第390話 異物
文芸部室で倒れ、保健室で目覚め、そして白崎さんから告白されるという運命の日は、5月14日の月曜日である。そして翌日の火曜日に、彼女の手作り弁当を食べ、俺一人しかいない我が家へ招待すると約束した。
「――それじゃあ、今週の金曜日に行くね。私が夕飯作るから、楽しみにしてて」
というワケで、5月18日の金曜と日取りが決まった。
「大丈夫、親にはちゃんと、友達の家に泊まってくるって言うから」
ついでに、お泊りであることも確定した。
「土曜日は、デートしようね!」
初デートの前に初お泊りが来るというのはどうなんだろうと思う。
「わ、分かった……楽しみにしてる」
思うだけで、俺には断れるだけの高潔な精神は持ち合わせていなかった。
それからの一週間が、苦しかった。こんな人生の一大イベントを控えて、平常心でいられるはずがない。何をするにも手につかない、授業内容は耳に筒抜け、昨日食った夕飯のメニューさえ思い出せない。
それでも、白崎さんと共に過ごす昼休みと放課後の時間だけは、強烈に脳裏に焼き付いて離れない。夕飯のメニューは何がいいかとか、デートは何処に行こうかとか。恋人同士の甘いやり取り。
日ごとに、彼女へ魅了されていくのが自分でも分かる。彼女の事しか、考えられなくなる。
「はぁ……何か、ヤバいぞ俺……」
色ボケ具合を自覚しながらも、この胸の高鳴りは抑えられない。
だが、ことここに及んでは仕方ないだろう。なぜなら今日は、約束の日である18日の金曜。そして今は七時間目の授業中。これが終われば、ついに放課後である。
いつもなら眠くなる古典の授業だけど、やけに目がさえて仕方ない。つらつらと書かれた板書を事務的にノートへ写しながら、必死に平静を保つ。
全く記憶に残らないサ行変格活用の説明をBGMに、俺は何ともなしに、窓の方へと視線を逸らした。
ちょうど窓際の席で、教室はグラウンドに面するような配置のため、ここからは二クラス合同で行われている体育の様子が良く見える。
梅雨の季節にしては、珍しく青々と晴れ渡った空の下でサッカーに励む姿は、気持ちよさそうで少しばかり羨ましい。黙って授業を聞き流しているよりかは、体を動かした方が多少は気が紛れるだろうし。
サッカーは別に得意でもなんでもないが、恵まれた身長と体格のお蔭でそこそこ活躍できるので楽しい。ただ、俺にだけやけにファール判定が厳しいような気がするのは、被害妄想だろうか。
そんな、取りとめのないことをボーっと考えながら、男子サッカー部チームがオタク系男子チームを蹂躙していく様子を観戦していた、その時だった。
「……なんだ、あの子」
不意にグラウンドの端っこに姿を現した、一人の女の子に気づいた。サッカーボールが遠くまで飛んで行って拾いに行ったとか、そういう様子ではない。というか、一目でその子は生徒じゃないと判断できる。
「メイド……だよな?」
何故ならば、その女の子はメイド服を着ていたからだ。長い黒髪の頭に乗るヘッドドレスに、清潔感溢れる純白エプロン、濃紺のベストとロングスカート。これでメイド服じゃないといったら、何なのだ。
そんなメイドのコスプレ衣装を身にまとうのは、小学生くらいと思しき小さな女の子である。おまけに、傍らには黒毛の子犬を連れている。
ペットの散歩をしている内に、グラウンドへ入り込んだのだろうか。ここが高校だってのは授業している生徒の姿を見れば子供でも理解できるだろうに、それにも関わらず踏み込んでくるとは、中々の度胸である。親は一体どんな教育をしてるんだ。いや、娘にあんなコスプレをさせているのだから、推して図るべし、か。
それにしても、物凄い場違い感である。いや、あんな格好なら町中にいても目立つが、特に、この高校という空間においては、それ以上の違和感、異物のような感覚が強い。
