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窓際のブランシュ

作者:加藤えり
 ブランシュの体はガラスでできている。

 鉄の味がする血液より赤く熱く、どろどろになった珪砂を溶かし冷やした塊。月明かりの下、星のまたたきを受け光る冷たい肌。太陽の光を取り込み、ゆらゆら踊る透き通った翡翠の瞳。

 生まれてからずっと二階にある自分の部屋の中から出たことがないブランシュは、村の外れの外れ、沼地に囲まれた家で母と二人きり、ひっそりと暮らしていた。皆が暮らす場所からは大分離れているからか、訪ねてくる人はほとんど、というより、全くいない。
 窓辺にはベッドがぴったり収まる小さな空間になっていて、ベッドと部屋を仕切る間には天井から細い飴細工のような金のフリンジカーテンがざあっとぶら下がり、そこを片手で避けながら隣に移動すると天井が斜めになっている部屋が現れる。淡い、夢と現実の隙間を漂うピンク色をした壁には鉄の額縁ではなく、花や小鳥、蝶や草木の複雑なデザインなどの、様々な柄の布が様々な大きさの中身の軽く角の柔らかい素材にぴっちりと縫い付けられ、陶磁のビスクドールや木製のチェストがない代わりに、北から冬を求めやってきた渡り鳥の羽根をふんだんに使ってこしらえたクッションだけは山のようにある。

 つまり、ブランシュの部屋の角という角はすべて取り払われ、コットンの入ったカバーで覆われたりして硬いもの、尖ったものは何一つとしてない。
 狭い空間で毎日家の庭にある大きなリンゴの木の向こう、平原と森と川を渡った向こうに建っているお城に向かう馬車を眺めたり、母の作ったドレスをとっかえひっかえしてくまのぬいぐるみと舞踏会ごっこをしたり、軽くて柔らかい紙でできた本を読んで過ごしていた。
 禁止されることがいくつもあったが、それでも優しさであふれる部屋は居心地よく、娘を愛してくれる流れるような金の髪が美しい母もブランシュは大好きだった。しかし、それだけではいつか退屈になってしまう。明くる日も、明くる日も新しいことのない同じことを繰り返す日々。
 器用な母の手製のひなげし柄のクッションに埋もれ、小さい頃ブランシュは尋ねた。

「どうして部屋から出たらいけないの?」

 母は絹糸を巻きながら微笑み答える。口角にはブランシュへの愛が浮かんだ。

「外は危険がたくさんなの」

 ブランシュは続ける。

「誕生日に陶器のバレリーナが入ったオルゴールがあったら嬉しいんだけど」

「また今度ね、覚えておくわね」

「お母さん、去年も一昨年もそうだった。ねえ、ならどうしてお母さんの体は柔らかいのに私の体は違うの?」

 母の手が止まり、口許がひくりと動いたのをブランシュは見逃さなかった。

「それはねえ……あなたにも話しておかなくちゃいけないことね。あなたの体をそんなふうにしてしまったのは、私への憎しみなの」

「憎しみ? 本の中に出てくる魔女の呪いじゃなくて?」

「呪いより憎しみのほうが強くてどろどろで、厄介なのよ。ごめんなさい、ブランシュ」

 本当に、本当にごめんなさい。
 母がそう言って泣くので、ブランシュは世界で一番悪いことをしたような気持ちになって、慌てて母の手を掴んだ。絹の糸が糸巻きごと、ごろんとクッションを敷き詰めた床に落ち、柔らかく、温かな母の肌にひんやりと冷たく固いブランシュの指先がくっ、と沈む。

「いいの。平気よ、お母さん。私はお母さんと一緒にいられて嬉しい。だから泣かないで、お母さん、大好きだから」

 ぽたり、ぽたりと涙を流す泣いても綺麗な母の横顔を眺め、腕を撫でながらブランシュは疑問で頭をいっぱいにする。
 どうしてくちびるから歌と愛をくれる、憎しみとはおよそ反対側の世界にいるような母が。どうして、その母に向けられた憎しみが私に。どうして。それは誰からの何に対する憎しみなのか。

 ベッドの上、光に反射して細い光を放ちながらちらちら輝く爪の先を傾けながらブランシュは朝も昼も晩も、何をしてもその事ばかりを考えるようになった。あれ以上、母には聞けない。真実を知りたい気持ちは強かったけれど、大好きな母を泣かせることは絶対にしてはいけない。
 なぜ私の体はガラスで出来ているんだろう。額で真ん中に分けている長く細い髪も少し力を入れたらぱきんと折れる。そういう病気なのか。外の世界には私と同じような女の子がいるのだろうか。もしいたのなら、友達になりたい。たくさんいろんな話をして、不便な生活を笑い、割れてしまわないよう優しく接したい。

「な、おまえ、どうしてそんなに光ってんの?」

 突然、聞いたことのない声がしてブランシュははっと息を飲み込むと声のした方を、窓の向こうへ振り返る。あんまりにも驚いて、吸い込んだ空気の早さで心臓が割れてしまうかと思った。
 晴れた午前中の新鮮な空気が揺らすカーテン、開け放たれた窓のすぐ横にある大木の、幹と枝の間。そこに同じ年頃の男の子がこっちを見てうまい具合に立っている。庭の垣根を越え木を登ってきたのだろう。
 初めて会う母以外のひと、初めて近くで見る異性の姿にブランシュの目は大きく開かれ、光をさらに取り込んできらきらと青い宝石に変わる。

「うわっ、また光った!」

 彼は感嘆の声を上げ、目を好奇心に輝かせると木の上からブランシュのほうへ身を乗り出してきた。真夜中みたいな黒い髪と瞳、健康そうな長い手足、ブランシュが身に付ける服とは色も形も違った服。声だって、雨垂れが落ちて弾けたときのよう。顔つきは優しそう。だけど怖い。男の子はブランシュを拳ひとつでバラバラにできる力を持っている、と母が話していたから。
 彼が身を乗り出してもこちらまで手は届かない手わかっていても、ブランシュは体をきゅっと小さくして後ろへ下がる。

