第518話 曙光の月のアヴァロン
「えーっと、南三番街がここだから……ブロッサム通りに出るには、うーんと……」
ただでさえ白い街並みを、舞い落ちる粉雪がさらに白く染め上げていく寒々しい景色の中で、私はうんうんと唸りながら、地図を片手に魔族の街中をウロついている。
本当に勘弁してよね。私、割と方向音痴で地図の読み方には自信がないの。迷わず歩き回れるのは、成人するまで育った孤児院のある小汚いスラム街だけ。何年か過ごしたヘルベチアの城下町でさえ、まだ満足に道を覚えていないというのに、初めて訪れた街、しかも、エリシオンに匹敵するほどの巨大な都市に一人放り込まれて、スムーズに目的地まで辿り着けるはずがない。正直、日が暮れる前にこの『南三番街』という住所に辿り着けただけで、奇跡みたいなもの。
この辺で、頑張った私のためにご褒美の一つでも与えたいところだけど、目的地まではあと一息。ここは気を抜かず、一気にゴールまで辿り着いてしまいたい。
何しろ私は、脱獄犯。第五次ガラハド戦争において敵の虜囚となった『ヘルベチアの聖少女』ことリィンフェルト・アリア・ヘルベチア・ベルグント――改め、私、リンは、律儀にもあの謎の仮面男の言いつけどおり、潜伏先として示された『セントユリア修道院』を目指していた。
勿論、最初はどうにかこうにか十字軍へ戻ろうとはしたものの……私の力でガラハド要塞を抜けて、本陣に駆けこむことなんて不可能だし、身を潜めて真冬の雪山を踏破する能力もない。そもそも、脱走した時点で、最後には負傷兵を満載した竜車に忍び込んでいたので、そのまま真っ直ぐ私もスパーダ送りとなっている。ガラハド要塞にもう一度戻ることさえ、ままならなかった。
そして一先ず、敵国の首都であるスパーダに潜伏して、準備と情報収集を行おうとしたけれど、運命の聖夜が明けると、スパーダ大勝利、十字軍敗走、の一報が街のどこにいても聞こえてきた。これによって、私の十字軍帰還の目途は、いよいよもって絶望的となる。
ついでに、大将のベルグント伯爵も討ち取られたということで、たとえ戻っても私に平穏な生活がないことは火を見るよりも明らかだ。もう二度と戻るもんか。この無意味に長ったらしい貴族の名前も、私はこの瞬間に捨て去って、ただのリンに戻ろうと決意した。
ともかく、本格的に行き場のなくなった私は、仕方なく重い腰を上げて一路、アヴァロンを目指すことに。他に頼れるアテはなかったから、怪しいと思いつつも、修道院に行くことにしたのだ。
数日間のスパーダ生活で、とりあえず魔族といっても別に私ら人間と同じ程度には健康で文化的な生活を送っていることを理解した私は、それほどカルチャーショックを受けることもなく旅立ちの準備を済ませ、アヴァロン行きの竜車へ乗り込んだ。
特にこれといったアクシデントもなく、雪道を延々とガタゴト揺られること数日間。私はこの、白亜の大城壁に囲まれた美しいアヴァロンの都へ辿り着き――
「あーもーっ! わっかんないわよぉー!」
そして、道に迷ったとさ。私って、ほんとバカ。
しかし、叫んだところで、絶望してみたところで、都合よく誰かの助けなんてくるはずもないことは、神様に嫌がらせされているレベルで苦難続きの私の人生を省みれば自ずと悟れるというもの。まぁ、この灰色のダサい気配を隠す隠密ローブを着こんでいるから、少しばかり声を出したところで、誰も気に留めることはないのだけれど。所詮、頼れるのは自分の力ということね。
というワケで、ちょっと落ち着いてプランを考え直してみよう。
アヴァロンに着いたということで、調子に乗ってちょっと高めのランチをとってから、二時間か三時間くらい経過している。今日の探索はここで諦めて、宿を探すにはちょうどよい時間だ。
幸い、私が歩いているここの通りには、何件か宿屋と思しき看板が見える。人通りもそれなり以上に多い、表通りだ。そんな立地の宿なら、高級ではないものの、そう悪いところではないだろう。ついでに、一泊していく客となれば、宿の店主に道を尋ねても邪険にあしらわれたりもしないはず。
