僕の家族のコッコさん つヴぁいッ!(44/70)PDFで表示縦書き表示RDF


リミッター解除。そういうわけで美里さんルート。
ロックンロールという言葉には休息と休養という意味もあるけれど、この場合は弾け飛ぶようなイメージでよろしいかと存じます(笑)
僕の家族のコッコさん つヴぁいッ!
作:田山歴史



第三十四話 彼女と彼女のR&R(ロックンロール)


 いつかきっと追いつかれる。
 そんなコトはとっくに分かっていた。


 洒落にならない話をしよう。
 来るべき時が来たと考えるのが自然か、あるいは来なければいいと願っていたのか。
 楽観していたわけでもなく、『その程度なら許容範囲だろう』と思っていたわけでもない。最悪の事態は想定していたつもりだったし、心構えもしておいた。
 ただ、一つ誤算があるとすれば、それはきっと『母親』というものを侮っていたからに他ならない。
 コトの起こりは単純なことで、毎日放課後にやってきては僕に組み手の指南を頼んでくる美咲ちゃんが、今日に限って時間通りに来なかった。待てど暮らせど美咲ちゃんはやって来ず、仕方なく僕は自主練習を始めた。
 まぁ、ちょいとやりすぎたかもしれないと思わなくもない。本気でやったためにうっかりミスで女の子の顔に傷をつけてしまったのも、悪かっただろう。
 昨日やった組み手は前回のような手を抜いたものとは違う。正真正銘、本気で、真正面から美咲ちゃんを叩きのめした。
 小学生に本気になる高校生がそこにいたわけだけど、そのあたりは考えてはいけない。
 完全無欠に叩きのめして、これ以上なくぶちのめして、それでも立ち上がる気があるんだったら、章吾さんを助けようと思うんなら、自分に対する甘えを全部捨てろと言い放って昨日の練習は終了した。
「……今日は、殺される覚悟を決めて来たんだけどな」
 ペシペシと負担にならない程度にサンドバッグを叩きながら、僕は思い出す。

 闘志がそのまま形になったような彼女は、倒れて鼻血を流しながらも真っ直ぐに僕を睨みつけていた。

 あの目を見て『逃げ出した』とは到底思えない。
 真っ直ぐに挑みかかる闘志。まるで獣のように俊敏な手足。技の鋭さも極上。単に体力が追いつかないだけ。
 あと四年もすれば、それらの問題は全て解決されるだろう。
 ……もちろん、日々の生活を営む上では、格闘能力なんて不要だろう。
 けれど、美咲ちゃんにはそれが要る。必要な理由がある。なにをしてでも助けたい、そういう人がいるから。
 もしも培ったことが役に立たなくても、なにもせずにはいられない理由がある。
「……でも、今日は来てないよなぁ」
 理由を捻じ曲げなければならないことがあったのかもしれない。
 たとえば、いきなり章吾さんに興味がなくなったとか。
 たとえば、

「ああ、坊ちゃん。こちらにいらっしゃったんですか?」

 ……理由を凌駕するなにかに、行く手を阻まれたとか。
 道場の入り口には、美咲ちゃんの授業参観とかで欠勤のはずの美里さん。
 その美里さんに手を引かれているのは、ものすげぇ不機嫌そうな顔で俯いている美咲ちゃんだった。
 美里さんの頬には湿布、ついでにあちこちに絆創膏。美咲ちゃんに至っては僕が殴った痕跡以外には傷はないけれど、恐らく『傷』なんて直接的なものよりも、余程恐ろしい目に遭ったであろうコトは言うまでもない。
 美里さんはにっこりと笑う。
「とりあえず、虐待で訴えられたくなかったら、今すぐに話をする時間を作ってもらえませんか?」
 それはまるで死刑宣告のようだった。
 その場で土下座しそうになりながらも、僕は無言で頷く。
 さてさて……どうやら、まずいことになったらしい。


 場所を執務室に移して、美里さんの話を聞くことにした。
 まぁ、美里さんの言っているコトは正論で、僕としてはお手上げの状況だった。有象無象の自称『母親』のように感情的にはならず、理性的かつ理論的なお説教をしてくれた。
 美咲ちゃんと武術の真似事をするのは構わないが、それで大怪我をしたらどうするのか、とか。
 武術の師範もおらずに、高校生と小学生でまともな訓練ができるのか、とか。
 成長期前の体に無理をさせて取り返しのつかないことになったらどうするのか、とか。
 ……決して感情的にはならず、こちらの欠点を突きまくる正論。そんなものに立ち向かおうとするのは、そりゃ我を通すわがまま以外には存在せず、そして僕にはわがままを通す理由がない。
 美咲ちゃんには理由があるけれど、僕には理由はない。
「じゃれ合うのはかまいません。体を鍛えるのもいいでしょう。……ですが、今回のはちょっとひどすぎます」
「……はい、反省してます」
 反論せずに謝っておく。ちらりと美咲ちゃんを見ると、ものすげぇ不機嫌そうな顔のままだった。
 んー……そういう顔をしてると、美里さんの機嫌は一向に良くならないんだけどなー。
「とりあえず、道場に通うのはしばらく禁止させます。……美咲ちゃんもそれでいいわね?」
「でも、ママ。私は……」
「美咲ちゃん」
「………………」
 名前を呼んだだけで、やんちゃな小学生を黙らせる主婦の眼光は、どんなモノよりも禍々しく鋭かった。
 あー……おっかねぇ。今すぐ土下座できたらどんなに気分はラクだろうか。
 ちらりと美咲ちゃんを見て、少しだけ頷いておく。美咲ちゃんは悲しそうにしていたが、それで口を閉ざした。
 ちょっと大人しくしておけば、美里さんの怒りも収まるだろう。しばらく道場で訓練をすることはできなくなるだろうが、今下手に怒りを買えば、二度と道場には踏み入らせないという話の流れにもなりかねない。
「……や、本当にすみませんでした。あまりの技の鋭さに、思わず本気で殴り返しちゃいまして」
「そりゃそうですよ。美咲の護身術は私が仕込んだんですから。いざという時に相手の指くらい平気でへし折れるようになっておかないと、『護身』とはいいませんからね」
「………………」
 自分の身が守れるなら、相手の身は基本的にどーでもいいらしい。
 まぁ、それはそれとして、だ。今は美里さんのご機嫌を取る方が優先されるだろう。
 少し考えて、僕は無難な話題に切り替えることにした。
「あー……ところで、話は変わりますけど美咲ちゃんって来年から中学校ですよね? やっぱり、公立ですか?」
 美里さんが住んでるアパートに引っかかる学区といえば、僕の通っていた中学校がある。
 あそこはある意味激しい校風の学校だけど、美咲ちゃんなら大丈夫だろう。ただ、問題があるとすれば美咲ちゃんがその中学校に進学するとなると、陸くんの後輩ということになることだろう。
 美咲ちゃん、絶対に面白半分でからかいに行くぞ。っていうか、多分間違いない。
 絶対に学校じゃ猫被ってるからなぁ、陸くん。見栄っ張りというか、ささやかなプライドというか。
 そんなものはとっくの昔に香純さんにボロッボロに砕かれているかもしれないけれど、あの子はあの子で節度を弁えている。学校じゃ無茶苦茶はしないだろう。
 ……が、美咲ちゃんにそんなリミッターは存在しない。
 僕がささやかなプライドも爆破されて泣きそうになっている陸くんを想像していると、美里さんは予想外のことを口にした。