「ずっと気になってたんだ、村の外れの家の二階の窓が光ってるから何があるのかと思ってさ。みんなに行くなって止められてたんだけど気になって来ちゃった。オレ、ゼイン。おまえ名前は?」

「ブランシュ」

「ブランシュ、いくつ?」

「九歳」

「すげー、オレと一緒だ! 知らなかった、こんなとこに同い年の子がいるなんて!」

 ゼインと名乗る彼は嬉しそうに体を揺らした。同時に木がみしみし唸り、枝がわさわさと上下する。

「外で遊ぼう、森の中に秘密基地があるんだ、内緒だけど、ドラゴンの巣もある」

 太い枝を握りバランスを取ると、ゼインはブランシュに手を差し出してきた。指がぱっと花のように開く。きっとこの手はいろんなものを掴み、足は北へ南へと駆けていける。彼はブランシュの憧れそのものだった。ゼインの笑顔と差し出されたままの手のひらを交互に見て、ブランシュの胸は一度楽しさを感じ、抱き、踊ったがすぐにその気持ちに水がかかってじゅう、と音を立てた。

「私、行けない」

「なんでだよ、行こうよ」

 行けるものなら今すぐにでもこの窓を飛び越えて行きたかったが、ブランシュの体では無理だ。小石に当たっただけでガラスの体にぱきりとヒビが入ってしまうし、角にぶつかっただけでがしゃんと壊れてしまう。それに、何より母と約束していた。どんなことがあっても部屋から出ないこと、と。

「病気なの」

 咄嗟に出た嘘だった。しまった、と思ったがゼインが真剣な面持ちになったのであとに引けなくなり、苦いものを無理矢理喉奥に押し込めてブランシュは瞬きをする。すると、睫毛の先に光が反射してまたぱちぱちと光った。

「体、よくないのか」

「うん」

「ずっと? 家から出たことないのか?」

「うん」

「まずい薬飲んでる?」

「……ううん」

 質問に答えているうちに彼の顔を見ていられなくなって、言葉を返すたびにブランシュの顔は俯いていく。

「そっか…じゃあさ、また来ていい?」

 ブランシュは目を丸くした。そしてそのまま前を向くと、ゼインは嫌な顔ひとつしないでまたブランシュに笑いかけてくる。思いもよらぬ展開に、ブランシュはただ首を縦に一度振った。そして、両手を突いて窓辺に寄るとゼインはもう一度手を出してきた。

「よろしくな、ブランシュ」

 誰にも体を触れさせないこと。
 何度も言い聞かされ、体の中にまで刻み込まれた母の言いつけがブランシュの行動に壁を作る。してはいけないことは、してはいけない。ようく、わかっているのだが、今ゼインに手を伸ばさなければ、私はきっと嫌われて、もう彼と会えなくなってしまう。その不安の方が大きくて、ぱきんと折れそうな細い手首をブランシュは持ち上げる。

「お願いがあるの」

「なんだよ」

「私の手、握らないで……触るだけ」

「なんで」

「お願い」

 ブランシュのお願いにゼインは不思議そうに首を傾けたが、わかった、と了解してくれたのでブランシュはそう、っと手を伸ばしてゼインの手の形に自分の手を合わせた。ぴったりと二つの手が重なる。まるで、もともとひとつのものだったかのよう。あるいは、ずっと探していた箱の鍵がぱちんと開いたような感覚。温かい。母と同じ温度。なのに少し固い。

「指、折れちゃいそうだ」

「お、折っちゃだめ!」

 慌ててブランシュが手を離すと、ゼインは突然穴から現れたウサギみたいな顔をしてから吹き出した。声をあげて腹を抱えるゼインに対し、ブランシュは何がそんなにおもしろいのかわからず、不安でくちびるをぎゅっと閉じる。

「折らないよ。他のやつみたいに意地悪しない、絶対」

「本当?」

「うん。だって、おまえ、なんか守ってやらなきゃいけない感じがするから」


 初めての友達ができた。
 嬉しくてたまらなくて、わくわくする気持ちが押さえきれず、その夜は一晩中毛布をかぶってクッションの山に頭を突っ込み、ゼインのことを考えた。村のどこに住んでいるのだろう、明日は来てくれる? そのまた明日は?
 友達。同性ではなかったが、友達であることに変わりない。母の言いつけを初めて破ってしまったことだけが胸を重たくしたが、その母も、あれだけ二階が賑やかであればブランシュの友達に気づかないわけがなく、窓から部屋には決して入らないことを条件にゼインの来訪を認めてくれた。母との新しい約束がまたひとつ増えたけれど、ブランシュはひとりでにこぼれる笑みを押さえきれず、両手で頬に優しく、かちんと音がしないようそうっと触れた。

 それからというもの、雨の日以外ゼインはブランシュのいる窓辺へやってくるようになった。ゼインはブランシュの知らないいろんなこと、例えばキツネの鳴き声だとか、カラスの巣に本物の宝石があるとか、お城にお姫様が戻ってくるだとか、そういうことをたくさん知っていて、話の中にブランシュの知らない友達の名前がたくさん出てきたが、頼んでもその友達を連れてくることはなかった。どうしてかと聞くと、彼は怒った顔をして、特別だから、と答える。喜んでいいのか悲しんでいいのかわからず、ブランシュは曖昧に笑った。
 話していくうちにゼインの家は何代も続くお城の庭師であること、ゼインもまたいつか庭師になるべく、父親についてお城へ行ったことがある、ということがわかった。

「バラのアーチはある? 天使の噴水は?」

「バラもあるし、ラベンダーもある。噴水は天使じゃなくて、坪持った大理石の女のひと」

「舞踏会は? いいなあ。行ってみたい」

「ブランシュはいつも舞踏会に行くみたいな服着てるじゃねぇか」

「お母さんが一ヶ月に一着くらいこういう服作ってくれるから。でも、どこにも行けなきゃ意味ない」

「あるって!」

 母の春色の頬と同じように染め上げられたドレスの胸元の生地を指で引っ張って口を尖らせていると、ゼインが大声でそれを否定した。呆気に取られ、彼に視線を移せば、彼はまた怒っている。普段は優しいのに、彼は突然怒り出すことがあった。初めは怖さや戸惑いを抱き、何も言えなかったものの、一緒にいるうちにそれにも返せるようになっていた。