よし、どうせ先を急ぐ旅路ではないし、一晩ゆっくり休んで、心も体もリフレッシュしてから探しに行こう。明日、頑張ればいいや。
そうと決まれば、早速、適当な、といっても出来る限り小奇麗な宿へ入って休もう、と意気込んで人ごみの中を再び歩き出した、その時――
「おわっ!?」
「キャッ! ちょ、ちょっと、痛いじゃない!?」
あ、誰かにぶつかった、と反射的に理解できる衝撃を感じた時には、もうあっけなくバランスを崩した私は、薄らと雪に覆われた石畳の地面に膝をついていた。というか、転んだ。
「っと、悪ぃ悪ぃ、大丈夫か、お嬢ちゃん?」
あんまり悪いと思ってなさそうな軽い口調が頭の上から振ってくる。なんだコノヤロウ、と思いながら見上げてみれば――そこには、結構なイケメンがいた。
新雪が降り積もった雪原みたいな色合いの、白銀の長髪。けれど、肌はその白さと真逆となる褐色の色合い。澄んだスカイブルーの瞳が浮かぶ切れ長の目は、こうして微笑みを浮かべていると冷たさはまるで感じられない。
「ほら、立てるか? 怪我とかしてねぇよな」
「ちょっ!? 勝手に触んな、このイヴラーム人!」
あまりのイケメンぶりに気づくのが遅れたけど、銀髪青目の褐色肌といえば、イヴラーム人の特徴だ。私が成敗してやった異教徒にも、奴らはそこそこ見かけた。
そんな奴に、手を引かれて、腰を抱かれて、立たせてもらう義理なんざない。
「ははっ、全然元気じゃねーかよ、心配して損したぜ。あと、俺はそのナンチャラ人じゃあねーぜ。っつーか、なにソレ?」
どこか田舎者でも見るようにヘラヘラと無駄にカッコいい微笑顔のイヴラーム人男にイラっとくるけど……こんな所にイヴラーム人がいるわけない。スパーダでもアヴァロンでも、色んな髪の色、目の色、肌の色の人間はいたし、そもそも人間以外の種族も多い。シンクレアじゃ考えられない人口構成だけど、数日も居ればそこそこ見慣れてくる。
だから、イヴラーム人と全く同じ特徴を持つ人種がいても、何の不思議もない。
「べ、別に、何でもないわよ!」
危ない、あんまり変な事を口走ったら疑われてしまう。私が脱走したから騎士団が探しているとか、賞金首になっているとかの情報は聞いたことがないけれど、私がまだ見聞きしていないだけで、捜索は続けられているかもしれない。どんな些細なところで足がつくか分かったものじゃない。もっと慎重にいかないと。
「そうかい。なら、こんな人ごみん中で、ボンヤリ歩くなよ。怪我するだけじゃ、済まないかもしれねーぜ?」
「うっさい、大きなお世話よ」
「ははっ、じゃーなお嬢ちゃん。アヴァロンには悪い奴らが結構いるから、精々、気を付けな!」
そんな勝手なことを捨て台詞に、十字教司祭みたいな真っ白いローブをなびかせて、偽イヴラーム男は人ごみの中へ消えて行った。
「はぁ、ったく、何なのよ、もう……」
何なのも何も、ただ不運にもイケメン男とぶつかっただけのこと。危ない危ない、これがスラム街の路地裏だったら、どさくさまぎれに体を触る痴漢野郎か、良い人を装って荷物を漁るスリだったりし――って、あれ、もしかして。
「……ない」
まさか、と思ってローブのポケットを漁って見ると、ない。財布が、ない。
「え、ちょっと、嘘でしょ、待って、待って、ちょっと待って、マジでお願いします、神様、天にまします我らが神よ――」
何度確かめても、どこを見ても、ない。あの仮面男エクスから貰った、私の全財産である金貨の詰まった財布が、ない。
ああ、何という失態。スラム育ちにあるまじき、大失態よ。
しばらくの間、執事付きのお嬢様生活を送っていたせいで、こういうところへの注意が完全に欠けてしまっていた。お金はそのままポケットに入れないだとか、体中に分散させて隠し持つだとか、そんなエリシオンにくる田舎者な観光客でも知っている基礎的なことさえおろそかになっていた。
でも、だって、今や私にとって気を付けるべきなのは戦場に立つ時だけで、普段の生活の時はセバスをはじめとした執事にメイドにその他諸々の召使いに任せきりだったから、って、そんなことを悔いても仕方ないでしょ!