「いいえ、美咲は全寮制の女学校に通わせるつもりです」

 唖然とした。ちらりと美咲ちゃんを見ると、美咲ちゃんも唖然としていた。どうやら彼女も初耳らしい。
「ママ……どういうこと?」
「どうもこうも、ママはそういうつもりってだけのことよ? 公立高校なんかでダラダラ勉強してたら、惰性で勉強なんてどーでもいいじゃんみたいな考えになっちゃうでしょ? そういうのはよくないわ。それに、そこの女学校だったらちゃんと勉強さえしてればエスカレーター式で大学まで、やる気があれば大学院まで行けちゃうし。……それとも、美咲ちゃんにはそういうメリットに目を瞑って、覚悟と決意を示せるだけの『やりたいこと』があるのかしら? あるんなら、ちゃんと事前に申告してくれるとママ助かっちゃうんだけどな♪」
「………………」
 やべぇ。これは、正直かなりまずい。
 美里さんの笑顔は、笑っているようでこれっぽっちも笑っていない。
 どうやら、美里さんは美咲ちゃんの『理由』というやつを薄々感づいているらしい。
 その理由が、まだ幼く小学生である彼女の生活そのものを一変させようとしていることも、知っているようだった。
 これは……どうするべきだろうか。確かに美咲ちゃんの決意したことは、きっと正しいことなんだろう。章吾さんが好きだという気持ちもきっと確かなものなんだろう。美咲ちゃんにはそれを確信させるだけの実行力がある。
 けれど、人道的な正しさだけじゃ世界は回らない。

 人を助けることは是とされることだろうケド、自分を犠牲にしてまで是であるはずがない。

 人のことは言えないけれど、まさにそれを舞さんに指摘されたけれど。
 この子が……僕のようになる必要はどこにもないんじゃないだろうかと、そんな風に思ってしまう。
 たとえ美咲ちゃんが望んでいたとしても、それが本当正しいとは限らないから。
 他人(ひと)にとってではなく、自分にとって正しいとは限らない。

「らしくない顔してるねぇ、二人とも。いつもの威勢はどうした?」

 と、その時。不意に、いきなり、聞き慣れた声が響いた。
 振り向くと、僕がいつも座っているデスクに、京子さんが堂々と座ってお茶を飲んでいた。
「……あの、京子さん? いつからそこに?」
「いつからと言われたら、『最初から』としか答えようがないね。坊ちゃんにちょいと用があってね、ここで待ってたらなんだかややこしい話を始めたじゃないか。こみ入ったことに巻き込まれるのは嫌だからね、隠れてたってわけだ」
「正しい判断です」
 僕だってこみ入った話に巻き込まれるのは嫌だ。今だって逃げ出したいくらいだ。
「でも、じゃあなんで京子さんは巻き込まれるのを覚悟で声をかけちゃったんですか?」
「むかついたから」
 よっこらしょっととおばさんくさい掛け声と共に、京子さんは立ち上がる。
 そして、射抜くような視線で美里さんを見つめた。
「……美里。アンタの言ってることは正論だ。子供にとってはちょいと重荷になるくらいにね」
「そうかもしれませんが、今の社会はそんなに甘くありません」
「しれません? ありません? なるほどねぇ……アンタはそうやって生きてきたわけだ」
 なんだろう。肌がちりちりする。
 背筋が凍える。耳鳴りがする。次の瞬間には殺されているような気がする。京子さんは基本的に腹の立つことには鉄拳で立ち向かう人だけど、なんだか……今は本当に違う気がする。
 京子さんはにっこりと笑った。その笑顔は、とても、とても悲しそうで。

「逃げたくせに、子供には理想を押し付けるんだね、アンタは」

 とてもとても、信じられないくらいに怒っていた。
 美里さんの顔が強張る。それはきっと、言われたくないことだったから。
 京子さんは笑ったまま、嘲るように、今にも泣きそうな顔で、言った。
「今更のことかもしれないね。今更のことだろうさ。でも、あたしはアンタを許さない。あの時逃げ出したアンタを一生許さない。だから言ってやるよ。アンタには子供に説教する資格も、子供のことに口を出す資格もない。誰のことに関してもアンタは口を出す資格もない。……事実だけ引きずって、馬鹿みたいに死んでいけよ。そいつがアンタにはお似合いだ」
「……ちょ、京子さんっ!?」
「坊ちゃんは黙ってろっ!!」
「ふざけんな!!」
 一喝に、一喝で返した。
 納得できないし、滅茶苦茶な言い分に、腹が立って怒鳴り返した。
「こんなもん、ただの説教でしょうがっ! 僕と美咲ちゃんが反省すれば、それで……」
「それで、なに? あたしはこいつを許せないのに、こいつは他人の人生を左右することをひょいひょいやろうとしてるんだぜ? ……そんなもん、見過ごしてたまるかよ。母親だからとかそういうのは関係ない。そもそも、コイツが母親でいる資格なんてこれっぽっちもないに決まってる」
「だからなんで、そんな……」
「いいんです、坊ちゃん」
 振り向くと、美里さんは俯いていた。
 唇を噛み締めて、なにかを堪えるように、顔を歪めていた。
 言い返すこともせず、まるで暴力を振るわれている子供のように耐えていた。
「いいんです。全部、私が悪いんです」
「美里さん……」
「本当にいいんです。……ほら、美咲ちゃん。もう帰るから」
「え? あ、うん……」
 美里さんに手を引かれて、美咲ちゃんは立ち上がる。
 そして、美里さんは頭を下げてそのまま帰ってしまった。いつもと違って、まるで他人行儀な態度で。
 部屋に沈黙が落ちる。嫌な空気の中、僕はゆっくりと息を吐き出した。久しぶりにキレそうだった。
 本当に、いきなり現れて、いきなりなんつうコトをほざきやがるのか、あの人は。
 怒りのままに振り向く。
 どんな言葉で罵ってやろうかと思って……そして、絶句した。
「……京子さん?」
 京子さんは、泣いていた。
 膝をついて、右手を肩に食い込ませて、震えながら、泣いていた。
「やれやれ………………」
 京子さんは僕を見つめた。
 涙を流しながら、僕を見つめた。

