関係ある
好きな人が、僕以外の人と付き合った。
『ペンが無いの? はい』
あれは高校入学初日、教室で色んなものに名前を書いておくよう先生に言われて、瀬山彰と書こうと筆箱を漁っていたら消しゴムとシャーペンの芯しか出てこなかった。
前日に新生活と同時に色んなものを新しくしようとして、新しい筆箱に細かいのから入れて、ちょっとトイレに席を立ってそのままだったのをあとで思い出した。
いつまでも響く筆箱を漁る音に、忍び笑いがそこかしこで起こった。
そんな居たたまれなくなっていた僕に、隣の席の彼女はペンを差し出しながらそう言った。『二本あるから』 笑いながら言う彼女――立川泉に、僕は恋に落ちた。
その彼女が、学校一のイケメンで社長の息子とかいう評判の同級生、越野涼一と付き合った。
「あれ? 瀬山、お前知らなかったの? 何でも越野が電車で痴漢に合ってた立川を助けたんだってよ。 で、立川から告白したらOKされたんだと」
昼休みに仲良く話す泉さん達を見て、「あの二人、最近仲良いな」 とクラスメートに言ったら、そう返ってきた。
抜けてるやつ、とはよく言われたけど、この時ほどその性分を呪ったことはない。
もう少し早く気づいていれば、もしその場にいたのが自分だったら……。そうは思っても、結果はもうこうなってしまった。ただ隣の席なだけの平凡な男子と、痴漢から助けてくれたイケメン男子。
比べるような話でもない。
人生初の失恋に凹みつつ、恩人であり想い人である泉さんの幸せを祈る。嫉妬でささくれるよりは、認めておめでとうと言いたい。……僕にもプライドがある。
違うクラスの二人が、廊下や合同体育で触れ合うのを見るたびに胸が痛むけれど、いつかは風化して、心から祝福もできるようになるだろう。それまでは……遠くから見つめるくらいは許してほしいものだ。
◇◇◇
しかし人生何が起こるか分からないものだ。僕が聞いた時には付き合いたててで幸せそうな二人だったが、三ヶ月経ったこの頃、泉さんの様子がおかしい。いつも笑顔だったのに、ここのところずっと沈みがちで、忘れ物も多くなって先生に叱られている。あれだけ一緒だった越野とも最近離れているようだ。
何か悩みでもあるのだろうか? ペンのお礼もあるし力になりたいけれど、恋人いるのに迷惑になるかもしれないし……。僕も引きずられるように塞ぎがちになったころ、その原因が廊下を歩いていた。
お昼に購買まで歩いていたら、廊下で越野涼一が派手なギャル系美女と腕を組んで歩いていた。
一瞬動転したが、もしかしたら当番で一緒だっただけとか、親戚とかと思い直してみる。
いや、当番が一緒なくらいで、彼女持ちと腕を組むだろうか。親戚だったら、越野は学校一の有名人なんだから一緒に有名になっていないとおかしい。何せ越野はイケメン金持ちの彼女の座を狙う女達に、小学校時の文集まで話題にされるような男だったからだ。あれはさすがに同情した。
とにかくこんなところを泉さんが見たら……僕はできるだけ自然を装いつつ、越野に探りを入れた。越野は人気もあったから、モブに気安く声をかけられることくらいは日常茶飯事だろう。
「よう越野。あれ、その可愛い子誰?」
「彼女だけど」
浮気している男なら「身内」 「親戚」 「友人」 くらいの言い訳になるだろうかと思ったが、越野は悪びれる様子も無く即答した。あまりの堂々ぶりに逆に僕が動揺した。
「……え? いや、はは。冗談だろ? お前立川さんと付き合ってるって聞いたけど……」
こっちとしては本気で冗談だと言ってほしい。そんな横の女的にはどうでもいいことに絡む僕に、ギャルは不愉快そうにこっちを睨んでくる。僕だって泉さんの件がなければ関わっていない。
「これ浮気だから。もういい? 彼女が退屈してる」
「あ、おい!」
「今日はどこ行く? 奢るよ」
「ミナ、ブランドバッグがほしいな!」
越野は僕を無視して、ミナとかいうギャルと歩いていった。僕はお昼を買うのも忘れてしばらく呆然としていた。
……あいつ、何様なんだ? イケメンだから何をしても許されると思ってるのか。本気で好きなら浮気なんかしないよな。泉さんを何だと思ってるんだ。浮気は堂々と言うものじゃない! 好きなら大事にはしても傷つけることなんかしない!