「ど、ど、どどど、どうしよう……」
地獄に落としてもまだ足りないほどの大罪を犯した偽イヴラーム男は、この行き交う人波の中で、最早、追いかけて探し出すことは不可能だ。というか、あの場で気づけたとしても、財布が野郎の手に渡った時点で、私を振り切って逃げおおせただろう。
ああ、ドちくしょうめ。アイツに触られた時点で、もう私の負けだった。
だから、そんなことを考えても、今はどうしようもないでしょって。お金がなくなった私は、これから、どうすんのって話なのよ。
「や、宿は……ははっ、無理よね……」
小奇麗な宿どころか、最低ランクの薄汚い雑魚寝部屋にさえ、銅貨の一枚もない私には利用する権利がない。お金もなく、身寄りもない者が、街の中で夜を明かすには……いやいや、無理、絶対無理だから。いくら私でも、孤児院出身だから寝床くらいはあった。真冬の街のど真ん中で、野宿なんてした経験は流石にない。
『聖堂結界』は寒さも防いでくれるから、凍死の心配こそないけれど、ベッドの柔らかさは再現してくれないし、何より、道端で寝ることへの精神とプライドへの深刻なダメージを防げない。伯爵令嬢でなくなって、年頃の乙女なら耐えられる環境ではない。
いけない、日が暮れるまであと一時間か二時間か。
それまでに、何としても屋根のある寝床へ――
「――修道院に、行くしかない」
かくして、私は決死の覚悟で修道院探しを再開したのであった。
それから、どれだけの時間、私は見知らぬアヴァロンの街を彷徨っただろうか。表通りを始め、どこか見慣れたスラム街みたいな汚らしい路地裏も抜けたし、アンデッドでも出てきそうな異常に寂れた一角を通ったりもした。
いよいよ日は暮れて、ランプの灯りを頼りに、亡霊のように空虚な気持ちで彷徨い始めた、その時である。
「あっ……セントユリア……修道院っ!」
見つけた。ついに見つけた。
どこをどう辿って来たのかもう知らないけれど、私の前には、確かに『セントユリア修道院』と大きく看板を掲げた、どこか懐かしい十字教の教会様式の建物を発見した。
どうかこれが、今際の際に見た幻なんかじゃありませんように。そんな思いを籠めて、私は礼拝堂風の建物の扉をガンガンぶっ叩いて叫んだ。
「ごめんください! この迷える子羊を助けてくださいっ!!」
果たして、神は救いの手を差し伸べたもうた。
「はい、どちらさまでしょうか」
ギギギ、と立てつけの悪そうな音と共に開かれた扉の奥から現れたのは、本日二人目のイケメン――もとい、落ち着いた雰囲気の司祭様であった。
小奇麗に切りそろえられた明るいブラウンの髪。何故か目は瞑っているから、瞳の色は分からないけれど、十分に整った目鼻立ちをしていることは一見して明らかだ。
「これは、これは……随分と、体も心もお疲れのようですね。立ち話もなんでしょう、まずは、おあがりなさい、お嬢さん」
おいおい、本場エリシオンでもこんな神対応な司祭様なんかいねーよ、ってほど理想的に慈愛に溢れたアヴァロン司祭様に感謝感激しながら、私は神の家へと立ち入った。
外側もそうだけど、中もやっぱり十字教の教会とほとんど同じ造りをしていると、私には一目で分かった。これでも一応、正規のシスターとしての資格は持っているし。
そうして通された部屋は、ラウンジ、とでもいうべきだろうか。そこそこの広さに、子供達が並んで食事ができそうな長テーブルと椅子の数。うん、この雰囲気は、孤児院を思い出す。
「お茶をお持ちしますので、こちらにかけて、少々お待ちください」
「あ、はい、どうもありがとうございます」
司祭は部屋の灯りとなるランプを私が座ったテーブルの上に置いて、自分は手ぶらのままで、平気で真っ暗になった廊下を歩いて行った。
「……もしかして、目が見えてないの?」
ずっと閉じられたままの目。灯りを必要としない動き。彼が盲目であると思わせるには十分な要素だけれど、杖もなく、あそこまで迷いのない動きをみせられると、どうも信じきれない。