「とうとう……やっちゃったね」

 唖然としたまま、茫洋としたまま、信じられないことのように、
 彼女は、泣きながら、そんなコトを呟いた。


 どうしようもないコトというのは、世界にはいくらでも転がっているらしい。
 不平不満不平等。そんなものは世界中のどこにでも転がっている。僕らが飢えていないのも、ただ単に生まれる場所が良かっただけのことだ。場所が違えば、僕らの当然は当然じゃなくなる。常識はひっくり返る。
 京子さんが経験したのも、たぶんそういうものの一端だったんだろう。
 許せなくて辛くて、それでもあの小さな体の中に全部押し込んだ。
 なにがあったのかなんて知らないけれど、あの京子さんが泣いてしまうくらいだ。余程のことだったんだと思う。
 ただ、知らないことに同情はできはしない。知らないことなんだから『感情を共有する』ことなんて不可能だ。
「だから、僕に出来ることは、お酒のおつまみを作ることくらいでした、みたいな」
 から揚げを作りながら、僕は少しばかり溜息を吐いた。
 酒を飲むからつまみ作って、と言ったのはなにを隠そう京子さんで、僕はどうやらそれに付き合わされるらしい。
 ……僕、酒は超苦手なんですケド。
 以前の美里さんの誕生日パーティの時は後ろからビール瓶叩きつけられたりしたけど、今回は本気で飲まなきゃならないらしい。
 修学旅行でもちょっと飲まされたりしたけれど、ビール瓶一本開けたあたりから記憶がなくなった。
 翌日、青い顔をしてなぜか妙に距離を取る男子と、真っ青な顔をして『頼むから昨日のことだけは絶対に思い出すな。俺は普段のお前はわりと好きだから』と凶悪に気持ち悪いことを言う友樹と、なんだかその夜からやけにお酒を勧めてくる女子多数。
 男子の視線が痛すぎるので断りまくったケド、あの現象は未だにちょっと心に引っかかる。
「……なんだったのかな、アレ」
 キュウリの千切りを生ハムでくるりと巻いて、楊枝を刺しながら、僕は考えるのをやめた。
 から揚げ、フライドポテト、鯛の刺身、鳥団子のレンコンはさみ揚げ、キュウリの生ハム巻き、春雨サラダ、千切り大根と卵の胡麻和え、エビチリ、チャーハン、生春巻き、ローストビーフ。
 ……作り過ぎた。
「なんでローストビーフとか手間のかかるもの作っちゃったかな、僕は……」
 揚げ物とサラダ中心の食事の中で、ひときわ目立って浮いているローストビーフは、実によくできていた。
 仕方なく大きめのトレイにおつまみを乗せて歩き出す。この量だと二、三往復くらいはしなきゃならないかもしれない。
 やれやれと溜息を吐きながら部屋に向かう。端から見ると孤独な晩餐会のようでなんとなく空しい。
 いっそのこと誰かに頼めばラクなんだろうけど、今日に限って誰にも遭わないのがなんとなく物悲しい。冥さんは舞さんに強制連行されてしまったし、コッコさんはまだ庭いじりの最中、美里さんは……帰ってしまったし。
 ……いっそのこと、陸くんも引きずりこんでしまおうか。
「や、いくらなんでもそれはかわいそうかな」
 未成年の飲酒は法律で禁止されているわけだし、中学二年生からお酒の味を教えるというのも良くはないだろう。
 ……まぁ、僕も未成年だけど。
 トレイを手に持ちながらも器用に扉を開けて、僕は自分の部屋に戻った。

