第333話 英雄の誕生
イスキア古城は今、モンスターの大軍に飲み込まれようとしている。
四方の城壁からは虫が這い出るように人型モンスターが、上空には羽虫がたかるように飛行型モンスターが群がる。
硬く閉ざされた城門も、頭蓋が砕けんばかりの勢いで突撃を繰り返す大型モンスターの前に、あとどれだけ持つだろうか。
ここまでの戦いで、学生たちには一割以上の犠牲者が出ている。
ついに顔見知りの仲間達たちが、あのおぞましい蛇の寄生によって敵軍に組み込まれ始めたのだ。
「ははっ……終わりだ……もう、なにもかも……終わりだ……」
絶望の表情で、ウィルハルトは機械的にライフルのトリガーを引く。
城壁の上からは、侵入を果したモンスターが蠢く様がそこかしこに見える。
そこに混じって、見慣れた学生服を着た、あるいは、鎧姿の人影がちらほらと混じっているのが、ウィルハルトの瞳に映った。
シモンもああなるのか――置き去りにしてきたばかりの親友、その変わり果てた姿が嫌でも脳内に描き出される。
涙と一緒に、吐き気もこみ上げてきた。
「しっかりしてください、ウィルハルト閣下!」
並走するエディが、見るからに顔色を悪くさせ、今にも歩みを止めてしまいそうな大将を一喝する。
「ああ、エディ……すまん……大丈夫だ」
まだだ、まだ、全てを諦めるわけにはいかない。
自分はまだ生きているし、生徒達も必死に生き残るべく奮闘し続けている。
ここで自分だけ先に挫けてどうする。総大将だろう、他の誰が諦めても、自分だけは最後の最後まで足掻き続けなければいけない。
「大丈夫、俺は、大丈夫だ……」
だが、栓が抜けたように気力は失われていく。
無理、無駄、そして、無能な自分に、これ以上いったい何ができるというのか。
ひたすらに負の感情が胸に渦巻き、頭に湧き出し、魂を蝕む。
自分に言い聞かせる言葉は、どこまでも空回り。
(ああ、そうだ――)
機械的にライフルを再度発砲して、ウィルハルトは確信する。
(結局、俺に犠牲を出す覚悟なんて、なかったんだ)
ネロには大見得をきったものだが、いざ、目の前で友が犠牲になれば、このザマである。
(はは、無様、なんという無様だ。すまないシモン、どうやら俺は、お前が期待してくれたほど、心の強い男ではないようだ――)
思いながらも、全くの無意識的にウィルハルトはライフルのボルトを引いて再装填――だが、ガチリと音がして、スライドが途中で止まった。
二度三度、力を篭めて引いてみるが、やはり動かない。
「これが『ジャムる』というヤツか……」
弾詰まり。開発当初から、すでに起こりうる不具合として考えられていたものが、この時、ついに現実のものとなる。
何かの拍子で適切に薬莢が排出されなかっただけなのか、それとも、どこかの部品が歪んでしまったのか、詳しい原因は分からない。
だが、紛れもない事実として、この試作型ライフルは、もう弾を撃てないガラクタと化したのだ。
「俺と同じだな」
ついに、ウィルハルトの足は止まった。
その場に壊れたライフルを投げ出し、城壁の上でただ呆然と立ち止まる。
エディとシェンナが何か叫んでいるような気がしたが、全く耳に入ってこない。
聞こえてくるのは、どこか他人事のように感じる戦いの喧騒と――
「――القسم الثاني من روح السلام」
歌だった。
「……なんだ?」
いよいよ絶望で頭がおかしくなったか。
「おい、なんだこの歌?」
「いえ、違うわよ、これは――」
どうやら、ウィルハルトの空耳でも幻聴でもないらしい。この透き通った美しい旋律は、誰の耳にも届いているようだ。
これは一体なんなのか、いや、そもそも、誰が歌っているのか。
