実力に気づいたイニスさんが、わざわざジェイスを指名して採用試験を受けさせて、ジェイスは見事に合格したってわけ。」
「じゃあ、やっぱり、ジェイスさんは特別優秀な方なんですね!」
 ヨルンの解説に、アスティは両手を打って声を上げる。
「いや、全然。俺より優秀な奴は士官学校にも他に大勢いたし、観閲式での試合だって、俺は一方的に攻められ続けた挙げ句、俺は体力持たなくてダウンしたのに、イニスさん、涼しい顔してたし……。その後他の奴とやった時には剣の構え方とかアドバイスしてんのに、俺には何も言ってくれなかったし……。」
 ジェイスは肩を落としてため息を吐いた。
「それは何も言うことがないくらいジェイスがすごかったってことじゃ……。」
「んなわけあるか! 悔しいから最後にもう一度手合わせ頼んだら、一瞬で勝負決まったんだぞ! 一太刀目をすんでのところで避けたと思ったら次の瞬間首筋に切っ先押し当てられてて……ほんと死ぬかと思ったんだからな!」
 ジェイスは涙目になってヨルンの胸ぐらを掴み上げた。イニスとの試合でよほど怖い思いをしたらしい。
「そ、それは大変だったね……。」
 ヨルンが強ばった笑顔でジェイスに返す。
「……ふぅん、なるほどな。そりゃなかなか面白れぇ話だ。なあ、カーディアル?」
 ゴートンが鼻を鳴らして笑い、興味深げにカーディアルに目配せした。
「別に。私は全然面白くない……。」
 カーディアルはなぜか不機嫌そうにゴートンに答え、手にしていたグラスの酒を一気に呷る。
「ゴートンさん、何が面白いんすか! あの時、俺は本当に死に掛かったんですよ!」
 ジェイスがゴートンに向かって抗議する。
「……あのなあ、別にイニスだってバカじゃねえ。士官学校の生徒を本気で斬り殺したりしねぇよ。」
 ゴートンが呆れた調子で言った。
「そりゃあ、そうかもしれませんけど……。」
「それに、俺が面白れぇって言ったのは、体力尽きるまでお前がイニスの太刀を避け続けたってことだ。士官学校の演習なら使ってたのは訓練用の模擬刀だろう? イニスが他の奴らの相手をしていた時は、何太刀か受けてやった後、手首でも叩いて一瞬で剣を取り落とさせてたんじゃないか?」
「……まあ、大体そんな感じだった……かも。」
「たぶん、最初にお前とやった時、イニスは一太刀目で勝負を付けるつもりだったと思うぜ。士官学校の生徒相手に本気を出しちゃいないだろうが、少なくとも避けられるなんて思ってなかったはずだ。それが予想に反して避けられちまったもんだから、剣速に緩急付けながらお前がどれくらいまで避けられるのか試してみたってとこだろうな。」
「そっか! じゃあやっぱりジェイスはすごいんだよ!」
 ゴートンの解説に、ヨルンが歓声を上げる。
「でも、あの時、イニスさんは、へばって倒れ込んだ俺に向かって『なんだ、反撃の一つもしないでもうおしまいか』って……完全に俺のこと見下してましたよ? それで悔しくて最後にもう一度挑んだら、今度は一瞬で終わりましたし……。」
「見下されたって……そりゃそうだろ。天下の騎士団長が士官学校の生徒ごときを尊敬の眼差しで見上げるなんてことがあるとでも思ってんのか? まあ、二回目は、一回目で実力が分かったから早々に切り上げたんだろう。いくらあいつがお人好しでも、散々他の生徒の相手をした後で長丁場の試合なんかしたかねえだろうからな。」
「でも俺、騎士団に入ってからもイニスさんに勝てたこと一度もないですし……。」
「当たり前ぇだ! てめえがイニスに勝つなんざ天地がひっくり返ってもあり得ねえんだよ! 人並み以上ってだけで満足しろ!」
 ゴートンがゴツンとジェイスの頭上に拳を落とす。
「痛ってー!」
 ジェイスがうずくまり、悲鳴を上げた。
「いずれにしても、イニスがわざわざお前を指名したからには、それなりの実力を見込んだんだろう。そうでなければ筋が通らん。王宮騎士団は貧乏人に食い扶持を与えるための扶助組織ではないのだからな。」
 カーディアルは言いながら、新たに酒を注ぎ足したグラスに口を付ける。
「けど俺、騎士団に入った後も、イニス団長には訓練の度に親の敵かってくらい集中的にしごかれましたよ? 士官学校より給料が上がっただけマシだけど、実力を認められてるとはこれっぽっちも思えません。」
 ジェイスが頭頂部を押さえながらゆっくりと立ち上がり、呟く。
「イニスさんがジェイスさんに厳しくされるのは、きっとジェイスさんならまだまだ伸びると期待されているからじゃないですか。」
 キュエリが微笑んで言う。
「いや、それだったら、俺は何にも期待されずに優しくされる方が良いよ……。」
 ジェイスがひきつった笑みを浮かべながらため息混じりに漏らす。
「じゃあ、そう直接イニスさんに言ってみれば?」
「まあ、そうだな……って、バカ言うな! んなこと言って余計に厳しくなったらどうすんだ!」
 ヨルンの提案を一蹴して、ジェイスが叫んだ。
「ここ最近、イニスさんは全体訓練に出てこねえし、わざわざ藪蛇になるようなことするかっての。ただでさえ何考えてんのか分かんねえ人なのに、うっかり怒らせて人生終わりになるなんて御免だね。」
 ジェイスは声を潜め、ちらりと壁際のイニスを見て、大きくため息を吐いた。イニスは相変わらず、独り食堂の壁にもたれたままぼんやりとしている。
「えー、そんなに心配しなくても、僕は、イニスさんって結構単純で分かりやすい人だと思うんだけど。」
「ど、こ、が? パーティの最中に一人壁際で腕組みして黙り込んでる人間の一体どこが分かりやすいって言うんだよ!」
 ジェイスは背後のイニスを指さしながらヨルンに詰め寄る。
「えー? 分かりやすいじゃない!」
 ヨルンはジェイスを押し返しながら平然と答える。
「ほほう……じゃあ、今、イニスさんが何考えてるか言ってみろ!」
 ジェイスはヨルンに人差し指を突きつけて命じた。
「そりゃあ、テーブルの上にまだ美味しそうな料理が残っているのを見て、もう少しお肉を食べようかな、それともお魚にしようかなって考えてるんだよ!」
 ヨルンが答えると、ゴートンが腹を抱えて笑った。
「……あり得ねえ。」
 ジェイスが大きなため息と共に漏らす。
「えー、当たってると思うけどなあ。イニスさんに確かめてこようか?」
「やめてくれ。下手に怒らせたら俺まで斬り殺されかねない。」
 イニスの方へ歩いていこうとしたヨルンの首根っこをジェイスが掴んだ。
「当たってるよ、絶対。」
 振り向いたヨルンが真面目な顔でジェイスに言う。
「うん、分かった。とりあえずお前はしばらく黙ってろ。」
 そう言うと、ジェイスはチェルベリーパイを一切れ掴んでヨルンの口に押し込んだ。ヨルンは一瞬驚いた表情を浮かべたものの、黙ってもぐもぐと口と口を動かす。膨らんだ頬は不満の表明というよりも、単にチェルベリーパイが詰まっているせいのようで、アスティは隣のキュエリと顔を見合わせて小さく笑い合った。

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