 そこは、既にカオス空間だった。

「まぁまぁまぁまぁ、空倉さん。ここは一杯どうぞ」
「……はぁ、いただきます」
「ところで、貴方の姉のうち性格の悪い方のことなんですが、アレは本当になんとかなりませんかね? いちいち人をおちょくるわ、邪魔をするわで大変なんですよ。冥さんはなんだか最近ちょっと可愛くなってきましたけど」
「……はぁ、すみません」
「話は変わりますが、庭の大魔神って誰のことですか?」
「…………あう」
 目が笑っていないにこにこ笑顔で陸くんにお酒を勧めるコッコさんと、恐縮しながらちびちびお酒を飲んでいる陸くん。
 特に陸くんのビビリ具合は並大抵のものではなく、表現するなら『叱られたわんこ』といった感じ。耳は完全に折りたたまれ尻尾が完全に股の間に入ってしまっている犬のようだった。
 誰だよ、あのいたいけな少年を魔空間に引きずりこんだのは……と聞くのは当然無意味ってもんで。
「お、坊ちゃん。なんかやたら美味そうなもん作ってるじゃん?」
 ベッドの上に陣取ってにやにや楽しそうに笑っているのは、さっきまで泣いていた京子さんで。
 一体どういう魔法を使ったのか、泣いた跡など欠片も見えない。
 見えないってコトは隠したってコトなので、僕は彼女の流儀に従うことにした。
「ちょっと考え事をしながら作ったらやたら作りすぎちゃいましてね。揚げ物中心なんで、さっさと食べないと味が落ちちゃうものばっかりなんですが……」
「いやいや、多少落ちたって構いやしないよ。いざとなったらあたしが食べるさ。まかないを作るのも面倒でね」
 京子さんは楽しそうに笑いながら、僕が作った料理を見ている。
 見ているぶんには不自然なところなんてまるでない笑顔。どう見ても、いつもの京子さんだ。
 ……そんなわけ、ないんだけどね。
「ホラ、坊ちゃんも一杯やっとけよ。アレだ、せっかくあたしが秘蔵の酒を振舞おうってんだから、楽しく飲めよ」
「や、僕はあんまりお酒の方は……」
「まぁまぁ一杯くらいいいじゃん。安心しろって、飲ませてどうこうしようとは思ってないからさ」
 ……それ、どう考えても男のセリフだと思うのですが。
 仕方なく、進められるままお酒を口に含む。どうやら日本酒のかなりいいやつらしく、口当たりが軽く飲みやすい。
「へぇ……普通に美味しいですね。ジュースなら完璧なのに」
「ひでぇ評価だな、おい」
「京子さんってお酒飲むんですか?」
「まぁ、たまにね。肉体労働の後のビールってのは美味いから」
「へぇ」
 適当に相槌を打ちながら、本当は未成年は口に入れてはいけない飲み物を口に運ぶ。
 うーん……美味しいんだか美味しくないんだか。ジュースでいいじゃんとか思わなくもない。ちなみにここでソフトドリンクとほざくのが大人で、ジュースとか言っちゃうのが子供だ。僕はどちらかと言うと子供側。
 子供側。子供でいいじゃん? まだ高校生だし。体も心も未成熟? そんなカンジ。
「…………うーにー」
「坊ちゃん?」
「なんですか?」
「大丈夫か? なんか、妙な酔い方してる気がするんだけど」
「だいじょうぶですよ?」
 なんだか世界が歪む。ぐにゃりぐにゃりと歪む。いや、歪んでいるのは僕か。まぁどっちでもいいケド。
 あー……なんだかアレだ。いい気分だ。思わず爆笑したくなるくらいに、いい気分だ。
 ちらりと京子さんを見る。京子さんはいつも通りにケラケラと笑っていて、僕もつられて微笑んだ。
「きょーこさん」
「ん?」
「きょーこさんは、どうしてそんなにかわいいんですか?」
「ぶっ!?」
 きょーこさんは思い切りむせた。
 げほげほと咳をしてから、信じられないようなモノを見る目で僕を見つめる。
「……あの、坊ちゃん。なんかキャラ違わない?」
「えへー」
「………………」
 にこにこと笑って、こくこくと飲み物を口に運ぶ。気がつくと、コップの中の飲み物はなくなっていた。
 仕方なく一升瓶を逆さにしても、飲み物は落ちてこない。
「むー……きょーこさん。この馬鹿みたいにまずい飲み物をどこにやっちゃったんですか?」
「いや、えっと、今坊ちゃんが全部飲み干してたじゃん」
「うそはよくないですよ? 人間が一升なんて飲めるわけないですよ?」
 けらけらと笑いながら、僕は京子さんににじり寄る。
「はい、罰げーむ。京子さんは今すぐぼくに抱きしめられたりする刑です」
「ちょ、ちょっと待て! 山口、坊ちゃんがなんか変だっ! 目がおかしいっ!」
 コッコさんがこちらを振り向くと、彼女は一瞬にして顔を強張らせて、口元を引きつらせた。
「きょ……京子さん。貴女って人はなんてことをしてるんですかっ!」
「や、やっぱりなんか悪かった?」
「悪いもへったくれもありませんっ!! 坊ちゃんはお酒を飲むと奥様みたいに心を許した相手には男女問わず際限なく甘えまくる変な人になっちゃうんですっ!!」
「嘘だろっ!?」
「嘘じゃありませんっ!」
 きょーこさんとこっこさんは驚いたように、ぼくを見る。
 かわいいなぁ。かわいいからぎゅーしなきゃ。耳に息を吹き込んだりしなきゃ。
 首筋にちょっと歯を立てたり、耳を甘噛みしたり、すりすりしたりしなきゃ。
「ちょっと待て山口っ! なんで逃げるっ!? 一人だけ逃げるのは人間としてどうかと思うぞっ!!」
「嫌ですよっ! 今の坊ちゃんは無邪気なセクハラマシーンなんですよ!? そんなモノに抱きつかれたら絶対にしばらくは夢に出てきますっ! 小学校の頃に奥様が遊び半分でビールを飲ませてこうなったことがありましたが、本当にアレは心臓に悪いんですからねっ!? しばらくは坊ちゃんの顔もまともに見られないくらいにっ!」
「まさか山口、あんたってショタ……」
「違いますっ! 私は少年も青年も好きな、まっとうな婦女子ですっ! まぁそれはともかく京子さん、あとはよろしくっ!」
「だから待てと言ってるだろっ! 小学生ならまだしも高校生にそんなコトやられたら心臓が破裂するわっ!」
 女の子が三人もいないのに、かしましいきょーこさんとこっこさんだった。
 ……ちょっとうるさいから、おしおきしちゃってもいいかな?
 にっこりと笑いながら、僕はゆっくりと立ち上がった。


 人は誰かに甘えたい生き物である。
 これは否定すべきことではない。生物としてごくごく当たり前な感情だ。犬を見ても猫を見てもイルカだってライオンだって東西南北古今東西、どんなに厳しい環境下であっても、動物は誰かに甘えたいという欲求を抱えて生きているものである。
 人によっては親だったり親友だったり恋人だったりと様々だろうが、自分の全てを預けたいというのは、確かに人間の中に存在する欲求である。生存に不可欠な三大欲求には及ばないまでも『誰かに認められたい』という二次的な欲求として、それは人の中に必ず存在する。これが行き過ぎると『依存』やら『寄生』なんてことになりかねないが、基本的には日常生活を送る上でなくてはならない感情の一つである。
 ……と、まぁここまでが前置き。別に読み飛ばしても一向に構わない箇所である。
 問題なのは、この感情は誰にでも必ず存在しているものだということ。
 たとえばの話をしよう。
 小さな頃から親に滅茶苦茶に甘えられて、中学校に上がったらメイドの鉄拳で育てられて、高校生になったら日々楽しく面白く忙しく生きている男の子が、どうして人に甘えられるだろうか?
 彼はある意味ではとても強く、独りでも生きていける弱い人間で、人に甘えることも知らずに育ってきた。
 頼りにはするだろう。信頼も置くだろう。信用もするだろう。しかし、それと『甘える』というのは別の話である。
 最近、メイドに目覚めつつある少女は、まだ幼かったからそれほど抵抗もなかっただろう。
 しかし、少年は中途半端に大人である。甘えることを『軟弱』とか思ってる軟弱ボーイである。
 彼は執事ほどではないがそれなりに意地を張って生きてきた男の子で、ちょっと間の悪いことに父親と同じように酒に耐性がなかった。……そして、お酒というものには多かれ少なかれ麻酔のような効果がある。
 ちょっとだけ精神のタガを外しやすくするのが、お酒だ。
 ……そう、精神のリミッターをちょいと外してしまうのである。
 思い切り弦を引き絞った弓で矢を放つのと、中途半端に引いた弦で矢を放つのとは、どちらが強いかは明白であるように、より強く抑圧されたものは、解放された時にこそ真価を発揮する。
 意地っ張りは甘えん坊に、無口は饒舌に、無表情は快活に、ツンツンはデレデレになってしまう。
 まぁ……つまり。
 人間、我慢して生きようとすると、どっかで歪みが出てしまうもんだということなわけで。


