第326話 墓守の歌
双子の妹は生まれた時から病弱だった。
最初から父親はいなかった。気がついた時には母親も死んでいた。家族は病に倒れる妹の一人きり。
「大丈夫だよ、お兄ちゃんが必ず元気にしてあげるから!」
兄である少年は妹の事をたった一人の家族として心から愛していた。見捨てることなど、一度たりとも考えたことはない。
しかし、孤児の生活は‘貧しい’という言葉以外にはありえない。無論、病を治す薬を買う余裕などあるはずもない。
少年は幼いながらも懸命に働いた。二束三文の安給金で、時には支払いを踏み倒されながらも。
汚い仕事も、辛い仕事も、犯罪以外なら何でもやった。
一度でも捕まれば妹の世話をする者はいなくなる。リスクは犯せなかった。そして何より、彼は善良な心の持ち主であったのだ。
時間をかけ、僅かずつ、だが、確実にお金を貯めた。
もう少し、あと少し、妹が自分と同じ十三歳の誕生日を迎えるその日には、きっと薬が買える。
「ごめんねお兄ちゃん、ごめんね……今まで、迷惑ばっかりかけて、ごめんね……」
誕生日の前日。そう言い残し、妹は死んだ。
誰かの救いの手が差し伸べられることもなく、本当にあっけなく、病によって、苦しみながら、死んだ。死んでしまった。
――自分も死のう。
冷たく変わり果てた妹を前に、少年は一も二もなく、そう思った。
「町外れの墓地には百年前から姿の変わらぬ墓守がいる。彼女に近づいてはならない、彼女を知ってはならない。あれはきっと魔女の類だ。不用意に墓地の奥へと踏み込めば、そのまま死者の仲間入り――」
そんな噂話を少年は聞いた事があった。
全く、望むところである。
身寄りのない妹はまず間違いなくその墓地へと送られる。由緒正しい神殿に墓を建てることなど、少年の乏しい財産ではできようはずもないからだ。
棺に納められた妹は、馬車の荷台に乗せられてすぐに町を発った。
少年もこっそり同乗する。妹の隣で、すぐに自分も‘そっち’へ行くよと囁きながら。
「あ、あれが墓守……」
暗い森の墓地で彼女の姿を見た時、少年は妹が死んでから久方ぶりに悲しみ以外の感情を覚えた。
雪のように白い肌と、それ以上に真っ白い髪。けれど瞳だけは真っ赤に輝いている。
肩口で切りそろえられた白銀のおかっぱ頭から覗く彼女の顔は、いつか妹が欲しいと言っていた人形に似ていた。どこか無機質でいて、けれど、途轍もなく整った美貌など、そっくりだ。
スラリと伸びた細い手足に、黒衣の上からでも分かるほどに女性らしい起伏と曲線を描く肉体は、成人前の少年としてもつい目を引いてしまう。
だが最も驚くべきなのは、そんな女性の体でありながら、左腕一本で棺を担ぎ上げて運んでいることだ。
右手にはギラつく三日月形の刃がついた長柄武器。刃先にそっと触れるだけで指ごと切り裂かれてしまいそうな、恐ろしい印象を覚えた。
だが、そんな人外染みた美貌と力を見せる彼女だからこそ、噂どおり、自分を殺してくれると思えた。
妹の近くで死ねば、きっとすぐ隣に埋めてくれるだろう。
そんな予想の元、少年は墓守が埋葬を終えるまで、じっと息を潜めて隠れていた。
棺が土中に消える。
ついに妹が地上から姿を消したことに、また悲痛の感情が湧き上がってくる。
だが同時に、いよいよ己の死の時が近づいてきた事を実感し、些か以上の恐怖心も胸の奥で首をもたげてくる。
どっと冷や汗が吹き出し、高鳴る心臓の音だけで墓守に気づかれるんじゃないかという緊張感に身を強張らせたその時。
「ضوء أبيض الله يعطي الراحة الأبدية لجميع الاموات، وعلى ضوء」
墓守の歌を聞いた。