「だって……それ、似合ってるから!」

「ありがとう、でもどうして怒ってるの?」

「あっ!? 怒ってねーけど!?」

「怒ってるよ」

「怒ってない! 可愛いと思ってる!!」

 顔を木に実るリンゴのように真っ赤にして、やっぱりゼインは怒っていたが、可愛いと誉められ、ブランシュの胸はばくんと揺れた。母に髪を撫でられながら言われる可愛いとはまた違って、なんだかくすぐったいものだ。


 とある嵐の翌日。ブランシュはいつものように窓辺でゼインを待っていた。今日でこそよく晴れ渡っているが、昨日はものすごい雨風で、窓ががたがたと強く揺さぶられ、ブランシュは母にベッドではなく部屋の隅で眠るように言われた。もし万が一ガラスが割れたり、何かが飛んできたりしたら危険だからだ。
 嵐の過ぎた平原の草は嵐が通っていった方向に薙ぎ倒されている。二階から庭を見下ろせば枝や葉がたくさん落ちていて、せっかく母が植えたエンドウ豆は吹き飛ばされ、もう少しで収穫できそうだったカボチャも遠くまで転がされていた。
 村の方の被害はどうなのだろうか。ブランシュの家まで続く、普段よりさらにぬかるむ沼地に掛けられた板の上を全力疾走でやってくる足音も聞こえない。
 木の葉の滴を指先に移したり、寝転んだり、髪を一本だけつまんでぱきんと折ったりしているうちに眠たくなってきて、うとうとしだした頃、遠くから話し声が聞こえてきた。誰だろう。一人はゼインだ。もう一人は、女の子の声。母のものではない、もっと幼くて若い、リボンや琥珀のブローチなど可愛いものばかりを集めたような声。体を起こし、ブランシュがそっと目元を指先で撫でると、かきん、とガラスとガラスがぶつかる。いけない、と指の腹を確認し、違う指で目元を触る。よかった、割れていない。
 開け放たれた窓から顔を出すと、庭にゼインと、見たことのない女の子の姿があった。女の子は亜麻色の巻髪にきれいなドレスを着て、ゼインの腕に掴まりながら汚れた靴の裏を見ているところだった。
 こんなに可愛い女の子、見たことがない。目尻のつり上がった瞳も魅力的だったし、肌も白く透き通っていて、生きている人形のよう。彼女の肌もガラスでできているのだろうか。

「ブランシュ!」

 ゼインがブランシュに気づいて、正しくは太陽に反射して光ったブランシュの額に気がついて顔を上げる。

「ごめん、こいつが勝手についてきたんだ」

「こいつじゃない、アンヌ・マリー!」

 というのが、この動くビスクドールの名前らしい。

「おまえほんっと、生意気」

「三つ違うだけじゃない」

 彼女は地に足を下ろすとゼインの横でじっとブランシュを見てきた。というよりはそこかしこ、隅々まで観察してくるような、すべて暴かれてしまうような居心地の悪い視線。体を縁取る曲線がぞわぞわして、ブランシュが部屋に引っ込もうとしたとき、

「ねえ、あなた! どうしてそんなに光っているの」

 アンヌ・マリーがびしっとブランシュを指差してきた。威圧的な態度にブランシュの体は固まってしまう。

「うるせーな、なんでもねぇよ」

「ゼインには聞いてない。ずるいわ、そんなにきれいだなんて。あなた、妖精か何か?」

 ずるい。
 初めて受けた言葉をブランシュは受け止めきれないでいると、ブランシュの心情を察したのかゼインがアンヌ・マリーの背中を押し、足を元来た方向に向ける。

「ほんとごめん、今日はもう帰る。また明日一人で来るから!」

「あら! それなら私もまた明日来る。もしだめって言うならあなたのお父様に告げ口してやる」

「なんだよそれ!」

「知ってるのよ。お父様の言いつけをやぶってここに来てること」

 腕組みをしてアンヌ・マリーはゼインを見据え、ゼインは眉間に皺を寄せ返す言葉を探しているようだった。
 それまで柔らかく優しいものばかりに包まれていたブランシュにとって、アンヌ・マリーは初めて触れた固いもの、だった。もちろん彼女の体のことではなく、彼女の視線や、口調、態度というすべてが固いものに感じられた。特に、ゼインとアンヌ・マリーが一緒にいることが、ブランシュの中で生まれた固いものに引っ掛かる。

 その日はそのまま、ゼインはまだたくさんの質問を投げ掛けてこようとしたアンヌ・マリーを連れて帰ってしまった。
 アンヌ・マリー。
 ゼインの口からそんな名前の友達を耳にしたことはない。今までたくさんの名前を聞いてきて、彼らがゼインと一緒にいられることへの羨ましさを感じたことはあったが、今回初めてゼインと一緒にいる誰かを目の当たりにして、しかも、それが自分ではない他の女の子であることにしくしくとブランシュの心へ悲しみが沸いてきた。もし、私がアンヌ・マリーのように体にヒビが入ることを気にせず動けたら、ゼインと一緒に秘密基地だって、ドラゴンの巣にだって、どこにでも行くことが出来るのに。アンヌ・マリーはもうそこへ行ったのだろうか。私も見たことのない場所へ、ゼインと二人。
 動くことのない窓辺から、ブランシュは村へ戻っていく二人の背中を見送った。ぬかるむ沼の不安定な板の上をゼインの背にくっつきながら、きゃあきゃあと楽しそうに騒ぐアンヌ・マリーの姿こそ、彼女が言うずるい、ということではないのだろうか。これから二人は何をして遊ぶのだろう、外の世界でゼインと走ったり、飛んだりするのはどんな気分なのだろう。