 ゆっくりと目を覚ます。なんだか頭が妙にだるい。
「……むぅ」
 頭を振りながら起き上がり、近くにあったグレープフルーツジュースで喉を潤す。
 ちらりと時計を見ると、もう夜の十一時。僕がおつまみを作ったのが八時だから、かれこれ三時間は経過している。
 問題なのは、僕にはその三時間の記憶がまるでないということ。
「ふあぁぁぁぁ」
 大あくびをしながら、ふと、そこであることに気づく。
 僕の背後、ちょうど真後ろからなんだかすすり泣くような声。
 振り向くと、半裸の陸くんがマジ泣きしていた。
「……なにしてんの? 陸くん」
「ひっ!?」
 陸くんは悲鳴を上げるなり、やもりのように地面に這いつくばりながら三メートルほど移動するという超反応を見せた。
 羨ましくなるくらいの運動能力だったけれど、その反応の意味がよく分からない。
 陸くんは近くにあったバターナイフを引き寄せ、それを僕に向けながら言った。
「そ、それ以上近づくなっ! た、頼むから、後生だから、お願いだからっ!」
「あのさ、陸くん。なんかよく分からないんだけど、悲しいことでもあったの?」
「………………え?」
 陸くんの目に光が戻る。絶望の中に光明を見出したような、そんな感じ。
「に……にーちゃん、だよな?」
「いや、僕だけど」
「油断させておいて『にゃはー、今度は耳たぶをはむはむしちゃうぞー』とか言わないよな?」
「言うわけねぇだろ。っていうかなんだその頭の悪いキャラは? 思わず殺したくなるぞ」
 まったく、人を愚弄するのにも程度ってもんがある。
 僕は男女問わずそういう頭のおかしい人間は例外なく区別するようにしている。差別ではないところがミソ。
 例外なく徹底的にいじめて化けの皮を剥がしてやるぜ。
 人類子供以外は皆腹黒っ! 経験値ってのは純粋さを失わせる一番の要素(ファクター)ってコトよっ!
 ……ん? なんか妙にハイテンションなのはなんでだろう? お酒を舐める程度に飲んだだけなのに。
「それより、ダメだよ陸くん。現実と妄想をごっちゃにしちゃ。中学生が想像していいのは、口に出せないほどえろい妄想くらいだよ? それならまぁ生理現象で説明できるしね」
「うん、なんかもうそれでいいや。だから……頼むから、にーちゃんはもう二度と酒を飲むな」
 有無を言わせぬ口調に、僕はちょっとだけ圧倒された。
 ををぅ……若人は三日放置しておくと見違えるようになるという言葉があるけれど、今の陸くんはまさにそれだった。
 成長してるんだと思うと、ちょっとだけ感動しそうになる。昔飼っていた猫を見る気分。
「うんうん、陸くんもちゃんと成長してるんだね。おにーさんはちょっと感動しちゃったよ」
「……や、そりゃどーも」
「そういえば、なんで半裸なの? 一発芸でも披露したとか? あと、首筋の噛み跡のようなものはなに?」
「その話題には触れるな。触れたら死んでやる」
「………………」
 なんだか、デリケートなことらしい。
 まぁ、中学生だから多少潔癖なのも許してあげるべきだろう。……殺してやるじゃなくて、死んでやるって言われたし。
 さて、僕の中学の頃はどうだったっけなぁ。もっとなんつーか、どうやったらコッコさんに殴られないで済むかとか、そういう切実なことで悩んでいたような気がする。
 ……いかん。お酒のせいか、ちょっと泣きそうになってきた。
 涙を堪えるために、僕は無理矢理思考の方向を変えることにした。
「そういえば、京子さんとコッコさんは?」
「魔王のねーちゃんは自分の部屋に帰って、京子の姉御はデジカメでさんざんアンタの醜態を激写した後に、そこで寝たよ」
 見ると、京子さんは僕のベッドで安らかに眠っていた。
 うーん……最近の僕のベッドは誰かの寝床と化しつつある。昨日も冥さんがゲームしながら爆睡してたから、結局ソファで寝ることになっちゃったし。どうやら、今日もそういうコトになりそうだった。
 やれやれというか、なんというか。
「まぁ、いいか。それより陸くん、僕の醜態ってどういうこと? ここ三時間ほどの記憶がないんだけど、そんなに僕はみっともないことをやってたの?」
「思い出したら自殺する。姉御や魔王のねーちゃんに聞いても自殺する」
「……うん、君が本気なのはまぢで分かったから、思い出すのはやめておくよ」
 デリケートどころか、致命傷でやばいことらしかった。
 むぅ……これでまた人生の汚点が一つ増えてしまったような気がする。覚えてないから汚点かどうかも確かめようがないんだけど、覚えてないぶん性質が悪そうだ。
 と、僕が少しばかり若さゆえの過ちというものに思い悩んでいると、不意に陸くんは苦笑した。
「で、怪獣大決戦の方はどうにかなりそうなのかよ?」
「………………」
「悪いな、聞くつもりはなかったんだけどさ、聞こえたんだ。にーちゃんの怒鳴り声なんて滅多に聞けないしな」
 陸くんは肩をすくめながら、申し訳なさそうに言った。
 まぁ、聞かれていたのは仕方がないことだし、京子さんも僕も怒鳴っていたから弁明のしようもない。
 だから、事実だけを打ち明けることにした。
「……正直なところ、今回ばっかりはちょっとお手上げだね」
「なんだよ、にーちゃんならいつもの卑怯手段でなんとかできるんじゃねーのか?」
「できるならとっくにやってるよ。……でも、今回のはなんていうか、致命傷だからね」
「致命傷?」
「脛の傷と言い換えてもいいかな。とにかく、僕たちじゃどうしようもないことだから」
 過去の傷。どうしようもない失敗。それは、本当に部外者の僕たちじゃどうにもならない。
 当事者同士の問題であって、それ以上でも以下でもない。
 京子さんが美里さんのことを許せないというのは本当だろうし、美里さんが『いいんです』と言ったからには京子さんの言葉は紛れもなく事実だろう。
 美里さんは、京子さんに恨まれるような逃げ方をしたのだ。
 厳然で実直な美里さんがそんなコトをしたとは考えにくいけど、過去のことなんて誰も分からない。
 どうしようもない悪人が一人の少女を気まぐれで助けていたり。
 情けないほどの善人が助けを求める人の手をふりほどいたり。
 そういうことだってあるだろう。誰だって間違いを犯すってコトは、誰だって完璧じゃないってコトだから。
「ま、あとは野となれ山となれってところかな。そのうち雨降って地固まるってことになるかもしれないし」
「……にーちゃん。女の喧嘩ってのは、大体泥沼だぞ?」
「大丈夫だよ。京子さんも美里さんも我慢できる人だから」
 そうでなければ、初対面で罵っているはずだ。
 一緒に食事して笑い合ったりはできないはずだ。
 過去のことだと割り切っていたから、二人ともそれに触れないようにしていた。
 二人とも、大人だったから、我慢ができた。
「とりあえず、このことは他言無用でお願いするよ。下手にことを荒立てたくないんでね」
「それは分かったけど…………いいのかよ? それで」
「いいんだよ。人の過去を暴き立てて理解者面するなんて、下種にも程度ってもんがある。人には、他人に知られたら生きていけなくなるような過去の一つや二つはあるもんだよ」
「………………」
「だから、気長に待つさ。破綻したんだったらそれはそれで仕方がない」 
 仲裁できるんならいくらでもしてやろう。
 でも、当事者は京子さんで美里さんだ。僕は本当に一切合財なんの関係もない。
 だから黙る。何も言わずに本人たちだけで解決できる時を待つ。本当に……今の僕にはそれしかできることがない。
 ゆっくりと息を吐いて立ち上がる。なんとなく、外の空気が吸いたくなった。
「陸くん、この部屋は自由に使っていいケド、今日だけはベッドで寝ることだけは承知しないから覚えといて」
「誰がやるか。……つーか、普通に殺されるっつうの」
「よろしい。この屋敷の礼儀ってものが分かってきたようでなによりだ。ついでに付け加えると、どんなに辛かろうが最初の頃みたいに簡単な気持ちで辞表を出したら、僕は冥さんに手を出すからな。ちゅーとかぎゅーとかするぞ♪」
「……ごめん、にーちゃん。今はその、ツッコミとかそういう気分じゃないんで……」
「そんな馬鹿な。君が突っ込まなかったら、誰が僕のボケチミン(ボケ成分)を発散してくれるというんだっ!?」
「真顔でショックそうな顔すんなよっ! 俺の存在価値ってなんだろうとか最近考えちゃうんだからさっ!!」
「中学生が誰もが一度は抱く青臭い疑問だね♪」
「うわぁ、殺してぇ。つーか兄ちゃん、頼むから一発殴らせろ。一発でいいからさ」
「殴ったら知り合いのゲイのにーさんに君を紹介する」
「……なんでそういうひでぇ脅し方ができるんだよ? にーちゃんにはプライドとかないのか?」
「殴られるのが嫌だからに決まってるでしょうが。あと、僕にプライドはあるけどないようなもんだ」
 ヘタレ合戦冬の陣は僕の勝利だった。
 あっはっは、甘いな中学生。プライドなんてドブに捨てようと思えばいくらでも捨てられるのさ。
 時々、捨てちゃいけないものまで捨てそうになるケド。
 ドン引きしている陸くんを置いて部屋を出る。流石に深夜ともなると人はいないため、あたりは静まり返っていた。
 静かな屋敷の中を歩く。昔はなんとなく怖かったけれど、今は慣れたものだった。
 時々、思う。
 もしも僕がこの屋敷に一人だけだったら、どうなっていただろうかと。
 僕はきっと幸福なんだろうと思う。みんながいてくれるから。少なくとも独りじゃないから。
 さて、ここで少しだけ愚考してみよう。
 みんなでいることの幸福を投げ捨てて、逃げ出してしまうような前提条件を。
 そう、たとえば『みんな』と一緒にいることにメリットを感じられなかった場合。これは極めてシンプルで分かりやすい。独りが好きな個人主義者。他人と相容れない価値観を持つような場合。僕の場合も少しばかりここに該当しているけれど、僕の場合はみんなと一緒にいた方が楽しいから、逃げ出すようなことはないと思える。
 言うまでもなく、美里さんがこれに該当するようなことはない。あの人は実直で厳格で誰よりも厳しく優しいからだ。
 厳しい人間は他人にも厳しい。優しい人間は他人にも厳しい。敵も多いかもしれないけど、自他を愛し愛される人間だから『人間関係』も上手くやっていける。
 なにより、美里さんがしかめっ面でゲームやってる方が想像できない。
 というわけで逆のアプローチ。すなわち、みんなと一緒にいることよりも優先すべきことがあった場合。
 みんなを見捨てて逃げ出しても、やらなければならないことがあった場合。
「……ま、そんなところだろうね」
 思考を一時停止して、玄関ホールで足を止める。
 鍵の開く音がする。この屋敷の合鍵を渡している人はかなり限られているため、誰が来たのかを推測するのは至って簡単。
 章吾さんは屋敷を辞めたので論外。
 父さんと母さんもここには来れない。昨日確認したら父さんは母さんを連れてギアナ高地まで行っているらしい。『しばらく大人しくしてるようにきつく言い聞かせておくけど、期待はしないでね』という父さんの言葉が痛すぎる。背後ではなんだか母さんのやたら幸せそうな声が響いていたが、あれはあれで気にしない方がいいんだろう。
 ちなみに、最近妹から届いたメールは『助けてお兄ちゃん』という壮絶なものだった。
 キミはそんなに簡単に僕みたいなへたれを兄貴扱いしていいのかい? とか聞きたいけど、同じ悩みを共有できる時点で僕らは兄妹なのだった。
 ああ、悲しいかな血の運命。恨もうにも憎悪の対象は母親であり世界最強なのだった。
 ……父さんも大変だろう。ホント、そういう意味では僕は掛け値なしにあの人を尊敬してもいいと思っている。
 となると、合鍵を持っているのはあと一人くらいしかいないわけで。
「……坊ちゃん?」
「こんばんわ、美里さん」
 ひょっこりと顔を出したコートにスカートの私服な彼女に、僕は笑って応えたのだった。