楽器の演奏を伴わない、声だけで紡がれるアカペラの鎮魂歌。
その歌詞は遠い異国の言葉なのか、それとも古代語なのか、少年には意味は全く分からなかった。だがしかし、それでも――
「うっ……うぅ……」
ただ、そのメロディーは胸の奥に染み渡る優しい旋律だった。それはまるで、幼い頃に聞かされた母親の子守唄のような。
「くっ、う……ありがとう……ございます」
少年は悟った、妹の魂は救われたことに。
こんなに綺麗で、美しい音色で、天国へと送り出してもらえるのだ。幸せでないはずがない、救われないはずがない。
脳裏に蘇るのは、朗らかに笑う妹の顔。
ああ、そうだ、妹は今、あの笑顔で遥かなる天の彼方へと旅立っていったのだ。
心から、そう信じられた。
貧しい生活、苦しい病、思い返せば良いことなんて一つもない人生だったかもしれない。
けれど最後の最後で、妹は幸せに逝けた。
その事が何よりも嬉しくて、妹の為に生きてきた自分の人生そのものさえ、報われた気がした。
「うっ……くぅ……うわぁあああ!」
だからもう、怖くはなかった。
「君は……誰だ」
いよいよ墓守が自分を殺しに、目の前に現れたとしても。
「墓荒らしでもあるまいに、何故、私が君を殺さなければならない」
墓守は初めての事態に困惑していた。
町の住民である少年が現れたこともそうであるが、墓地に入ると自分に殺されるという根も葉もない都市伝説が流れていることにも。
とにもかくにも、幾許かの説明時間を経て、誤解を解くことには成功した。
「す、すみません……」
言葉以上に申し訳なさそうに身を縮ませているのは、今日埋葬した女の子の兄だという少年だ。
なるほど、確かに良く似ている。
多少やつれて薄汚れているものの、よくよく見れば彼の顔はその辺の少女とは比べ物にならないほど可愛らしい。
しかしながら、双子の妹を失った悲しみのあまり、後を追おうと考えた、なんとも困った男の子である。
「今日はもう遅い、町へ帰るには危険に過ぎる、泊まっていくといい」
墓守は乏しい常識を総動員して、一宿一飯、少年の世話をすることにした。
彼女の住まいである古い小さな神殿に招かれた、初めての来客である。
「こんなにご馳走してもらって、ありがとうございます」
「いいさ、大したものではない」
「あの……普通にご飯は食べるんですね」
「町では、私が霞でも食べて生きているとでも思われているのかい……」
誰かと雑談を交わす、などという経験は初めてだった。
最初から墓守だった自分は、果たして他人と楽しくお喋りする事などできるのだろうか。
そう疑問に思わないこともなかったが、あまりに勝手な墓守のイメージを持つ少年を前に、そんな事を気にするまでもなく、話は弾んだ。ツッコんだ、とも呼べるが。
「湯加減はどうかな?」
「丁度いいです。あの、本当にすみません、お風呂まで入れてもらって……」
「気にしなくていい。それより、君はかなり汚れているようだ、私が洗ってあげよう」
「えっ、ちょ――」
世間で言う‘裸の付き合い’というヤツもやってみた。
これでより少年と打ち解けることができただろうと自負していたが、何故か風呂から上がった後、彼は顔を赤くして墓守から視線をそらし続けていた。
ちょっとショックだった。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
一つきりのベッドに二人で寝た。
いつもよりやや狭く感じるが、それは不思議と悪い気分ではなかった。
「あの、ありがとうございました」
不意に少年から、今日何度目になるか分からないお礼の言葉を聞いた。
「妹を弔ってくれて。あの歌、凄く綺麗で、温かくて、優しい感じがしました。きっと妹は、幸せな気持ちで天国にいけたと思います、だから、本当に、ありがとうございました」