僕は越野を悪人と位置づけると、泉さんを呼び出し、人気のない裏庭でお昼にあった件を全て話した。きっと泉さんは何も知らない、越野が他の女にうつつを抜かして冷たくなったのを苦しんでいるんだろうと思っていたからだ。
「知ってるよ」
越野が浮気していた、そう伝えた僕に泉さんはそっけなくそう言った。知っていてどうして許しているのかと聞くと、彼女は俯いて、何かに耐えるように言った。それは、とても幸せそうには見えない様子だった。
「ミナさんに会ったのよね?」
僕は黙って頷いた。
「彼女、涼一くんが好きなんだって」
それは見れば分かる。人前で自分のものだと言いたいかのようにべたつくあの姿には、恐怖すら覚えた。
「ずっと見ていたのに、高校まで追っかけてきたのに、私に盗られたって」
……分からないでもないが、もう脈がないんじゃないだろうか、それは。
「それがつらかったから、私に当たった、って」
泉さんはその内容には触れなかった。触れないくらいだから、軽いものだったのだろうと僕は思った。
「それで悩んでいたら、涼一くんが説得してくれてね」
まあ、それは彼氏として当然の流れだ。落ち込んでいる彼女に何もしないとか考えられない。僕だったら……何とか力になりたいと思う。あいつもそうだったのか? なら何故あの女と……。
「そうしたらミナさんに、三ヶ月でいいから付き合ってほしいって言われたって」
何だそれ。
「涼一くんは、私を守るためにそうしてくれているの。だから瀬山くんは心配しなくても大丈夫」
そう言って、彼女は黙った。僕は――問わずにはいられなかった。
「分からないよ。どうしてそれが君を守ることになるの? 傷つけてるじゃないか。堂々と女の子といちゃついて、君を悲しませてるじゃないか。守るため? 嘘だ、あいつのやってることはただの浮気じゃないか!」
「だって涼一くんだって更衣室の中まで守ってくれるわけじゃないもの! 涼一くんがこうしてくれてから、私物を隠されなくなった、悪口を言われなくなった、二人組みだって出来るようになった。……ちょっと寝取られ女ってこそこそ言われるくらい、前と比べれば天国だもん。涼一くんがこうしてくれて、私は……助かったの。涼一くんは三ヶ月後には戻るって言ってる。本命は私。だから、涼一くんは何も間違ってないの……」
泉さんは、ほとんど叫ぶように、泣きながらそう言っていた。僕にはただ虚勢を張っているだけにしか見えなかったけど、それを指摘するのも憚られた。彼女がそれに縋っているように見えたから。
「分かったでしょ。涼一くんは何も悪くないの。だから……関係ない瀬山くんはこれ以上首を突っ込まないで」
◇◇◇
泉さんには拒否されたけど、納得いかない僕は単独であのミナという女に接触した。適当に髪や顔やらを褒め、不本意ながら泉さんをけなすと、彼女はノリノリで色々と話してくれた、
「でさ、女の子のハジメテって特別じゃん? そういうのは特別な人にあげたいじゃん? ミナ、絶対に涼一くんが初カレって決めてたの! でもあの泥棒猫が横から盗ったじゃん? 図々しいよねー! だからちょーっとイロイロ教えてあげたの。そしたらあの女、涼一くんに告げ口して卑怯よね! でもミナがあの女が全部悪いんだよ? って涼一くんに教えたら、涼一くん私と付き合ってくれたもんね! 三ヶ月? そんなの守る気ないし。ってか泉って、今でも涼一くんのこと……見てます……的なオーラ出してて『私の気持ちに気付いて』 ってのがキモイみたいな!! 経過がどうあれ今付き合ってるのはミナなんだから! なのに『涼一くんの本命は私』 とかハァ!? 勝手すぎるっ! ホントがっかり! あんなのに嫉妬してたのかと思うとなんだかミナ悔しくて……情けないってゆーか?」