まぁ、今は他人の心配よりも、自分の心配よね。もしかしたら、今頃アヴァロンの騎士団に通報されているのかもしれないし。
もっとも、あと数分後に厳つい騎士がここへ雪崩れ込んできたとしても、もう、私には抵抗する気力はない。だって、今日は疲れたし。無一文だし。もうどうにでもなーれ。
「お待たせいたしました」
果たして、司祭は本当にお茶を淹れて戻ってきた。
クソ寒い冬の街中を延々と彷徨い歩いた体に、熱々のお茶が沁みる。味はまぁまぁ、飲めないほどではない。
お嬢様生活で無駄に肥えてしまった舌が辛辣な評価を勝手に訴えかけてくるけど、それでも一服できたお蔭で、少しだけ荒れた心も落ち着いてきた。
「まずは、自己紹介をしておきましょう。私の名はエミール、このセントユリア修道院で、しがない司祭を務めております」
これはどうも、ご丁寧に。ということで、私も名乗りを返す。
「えーと、私はリンです……えっと……」
十字軍の先鋒として、パンドラ大陸を侵略しにきました、テヘッ、なんてことは口が裂けても言えない。私の素性については、今のところ明かして良い部分というのが何一つない。
「ふふっ、どうやらワケありのご様子。しかし、どんな者でも、この修道院の門を叩けば受け入れましょう。成人こそなさっているようですが、貴女はまだまだお若い……迷える若人の一助となれるならば、司祭として実に喜ばしいことですから」
「えっ、あの、本当にいいんですか? 何も聞かなくて」
「貴女が話して良い、と思ったことだけ、話してくれれば良いのです」
うわ、何この人、めっちゃいい人。司祭様みたい。っていうか、これがホントの司祭か。シンクレアの生臭坊主どもに見習ってほしい受け答えである。
とりあえず、重要なのは私をここで匿ってくれるよう頼むこと。お金がない以上、真剣に、誠心誠意、頼み込むより他はない。ダメだったら、齢17にしてストリートチルドレンデビューである。絶対御免、断固阻止だ。
「実は私、ちょっと、というかかなり色々と事情があって……その、身寄りも行くあてもないんです。ささやかな所持金も、ここへ来る途中に性質の悪いイヴラ――じゃなかった、スリに盗られてしまいまして」
私の涙ながらの曖昧な説明にも、司祭はうんうんと相槌を打ってくれる。
「この修道院に来たのは、ある人に紹介されたからなんです。その方は、私の危機を救ってくれた恩人で、私にここならきっと世話をしてくれるだろうと言われて……何もない私には、その言葉を信じるより他はなかったのです」
「そうですか、やはり、貴女は大変な苦難を歩んで来られたようですね。それでも、こうして貴女が無事にここへ辿り着き、出会いが叶ったことを、神に感謝いたします」
この人、本当に十字教司祭なんじゃないのか、っていうほど、今物凄いナチュラルに十字を切っていた。胸元で十字を切る動作は、十字教においてはどんな田舎の信徒でも知っている有名にして最も基礎的な祈りのジャスチャーである。基本的に「天にまします」の聖句とセットで使われる。
あと、微妙にバリエーションが豊富で、極めた司祭はこれだけでアンデットを浄化できたりする。勿論、エセシスターな私にはできるはずもない。
「セントユリア修道院は、リンさん、貴女の来訪を歓迎いたします。ここはあまり裕福ではありませんが、衣食住の保証くらいはできます。しばらくは、心安らかにここで過ごすとよいでしょう」
「ええっ、ホントにいいんですかっ!? ありがとうございます!」
言質とったからね。もう、今からダメとか言っても、私ここに居座るから。『聖堂結界』使ってでも居座るからマジで。
「どうぞ、これからよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いしますっ!」