「――詠唱よっ!」
誰かが、魔法を使おうとしていた。
「あれは……」
その時、ウィルハルトは見た。
城壁の外、そこには、ただ圧倒的なモンスターの大軍がひしめいているだけの光景。
しかし、遥か彼方、このイスキア古城の建つ丘の麓から、何かが、黒い何かが、一直線に向かってきているのを、はっきりと視認した。
「あれはっ――」
モンスター軍団の中で、次々と爆炎が噴き上がる。
ゴブリンやスライムは群れごと吹き飛び、ドルトスやランドドラゴンなどの大型も、その巨体ごと四散五裂した。
行く手を遮る邪魔者をことごとくブッ飛ばし、ひたすら真っ直ぐ丘を駆け上がってくる。
驚異的な進撃をみせる、ただ一騎の人影。
それはまるで、ドラゴンの肉体を貫く黒い刃のように、
「――クロノっ!!」
黒き悪夢の狂戦士が、戦場に現れた。
今しも城内へ撤退しようかという城壁上の生徒達はその時、群れ蠢くモンスターの彼方に、一騎の騎兵が現れたことに気づいた。
いや、この乱戦の最中にあっても、その登場に気づかないはずがない。
それは猛烈な勢いで単騎駆けを敢行し、モンスターの壁を見る間に粉砕して急接近してくるのだから。
城壁の上でモンスターを蹴落としながら、誰もがその少なすぎる援軍らしき人物の登場に、喜ぶ前に、どこか唖然としてしまう。
いったい、何処の誰がこんな無茶をやっているのか。その姿は、目の良い射手や盗賊クラスの者たちから、少しずつ明らかになっていく。
「なんだ、あの馬……」
誰かが呟く。
跨る馬は、スパーダの高級将校でも乗れるかどうかというほどに立派な体躯の黒馬――いや、そのたてがみが禍々しい赤と黒の混じった炎のように揺らめいているのを見れば、それはただの馬ではなく、モンスター、それも、アンデッドに分類されるものだと分かる。
疲れを知らず、永遠に全力疾走を続けるアンデッドの馬は、特別にこう呼ばれる、『不死馬』と。
ならば、それを乗りこなす騎士はなんだ。
馬上にある黒衣の人影は、両手に大鉈と大剣を携えており、さらに、それでもまだ刃が足りないと言わんばかりに、周囲に様々な武器を十本も従えさせている。
大爆発を起こす攻撃魔法と共に、宙に浮かぶ十本の刃は勝手に動いて無数にいる獲物に飛びかかっていく。
爆風と刃の嵐を潜り抜けて黒い騎士に迫るモンスターは、彼が手にする両の武器によって、瞬く間に切り倒される。
右からくれば赤い刃が瞬き、左からくれば牙の刀身が黒く閃く。
よく見れば、その刃からはどれも赤黒い、己の騎馬がまとうのと同じ色合いのオーラが噴き出ている。
それは、紛れもなく呪いの武器の証。
この距離にあっても、そこに秘められた怨嗟の声が聞こえてきそうである。
押し寄せる圧倒的な数をものともせずに突き進み、呪いの刃で文字通りの血路を切り開くその姿は、騎士というよりも、むしろ――
「狂戦士」
誰もがそう呟く。
その壮絶にして激烈な戦いぶりを指して。
「狂戦士だ」
瞬く間にモンスターどもを血祭りにあげ、その屍の山を不死馬で踏み越えていく。
これほどまでに恐ろしく、おぞましい騎兵の姿があるだろうか。人馬一体の狂気は背筋が凍るほどの戦いぶり。
だが、この一騎が味方として現れたのだと思えば、それはスパーダの精鋭騎士団に匹敵するほどの心強さを覚えるのも、また、事実であった。
「不死馬を駆る狂戦士」
絶体絶命の窮地に現れた、黒い希望の光に、
「ナイトメアバーサーカーだっ!!」
生徒達は、沸きあがった。
剣を振るう腕に、弓を引く手に、力が戻ってくる。
たったの一騎だが、待ち望んだ援軍の到来に、彼らの士気は上昇の一途を辿った。