何か色々言っていたけど、とりあえずスイーツなのは分かった。悲劇のヒロインぶっているが、悲劇のヒロインは「ちょっと、貴女の提出物がまだよ」 と注意しにきたクラス委員に「うっせーナチュラル気取ったすっぴんブス」 とは言わないと思う。
とりあえずミナが良くも悪くも自分大好き単純な性格なのは分かった。僕が理解できないのは、むしろ越野のほうだ。隙を狙って、クラスに一人でいる越野をつかまえて問いただす。
「泉さんが可哀相だ。彼女を守るために他の女と付き合うって何だよ」
越野は冷めた目で一瞥し、そっぽを向いて答えた。
「これが最善なんだ。関係ない人間は黙ってろ。それにあと二ヵ月すれば、泉のもとに戻れる」
「あの女が逃がすと思うか。それに泉さんを守りたいなら、もっと別の方法だってあったはずだろ」
「別の方法? 親の権力と金で転校でもするか? それともミナを潰すか? その親を潰すか? それを泉は喜ぶのか? 何も知らないくせに……。自分の力だけで何とかしようと思ったら、これが精一杯だった。あいつの腐ったプライドを満足させてやれば、泉は酷くされないっていうならそれで俺だって我慢する」
「だけど……けど、お前が、よりによってお前が傷つけるのはどうなんだよ! バカ野朗!!」
僕は、越野が守るためとか言いつつ他の女もつまみ食いしたくて浮気してるんじゃないかと思った。しかしあいつの話を聞いて分かった。他の手段も考えた上での浮気。確かに、それらの手段を取ったら優しい泉さんは悲しむだろう。
けど、好きな人が他の異性といるだけで悲しいのが嫌というほど分かる僕には……。
◇◇◇
下校途中、先を歩く泉さんは不機嫌そうだった。確かに今の方法を否定する僕は耳に痛いだろう。それでも言わずにはいられない。
「間違ってるよ。立川さんが傷つかないはずないんだから」
「私は納得してるから」
「好きな人が異性と歩いていて何も思わないって?」
「仕方ないことなの! ほっといてよ!!」
「立川さん、ミナと越野が付き合いだしてから笑わなくなった。怒ってる姿が多くなった」
「うるさい! 関係ないでしょ!!」
「関係ある!」
思わず僕まで声を荒げて言った。そこでようやく泉さんは振り向いた。関係があると言われて何のことか分からないのかきょとんとしていた。
「……僕は、立川さんが好きだから、見ていられない。好きな人が別の異性と笑っている姿を見るのがつらいって知ってるから、そんなことをする越野が許せない。それだけは、関係ある」
しばらくぽかんとしていた泉さんは、不意に口の端だけで笑って、寂しそうな声で言った。
「そう、だったんだ。なんだ……。てっきり、他のクラスメートみたいに、人の不幸が面白いと思って言ってくるのかと思ってたのに……。ごめんね。でも、もう無理でしょ。私、いっぱい瀬山くんに当り散らしちゃった……」
「そう? それなら少しは、立川さんの気が紛れたかな」
「瀬山くん、バカでしょ」
泉さんは笑ってそう一言呟くと、彼女は堰を切ったように泣いた。ハンカチを差し出そうとしたら、彼女は急に抱きついてきた。
「もう嫌だ」 「嫉妬に自己嫌悪するくらいなら、別れて楽になりたい」 「モテる人は苦しいだけ」