そんな子がいて、俺以外にも気づかれないはずがない。サッカーに興じていた生徒達も、グラウンドに姿を現した可愛らしいメイドと子犬へ、好奇の視線を向け始めた。
もっとも、彼女へと最初に接近したのは、授業を受け持つ体育教師であるが。部外者がいきなり校内に立ち入って来たのだから、教師が対応するのは当然の成り行きだ。
「おいおい、お嬢ちゃん、ここは高校だから入ってきちゃ行けないよ」
とか何とか言ってるんだろうか。ガタイの良い男性体育教師が、ズンズンと大股でメイド少女へと歩み寄っていく。
普通の子供なら、この時点で泣くか逃げるかしてもおかしくないが、彼女は平然とした様子で、ペットの首輪から伸びる鎖状のリードを引っ張って自ら教師へと近づいて行った。
次の瞬間、悲鳴が響き渡った。
「なっ!?」
少女が連れていた子犬が、突如として体育教師へと牙をむいたのだ。物凄い勢いで顔面に飛び掛かって、喰らいつかれている。いくら子犬といっても、それなりに牙と爪は鋭くなっていたのだろう。体育教師は溜まらず野太い絶叫を上げながら、その場で倒れ込んでもんどり打っている。
主であるメイド少女はとっくにリードを手放しており、飼い犬の凶行を止めるつもりはまるで感じられない。
「おい、何だよアレ」
「マジかよ、なんか犬に襲われてね?」
響き渡る教師の野太い悲鳴を聞きつけ、クラスメイトも何事かと窓際へ集まり始めた。かく言う俺も、すでに席を立ちあがって窓へへばりついているのだが。
傍観を決め込んでいるのは、現場のグラウンドにいる体育の生徒達も同じようだ。これで襲われているのが女子生徒だったら、血気盛んな男子が助けに入っていただろうが、子犬に押し倒されているのは筋骨隆々の男性教師である。
怪我はするかもしれないが、いくらなんでも子犬相手に大の大人が負けることなんてない――そう、誰もが楽観していた。
その犬が、教師の喉笛を食いちぎるまでは。
「きゃあっ!?」
「うわっ、めっちゃ血ぃ出てねぇかっ!?」
この距離からでも、教師の首元から俄かに鮮血が噴き出たのが見えた。好奇心だけの野次馬は一転、騒然とした雰囲気へ。
だが、事態はそれ以上の速度で急転し続ける。
首から止めどなくあふれ出る血を必死に抑えながらもがき苦しむ教師へ、犬はさらなる攻撃をしかけた。
いや、それは攻撃というよりも、捕食であった。俺はその子犬が、教師の顔面を食い千切って、肉を咀嚼して飲み込む姿をはっきりと見た。
「……嘘だろ」
犬が人の肉を喰った、というだけで驚愕すべき事態。だが、さらに驚くべきことは、犬が食べるスピードが、一口ごとに早くなっていくことだ。
最初の一口は肌と表面の肉を喰い破り、二口目にはより深く肉を抉り取り、三口、四口と――気が付けば、一度食いつくだけで、骨まで噛み砕くほど大量に肉体を飲み込む。
ありえない、あれは子犬の姿をした化け物だ。じゃなければ凶悪なエイリアンか邪悪なモンスターに違いない。
あっという間に教師の頭は喰い尽くされ、首なし死体ができあがる。気が付けば、その時点で子犬が一回り大きくなっているように見えた。
事実、それは俺の目の錯覚ではなかった。
そのまま死体を貪り続け、骨も衣服も全てまとめて喰らい尽くしたその時、ソイツはもう子犬どころか、立派な体躯の大型犬へと成長を遂げていた。その姿はシベリアンハスキーのような、いいや、あれはもう、狼と言うべきだろう。
「おい、ヤバいぞ、これは……」
誰に言ったわけでもないが、自然とそんな言葉が漏れた。だってそうだろ、小さな子犬の時点で大柄な成人男性一人を食い殺せるんだ。そんなヤツが、ドーベルマンかゴールデンレトリバーかってくらいデカいサイズになればどうなるか――考えたくないが、現実は変わらない。
虐殺が、始まった。
漆黒の餓狼は、近くの生徒を次々と襲う。化け物にとっては男女の区別などない。生徒で最初の獲物となったのは、足がすくんで動けずにいた小柄な女子生徒だった。