「そ、そうか……いや、墓守として、当然の仕事をしたまでだ。そんなに、畏まらなくても、いいさ……」
その言葉を聞いてから、やけに胸の鼓動が高鳴って、墓守はなかなか寝付けなかった。
何故こんな気持ちになるのか、眠りの淵に落ちる直前に、答えを得た。
「歌を褒められたのなんて、生まれて、初めてだ……」
翌日。少年が町へ帰る時が来る。
「一晩泊めていただいて、どうもありがとうございました」
「あ、ああ……」
墓守はまた、新たに覚える感情に内心戸惑う。
百年を一人で生きてきた彼女にとって、孤独とは意識することさえない当たり前の環境である。
故に「寂しい」などという感情とは無縁だった。
今この時、少年との別れを迎えるまでは。
何か言って引き止めたい。けれど、その言葉が思いつかない。
自分は墓守、今までもこれからも、それは絶対不変の使命。
そして彼はただの子供。これからもあの大きな町で生きてゆき、大人になり、老い、いつかは死ぬ。
今回の出来事は百年に一度あるかないかのイレギュラーに過ぎない。だからもう、彼とは二度と会うことはない。会う理由も、その必要もない。
「あの、またここに来ても、いいですか?」
だからその言葉は、嘘だと思った。
「もう妹の後を追おうなんて思いません、けど、絶対に忘れたくはないんです」
そんな都合の良い話、あるわけない。
「それにもう一度、あの歌を聴きたいです」
否、それは嘘でもなければ、夢、幻でもない。
晴れ渡る青空の下で、少しだけ気恥ずかしそうに微笑む少年は、紛う事なく真実の姿。
「ああ、いつでも来てくれ、歓迎するよ」
少年は三日に一度の頻度で、墓地へとやって来る。
「こんにちは」
「やぁ、待っていたよ」
墓守にとって、彼のいる日常はいつしか当たり前のものとなっていた。
性別の違いも、桁外れの年齢の違いも、二人が仲を深める妨げにはならない。
少なくとも、時を経るごとに、季節が廻るごとに、墓守の心はどんどん少年へと惹かれていった。
「ضوء أبيض الله يعطي الراحة الأبدية لجميع الاموات، وعلى ضوء(白き神よ、全ての死者の霊魂に、永遠の安息を与え、絶えざる光でお照らしください)」
妹の墓の前で奏でられる鎮魂歌は、二人のお決まりの儀式。
しかし、季節が移り変わる頃になると、その歌声は一つではなく二つに重なっていた。
「すっかり覚えてしまったようだね」
「でも、未だに歌詞の意味は分からないですけど」
たはは、と恥ずかしそうに笑う少年の姿に、墓守の心はえもいわれぬ幸福感に満たされる。
「君の発音は完璧だ。それに、声も綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
例え少年が音痴だったとしても彼女はこう言っただろう。
しかしながら、偶然にも、というべきか、少年には確かに歌唱の才能があった。墓守の褒め言葉はただのお世辞ではなく、紛れもない事実となっていた。
そうして、さらに時は過ぎ行く。
気がつけば、二人の出会いから一年が経とうとしていた。
「この前、勤め先の酒場で、あの歌を歌いました。あの、勝手に歌ってしまって、すみません」
ある日、少年はやって来るなりそんなことを謝罪してきた。
「あれは別に私のモノではない、君が自由に歌えばいいさ」
元より、誰に聞かせるに憚ることはない、ただ古いだけの鎮魂歌。それ以上でも、それ以下でもない。
そんなことよりも、墓守としては自分の教えた歌で、彼が幸せになってくれたことの方が喜ばしかった。