「ブランシュ、今のだれ? ゼインの他にだれがいたの?」

 騒ぎを聞き付けた母が階下からやってきた。エプロンには白い小麦粉がたくさんついている。それから、ブランシュそっくりの額にも。

「知らない。アンヌ・マリーって名前みたい」

 素っ気なく答え、ブランシュは夕方でもないのに窓をぴっちりと閉めた。胸のくすぶりは消えないが、もうこれきり会うことはないだろう。

 ところが、しばらくしてからアンヌ・マリーが一人でブランシュを訪ねてやってきた。母も窓からやってくるのではなく、きちんと礼儀を踏まえ挨拶をしてきたアンヌ・マリーを門前払いすることができなかったようで、母立ち会いのもと、部屋には入らないという約束をつけて、再びブランシュは彼女と顔を会わせることになってしまった。
 近くで見れば見るほど、可愛らしい姿。健康的で柔らかそうなくちびる。こんな友達が欲しかったけど、彼女は違う。話すことなど何もないのだから帰ってほしい、と母に救いの視線を投げ掛けたが、母も長くまぶたを下ろしただけ。どうしてゼインでなく彼女が。ブランシュは明日一人で来るからと言ったきり、さっぱり遊びに来てくれないゼインのことを初めて恨めしく思った。

「この前はごめんなさい、きちんと挨拶もせず悪かったわ」

 相変わらずぴしりとした角のある口調ではあったが、悪かったという謝罪にブランシュは面食らった。まさか、彼女がこんなことを言うなんて。あの数分だけで、ブランシュの中でのアンヌ・マリーはひどく高慢で意地悪な女の子という設定になっていたのだ。

「これ、お詫び。いちご水とキャラメルのプディング。アエラに作らせたから味は保証するわ。それからこれ」

 赤い格子柄の布が掛けられた藤のバスケットと、アンヌ・マリーはもうひとつ持っていた花冠もブランシュにと差し出してきた。赤や黄色、ピンクと色とりどりのアネモネの新鮮な茎がきれいにまぁるい輪っかの中に編み込まれている。

「この前の嵐の中で生き残った花よ。あなたに似合うと思って」

 花冠に胸を高鳴らせながらブランシュが母の顔色を伺うと、母は一度頷いた。触れて良い、ということだ。手を伸ばし、アンヌ・マリーの手から花冠を受けとると、滑り落ちないよう気を払い、頭の上にのせた。

「やっぱり! こんなに花冠が似合う子、見たことない! ほんとよ。私ベリーズから来たの。たくさんひとはいたけれど、ブランシュみたいな子、初めて。そのドレスも素敵。どこで作ってるの?」

「これは……お母さんが」

「うそ! おばさまが!?」

 大きな目をさらに大きく開けて、アンヌ・マリーはブランシュと母を交互に見た。

「すごい! すごいすごいすごい! こんなデザインのドレスが作れるなんて!」

 興奮しているのか、頬が赤く染まっている。どうやら思い違いをしていたらしい。意地悪なのはむしろ自分のほうだった、とブランシュは狭い視野でしか考えられなかった自分を恥じた。

「私来たばかりで友達が全然いないの。だからブランシュ、友達になってくれる?」

 友達。
 ほしくて仕方なかったものが突然現れて、ブランシュは声を出すことが出来なかった。ゼインだって友達だけど、もともとほしかったのは同じ女の子の友達。しかも、こんなに可愛らしい。それこそアンヌ・マリーの方がブランシュにとって妖精かなにかだった。ブランシュは頷いた。

「嬉しい! ブランシュもうちに遊びに来て! 私、あのお城に住んでるの」

「お城…?」

「そう。お父様が亡くなったからお母様の実家に戻ってきたんだけどね、広いだけね。お母様は私の話になんか興味はないし、退屈してるの。だからブランシュ、遊びに来て!」

 腕を掴んでくるような勢いでアンヌ・マリーが話すので、ブランシュは少し距離をとったが、彼女は気づかなかった。それくらい楽しそうに話すのだ。きっと母が制止に入ってくれるだろう、そう思ったのに、母は黙って口許を押さえ、階段の方をじっと見ている。何があったというのだろう、母に気を取られているうちに、アンヌ・マリーが約束よ、と残し母の前で挨拶をすると足早に帰っていった。
 まるで嵐だ。この前のような、魔王が連れてきた嵐ではなく、一面の花びらを撒き散らす春の花嵐。

「お母さん、どうしたの」

 アンヌ・マリーが帰ったあともぼんやりしている母に声をかけると、母ははっとして、ブランシュを見た。瞳の奥が怯えているように、何かを恐れているように揺れている。どうしたの。ブランシュはもう一度問いかけた。ドレスや長いリボンのついた帽子、アンズのジャム。何でも作り出す魔法の手が伸びてきて、ブランシュの体をそうっ、と包み込む。世界の何より愛しく大切なものをため息で壊さないようにするみたいに、そうっ、と。

「なんでもないわ、いい子ねブランシュ。これからもお母さんのいいつけを守って。部屋の中から出たらだめ。お母さん以外に体に触らせるのもだめ。走るのも跳び跳ねるのもだめ、髪の毛を折るのもだめ。友達を部屋に入れるのもだめよ。いい、わかった?」

 改めてだめなことばかりに囲まれている生活に気づき、新しい友達に高揚していた気持ちがしゅん、としぼんで溶けてしまう。
 普通の子供だったらよかったのに。そうしたら、走って、踊って、ゼインとアンヌ・マリーと一緒に遊べる。ブランシュは生まれて初めて母を憎らしく思った。

 友達が増えたことで、狭い部屋だけがすべてだったブランシュの世界が大きく変わり、窓を開いた瞬間に風が吹き込んでくるときのようにたくさんのものが心に、体に飛び込んできた。