ガッチリと司祭と握手を交わした私は、さながら大口契約を結んだ商人が如しである。やった、これで私の未来が開けた。
「ああ、それと、もしよろしければ、一つだけお教えいただきたいことがあるのですが」
「はぁ、何ですか?」
「貴女を救ったという恩人、その方の名前は、存じ上げていますでしょうか?」
「エクス、って名乗ってました。若い男だっていうのは分かりましたけど、偽名っぽいですし、仮面で顔を隠していましたし、どういう人なのか、詳しくは私も分かりません。えっと、もしかして知り合いだったりします?」
「ええ、間違いありません。彼は、私と古い知り合いで――」
と、司祭がいい感じで謎の仮面男について語りだしたところで、
「よう! 帰ったぜ司祭様!!」
やたら元気の良い声が、玄関先からラウンジまで響きわたって来た。
「失礼、ここの住人が一人、帰って来たようです」
言われなくても分かる、っていうほどに、もうすでに廊下の先をドカドカと足音を鳴らして迫ってきているのが感じられた。
「ちょっと聞いてくれよ司祭様、今日、表通りのところでよ、リンにソックリの女がい――」
バーン、とけたたましい音を立てて勢いよくラウンジへ踏み込んできたその男の顔は、イケメンだった。どこかで見た覚えのある、イケメンだった。
銀髪碧眼の褐色肌という、イヴラーム人みたいな風貌のイケメンは……うん、間違いなく、コイツはアイツだ。
「何で、アンタがココにいんのよ!?」
「げえっ、何でお前がココにっ!?」
いや、もうこの際、何でコイツが私の前にのこのこ現れたのかはどうでもいい。もっと重要な使命が、私にはある。
「こんのぉ、私の金貨を返しなさいよっ! このイヴラームヤロぉーっ!!」
「うおおおっ、ちょっ、マジかよ――」
機敏に身を翻して、逃走を図ろうとするスリ野郎だが、怒りに燃えるこのヘルベチアの聖少女を前に、二度も逃げ切れると思うなよ。
「逃がすかっ――『聖堂結界』」
「うおっ、何だコレ!? うぉおおおーっ!?」
「おお、何ということでしょう。まさか、二人がすでに知り合っていたとは……これぞ、神のお導きというべきものでしょう」
とにもかくにも、私はこうして、セントユリア修道院に厄介になることになった。この穏やかで優しいエミール司祭と、イヴラームのスリ男と……あと、その他にも変な奴らが集まっている、魔境の地に立つ神の家に。
ああ、どうか、これから先も神のご加護がありますように。
曙光の月も終わろうかという頃。首都アヴァロンにて、ささやかな夜会が開かれていた。
集っているのは、普段アヴァロンには住んでいない、幾人かの貴族。連れは筆頭の執事が一人と、最低限の護衛のみ。場所は貴族街の端にある、小さな屋敷。
貴族としての華やかさを忘れ去ったかのように静かなパーティの中で、寂れた庭園を臨むバルコニーにて、二人の男女が夜風にあたっていた。
「そ、それは真ですの、ヴィッセンドルフ卿!?」
驚きの声を上げるのは、女性、というよりは、少女と呼ぶべき容姿の娘。真っ赤なバラの花を連想させる派手なドレスだが、衣装に負けない華麗さをクリスティーナと呼ばれた少女は持つ。主に、その巨大な金髪の縦ロールが。
彼女の本名はクリスティーナ・ダムド・スパイラルホーン。アヴァロンで最大のミスリル鉱山を有す領地を支配するクリストフ男爵の愛娘である。この場に父親の姿がないのは、すでにクリスティーナがただのお嬢様ではなく、王家に仕える騎士、それも高名な第一竜騎兵隊『ドラゴンハート』の副隊長という、立派な身分を持つが故。親の庇護など、帝国学園と一緒に卒業している。
「うむ、真に残念だが……もう、決めたことなのだ、クリスティーナ君」
もう一人は、黒いマントを羽織った痩せぎすの男。長い耳から、エルフであると分かる。
波打つ長い黒髪は艶やかで若々しいが、細面の顔には薄らと皺が刻み込まれている。普段は金色にギラつく眼光で、彼の前に立つ者を圧倒させる威風があるものの、今はエルフでありながら年相応に衰えのようなものが感じられた。
