読経
Bさんはある日、とあるライブハウスに出かけた。友人がギタリストとして所属しているロックバンドの、ライブを観る為だ。
ライブは盛況に終わり、Bさんは友人の演奏も観れて大満足だった。友人に挨拶を済ませると、興奮を胸にしたままライブハウスを後にする。
――しかし、その帰路の途中。Bさんは身体の異変を徐々に感じ始めた。
耳が、聞こえにくくなっているのである。
まるで耳に綿を突っ込んでいるかのように、音がぼやける。ネットで調べると、“突発性難聴”。ライブハウスの爆音に耳をやられて、一時的に耳を悪くしてしまったのだ。
(参ったなぁ……)
一時間後。Bさんの住むアパートの部屋に着いても、耳は一向に良くなる気配を見せない。それどころか、周りが無音になると酷い耳鳴りがしだした。頭頂部で蝉が鳴いているかのような高周波音が、両耳を襲うのである。
さらに、リビングの明かりを調節する為のリモコンの操作音――“ピッ”といういつもの電子音が、全く聞こえなかった。……どうやら、そうとう耳が聞こえていないらしい。
(明日も仕事なのに……)。そんなことを思いながらも風呂に入り、寝巻きに着替える。そして寝る前に、トイレに入った。
――すると。
「……南無妙法蓮華経……」
隣の部屋から、お経が聞こえ出した。
――しかし、Bさんは特に驚きもしない。零時過ぎ、この時間帯になると隣の部屋から、毎日聞こえてくるものだったのだ。Bさんの隣の部屋には、老婆が一人で住んでいた。彼女はこの時間帯になると、お経を唱えることを日課としていたのだ。
(あぁ、今日も唱えてら……)
Bさんは、老婆のお経に耳を澄ませる。
(……? 待てよ……)
――ここでBさんは、疑問に思う。
お経は、いつも聞いてる音そのものだった。――今自分は耳を悪くしているはずなんだから、そんな小さな音が今、自分に聞こえるはずがない……と。
目を瞑り、音に集中した。
静寂の中――耳鳴りによる高周波音の中に、はっきりとしたお経の響きを感じることができる。
「……南無妙法蓮華経……」
Bさんは思った。
あぁ、この音は耳で聞いてるんじゃないんだ……。……と。
――数日後。Bさんは隣に住んでいた老婆が、とっくに亡くなっていたことを知った