 二日後、ゼインは相変わらず窓の外から、アンヌ・マリーはお姫様ということもあってか母は部屋の前まで入ることを許してくれた。逆を言えばお姫様でも部屋への侵入は認められなかったが、アンヌ・マリーはそれでもいいと言って固い床の上に座って何時間でもブランシュと話しをしてくれる。
 お城での生活のこと、社交的な母のこと、亡くなった優しい父のこと。
 大人のいない場所でアンヌ・マリーは娘に全く興味のない母を嘆き、ブランシュは過干渉な母を嘆く。姉妹のように人形で遊び、都会、ベリーズで流行っているという幸せを願うツグミの歌を教わった。
 ところが、アンヌ・マリーと二人遊ぶときは手放しで楽しめるのに、そこにゼインが混じるとブランシュの気持ちは複雑になる。早口で機転の利くアンヌ・マリーとゼインの会話は絶妙だったし、ブランシュはなかなか入り込めない。曖昧に笑ってクッションの端を折ったり引っ張ったりして会話が終わるのを待つ。

 ゼインと二人だけのときより、楽しさは倍になったはずなのにその分寂しさも増えた。ゼインは庭師の父の手伝いでアンヌ・マリーの住むお城の庭の修繕を始めたらしく、二人にしかわからない話題がある。二人は走ってブランシュのところへやって来て、ふざけながら沼を渡って帰っていく。二人が二人だけでいるのを見るとき、ブランシュの心は穏やかではなかった。一人で部屋にとじ込もっていたときより輪をかけて大きな疎外感に襲われる。一人の方が寂しくないなんておかしな話。アンヌ・マリーのことは好きだ。話していて楽しいし、可愛くて優しくて、素直で。理想の友達そのもの。
 だけど、ゼインへの好きとは違う。あの枝を握る腕に触れたいと強く、体の中が沸き立つほどに願う。もう一度、てのひらに、それ以外にも触れてほしいとも思う。外側だけでなく内側まで触れて、灼熱で珪砂に戻ってもいいとすら。こんなに激しい気持ちになったことはない。


「明日からしばらく会えなくなる」

 三人でお城で生まれた子馬の話をしていたときに突然、ゼインが切り出してきた。ブランシュは理解できずぽかんとして、口を閉じることが出来なかった。黒い瞳が同じ色の髪の隙間からブランシュを見てくる。

「手伝いじゃなくて、父さんの跡継ぐために、勉強としてアンヌ・マリーのとこでオレも働くことになったんだ」

「前の嵐のとき、ダメになった花がたくさんあったの。ゼインのお父様一人じゃあ手に終えないからって。あっ、ゼインは仕事だから来ないけど、私は来るわよ!」

「おまえ家庭教師の先生来週から一人増えるだろ」

「そんなの関係ないわ。ねえ、ブランシュ、いいでしょう、女の子同士で遊びましょ」

 ゼインと会えなくなる。
 頭の中が磨りガラスのようにぼんやりする中、ブランシュは頷いた。アンヌ・マリーは毎日会えるのに、私とは会えなくなるなんて。会わない間に、私のことを忘れてしまったらどうしよう。どうでもよくなって、アンヌ・マリーだけが大事になってしまったら?

 その後は何を話したか覚えていない。また来るわね、とアンヌ・マリーが立ち上がり、階段を軽快に降りていく。ブランシュもまた立ち上がったが、ふかふかの床に足がついているのかどうかすらわからず、転ばないよう気を払いながらまだリンゴの木の枝に座っていたゼインに近づいた。体が冷たく感じるのはガラスでできているからではない。

「ブランシュ」

 自分がどんな表情をしているかわからないが、ゼインは気が重たそうに、虫がついているからともぎ取った青いリンゴを親指で撫でていた。

「仕事、きちんと覚えて一人でもやれるようになりたいんだ」

 将来の道しるべの前にゼインは立っている。それに対してブランシュはどうだ。道しるべなどない。一生、母と二人沼とクッションに囲まれて暮らしていく。二人と一緒にいることで忘れていたが、ブランシュの体はガラス、冷えた珪砂の塊。真っ暗な谷底に突き落とされるような絶望だった。
 ベッドの上を四つん這いになって窓辺に寄り、ブランシュは窓枠に手をかけ身を乗り出す。一気に二人の距離が縮まった。ブランシュの長い髪が木漏れ日を受けて光のカーテンになる。

「アンヌ・マリーのところの仕事やり終えて、いつか一人立ちしたら」

 言いかけたゼインの柔いくちびるにブランシュはガラスのくちびるを押し付ける。私以外の名前を呼ぶくちびるならいらない。
 ほんの一瞬の出来事だったのに時間が止まったかのように長い時に感じられた。くちびるを離したところで、玄関からアンヌ・マリーが飛び出してきた。ゼインの時間はそのまま止まってしまったようで、固まったままブランシュを見つめている。

「ゼイン! 帰るわよ!」

 玄関の脇から呼び掛けてきたアンヌ・マリーの声が辺りに響く。ゼインの周りの時がまた動き出したときには、すでにブランシュはいつものように部屋の中でぺたんと座り、しーっ、と秘密を閉じ込めたくちびるに人差し指を当てた。


 庭師の息子の決意は口先だけでなく固いものだったようで、その日を境にぱたりとブランシュのところへ来なくなってしまった。毎朝同じ時刻に城へ向かい、同じ時刻に村へ戻る馬車を窓際から眺めてはゼインを思う。怪我はしていないだろうか、身長は伸びたのだろうか、私のことを思い出してくれる瞬間があるのだろうか。
 それでもアンヌ・マリーが来るたびに彼の話をしてくれるので近況を知ることはできた。ブランシュの知らないゼインを知るアンヌ・マリーの存在は貴重であると共にやはり羨ましくもある。
 時折どうしようもなくなって、アンヌ・マリーの短所を拾い上げ勝ち誇ったような気持ちになり、自分を慰めた。しかしそんなものは無意味だ。大切な友達をほんのわずかにでもバカにしてしまったことへの恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになり、消えたくなった。
 ブランシュはゼインを諦めようとしては失敗し、諦めがついたと心を明るくしては落ち込んだ。何度も過去へ戻り、思い出すのは最後に会った日のキスのこと。もう二度と触れたくない、触れたい、触れたい、触れたくない。触れたい。

