第95話 初めての嫉妬
浮気、という言葉がクロノの行動に当てはまるかどうかといえば、それは恐らくNOと言えるだろう。
クロノはリリィのことを相棒として絶大な信頼を寄せ、この異世界において誰よりも大切に思っているが、恋愛関係の方向には発展していない。
端から見れば、リリィが抱きついてくるのを甘んじて受け止めたり、優しく頭を撫でたりと、そこらのカップルよりもスキンシップ過剰であるが、断じて二人は恋人では無いのだ。
なぜならリリィはその小さな胸のうちに秘めた熱い思いをクロノに打ち明けて、つまり告白をしていないし、クロノもまた彼女へ告白したなどという事実は一切無い、雰囲気すら無い。
しかし、そんな一般論的な見方は今のリリィにとって犬にでも食わせた方がマシなほど無価値な論理である。
(誰よっ! 私の、私のクロノを誑かそうとしている女は、雌は、ケダモノは! クロノに指一本でも触れてみろ、欠片も残さずぶち殺してやる!!)
モズルンの要約すると「女を抱きにクロノが出て行った」という台詞をこれ以上ないほど真に受けたリリィは、
(許さない、そんな羨ましいこと絶対許せない、私だってクロノとまだ、キ、キ、キッスだってしてないのにぃ!!)
理性の箍が月までぶっ飛んで行ったように感情を爆発させていた。
(どこ、クロノはどこに行ったの、どこにいるの……)
だが、それでもクロノの居場所を推理する冷静な思考も同時に出来るところがリリィの狡猾なところでもあった。
(今この村に残ってるということは、まず間違いなく冒険者。
それに、モズルンが「えらい可愛らしいエルフのお嬢ちゃん」と言ってたってことは、『三猟姫』のメンバーでは無く、今日初めて見かけた人物。
ということは、事情を知らずに今日クエストから帰ってきた、ってところかしら。
それなら、男と二人きりになれるような場所は――冒険者が利用する宿屋、ね)
アルザス村に冒険者が宿泊する施設は二つある。
一つは今全ての冒険者が集結している冒険者ギルド、もう一つは通常の宿屋、アルザスの村の規模を思えば、ギルド以外にもう一件宿があるだけで十分過ぎる設備と言えるだろう。
そして、リリィはこの小さなアルザス村の脳内マッピングは完了してある、一切迷うことなく、村で唯一の宿目指して飛翔して行った。
見つけた。
宿の裏手にある、薄汚い物置小屋、ここにクロノと泥棒猫がいる。
「クロノ……私が助けてあげるからね」
私のクロノが今この瞬間にでも穢されるかもしれないと思えば、1秒でも時間が惜しい。
外から様子を窺ってあれこれ考えるのは時間の無駄以外のなにものでもない。
故に正面突破、最短距離を最短時間で、クロノの元へ。
だが用心はする、何と言ってもクロノというこの世で最高の男をほんの一時とはいえ手に入れている女がこの中にはいるのだ、邪魔が入れば冒険者である以上は実力行使で排除してくるはずだ。
もっとも、本気の私の前では一介の冒険者など相手にならない、いや、例え私の実力を上回るランク5冒険者だったり、ドラゴンだったりしても、私はクロノを助けに行くことに躊躇などしない、するはずもない。
そして、今この瞬間にそれを実行。
防音性の欠片もない薄い木の扉を前に、
「妖精結界全開」
光の防御魔法は、扉どころか触れた壁までも木っ端微塵に吹き飛ばして、私の通る道を作る。
光線、光弾、さらに『星墜』も詠唱を終えた状態で突入、抵抗すれば、跡形も無く消し去ってやる。
「クロノっ!!」
踏み込むと同時に、物が溢れ雑然とした室内に愛しい彼の姿を見つけた。
「リリィ!?」
「え、何!? 何なの!? っていうかドア壊れてるし!」
驚愕に目を見開くクロノともう一人の人物。
そうか、コイツがクロノを誑かした悪い泥棒猫ってコト。
小柄で華奢な体つき、灰色の髪にエルフ特有の尖った細長い耳。
顔立ちはモズルンが評した通り、可愛らしい、緑の瞳を持つ猫のような目が愛嬌を誘う。
けれど、私に言わせればそれまでの顔、魅了が宿るほどの美貌では無いし、私には無いような大人の色気溢れる体つきをしているワケでもない、ただのガキ。
こんな、こんなレベルの女に手を出すくらいなら、どうして私に――いや、止めよう、今はとりあえずコイツの排除が最優先だ。
「大丈夫だよクロノ、今私が助けるから」
二人に着衣の乱れは無い、最悪な事態は免れていたようで一安心、けれど、コイツをクロノの前から消し去るまで油断はできない。
私はクロノを安堵させるように満面の笑みを見せると、今度は必殺の覚悟をした無表情でエルフのガキを睨みつける。
「ひ、ひぃっ!?」
ふん、雑魚が、私の殺気を真正面からうけて完全に怖気づいている。
クロノに手を出そうって言うんなら、もっと自分の力を磨いてから現れなさい、この身の程知らずの馬鹿女――が、いや、待て、ちょっと待って。
「……」
コイツ、もしかして男?