彼の名はヴィッセンドルフ辺境伯。アヴァロンの北端に位置するヴィッセンドルフ領は、アスベル山脈に巣食う凶悪なハーピィから国境線を守り抜いた初代の頃より、辺境伯の位を受け継いでいる。
無論、今はハーピィとの間に鮮血と羽根が舞い散る熾烈な山岳戦を演じることはない。彼らが野蛮な風習を受け継ぐハーピィの諸部族から、近代的な『ウインダム』という国家を樹立させた時より、アヴァロンとは和平を結び、今では都市国家同盟の間では一二を争うほどの友好国となっている。
長らく平和の時を過ごしたヴィッセンドルフ家であるが、その成り立ちから現在でも国境の防備を担うに相応しい武名を轟かせる一族として、アヴァロンでは名が知れている。
しかし、当代の辺境伯は、また別な意味で有名であった。
「ああ、何故……何故、なのですか。あんなにも『呪いの武器』を愛していたではありませんの!」
そう、彼は呪われた武具のコレクターとして、その筋では非常に有名であったのだ。
「呪いの武器への愛が尽きたわけでは断じてない。歳を重ねるごとに、飽きるどころか、あの昏き魅力の深みへますます嵌って行く感覚を覚えるのだ」
この二人はいわば同好の士である。呪いの武器の魅力を語り合い、互いのコレクションを自慢し、時にはオークションで競り合うライバルともなりうる。
「それでは何故、コレクションを売りにだすなどと!」
「私とて、人生を賭けた珠玉のコレクションを全て手離すことはしない……だが、アレはあまりに有名になり過ぎた故に、売らざるをえないのだ」
「ま、まさかっ」
「ああ……『暴君の鎧』を、今度のオークションに出す」
同じ価値観を有す同好の士であるからこそ、クリスティーナは心の底から驚愕の表情を露わにする。大きく見開かれた瞳、間抜けのように呆然と開かれた口、だが、広げた扇子で口元だけは隠し、貴族の子女としての気品は守り抜いていた。
「そ、そんな……あの、究極の呪われた鎧を……」
『暴君の鎧』、それは、名だたるコレクターである辺境伯が有する、最高の一品である。
かつて、アヴァロンが建国されるより前の暗黒時代、当時にこの地を支配していた国の王が使用していた鎧だ。その来歴から、純粋に歴史的価値のある第一級のアンティークであるが、それ以上に、凄まじい怨念を宿す呪いの鎧と化している。少なくとも、現代の魔法技術では解呪は不可能であると、パンドラ神殿にてお墨付きをもらえるほど。
「恐らく、あの強欲スケルトンが落札するであろうな。あ奴は前々から、執念深く我が愛しの『暴君の鎧』を狙っておったからな」
「スパーダのモルドレッド様とは、相変わらず犬猿の仲ですわね。そんな相手にみすみす譲る羽目になって、本当によろしくて?」
「あの骸骨は節操なく、あらゆる呪いの品々を集める無粋者……だが、その執念と財力、何より見る目がある」
アヴァロンのヴィッセンドルフ辺境伯と対を成すように、スパーダのモルドレッド会長は有名コレクターの一人だ。リッチ、という純粋なアンデッド種族であるせいか、エルフであるヴィッセンドルフよりも鋭い鑑定眼を持つ。さらには闇属性との親和性から、自ら呪いの武器を振るうことさえできる。
呪いの武器の魅力にとり憑かれたヴィッセンドルフからすれば、モルドレッドの能力は羨ましいことこの上ない。
「癪ではあるが、あの男なら決して悪いようには扱わぬだろう」
深い溜息と共につぶやいた辺境伯の言葉は、敗北宣言とでもいうべき虚しさを伴って、冬の空気に掻き消えた。
「しかし、解せませんわ。一体何があれば、『暴君の鎧』を手離すほどの悲壮なお覚悟をなさるのか」
そう、辺境伯に愛してやまぬ最高の一品を手離す苦渋の決断をさせた根本的な原因は、まだ聞かされていない。それが明らかにならねば、納得などできようはずもなかった。