 そうして長い冬を五度繰り返し、アンヌ・マリーが髪を切り、お城の馬が五歳になったある日のこと。ブランシュも十五歳になり、陽向でやんわりバラが開花していくように美しく成長していた。アンヌ・マリーも同様にさらに愛らしさに磨きがかかり、洗練され、それが災いして最近は求婚を受けることが多くなった、と愚痴をこぼす。そんな自慢すべき娘に興味のない母親との確執はひどいもので、もう半年は口をきいていないという。アンヌ・マリーは相変わらず固い床の上でブランシュと母の関係が羨ましいと口癖のように繰り返した。ブランシュからしてみれば、行きたいところに行き、自由があり、ゼインと毎日のように顔を合わせることができるアンヌ・マリーの方が羨ましい。彼女はゼインと同じく、ブランシュを絶対安静の難病だと信じて疑わず、それでいて患者扱いせず対等に接してくれる。こんなに良い友達なのに、ブランシュは相変わらずアンヌ・マリーに嫉妬して羨んでは自分を責めた。

「ブランシュ、私気づいたことがあるの」

「なに?」

 母が出してくれた紅茶の入ったティーカップを置くと、あらたまったように姿勢を正し、アンヌ・マリーは声をひそめる。

「私、ゼインが好きみたい。明日の誕生日パーティーで気持ちを伝える」


 ブランシュの心は荒れた。
 竜巻が感情という感情を巻き込みごうごうと唸りを上げ、部屋のすべてをひっくり返したくなる衝動に駆られる。それまで自制をかけ、てのひらをいっぱいに広げ両手で蓋をして押さえつけてきたものがすさまじい勢いで溢れてきた。
 アンヌ・マリーがゼインのことを好きになるのはおかしなことじゃない、それだけゼインには魅力がある。優しく、強く、真面目で、引き寄せられる力がある。アンヌ・マリーも。これだけ可愛くて、聡明で、意思をしっかり持っているのだから、ゼインが彼女を好きになる可能性だって高い。それなら、ブランシュは。
 高く積まれたクッションの山の前に立つと、ブランシュはその中から紫色のものを乱暴に手に取り、壁へ投げつけた。クッションはばふん、と情けない音をたてて床へ落ちる。なんて、へなちょこで、力もなく、虚しい音なのだろう。がちゃんとか、ばん、とか、力強い音を出したりできないのか。ブランシュは涌き出るぎりぎりとした苛立ちを押さえられず、片手にひとつづつクッションを持ち、交互にまた壁へ叩きつける。母が作ってくれたファブリックボードが傾く。それでもおかまいなしだ。ブランシュはクッションをひっつかみながらぼろぼろと泣いた。アンヌ・マリーみたいになりたい。天真爛漫で、好きなひとに好きと告白し、側にいたい。だけどそれは死んでも、壊れても叶わない。
 ゼインが好きだ。
 こんなにも好きで、今すぐ会いに行きたいのに、ガラスの体がすべて邪魔をする。何も叶わないのなら、今ここで壊れてしまってもいい。
 憎しみは呪いより強い、というずいぶん昔に聞いた母の言葉が頭に浮かび、ブランシュは高く振り上げたクッションを力なく手から離した。

「ブランシュ!!」

 異変を感じた母が顔を真っ青にして部屋に飛び込んできた。

「何してるの! 物を投げちゃいけないって約束したでしょう!? 壊れたらどうするの!!」

 怒声に近い母の声はやがて鳴き声に変わり、ブランシュの腕や足にひび割れがないか確認してから、やっと息ができたかのように、ほうっと長く息を吐き出した。今まで逆らったこともない娘の奇行に母の手が震えている。

「どうして私はガラスなの!? こんな体のせいでしたいこと、なんにもできない! ねえ、なんなの!? 憎しみって、何があって私はこんなふうになってしまったの!?」

 優しく、柔らかく包み込もうとしてくる母の腕を拒み、ブランシュは生まれて初めて叫んだ。高い声はガラスの中で振動する。おとなしく、静かな娘が取り乱すのを見て、初めて拒まれた母は今起きたことが信じられず、正しくは信じたくなくて視線をさまよわせた。

「お母さん!」

 問い詰められ、母はたくさんの綿を詰めたきのこ型の椅子にすっと腰を落とすと乾いたくちびるを開き、空気を取り込み、吐き、取り込んでから一息に過去を解放した。

「アンヌ・マリーはあなたの妹よ」


 話はこうだった。
 二十才で念願のお城でお針子となった母は、そこでアンヌ・マリーの母とその婚約者と出会う。
 二人は見た目こそお似合いだったが、親同士が決めた間柄だったためか婚約者の男はどこか冷めており、母と話をするうちに二人は惹かれあい、懇意となった。
 お針子の娘と一国の王となる男では身分が違いすぎる。男は母を連れて逃げようと言ったが、母は彼の将来を案じ恋心を強引に断ち切った。しかし一度きりの過ちでブランシュを身ごもってしまう。
 プライドの高いアンヌ・マリーの母の怒りはとんでもないものだった。お針子の娘ごときに婚約者を奪われたのがどうしても許せない。彼女は男ではなく、ブランシュの母に地中より深く、沼の泥より粘着質な憎しみを抱いた。堕胎させようと階段から突き落とされそうになったりもした。それでもなんとか臨月を迎えた母に、アンヌ・マリーの母は叫んだ。ここから消えてガラスにでもなってしまえ。私はあなたを一生許さない。
 アンヌ・マリーの母は結婚のため男の住むベリーズに移り、母は後ろ指をさされながら村の外れに追放されガラスの女の子が生まれた。それが、ブランシュ。