 まぁ、なんのことはない。慌てて帰ったせいで鞄やら明日必要なものだとかをごっそり忘れてしまったらしい。
 わりとしっかりしているようで、美里さんは色々と抜けているところがあるのだった。
「ホント……すみません。取りに戻るかどうか迷ったんですけど」
「まぁ、そりゃ迷いますよね」
 苦笑して頬を掻きながら、僕は美里さんのペースに合わせてゆっくりと歩いていた。
 女性が夜道に一人歩きするのは危険なので、僕は美里さんを送っていくことにした……というか、美里さんは思いっきり断ってきたのだけれど、僕が『コンビニに行くついで』という理由で無理矢理ついてきたのだ。
 女性に優しくできるのは、男としてはまぁそこそこ誇れることだと思いたい。
 あんまり優しくしすぎると、友樹みたいにえらいことになりかねないケド。
 と、僕は少しばかり別のことを考えていると、美里さんは不意に足を止めた。
「コンビニ、着きましたよ?」
「実はコンビニに行くというのは名目で、可愛らしい人妻には見えない犬の散歩をしているんですよ」
「両手がポケットに入ったままですが?」
「やんちゃなヤツでしてね、僕が目を離すとすぐに遊びに行ってしまうのですよ」
「坊ちゃん」
 静かでかつ鋭利な声が響く。美咲ちゃんを黙らせた声だった。どうやら冗談を聞く気分じゃないらしい。
 しかし……残念ながら、命を惜しまぬ無謀系の高校生男子を黙らせるにはちょっと足りない。
 僕はにっこりと笑って、きっぱりと言った。
「嫌です。絶対に送っていきます。美里さんの気持ち以前に、これは僕の自己満足ですから」
「……坊ちゃんってある意味自分勝手ですよね」
「ある意味ってあたりにかなりの悪意を感じますねぇ」
 あっはっは、と笑いながらも僕と美里さんは歩き出す。
 なんとなく『放って置いて欲しい』というオーラを感じ取ったような気がするけど、それは完全無視しておいた。
 僕だって、自分がやりたいことに関しては自分勝手を貫いたりするのだった。
 それからしばらくは無言が続いた。なんとなく口を開いちゃいけないような空気だったし、こういう時にこそ男の器が試されるってもんなのです。そう、めっちゃ気まずいけれど、あえてそこは耐えねばならないのだ。
 まぁ……こういう沈黙が続くとアレだね。…………思わずボケたい衝動に駆られるね。
 ……この沈黙は、僕としてはかなり耐え難いものがある。
 と、僕がボケるかボケまいか悩んでいると、美里さんはようやく口を開いた。
「坊ちゃん」
「なんでしょうか?」
「坊ちゃんは聞かないんですね。いつも通りに」
「聞いていいんですか?」
「構いませんよ。私にとっては忘れ難い過去で、彼女にとっては裏切りの思い出でも、事実ですから」
 美里さんはそう言って、上目遣いに僕を見つめた。
 なんだかほんの少し怯えているような、そんな目をしているような気がした。
「……聞きたいですか?」
「………………はい」
 ほんの少しだけ悩んで、結局僕は頷いた。
 美里さんは顔を伏せた。それからゆっくりと息を吐いて、真っ直ぐに僕を見つめた。
「最初に言っておきます。私は、貴方や美咲に嘘ばかり教えてきました」
「………………」
「理想を押し付けるっていう彼女の言葉は正しいんです。私は坊ちゃんや美咲に綺麗ごとばかり押し付けてきました。……坊ちゃんに教えたあの歌だって、本当は『行軍歌』なんです。人を死に追い立てる歌なんです」
 美里さんは語る。
 今にも泣きそうな顔をしながら、泣かずに、言葉を紡いでいた。

