第406話 リリィVSネル
リリィとネル、羽と翼の二人が連れ立ってやって来たのは、神学校の敷地では北の端にあたる庭園の一角である。
先代の理事長による趣味によって造営された広大な風景式庭園は、今は少しばかり寂れて、並木や植木の手入れもまばら。現理事長であるソフィア・シリウス・パーシファルが就任してからは、「金の無駄遣いだ」と維持費を最低限度、ダンジョン化しない程度のものにまで削減した結果である。広く美しい庭園の維持管理は、莫大な金がかかる金喰い虫。それも、生徒の情操教育云々という曖昧な目的に見合うはずもない。
そんな学校内でも半ば見捨てられた庭園は、人に聞かれたくない話をするにはうってつけの場所である。かつて、周囲には壮麗な薔薇の花壇が広がっていたであろう噴水の前で、二人は足を止めた。
他に人の気配は感じられない。噴水が奏でる小さな水音だけが、涼やかに響く。
「リリィさん、話とは何でしょうか?」
しばしの間を経て、先に口を開いたのはネルだった。沈黙に耐えかねたわけではない。さっさと話を始めろという、宣戦の覚悟である。
「ありがとう、と先にお礼を言っておくわ」
邪気のない柔らかな微笑みを、幼い美貌に浮かべてリリィは言った。
「貴女のお蔭で、クロノは現代魔法を覚えられた。貴女の教えはとても役に立ったわ、本当に、感謝しているのよ」
言われなくとも、知っている。クロノは自分が『腕力強化』を教えたお蔭で、あのグリードゴアを打倒できたのだ。その雄姿を目の前で見ていた感動は忘れられない。
ネルはあれ以来、クロノが戦う姿を見る機会はなかったが、新たに教えた『防御強化』と『集中強化』も、同じく役立っていると確信できる。リッチ討伐もラストローズ討伐も、どちらも激戦だったと聞いている。活躍の機会はあっただろう。
「クロノくんのためにやったことですから、お礼を言われるほどのことはありません」
「ああ、それと、いつも美味しいお茶とお菓子もありがとう」
「いえ、当然の礼儀ですので」
微笑むリリィに、ネルもまた麗しいロイヤルスマイルで返す。しかし、彼女も自分も、同じ笑顔の仮面を被っているだけにすぎないと、分かっている。
この邪悪な妖精が、素直な謝意を述べるためだけに自分を呼び出すはずはないのだから。
「でもね――ふふ、もう、止めて欲しいの」
ついに、来た。これが話の核心。リリィの笑顔に、僅かばかりに酷薄な色が滲む。
「……何のことですか?」
そんな言葉だけで、怯んでなるものか。リリィが自分を排除しようと動くのは、とっくに予想できている。
「クロノに魔法の授業はもういらない。私達の寮にも、もう二度と訪れないで」
「そうですか。一応、理由くらいは聞いてあげます」
「迷惑だから」
刹那、二人の表情から笑みが消えた。人形のように無機質な顔と目で、自分を見上げる小さなリリィ。彼女を見下ろす己の顔も、同じく凍りついた表情になっていると自覚できる。
翠と蒼の冷たい視線が、交差する。周囲には真冬のアスベル山脈が如き冷気が漂うが、二人の間では灼熱の火花が散っているような錯覚。
「お断りします。クロノくんは私を必要としてくれているので」
「迷惑だと言ったのよ」
「それはリリィさん、貴女がでしょう?」
「勘違いしないで欲しいわね」
絡み合う視線を逸らしたのはリリィだった。はぁ、と子供の姿には似つかわしくない溜息をついてから、そのままクルリと黒ワンピースの裾を翻しながら軽やかに反転。背中とそこから生える虹色の羽が目の前に映る。リリィの表情は、見えない。
「貴女は王族、クロノはただの冒険者。その身分の違いというのを、理解して欲しいの」
「神学校にいる間は、身分差など些細なことです」
現にクロノは、スパーダの第二王子ウィルハルトと懇意にしているが、誰もそれを咎めたりはしていない。
ウィルハルトの王子としての人気が低い、というのもやっかまれない一因ではあるが、真に身分差を厳しく律するならば、例外なく接触は制限されるはずだ。一昔前の、アヴァロンのように。
「それでも問題が起きるようなら、私が何とかします」
「貴女の親衛隊とか名乗るふざけた連中が、クロノに決闘まがいのリンチを仕掛けたって、知ってる?」
「彼らに二度と手出しはさせません。クロノくんが望むなら、首謀者を処刑してさしあげます」
ネルはこの事件を後になってクロノ自身から聞いたからこそ、ヘレンを厳重注意に留めていられるのだった。クロノが処刑だなんだと過剰な対応はしないでくれ、と言ったからこそ、親衛隊長はまだ生きていられる。もっとも、クロノとしてはネルが「処刑して詫びます」という言葉を、冗談だと思って苦笑していたのだが。
「信じられないから、もう近づかないでと言ってるの」
「クロノくんは私を信じてくれてます。だから、そんな些末なことで離れたりはしません」
「クロノは優しいから、迷惑でも消えろと言わないだけよ。親衛隊なんて雑魚はどうでもいいけど、貴女のお兄様と『ウイングロード』のメンバーは、そう簡単にもあしらえないから、絡まれると厄介なの」
それに、今や『エレメントマスター』と『ウイングロード』はライバル関係だし、とリリィは付け加える。馴れ合うつもりはない、と言外に語っている。
「それでも、私はクロノくんのお友達ですから。彼がそう呼んでくれるなら、私はアヴァロンの王女でも、ウイングロードのメンバーでもなく、一人の友人として、クロノくんとお付き合いいたします」
半ば開き直りのような言葉だが、そうであることをクロノ自身が望んでくれていると、ネルは知っている。クロノがそういう男だと理解できる程度には、もう付き合ってきているのだ。
「お友達、ね」
小さな背中を向けたまま、うんざりしたようにつぶやくリリィ。独り言のようだが、こうしてネルの耳に届いている以上、単に皮肉っているように思える。
ネルはただのお友達で、リリィはパートナー。その決定的な差に、かつての自分は情けなくも心折られたものだ。
(今はまだ、お友達のままでいい。すぐに私が、貴女に代わってクロノくんの隣に――)
それはまるで、王位簒奪を狙う反逆者の心意気だった。確かに、決意の固さは野望を秘めた逆賊に匹敵するだろう。
今のネルは、この程度の嫌味を言われた程度で、気持ちを翻すほど弱くはない。リリィの圧力に、こうして毅然と対応できている。
(クロノくん、私、負けません!)