 ブランシュは部屋に鍵を掛け閉じ籠った。初めて部屋に鍵が必要な意味がわかった。斜陽の差し込めるオレンジ色に染まったベッドの上、体を横たえる。この家は村の外れにあるから誰も尋ねて来ないんじゃない、村のみんなから追いやられたのだ。
 アンヌ・マリーが妹。彼女はビスクドールのようだけど、体は陶器でできていない。母やゼインと同じように、血の通った温かな体をしている。ふんわりと綿毛のように柔らかそうな頬、真っ赤なくちびる。どうしたってアンヌ・マリーに勝てるわけがないことを本当はよくわかっていた。
 今度こそゼインを諦めよう。
 ブランシュは寝返りを打ち、淡い水色の昼と夕焼けのはじまりのピンク色の対照的な二色が入り交じる空を眺めた。
 私がガラスでよかった。
 もしかして母が自分を選ばなかった男に対し強い憎しみを抱いていればアンヌ・マリーだってガラスの体だったかもしれない。それは母に感謝するべきことであり、同時に尊敬すべき母に暴言を浴びせてしまったことを反省した。
 強い憎しみからは悲しみしか生まれない。恋をするとどうして苦しくなるのだろう。アンヌ・マリーの母親もきっと苦しかったはず。相手を憎む気持ちは自らの首をぎゅうぎゅうに絞めあげる。私は心に憎しみを持ちたくない。それよりも、もし強い気持ちがひとをガラスすることができるのなら、私は強い気持ちを持ってガラスから走って踊れる普通の人間の姿になりたい。

 翌日は朝から普段見ることのないきれいな馬車がお城へ向かっていった。アンヌ・マリーを祝うため、ベリーズから親類や友人たちがたくさんやって来ると本人が話していた。彼女に釣り合うたくさんの素敵なプレゼントや、着飾ったひとたちがたくさん集まって、ゼインと彼の父が整えたきれいな景観の庭でパーティーをするのだろう。窓の中からブランシュはアンヌ・マリーの誕生日を祝福する。彼女には幸せになってほしい。
 そうしていつものように柔らかいものばかりで囲まれた優しい部屋で、ブランシュは母が作ってくれたたくさんのドレスの中から一番お気に入りの白いドレスを手に取った。膨らんだ袖に胸の下から切り替えがついていて、ふわんと広がる。アンヌ・マリーも目を輝かせ着たいと言っていた。このドレスを来てパーティーに行けたなら。ブランシュは一人微笑んだのち俯いた。ゼインはなんて言うだろう。もう何年も会っていないのだ、ブランシュのことなど忘れてしまっているかもしれないのに、気持ちばかりは色褪せず、強くなっていくばかり。でもそれも昨日までの話。呼吸のようにゼインについて考えてしまう自分を変えたい。

「ブランシュ、ブランシュ!!」

 階段を駈け上がる音がしたかと思ったら、名前を呼ばれてブランシュは跳ね起きた。アンヌ・マリーだ。今日は朝から忙しいから来ることができないと言っていたのに、一体何が。悲しみの絡まる声にただならぬものを感じ、ブランシュがさらさらと体にかかるカーテンを払うのと、アンヌ・マリーが部屋の前に現れたのはほぼ同時だった。

「どうしたの…?」

 涙をぼろぼろと流し、目を真っ赤に腫らしたアンヌ・マリーは、はあはあと呼吸も荒く肩を上下させている。

「ブランシュ……私、私」

 取り乱したその姿に胸が締め付けられ、ぐちゃぐちゃの髪に手を伸ばしかけたが、ブランシュははっとして慌てて引っ込めた。こんなアンヌ・マリーを見たことがない。彼女はいつだって背筋をしゃんとして強気な姿勢でいるのに、一体何があったのか、聞こうとしたその前に彼女が告げる。

「私、お母様の子供じゃなかった。赤ちゃんができないからって、お父様と同じ目の色をした私を教会からもらってきたんだって……知らなかったわ、だから、お母様は私のこと嫌いだったのね」

 赤く実った甘い蜜たっぷりのリンゴが木から庭へ落ちた。
 母の過去、秘密、そして憎しみの上に暮らす事実。昨日から展開が早すぎてブランシュも対応しきれない。ただ、今は楽しくなるはずの誕生日に悲しい事実を知ってしまったアンヌ・マリーを不憫に思う。彼女の心は薄氷のような危うさで今にも割れてしまいそうだった。
 なんとか彼女を宥め、彼女を祝いに来てくれたひとたちのために城へ戻るよう諭すと、アンヌ・マリーは頷いて戻っていった。送っていくことができたら良かったが、ブランシュには無理なこと。アンヌ・マリーは沼の上を渡りながら何度も振り返り、不安げな顔をして手を振る。ブランシュも振り返しながら小さくなっていく彼女の背中を窓の中から見守った。ちらちらと指先に光が集まる。そうしているうちにアンヌ・マリーの姿が完全に見えなくなった。
 リンゴの木、空、沼、お城。いつも見ていた風景なのに、今は違うものに見える。アンヌ・マリーの母に子供が出来なかったのはブランシュの母が憎しみを抱いたからなのだろうか。それとも、ひとを憎んだ罰なのだろうか。どちらにしろ、アンヌ・マリーとブランシュは姉妹ではなかった。あれだけ大きな声で叫んでいたのだから、おそらく母の耳にも届いている。愛した男の血を受け継ぐ娘はブランシュ一人だけだったのだ。気が抜けたブランシュはベッドの上でひんやりと冷たい自分の腕を眺めた。白く、なめらかで傷ひとつない体。ひとつの傷が命とりになる体。一人の強い憎しみでガラスに変えられた体。
 ブランシュは窓からの景色をしっかり目に焼き付けると、さっきの白く長いドレスを袖を通した。足には靴下を何枚も何枚もはいて、赤いケープを羽織い、クッションの山からピンク色のものをひとつ手に持つと、部屋のドアからそうっと廊下の様子をうかがう。そうして、初めて部屋から外の世界へ踏み出した。
 転ばないように壁を伝い、階段を降りても母の姿はなく、テーブルの上に縫いかけのブランシュのドレスが置いてあった。ブランシュが頼みこんだ黒鳥のような、ゼインの瞳のような色のドレス。もしかしたら着ることはないかもしれない。
 初めて目にする一階の部屋は、母そのものだった。優しいインテリアの色使い、たくさんのクッション、きちんと整頓された食器棚。ここで母は一人過ごしてきたのだ。ブランシュがもし普通の女の子であったなら、二人で食卓を囲み、庭仕事を手伝うこともできたのに、母はどれだけ大変で、どれだけ寂しい思いをしてきたのだろう。そして、かつて愛した男のことをどんなふうに思っていたのだろう。ブランシュは息を潜め、そうっと玄関のドアを開けた。
 そこは、窓枠のない世界だった。空気だってすべてが新しく、風は後ろからも横からも吹いてくる。見下ろしているばかりだった庭は地上に立つと違うように見える。驚きと感動、そして母との約束を破る罪悪感が隣り合わせになってブランシュを圧迫してきた。母は庭にもいない。どこにいるのか全く検討もつかなかったが、背高く葉の繁ったリンゴの木に別れを告げてブランシュはクッションを抱えながら息を潜め沼を抜けた。
 確かめてみたかったのだ。強い気持ちがひとをガラスに変えられるのなら、強い気持ちで普通の体になれるかもしれない。これまでオルゴールや花瓶、たくさんのものを諦めてきたが、ブランシュはゼインを諦めきることはできなかった。