「おい見ろっ、後ろに乗ってるの、ネル姫様じゃないかっ!?」
希望の光は、さらに輝きを増す。
黒い狂戦士の背後には、白翼を広げる麗しき姫君の姿がある。
その特徴的な姿からして、彼女だけは見紛うことはありえない。
「القسم الخامسالحكم على الأشرار」
そして、この戦場に拡声魔法の効果なのか、はっきりと響き渡ってくる美しい詠唱の旋律も、ネル・ユリウス・エルロードのものということになる。
「助かる……俺たち、助かるぞっ!」
そう叫んだ魔術士クラスの男子生徒は、ただの希望的観測から言ったのではなく、この響き渡る詠唱の意味を解読したからに他ならない。
もっとも、それが分からずとも、ネルが掲げる純白の長杖に集約していく膨大な魔力の流れを感じれば、一発逆転を期待させるほどの大魔法が繰り出されると想像させられてならない。
そうして、狂戦士とお姫様を乗せたアンデッドの馬がイスキア古城の城門にまで辿り着いた時、期待通りの魔法が発動されようとしていた。
城門前に群れていた大型モンスターを、爆発と、呪いの刃で一掃し、堂々と降り立つ漆黒の一騎。
不死馬の狂戦士は、背後にそびえ立つ城壁を振り返りながら見上げて、意外にも冷静な声音で言い放った。
「助けに来たぞ、ウィル」
黒と赤、二色の視線の先には、どこか呆然とした表情のウィル――ウィルハルト・トリスタン・スパーダ第二王子。
その返答を聞く前に、狂戦士は再び前を向き戦闘体勢へ。
「それじゃあ頼んだ、ネル」
「はい、クロノくん――」
短いやり取りながらも、まるで夫婦パーティのような雰囲気を漂わせる二人。
どこまでも真剣な顔で応えるネルは、その白い国宝級の長杖『白翼の天秤』を振り上げ、ついに一発逆転の大魔法を解き放つ。
「――『悪逆追放』」
敵が寄生によって操られたモンスター軍団である、という情報をウィルハルト直筆の依頼書から得ていた時点で、ネルには一つの勝算があった。
一般的な、それも学生レベルの治癒術士ならば、良くて中級の状態異常回復魔法が精々だろう。
だが、ランク5にして『天癒皇女アリア』の加護を宿すネルならばどうか。
さらに、アヴァロンの国宝『白翼の天秤』を併用すれば、それは現代魔法の系統を逸脱した威力を誇る、古代魔法の行使すら可能とする。
それこそが、一曲を歌いきるように長い詠唱の末に発動させた、
「――『悪逆追放』」
超広範囲で精神系状態異常を全快させる回復魔法である。
ネルの足元を中心に、巨大な円形魔法陣が広がり始めた。
白い光のラインで描かれたそれは、現代では解読不能な魔術的造形の模様と、一部だけ解読されている古代文字との膨大な羅列によって構成されている。
『白翼の天秤』に装填されている宝玉の半分近くを費やして強制発動させるソレは、術者のネル自身ですら、真の魔法的意味を理解することはできない。だが、この杖と加護によって、完全な効果を発揮させることはできるのだ。
イスキア古城の建つ丘の一つを、丸ごと覆いつくすような範囲で展開した極大の魔法陣は、俄かに発光を始める。
最初は淡く明滅を繰り返すだけだったが、次第に光量は増してゆき、各所から空に向かって真っ白い光の柱が突き立つ。
その数と大きさも、どんどん増大していき――ついに、魔法陣と同じ直径の巨大な一本の柱となる。
それはまるで、天を支えていると思えるほどに大きく、神々しい輝きを放っていた。
「うわっ……」
その内にいる誰もが、あまりにまばゆい光に瞼を閉じる。
だが、その反応は一切の精神異常のバッドステータスを抱えていない、神学生たちだけのもの。
脳内を寄生によって支配された哀れなモンスターたちは、さながら浄化の光を浴びたアンデッドのように狂える悲鳴をあげながら、もだえ苦しむ。