聞けば、それまではただ酒場に勤める小間使いでしかなかったが、客の前で披露したこの歌がとてもウケたらしく、月給を軽く越えるほどのおひねりを頂いたとのこと。
これまで墓守は相変わらず貧しい生活を続ける彼に施しを与えようとしたが、断られていた。
それが口にする通りただの遠慮だったのか、ささやかな男の意地なのか、それとも、本気で高潔な信念を抱いているのか、テレパシー能力のない墓守には分からない。
それでも彼女は知っている。少なくとも、町で幸せに生活するには最低限度の金銭は必要不可欠であることを。
その最低限に満たされるかどうかの給金しかない少年に対し、墓守は大いに不安を寄せるところであったが、思わぬところでそれが改善されたのだ。
「歌って君が幸せになれるなら、それに越したことはない。そして私は、君の幸せを、誰よりも願っているよ」
「はい、ありがとうございます!」
墓守の願いが届いたかのように、少年の生活はそれまでの貧しい生活から急変していく。
少年の歌う流麗で、それでいて不思議な旋律の鎮魂歌は、瞬く間に町の評判となったようだ。
彼の歌の才能は紛れもなく本物、それはきっと、墓守が思っていた以上の天才だった。
その歌声は、老若男女を悉く魅了する。
酒場の小間使いから、専属歌手へと自身でも気づかぬうちに強制転職させられた少年だが、その収入は十倍、いや、百倍に届かんばかりとなる。
一ヶ月も経たない内に、彼は一躍、町のアイドルに祭り上げられていた。
「こんにちは」
それでも、少年は今も墓守の元を訪れる。
すでに彼の姿は、みすぼらしい孤児のものではなく、どこぞの貴族のお坊ちゃんかというほど小奇麗な身なりとなっていた。
よく見れば、薄く化粧まで施されている。少年の美貌はいよいよ、年頃の少女さえ及ばぬ輝きを見せていた。
「ああ、待っていたよ――」
どれほど綺麗になろうと、お金持ちになろうと、少年は変わらずに墓守と接する。
彼の心は初めて出会った頃のまま、どこまでも素直で、純真な、良き子であった。
「――本当に、待ちわびた」
だからこそ、墓守は思い悩む。
少年はアイドルとなった今でもここへ来てくれる。だが、その頻度は三日に一度から五日に一度、週に一度――どんどん期間は開いていく。
会いたい思いは募る一方、だがその機会は減る一方。
しばらく眠れぬ夜が続く。待ち焦がれる、彼への思いで胸が焦げる。
ともすれば、自分との逢瀬を邪魔する‘町’の存在そのものを恨めしく思いそうになってしまう。
墓守は自分に言い聞かせる、いいや、違う、そうじゃない。
「私は彼が幸せになってくれればいい」
あの妹のようになって欲しくはない。
「私では、彼を幸せにはできない」
自分は墓守。使命を放棄してこの地を離れる事は許されない。
「こんな墓地で、生きていてはいけない」
彼は人間。自由な生を謳歌する、何にも縛られることはない。
「いいんだ、仕方がない、なぜなら私は――」
古代魔法で生み出された人造人間の墓守は、決して、人間と添い遂げる事などできはしないのだから。
遥か数百年先に控える限界稼働時間を迎えるまで、この古代神殿から離れることはできない。そう、設定されている。
この陰鬱な墓所で生涯を過ごそうと思える人間など、いるはずがない。まして、輝かしい未来が約束された、アイドルならば尚更――
「……なんだって?」
決意をした矢先、別れの時はやって来た。
「僕の父親だ、って言ってました……」
一ヶ月ぶりに墓守の下へ訪れた少年は、生まれたときから一度も見たことのない、自分の父親が現れたと話した。
「その人は、えーと、名前が長くてよく覚えてないですけど、凄く偉い、貴族様なんだそうです」
ありふれた話だった。