 城までの道はゼインとアンヌ・マリーが何度か説明してくれたことがあったのでなんとなく頭に入っており、進んでいくとその通りだった。こんなにたくさん歩くのは初めてのことで、途中足がぽきんと折れたりしないよう、ブランシュは木の影や小屋の裏、茂みの中でクッションに腰掛け休み休み進んでいく。
 川のせせらぎ、眩しい場所に通じる青い鳥の声。森に並ぶ樹木の匂い。すべてが新鮮で、すべてが新しい。世の中のひとたちはこんなにも美しい世界で暮らしているのか。
 しかし、二人がいつもブランシュの家へ来るルートは人目につかないかわりに険しいものでもあった。そこかしこに転がる石、大きな岩でこぼこ、道。ブランシュにとって危ないものばかりが溢れていて、油断すれば足をがつんとやってしまいそうになる。だんだんと日も暮れてきた。このままでは太陽が沈む。そうなっては危険だ。ブランシュはくたくたになりながら城へ向かう。ゼインに会いたい。それだけがブランシュの心と体を支える。顔を合わせたらなんて話そうか。ゼイン、ゼイン。ブランシュは一歩足を踏み出すたびに彼の名前を影に刻む。そのときだった。

「……きゃっ!!」

 木の根が地上に顔を出し、土を這う森の中。がつん、と左足が何かにぶつかりブランシュはそのままバランスを崩し前に倒れてしまった。手を出そうとしたがそれでは逆に危ないと咄嗟にクッションを抱きかかえた。
 ヒビが入ったかもしれない。痛みは感じなかったが、ブランシュはゆっくり起き上がり、怖々と靴下を脱いでいく。足が引っかかったには無口な木の根だった。大丈夫だろう、これくらいなんてことはない。最後の一枚を足から抜いたとき、ブランシュは小指から膝の途中にまでぴしりと一本走るヒビを見た。
 本当にブランシュはガラスだった。
 わかってはいたけれどいざ目の当たりにするとショックなものだ。他に傷はないか探すと、右肘から手首に向かって線が何本か走っている。こっちの方が足よりひどい。とうとうやってしまった。母が見たら泣いてしまうかもしれない。けれどブランシュは泣かなかった。どうしても会いたいひとがいる。
 じわじわと太陽は揺れ傾き、沈み、薄暗くなった頃。白いドレスは汚れ、足に負担がかかりブランシュの小指がぱきんと割れた。左をかばっているうちに右に体重が寄り、ふらつき、ぶつかり、またヒビが増える。
 ぱきん。ぴきん。ぱきん。ブランシュはぼろぼろだった。幸い顔だけは壊れることなく、言葉通り必死になって明るい光と音楽のする城の庭近くへたどり着いた。ブランシュの割れた体に光が入り込み、雪の結晶のような輝きを放つ。賑やかなたくさんの笑い声。このむこうにアンヌ・マリーもいる。ブランシュが植え込みの影でケープにくたくたの体を隠し、また少し休もうとしたとき後ろから声をかけられた。

「……ブランシュ? ブランシュじゃないか!」

 聞いたことのない男の声に警戒心を強めるが、背の高い男と目があった瞬間、ブランシュの時が止まった。ちょうど、窓辺でキスをされた昔のゼインのように。

「どうしてこんなところにいるんだよ、体は平気か?」

 低くなった声、がっしりとした肩。暗がりでもわかる日に焼けた肌。すっかり少年を終えてしまったゼインの姿に、ブランシュの中にあった思いがあふれ出た。胸が震え、体中に余波が広がる。覚えていてくれたのだ。そして、名前を呼んでくれた。

「ブランシュ、すごくきれいになった。アンヌ・マリーから聞いてずっと会いたかったんだ」

 本当? とブランシュはゼインを見上げた。声を発したら壊れてしまいそうだったからだ。彼の目に嘘はない。澱みなく自然界のものと同じくらい澄んでいて、あの頃のまま何も変わってはいない。ブランシュは力を振り絞り、ふらふらしながら立ち上がるとゼインに倒れこむかたちで抱きついた。ゼインの両腕がブランシュの体をぎゅっと閉じ込めるように抱き締める。ずっと、願っていた瞬間だった。目に見えない強い気持ちがある。確かにある。

「もうすぐ一人前として認めてもらえそうなんだ。そうしたら、ブランシュのそばにずっといたい」

 ゼインの言葉を心で、魂で受け止めながら、ブランシュは涙を流した。この感覚をずっと忘れたくない、決して消えないよう、失わないよう永遠の中に閉じ込めてしまいたい。
 しかし、無理をさせ過ぎた足はとうとうぱきぱきとすべてにヒビが入り、強く抱かれた上半身も同じように砕け始めた。
 壊れる。
 冬の寒い朝に起こるダイアモンドダストのように、ブランシュの体は美しい音を立て細かく砕けて散った。恐れていたことなのに不思議と怖くはない。さっきまでそばにあったゼインの肩が遠ざかっていく。足元から崩れ落ちていく感覚の中でゼインの血がついたガラスの欠片に彼のぬくもりを感じ、ブランシュは目を閉じた。
 強い気持ちは未来に必ず奇跡を起こす。

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