それは直感に近いものがある、だがそれを確かめる為に、私に対する恐怖がだだ漏れとなっているコイツの表層意識から、より深いところまでテレパシーを仕掛けてみる。
その回答は、すぐに得られた。
(なんで――どうして、僕は男なのに――弱い、情けない――)
正真正銘、コイツは男だ。
円らな瞳に薄っすら涙を浮かべて可愛らしく怯えてみせるこのエルフは、男なのだった。
けど、だからと言ってまだ油断は出来ない。
いや、寧ろクロノが‘こういうタイプ’が好みだったと言うのなら、尚更私に手を出さなかった納得もいく。
特に勇敢に戦う強く逞しい真の男は、女だけでなく男もイケる、寧ろ男を抱いてこそ、みたいなことを、森の魔術士が小屋に残していった本で読んだことがある。
なら、クロノがこの少年に食指が動いてしまったことも――
「ちょっと待てリリィ! 絶対何か勘違いしてるぞ!」
と、いつの間にかクロノが私の前に立ちはだかっていた。
何、この女ですらないガキを庇うの?
「コイツは敵じゃない! ただの冒険者だ、俺に協力してもらうために話してただけだぞ」
「信用、できない」
「コイツは今日クエストが終わって帰ってきたから、見たことがないというだけだ、別に十字軍のスパイとかじゃないと思うぞ?」
何か、致命的な食い違いが起こってるように思える。
いや、確実に間違ってる、どちらかと言うと、私が。
え、なによ、もしかして私の早とちりだったとか言うワケ?
「な、だから落ちついて話を――」
「うん、そういうこと……」
いや、それならそれでいい。
少なくとも自然に流れ込んでくるクロノの表層意識には、一切の色欲が映っていない。
隠し事をしている感じでは無い、勘違いして暴走している私をどうにか必死に食い止めようとする熱い思いがあるだけだ。
そうか、ただの協力者……それなら、私が少し恥かしい勘違いをしただけでこの場は丸く治まるだろう。
「……じゃあ、詳しく聞かせてもらおうかしら」
私は素直に折れることにした。
クロノが何らこの男に思うところが無いというのなら、問題は無い。
一番の問題点は、あの骸骨男が適当なコトを言ったことだ、何が、何が「お楽しみ中に違い無い」よ、ふざけんじゃない、お陰で無様に取り乱した姿をクロノに見せてしまったじゃない。
光線の一発でもぶち込んでやらなきゃ気が済まないわね。
「ああ、えっと、この子はシモン、ランク1の冒険者だ」
そうして、シモンとかいうヤツと、私も一応自己紹介して、クロノから事情を聞き始める。
と言っても、すでに女としての‘敵’でない事が分かった以上、このシモンという人物に興味など失せてしまっている。
「――そんなワケで、シモンには協力して貰おうと思ってるんだ」
後は適当に話を聞いて、私が納得したようにすればこの場は解決だ。
解決、するはずだった……
「怖い顔をして、どうかしたんですかリリィさん?