だが、再び振り返ったリリィと目を合わせた瞬間、ネルの背筋に悪寒が走った。
「そこまで言うなら、仕方ないわね……大人しく身を引いてくれるなら、今までの感謝をこめて、綺麗にお別れしてあげられたんだけど」
その微笑みは、あまり邪悪。エメラルドグリーンの瞳は獰猛にギラつき、人を陥れる暗い愉悦が抑えきれないとばかりに、口角が吊り上る。
ネルは王族の一人として、また、ランク5冒険者として、それなりに悪人というものを見てきた。スラム街に蠢くギャングから、狡猾な悪徳商人、二心を秘めた奸臣、果ては呪いに狂った殺人鬼まで。
殺意、敵意、欺瞞、嘲笑――あらゆる悪意に満ちた顔の中でも、今、目の前にある彼女が浮かべる笑みは、最も凄絶であった。
「わ、私は、貴女に何と言われようと、クロノくんとお友達でい――きゃっ!」
鋭い光が、ネルの台詞を遮った。リリィと出会う度に浴びせられるいつものフラッシュ――否、そんな生易しい輝きではない。迸る魔力、煌めく白光、どれも今までのフラッシュとは一線を画す。
まさか、ここで実力行使に出るとは。
反撃のために、即座に手元に開いた空間魔法の魔法陣から『白翼の天秤』を取り出そうとした矢先、気づいた。
攻撃が飛んでこない。そして、次の瞬間には、眩い輝きも収まっていた。
「……っ!?」
瞼を開いたネルの前には、見慣れた小さな姿はなかった。
その代わり、初めて見る、絶世と称すべき一人の美少女が立っている。
「この姿を見せるのは、初めてだったかしら? そんなに驚かないでちょうだい、これが私の本当の姿というだけのことだから」
エンシェントビロードで織られた黒いワンピースは、子供の姿の時も神学校の制服と並んでよく見た格好だが、真の姿という少女になってこそ、その魅力の真価を発揮しているように見える。彼女がリリィであると、自分にとっての憎きライバルであると、そう分かっていても、思わず、見惚れてしまうほどの美しさ。
「……そうですか。それで、私にその姿を見せてどうしようというのですか?」
すぐにネルは気を引き締め直し、高ランクモンスターと相対する時と同じ警戒心でもって少女リリィと向かい合う。事実、今のリリィは子供の時と比べ物にならないほど膨大にして濃密な魔力の気配を感じられる。恐らく、一対一の戦闘となれば、治癒術士の自分に勝ち目はない。
だが、攻撃を防ぎ、この場を脱するくらいは十分に可能だ。ただ回復しかできないか弱い少女にすぎないなら、ランク5冒険者は名乗れない。
「そんなに警戒しないでちょうだい。言ったでしょう、私は貴女と話をするために誘ったの。指一本、手出しなんてしないわ」
一流のダンサーのように軽やかな所作で、リリィは一歩前へ踏み出し、ネルとの距離を詰める。
「でも、ちょっと覚悟して聞いてよね。これから私、貴女に少しだけ、酷いことを言わないといけないから」
「な、何ですか……」
リリィの壮絶な笑みに気圧されながらも、ネルは視線を逸らすことなく睨み返す。そんな自分の態度さえ「怖いくせに無理しちゃって」と嘲笑っているように思えた。
「もう二度と、クロノに近づかないで。理由は――」
ゴクリ、と唾を飲み込む。
何と言われても、揺るがない。だって自分には何の落ち度もない。彼の役に立てている、彼に求められている。何があっても、クロノから離れない――
「気持ち悪いから。クロノの使ったスプーンを喜んで舐め回すような女は、ね」
「……え?」
その時、突如として自分の足元に地割れが発生し、そのまま暗い奈落の底へ真っ逆さまに転落した――ような錯覚を、ネルは感じた。
顔から、全身から、一瞬にして血の気が引く。実際に、血を失ったような感覚、体温も下がっているのではないか。その場で崩れ落ちそうになるほど足から力が抜けるくせに、膝はガクガクと笑っている。体が、震える。
「ねぇ、クロノのスプーンは、そんなに美味しかった?」
心の底から、魂の奥底から、軽蔑の感情を宿す濁った翡翠の瞳が、真っ直ぐに見つめてくる。
「クロノのスプーンはそんなに……気持ち良かった?」
ネルの脳裏に、鮮やかに『あの夜』の記憶が蘇る。
リリィの、いちげきひっさつ!