その貴族が十四年前に訪れたこの町で、ある娘と一夜限りの関係を持った。
娘は身篭り、双子を産んだ。
ただ、それだけの事である。
「貴族、か……」
気まぐれにやって来たのではない。聞けば、この町を治める新たな領主として着任したのだという。
「はい、今まで事情があってこの町に来ることができなかったけど、本当はずっと、母さんと、僕達のことを迎えにいきたいと思っていた、と」
それが一体、どこまで本当の事なのかは分からない。
浮世離れした墓守にとって、町の事情さえ満足に知らないのだ。貴族社会についてなど、知る由もない。
だが貴族、その存在が平民とは隔絶した身分であることは知っている。
誰もが彼らに憧れる。
大きなお屋敷、美味しい食事、綺麗な服、傅く下僕――栄華の頂点を極める、特権階級。この世で最も幸せな者は誰かと問われれば、彼らをおいて他にはいないだろう。
「もし、あの人の子供として迎えられたら、僕はもう、ここには――」
「行くといい」
「え?」
「本当の父親なんだろう。家族の下へ帰るのが、一番、幸せなはずさ」
止められるはずがなかった。引き止められるはずがなかった。
彼はこれから、貴族という最も光り輝く道を歩もうとしている。
それを自分のような人形と共に、この暗い墓地に一生涯閉じ込めようというのか。
少年の幸せを願う墓守には、「是」以外の解答はありえなかった。
「僕、必ずまたここに来ますから」
「ああ」
「妹に、もっと上手くなった歌を捧げます」
「ああ」
「だから、その時はまた、一緒に歌ってください」
「ああ、約束しよう。私はいつまでも、君の帰りを待っているよ」
そうして二人は別れを告げる。
墓守は再び孤独へ戻った。
けれど、愛する人の幸せを叶え、再会の約束を交わした彼女は、今までの百年よりもずっと、人間らしい表情で、日々を送るようになっていた。
少年と別れてから、早くも三ヶ月が過ぎようとしている。
「墓守様、どうぞよろしくお願いいたします」
今日も一つの死体が、彼女の元へと送り届けられた。
中を改めようと墓守が棺へ手を伸ばした、その時。
「お待ち下さい。その者は町を救ってくれた英雄です。しかし、死体の損傷は激しく、二目と見られない有様となっております。どうか、再びその姿を晒す辱めはなさらぬ様、お願い申し上げます」
モンスターと戦って死んだのだろうか。町の英雄といえばその辺が妥当なところである。
もっとも、町の事情には徹底的な不干渉を維持する墓守にとっては、何ら関わりのない話である。
ただ死体を受け入れ、適切な処置を施し埋葬する。
激しい損傷の死体、つまり、それほど苛烈な攻撃に晒された者は、死んだ時の苦しみが色濃く残り、アンデット化しやすい。
鎮魂歌だけでは万が一ということもありうるので、彼女は必要な措置と割り切って、死体に直接、浄化の魔法をかけようとした。
そうして埋葬の直前、棺を開いたその時こそ――
「なっ……」
念願叶う、少年との再会であった。
「な、なんだ、なんだこれは、どうして君が! いや、馬鹿な、そんなはずない、こんな馬鹿な事、あっていいはずがないっ!!」
遺体は運んできた者の言うとおり、二目と見られない、それはもう、酷い有様であった。
だがしかし、その可愛らしくも美しい顔だけは、綺麗なままである。
その顔を忘れるはずがない。その顔だけは、見紛うはずがない。
「ああ、嘘だ、嘘だ嘘だ、ありえない、だって私は、君の、君の幸せだけを願っていたのに、どうして――」
どうして、死なねばならなかった。
この死体の傷跡はなんだ。
そもそも、どうして死装束すら着ていない裸のまま、棺桶に投げ捨てられるように放り込まれている?