これまでの彼女の苦しみが想像しか出来なくて、僕はただ子供をあやすように、彼女の背を撫で続けた。
◇◇◇
「別れましょう」
あくる日、僕は彼女になった泉と一緒に、ミナを連れ歩く越野に会った。人気のない廊下、僕がいるのが不思議そうな様子の越野だったが、横の泉が落とした爆弾がやつの顔から表情を奪った。
「……え?」
「越野くんには、きっともっといい人がいると思う。私は力不足だから。それに、私も彰くんと浮気しちゃったし。これでおあいこってことで」
「な、泉……」
横のミナが機嫌を悪くするのにも構わず、泉に手を伸ばそうとする越野に向かって、僕は守るように立ちはだかる。
「越野、僕には上流のことなんて分からないけど……お前といる泉が不幸だってことくらいは分かるよ。悪い」
それだけ言って背を向けて足早に歩いて去る。少しだけ、悪いことしている自覚があった。親にも金にも頼らないで解決しようとしてああなったということは、僅かに結果的に寝取りをした自分の罪悪感を刺激する。何か言われたら受けて立つ覚悟だったが、意外にも越野は僕達がいなくなるまで何も言ってこなかった。……泉のこと、所詮それだけしか思ってなかったのか。
◇◇◇
瀬山と立川の二人が去ったあと、ミナは大喜びで越野に抱き着いた。
「リョーイチくん! 今の酷かったねえ! 純情ぶっておいて、何よ浮気してやんの! ねえ、それに比べてミナは一途……」
ミナが全部言わないうちに、涼一はミナの顔面に肘打ちをした。何が起こったのか理解できず、顔を抑えてうずくまるミナを瀬山は冷ややかな目で眺めていた。
「俺は都合のいい彼氏をやってやったのに、お前は都合のいい彼女にはならないんだな」
「う、ぅう……何が……」
「俺の好みは黙って耐える女だ。お前は最初から対象外。泉がいなきゃ知り合ってもいなかった。この交際だって、泉をこれで守れるならと、吐き気を堪えて演じてやったのに……」
それだけ言うと越野は振り返ることもなく去ろうとした。離れていく気配に勘付いて、ミナは慌てて顔を片手で抑えながら追う。
「待っで! ホントに好きなの! 捨てないで――――!!!」
この騒ぎを聞きつけて、ミナのクラスの委員長が走ってきた。明らかに機嫌の悪そうな涼一と、顔に怪我を負いながら縋りつくミナをみて、彼女は事情を察して――ミナを嘲笑った。
「やだ、涙でマスカラ滲んでパンダ目。口紅なんか鼻まで描いちゃったの? だっさあい! 男にまで捨てられて、化粧厨なんてこんなものよね」
異常な事態を遠巻きにして見ていた幾人かには眉を顰められたが、委員長は満足だった。憎い人間を傷つけようと思ったら、そいつが落ち込んでいる時に追い打ちかけるに限る。私だって何もされなければ何も言わない、それだけのことされたから言ってるのだ。彼女はそう信じていた。
結果、委員長は高校三年間友達が出来なかったが、それでも鬱陶しいミナが暴言ぶつけてくることもなくなったので、本人は満足だった。
◇◇◇
瀬山彰と立川泉の二人は、「結局釣りあいの取れる人間同士で付き合った」 と、概ね好意的に受け取られた。弱っている泉に付けこんだと非難されるかと思っていた彰はホッとした。
「彰くん、お弁当作ってきたの。食べよう」
「うわあ、楽しみ。じゃあ中庭行こうか」
それから二人はほのぼのした毎日を送っている。唯一の不安は――。あのクラスを通りすぎる時。
「……」
その時に浴びる、元カレの殺意のこもった視線だけだ。