「彼女の言う通り。……私は、逃げ出したんです」



 僕としては、正直あまり聞きたくない話だった。
 なぜなら結論から言ってしまえば、美里さんの話は一から十まで父さんが原因だったからだ。母さんの話だと、当時父さんは絶望をやっていて、世界を恐怖のドン底に叩き込んでいたんだとか。当時は話半分に聞いていたのだけれど、今となってはやるせない気持ちでいっぱいだったりする。
 まぁ、それはともかく仕切り直し。
 ある世界、魔法と科学が融合した世界で戦いがあった。
 たった一年で億など比にならないくらい人が死んだ争いがあった。
 ある日を境に奇妙な化け物が跋扈するようになった世界で、人々は抵抗を続けていた。
 とは言っても、美里さんは貴族のお嬢様で京子さんはそのお世話役みたいな感じで、二人とも直接戦場に出るような立場じゃなかったらしい。戦場へ慰問に出かけただけで、その部隊も危険のないと思われる部隊だったそうだ。
 奇襲があって、部隊が壊滅しなければ、美里さんは貴族のお嬢様で、京子さんはお世話役のままだった。
 元々優しいはずだったお世話役は、アサルトライフルを片手に返り血で真っ赤になっていた。
 命からがら逃げ出した貴族のお嬢様は、生存者が絶望になった戦場でそれを見てしまった。
 だから、戦うことにした。
 ここで話が終わればそれはそれで良かった。二人は見事戦場を生き延びましたなら、それで良かったはずだった。
 二人は同じ部隊に配属されて、思いを同じくする八人の仲間たちと獅子奮迅の活躍を始めた。たった十人なのに戦況を覆し戦場をひっくり返し始めた。ただの人間が、踊るように戦車を扱い、舞うように魔法を放ち、敵を蹂躙した。
 それでも戦況は一進一退。ひっくり返しても、元々がひどかったのだからそれでもよくやった方だった。
 だが、美里さんたちは敵の正体を突き止めた。それさえ破壊すれば、この戦争は終わるのだとみんなが沸き立った。
 一人を除いて、みんなが明日への希望に沸き立っていた。
 その一人の名前は橘結城(たちばなゆうき)。後に美里さんの夫になる人だ。
 美里さんの夫という事実以前に、親友と同じ名前なので僕としては絶対に友達になれなさそうな人だ。
 まぁ、私見はともかく、実はその時には結城さんは色々と体にガタがきていたらしい。
 最後の戦いに、体が耐え切れるかどうか分からないくらいに。
 それでも彼は笑っていたらしい。自分が死んで、みんなが幸せになれれば、きっとそれは正しいことだと言いながら。
 だから逃げた。そんなコトを笑って言える、彼のことが好きだったから。


 失いたくなかったから逃げて、全力で逃げて、異世界に逃げて、結婚して幸せになった。
 離婚することになったけれど、今も色々あるけれど、それでも逃げたことに関しては後悔などない。
 生まれた子供を幸せにするのが自分の役目だと……そう信じて生きてきた。
 美里さんはそう言って、決意を込めた瞳で真っ直ぐに僕を見つめた。
「私は卑怯な人間です。仲間を見捨てて逃げました。……夫に死なれたくなかったから、逃げ出したんです」
「………………」
「意地でも留まろうとした夫の手を引いて無理矢理逃げ出して、自分の思いを無理矢理押し付けて、それで幸せになった卑怯で卑劣な女です。責められて当然。殴られて当然。殺されたって文句は言えません。私は、『見捨てた』んですから」
 戦うと誓ったのに。誓いよりも大切なものができてしまったから。
 その誓いよりも、大切な人を助けたかった。
 仲間を見捨ててでも、自分勝手でも、死んで欲しくない人がいた。
 歩きながら、目を伏せながら、美里さんはポツリと、聞き逃してしまいかねない小声で言った。