地を蹴って軽々と大跳躍を決めた狼が、そのまま少女の体を押し倒す。甲高い悲鳴が聞こえたような気がした。彼女は一口目で頭の右半分を齧り取られ、もう二口目で完全に頭部が消滅した。狼は、また一回り大きくなる。
紺色ジャージの女子生徒の死体を口にくわえて、次なる獲物に向かって狼は駆け出す。
泣き叫びながら散り散りになって逃げる生徒達だが、人間の走る速度などたかが知れている。ただの犬でも逃げ切れないし、まして、この常識はずれの狼の化け物を振り切れるハズがない。
女子生徒の体を喰らい成長した狼は、ついに一口で頭を丸ごと飲み込める様になる。
また一人、頭が消える。太い首の骨で繋がっているはずなのに、ビニール紐をハサミでチョン切るように、牙の噛み合った口はあっけなく引き千切ってみせた。
三人目の犠牲者。と同時に、狼が前足を一閃し、三人の生徒を背中から引き裂く。その爪は大ぶりのナイフと同等の切れ味を誇っているのだろう。ジャージの上から深々と裂傷を与え、一撃で三人を血の海へと沈めて見せる。
そうして、人を喰らえば狼はさらに成長し、見る見るうちに人の背丈を超えるほどの巨大な体躯となっていく。
そうなれば、いよいよ手に負えない。鋭い牙を剥き出し、鮮血の滴る大口は人間一人を丸呑みできるほどに拡大し、その爪は一振りで胴を両断するほどに長く鋭い。
正真正銘のモンスター、怪獣と呼んでもいいだろう。
「なんだよ、これ……悪い、夢だろ……」
食う、喰らう、死ぬ、殺される――阿鼻叫喚の地獄絵図と化したグラウンドを目の前にしながら、出てくるのはそんな現実逃避的な台詞。実際、酷く現実感がない。
だが、固く目をつぶって視界を閉ざしてみても、夢は醒めない。
教室に満ちるクラスメイトの興奮した叫びや怒号、ショッキングな光景を目に泣き出した女子の声。そんな喧噪が耳に届く。
もう一度目を開くと、そこはすっかり血の池地獄と化したグラウンドと、半分以下に数を減らしながらも、懸命に逃げ続ける生徒の姿が確認できた。
一クラスと半分、ってことは五十人近くを喰ったって計算か。どうやらその時点で狼の成長は止まったようで、人間を一口で食える十メートルサイズのまま。大きくなれないのか、大きくなる必要がないのか。どっちにしろ、絶望的なことに変わりはないが。
縦横無尽にグラウンドを駆け回り、四方へ逃れた生徒を狩り続けるという光景を見せつけられながら、ふと、その異物を思い出す。
この化け物を連れてきた、メイド少女だ。
「……何やってんだ」
ペットの暴虐ぶりなど全く知らぬとばかりに、彼女は赤黒く染まったグラウンドをテクテクと歩きながら、何かを探しているようにキョロキョロと忙しない様子。
その姿はいかにも子供らしい身振りで、微笑ましさすら感じるのだが、如何せん、彼女の後ろでは暴食に狂う狼の化け物がジャージの生徒を踊り食っているのだから、恐怖しか感じようがない。
どう考えても、あの子も見た目通りの子供じゃない。というか、人間じゃないだろう。アレも狼と同じく化け物、モンスターなのか――思いながら、注目していたのが悪かったのだろうか。
その瞬間、目があった――気がした。
「っ!?」
いや、そうだ、確実に俺に気づいた。彼女は真っ直ぐ、この校舎に向かって走り出したのだ。両手をブンブンふる女の子走り。
視線は真っ直ぐ、俺が顔を覗かせている二階の窓へと注がれている。すでに、彼女の顔がはっきりと見えるほどに近づいてきた。
腰まで届くスーパーロングの黒髪をなびかせて駆け寄ってくる彼女は、まるで恋い焦がれた待ち人を見つけたような笑顔。顔の右半分を長い前髪で覆われているが、円らだが切れ長の目が覗く左側の表情だけで、その愛らしい笑顔がはっきりと分かる。
そうして、彼女は俺を見つめたまま、わざわざ指をさして叫んだ。
「ご主人様、見ぃーつけたっ!」