死刑囚だってもっとマシな扱いで葬られる。一体、どんな大罪を犯せばここまで酷い死の辱めをさせるというのか。
墓守を務めて百余年、これまで幾千幾万の死体を見てきたが、これほど無惨なものは初めてだ。
その最も壮絶な死に様を経験した人物が、どうして、最も愛した、ただ一人だけ愛した彼でなくてはならなかったのか。
彼の幸せだけを願って、長い別れの時さえ受け入れた。
彼を自分のモノにしようという、抗いがたい欲求にも必死に逆らった。
だが、どうやら彼は残酷な者の所有物にされてしまったようだった。
少年の持つ最大の魅力。その類稀な歌声さえ己のものと主張するように、彼の喉には、家紋の烙印が焼き付けられていた。
「ああ、そうか、そういうことか……」
本当の父親、貴族、町の英雄――これもまた、ありふれた話であった。
ある横暴な貴族が、町で話題のアイドル少年に目をつける。
彼が本当に父親であるかどうかは関係ない、ただのこじつけでも、いいがかりでも、理由としてはなんでもよい。
必要なのはただ力のみ。この町を破滅させうるだけの権力――領主という地位があれば、ただそれだけで十分だ。
生贄、人柱、呼び方はなんでも良い。つまるところ、少年は貴族の浅ましい欲望を満足させる餌とされたのだ。
あの様子では、何も知らず、知らされることはなく、そして誰も、教えようともしなかった。
そうして彼は、尊い犠牲となったのだ。
「……て……やる」
この三ヶ月間、貴族が弄ぶ面白おかしい玩具として、彼は生きた。
そして自分はこの三ヶ月、馬鹿みたいに彼の帰りを待ち続けていただけだった。
何もしなかった、何もできなかった。
彼がこんなに、苦しんでいたというのに。すぐ近くで、彼は苦しんでいたというのに。
「……殺してやる」
許せない。
「殺してやる、殺してやる」
許せるはずもない。
彼の幸せを願うと言いつつ、最初から諦めて自分の手でそれを叶えようとしなかった、愚かな選択を。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる」
そして何より許せないのは、
「殺してやる、貴様ら、全員――」
彼を死に追いやった、全ての人間だ。
「ぶっ殺してやるぁあ嗚呼嗚呼ああああああああああああああああああああ!!」
高らかに響く恨みの絶叫。
そこに篭る怨念はあまりに強く、濃く、故に、負の波動となって墓地へと影響を与える。
それはきっと、この地で百年の長きに渡り、死を弔い、魂に永遠の安らぎを与え続けた彼女だからこそ起こりえた現象だろう。
「ぁ……あぁ……」
墓守の声に応えるように、死者が蘇った。
血の気のない青白い顔のまま、少年の虚ろな瞳が開かれる。
同時に、墓守は怨嗟の形相を一片させた穏やかな表情で、彼へと向き直る。
焦点の合わない少年の視線に、淀んだ血色の瞳で微笑む墓守の白い顔が割り込んだ。
「――やぁ、再会を待ちわびたよ。たった三ヶ月で私の元へ帰って来るなんて、ふふふ、どうやら君の方が寂しかったようだね。いや、なに、責めているワケじゃないさ、ただ、嬉しいのさ」
アンデッドとして再び動き出した亡者は生前の人物とは完全な別存在、ただのモンスターへと成り下がる。
少年は今、ゾンビ、と呼ばれる最下級のアンデッドモンスターと化した。
そんな事を、彼女が知らないはずがない。
死者がアンデッドとして蘇ることを防ぐ、それが墓守の最大の仕事である。
「ああ、そうだ、君と一緒に歌う約束をしていたね。さぁ、共に歌おうじゃないか」
しかし墓守は、在りし日の如く、ゾンビと化した少年を抱き寄せる。
彼女の胸に抱かれても、彼はもう、頬を赤らめ恥らうことはない。
勿論、その口から人々を魅了してやまない華麗な歌声が紡がれることも、二度とないのだ。
「ض وء أب يض ا لله ي عط ي الر احة الأ بدي ة لجمي ع ا لاموات، وعل ى ضوء」
墓地に響き渡る鎮魂歌――そのはずだが、狂える精神のままに旋律は乱れ、外れ、そこに秘められる浄化の効果を変質せしめる。