「そんな卑劣な女に……本当は子供を育てる資格なんて、ないんです」 
 
 ガチリ、と僕の中で何かが落ちた。
 頭が冷却される。言葉の引き出しの中からもっとも苛烈なものを選んで並列励起。
 僕は表情を殺して、声も殺して、一つの感情だけをむき出しにした。
「で、それがなんなんですか?」
「え?」
 僕は足を止める。真っ直ぐに美里さんを見つめて、きっぱりと言った。

「だから、逃げ出したことと美咲ちゃんは無関係なんでしょうが」

 簡潔に言ってしまおう。
 僕はこの時、激しく怒っていた。
「僕はなにも知らない。なにも分からない。美里さんの思いも京子さんの怒りも、結城さんという貴女の夫がどんな気持ちで亡くなったのかも、当事者じゃない僕には分からない。……でも、誰かを助けたいからなにもかもを捨てて逃げることに異論を挟むつもりはない。後悔しているのは美里さんで、自分の罪や罰を自覚しているのも美里さんだ。……逃げれば逃げた分の責任を背負うことを覚悟して、決死の思いで逃げ出して苦しんでるのは、他の誰でもない美里さんだ」
「違いますっ! ……私は、私はただ自分勝手で」
「だからって、その卑怯や卑劣や醜さで、自分自身がやってきたコトを否定していいわけないでしょうがっ!!」
 逃げたのは自分勝手。自分を責めるのも自分勝手。当然その責任は自分にある。
 でも……その責任を果たすためにやってきたことを、否定するのは絶対に間違ってる。
「子供を育てる資格がない? 貴女ははその口でそんなことを言うのか? 必死で足掻いて美咲ちゃんを育ててきた貴女が、そんなコトを言っていいはずないでしょうが。苦しんで足掻いてもがいて、それでも言い訳せずに美咲ちゃんをあそこまで育てたのは美里さんです。……母親なんてもんは資格じゃない。ただの結果だ。子供をちゃんと育てられた人が、母親だ」
「……でも、私は」
「逃げたことまで否定する必要はありません。それは美里さんが背負うことでしょうから。ただ……美咲ちゃんを育てたことだけは絶対に否定しないでください。僕にとって橘美里という女性は、厳しくて実直で融通があんまり利かないけれど、誰よりも優秀なメイド長で友達の母親で綺麗なお姉さんなんですから」
 僕は真っ直ぐに美里さんを見つめる。
 本当に……そこだけは譲れないし譲らない。逃げたことなんて本当にどうでもいい。美里さんにとってはどうでもいいことじゃないけど、僕にとってはどうでもいいことだ。
 僕にとってどうでも良くないのは、美里さんが今の自分まで否定すること。
 それだけは……なにがなんでも許してやらない。
 と、そこでうっかり怒鳴ってしまったことに気づく。周囲に人はいないし、深夜なので車もあまり走ってはいないけれど、なんとなく気恥ずかしくなって、僕は冷や汗を流した。
 とりあえず、愛想笑いで誤魔化すことにした。
「えーと……すみません。生意気言っちゃって」
「………………いえ」
「………………」
 やっちゃったよ。……なんか、美里さんの態度が余所余所しい。
 嫌われちゃったかなぁ。……美里さんにだけは、あんまり嫌われたくないんだけど。
 まぁ、仕方ないか。これもまた責任。自分勝手に言いたいこと言っちゃった僕の責任ってやつだ。
 諦めて折り合いをつけて、僕は陰鬱なものを抱えて歩き出そうと一歩を踏み出す。

 トサ、と軽く音が響いた。

 一瞬、状況が掴めなくなる。冷えた頭が次の瞬間にはオーバーヒートした。
「貴方は……いつもそんなふうに、正しいことばっかりで」
 いい匂いがして、長い髪が鼻をくすぐる。
「醜さも卑小さもなにもかも許容して……貴方がそんなだから、私はとても辛かったです」
 響く声はとてもとても悲しそうで。僕の背中に回された手は、それでも力強くて。
「ごめんなさい。私は最低の女です。軽蔑してください。侮蔑してください。絶縁してください。……もう、私は駄目です」
 やっと渇望していたものを掴み取ったように、しっかりと、美里さんは僕を抱きしめていた。

「私、貴方のことが好きみたいです」

 彼女が口に出したのは、抑え切れないくらいに決定的な言葉で。
 僕はなんとなく納得していた。
 きっと美里さんは僕が思っている以上に大人で、色々と言いたい事を我慢して、日々の辛さを微笑みと美咲ちゃんをしっかり育てなきゃっていう使命感で誤魔化しているけれど、許容限度を越えると歯止めが効かなくなるというか感情が爆発するというか、とにかく自分じゃ抑えが効かなくなるんだろう。
 きっと、そういう悪癖を抑えるために厳格で実直になった。
 ということは、これはまぁ僕が美里さんの許容限界を突破させるような真似を繰り返したせいなんだなぁとか思うわけで、つまりああなんだこれも僕のせいかよとかそういうわけで自業自得なのだった。
 ……ホント、僕ってやつは、どうしようもねぇ。
 責任は多重負債でやってくる。そういうモノだと思っている。
 だからまぁ……とりあえず、これからどうしようとか、母さん以外の人に抱き締められるのも思ったより悪くないとか。
 そんな不埒なことを考えて、僕は目を閉じた。


 そして、




 第三十四話『彼女と彼女のR&R(ロックン&ロール)』END
 第三十五話『鋼の恋と無双の愛』に続く


彼女は彼女を想っていた。いつかどこかで出会った誰か。自分を幸せにしてくれた彼に、少年はどこか似ていたから。きっと、彼女も自分と同じ思いでいると確信していた。
彼女は彼女を想っていた。彼女が逃げた気持ちは誰よりも理解できて、だからこそ心の憤りを全て無視して日々を笑って過ごしていた。過ぎたことだと割り切っていた。

けれど、そんなのは全部嘘だった。

次回、第三十五話『鋼の恋と無双の愛』
其の心、想いを爆ぜて奪い合え。






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