「……最近、アヴァロンで妙な動きがあることをご存知か?」
辺境伯は右を見て、左を見て、それから一泊置いてから、そう切り出した。
「妙な動き? はて、私に思い当たる節はこれといってありませんわね」
「ふっ、父親に似て、君も宮廷事情には疎いとみえる」
「私は騎士ですので。それに、我が家も鉱山と工房があれば満足する典型的なドワーフですわ」
「余計な野心を持たぬのは美徳だとは思うが、今は少しばかり、アヴァロンの動きに注意を割いた方が良いだろう」
「……と、言いますと?」
「まだ詳しくは言えん。だが、どうも十二貴族の間で密かな動きがあるとみえる」
スパーダの四大貴族、などというように、どこの国でも大抵は王族以外にも有力な貴族が存在する。アヴァロンでは十二の古い一族が、建国の頃より十二貴族として諸国に知れ渡っている。
しかし、これもまたどこの国でも同じだが、強力な貴族同士は心強い仲間というよりも、むしろライバルといった関係性となる。まだ千年と半分しか刻まれていない歴史を振り返ってみても、国内の貴族同士の諍いが戦争に発展する、などといった事例は数限りない。
アヴァロンの十二貴族もまた、互いに領地や利権、または政権を巡ってしのぎを削る、正に貴族の見本の如き関係性を千年の長きに渡って続けているのだ。
「その筆頭は、どうやらアークライト卿であるようだ。一体、如何なる密約が交わされたのかは知れないが、アズラエル卿とドラクロワ卿も支持を表明しているらしい」
「何と、あの御三家が……俄かには信じがたいですわ」
十二貴族の中でも、アークライト公爵・アズラエル公爵・ドラクロワ公爵が御三家と特別に呼びならわされているのは、現在でも深くアヴァロンの国政に関わる重要な地位にあるからである。もっとも、貴族では最高位たる公爵の位を持ち、歴史上幾度かアヴァロン王家と婚姻による血の繋がりを持っていることから、それだけで別格扱いされるのも当然だ。
「御三家の三すくみがアヴァロンの統治に安定をもたらす、などと揶揄されているが、事実の一面ではあるだろう。もし、あの三家が団結し、何か事を起こそうとするならば……」
「国王陛下でも、止められないかもしれませんわね」
重苦しい表情で深く頷く辺境伯は、やはりただの噂話を語るような雰囲気ではなかった。
「これ以上は、単に私個人の憶測にしかならぬから、話すのはよそう。しかし、この私が『暴君の鎧』を手離すほどの危機感を抱いていることは、知っておいて欲しかったのだ。クリスティ-ナ君、君のことは良き友人だと思っているし、得難い同好の士でもある。それに、君は我がまま放題の娘よりも、ずっと可愛らしく思える」
「おっほっほ、それはお嬢様には失礼というものですわ」
「いやいや、君には類まれなセンスと才能がある。自ら呪いの武器を振るえるほどに。私もあと七十年若ければ、君を誘えたのだがね」
「うふふ、それは残念ですわ。私も、ヴィッセンドルフ卿ほど素敵な殿方とは、まだ出会えておりませんのよ」
「口も上手くなったものだ。初めて会った頃とは、君は見違えるほど素敵な女性に成長した……そんな君だからこそ、私もこうして、忠告をせずにはいられなかったのだよ」
「ご配慮、痛み入りますわ」
まさか、とは思うが、辺境伯のいう『危機』がどういうものなのかは、ここまで言われれば自ずと分かってくる。
どうやら、『呪いの武器』を所持する者に対して、何らかの働きかけを行おうと御三家が共謀している、ということだ。
「……この趣味は、確かにあまり堂々と公言できる類のものではありませんわ。しかし、罰せられるほどの罪ではないでしょう」
「それを認めたくない輩が現れた、ということだろう。最後に、一つだけ教えておくことにしよう――」
辺境伯はバルコニーから踵を返し、温かな光りに満ちたパーティ会場へと向き直る。
「――アリア修道会に、気を付けよ」
その捨て台詞は、やけにクリスティーナの耳に残った。