その歌声は鎮めるはずの魂を熱狂的に刺激し、高ぶらせ、荒ぶり、永劫の眠りを妨げる復活の音色を奏でる。
次に目覚めたのは、少年の妹だった。
呪いの域に達した鎮魂歌、否、反魂歌により、その幼い遺骸は再び動き出し、棺を破り、土の中より出でる。
「はは、あはは、なんだ、最初からこうしていれば良かったじゃないか。ほら、これなら妹ともまた一緒に暮らせるよ」
動く妹の死体は、改めてみればやはり、その少年とよく似た可愛らしい顔立ちである。
もっとも、棺の中で一年以上を過ごした彼女の肉体は所々が腐敗しており、すでにして不浄なアンデッドであることに変わりはない。
「ふふ、今日は喉の調子が悪いのかな、声が出ていないじゃないか。ああ、それとも、今やアイドルの君は、もっと大勢の観客がいないと不満なのかい? それならいいさ、すぐに呼んで見せよう、ほら――」
墓守がさらに一声上げると、その呼び声に応えるかのごとく、墓地から次々と骨の手が生える。
この百年、ただの一度も暴かれなかった墓所が、その主たる墓守によって根こそぎ掘り返される。
百年前の死体も、十年前の死体も、昨日の死体も、等しくその安らかなる眠りを妨げられ、再び現世での苦役を課せられるのだ。
「ん、まだ足りないのかな。いいさ、これから‘人’はどんどん増える、まずは町の全員を――」
呻き声一つあげない少年を左手で軽く抱え、右手には愛用の薙刀を握り、墓守は歩き出す。
「墓守の仕事? ああ、もういいのさ。この町にもう墓地は必要ないからね。墓守の私もお役御免というわけさ」
古の使命は覆る。遥か古代の命令如きでは、彼女の怨念を縛り付けることはできない。
「それじゃあ行こうか。今度こそ君を、幸せにしてみせるよ」
そして墓守は外の世界へと踏み出す。
目に付く人を悉く斬り捨て、死者の行列に加えていく。
「آلهة من كوروكي، أرواح الأموات جميع(黒き女神よ、全ての死者の霊魂に)」
歌う、歌う、反魂歌。
死せる者を眠らせない。
蘇りし者は、その苦しみのままに生ある者を恨み、嫉み、不浄の仲間へ加えようと手を伸ばす。
「إعطاء التعذيب الأبدية(永遠の責め苦を与え)」
増える、増える、亡者の復活。
町から命が消える。変わりに灯るは偽りの生命。
「يرجى غارقة في الظلام لا نهاية لها(果てなき闇にお沈めください)」
進む、進む、死の行進。
目指すは、町の中心部。最も高い人口密度。最も気高き、貴族の魂を求めて。
死者は恐れを知らない。故に、その歩みは一度たりとも止まらない。高い壁を、深い堀を、並び立つ屈強な兵士を前にしても。
「نهاية العالم(世界よ、終われ)」
その町は、この世にありながら、あの世となった。
死者の国、亡者の楽園。
地獄の頂点で奏でられる歌声は、いつしか――
「ああ、ようやく、私と歌ってくれたね」
墓守と少年の、二重奏となっていた。
かくして、メリーは蘇る。
死を覆す呪われし旋律は彼女の意志を呼び覚まし、主より分け与えられた黒色魔力によって再び立ち上がった。
開かれた眼は不気味な真紅の輝き。血塗れのたてがみが燃え盛る炎のように逆立つ。満身創痍の馬体はいつしか、より深い暗黒に染まりきって、あらゆる傷痕を埋め尽くす。
メリーは最早、ただの馬ではない。まして、低級なゾンビ馬となったわけでもない。
その堂々たる立ち姿、全身から迸る禍々しい赤と黒のオーラ。そして、身の毛もよだつおぞましき怨念の気配。
彼女はただ、蘇ったのではない。より強力な存在へと生まれ変わったのだ。
その名は図らずとも、主につけられた二つ名と同じ――メリーは高位のアンデッドモンスター、『不死馬』へと、進化を果たした。
2013年2月8日
前回と今回の話は、一つにまとめるべきでした、申し訳ありません。今後、このような場合では無理に分割せず、長くとも一話に、あるいは同時投稿しようと思います。ただし、その場合は書き溜めの問題もありますので、週に一回の更新となってしまいますが、どうぞご了承ください。