もしかして、本当にクロノさんは――」
「いいえ、何も無かったわ、ただあの骸骨の下品な勘違いよ」
フィオナの問いかけに、リリィは努めて冷静に返事をする。
だが、すでに幼児の肉体へ戻ってしまっても、フィオナをして「怖い顔」と言わしめるほどの表情をしてしまっていることに、リリィは気づけない。
「そうですか、それなら良かったです、色恋沙汰で内部分裂というのは、そう珍しい話ではないですからね」
「フィオナにしてはマトモなことを言うじゃない、経験あるのかしら?」
「いえ、私は一人で外から眺めているだけだったので、よく観察することが出来たというだけのことですよ」
「そう、なら安心して、クロノは性欲も満足に御せ無いような頭の悪い男じゃないから」
そして、リリィは少し休むと言ってフィオナの前から立ち去った。
向かう先はクロノが利用している客室。
本人は今もまだ扉が消滅して風通しの良くなった物置研究室でシモンと語り合っている最中。
リリィは主のいない客室に入ると、すぐにベッドへ飛び込んで、小さな手足を投げ出して寝転がった。
「……イライラする」
布団を被り、枕に顔をうずめるリリィは、そこに染み付いているクロノの匂いを胸いっぱいに吸い込む。
普段ならこれ以上ないほど心を落ち着かせてくれるその香りも、今はリリィの心の波を殊更に掻き立てるだけの効果しかない。
「なんで、クロノ……あんな……」
一体何が、これほどまでに自分の心をかき乱すのか、分からない。
だが原因はハッキリとしている。
「あんなに、嬉しそうにしてるの……」
それは、クロノがシモンへ向けていた感情。
銃の存在、魔法を使わない錬金術、事情を聞いている間に、クロノがシモンの持つ‘能力’に対して凄まじく心が惹かれていることが分かってしまった。
それこそ、テレパシーなど無くても分かってしまうほどに。
歓喜、好奇心、期待、そんな正の感情が入り混じった強い思いは、変に歪むこと無くストレートに賛辞の言葉となってシモンへ届けられていた。
「あんなの知らない、あんな思いは、一度も、向けられたことなんて、無い」
リリィはこれまで間違いなくクロノと心を通わせて、圧倒的な信頼関係を築き上げてきた、それは勘違いではなく、自他共に認められる確かな絆。
クロノが異世界において、いや、その人生において家族に匹敵するほど大切に思う人物はリリィの他にはいない。
クロノの信頼と親愛は嘘偽り無く本物だ、そしてそれをリリィも理解している。
だがしかし、親愛と興味はまた別の感情である。
リリィは確かにこれ以上ないほどクロノの‘情’を獲得しているが、好奇心的な興味・関心をひいているわけでは無い。
シモンという存在は、これまでリリィがひくことの出来なかったクロノの関心を、錬金術によって一気に集めたのだった。
何故クロノがそれほどまでに錬金術という技術に心惹かれているのか、詳しい事情は心の奥底まで覗いていない、いや‘構造上’覗くことが出来ないリリィには分からない。
だがそんな理由よりも、現実としてシモンがクロノの興味を一身に集めていることが、
「気に食わない、なんで、どうして、あんなヤツが……」
何よりも納得のいかないのであった。
リリィはこれまで一度も、クロノとの関係に不満を覚えたことは無い。
それはクロノの態度だけでは無く、リリィ自身に関しても。
例えば容姿。
クロノの前に現れる様々な女性、中にはフィオナやイリーナのように見目麗しい者がいる。
だが、彼女達の美貌に対して自分が劣っているとは思わない、故にその美しさを嫉むことなど無い。
冒険者として命がけの戦いをするクロノ、そんな彼と肩を並べて戦う力も持っている、何ら無力感に苛まれることも無い。
そう、自分はクロノの相手として一切不足の無い、完璧な存在だと思っていた。
だがしかし、今日この日、シモンという男の出現によって、最もクロノの心を惹いていたという事実が覆されたのだった。
「なんで、なんでよ、悔しい――」
そうして、ついにリリィは自分が持て余す感情の正体に気づく。
それは、完全無欠の美と力を持つリリィにとって、これまで全く無縁であった感情。
人として本能に近いほど原始的な感情にして、大罪とも称される、負の思い。
「――そうか、私、嫉妬してるんだ」
リリィは、生まれて初めて嫉妬の感情を覚えたのだった。