いや、真に苦しんでいるのは、これまで散々にモンスターを使役し続けた寄生体そのものだろう。
絶叫を挙げるゴブリンの鼻から、頭を抱えて転げまわるオークの口から、血飛沫をあげるように、紫電を迸らせる蛇が抜け出る。
快適に過ごしていた頭蓋の内が、煮えたぎる釜にでもなってしまったかのような勢いで、必死に苦境から逃れようと体をくねらせる。
だが、頭部を捨て、正しく浄化の光に溢れる外へ体が躍り出た瞬間に、その姿を保てずに中空で木っ端微塵に霧散した。
降りしきる大雨の中、輝く稲光のように、轟く雷鳴のように、刹那的に消滅していく。
『悪逆追放』はその魔法名の通り、悪逆な寄生者を、その肉体から、この世から、完全に追放せしめた。
そうして、どれだけの時間が経っただろうか。
長いような、短いような。目も眩むような大発光の所為で感覚が鈍りながらも、終わりの時はやってくる。
イスキア古城周辺は、再び豪雨が降り注ぐ元の景色へと戻ってくる。
唯一の違いは、勢い盛んに攻城戦を繰り広げていたモンスターの全てが、雨水で泥土と化した地面に沈黙していることだ。
ゴブリンの小さな体も、ケンタウルスの屈強な肉体も、ドルトスの巨体も、等しく倒れ伏している。
ピクリとも動かない。死んだのだろうか。
息を呑む生徒たちは、誰も声をあげられない。ただ降り注ぐ雨の音だけが、イスキア丘陵を支配していた。
「……生きてるのか」
ネルの前に、文字通りお姫様を守る騎士となって立つクロノが、そう言葉を漏らす。
目の前で倒れているのは、雨天より墜落してきた真紅の飛竜、サラマンダーである。その鼻先が、確かに呼吸で動いているのをクロノは確認した。
次の瞬間には、獰猛な肉食竜に相応しい鋭い目が開かれ、互いに赤い瞳の視線が交差。
僅かな沈黙は、グルル、とサラマンダーが小さく唸って終わりを告げた。
堂々と自慢の両翼を広げ、サラマンダーは再び空へと舞い上がる。
十数メートルの巨躯を宙に飛ばすだけの強靭な翼が巻き起こした離陸の突風が、クロノの全身へ強かに吹きつけ、黒いコートと髪をなびかせる。
雨粒交じりの風圧に瞼を閉じてやり過ごし、再び、赤と黒のオッドアイが開かれた時には、もう、サラマンダーの姿は遥か天の彼方へと消えていた。
我先に巣へと帰っていった飛竜の後に続くように、そこかしこで目を覚ましたモンスターたちは、思い思いの方向へと散っていく。
イスキア古城周辺に散乱する夥しい数の死骸を残し、彼らは緑の丘の向こうへと歩みを進める。
さながら、広大なサバンナのフィールドで見受けられる、モンスターの大群が大移動する壮大な光景が、クロノとネルと、戦いを耐え抜いた神学生たちの前に繰り広げられるのであった。
「ありがとう、これで、みんな助かった」
クロノが振り向き、労いの言葉を麗しい相方へかける。
それを受けたネルは、うっとりしたような微笑を浮かべて、答えた。
「はい、頑張りました、私――」
古代の大魔法を行使した代償として失った膨大な魔力の反動から、ネルはそのまま前へ倒れこむ。
純白の翼とローブをなびかせる姫君の体を優しく受け止めたのは、漆黒の狂戦士の血塗れた両腕。
「ゆっくり休んでくれ、ネル」
「はい、クロノくん」
悪魔の革越しに感じる逞しい胸板へ顔を埋めるネルの表情は見えないが、その艶やかな黒髪のかかる耳は、仄かに赤く染まっていた。
そうして、黒と白の二人が抱き合った瞬間に、古城が吹き飛ばんばかりの大歓声が沸きあがる。
それは九死に一生を得た喜びの声というよりも、世紀の大決戦を勝利に導いた英雄へ向けられる、惜しみない賞賛の声に似ていた。