第315話 白金の月22日・???(2)
天は血の色に濁った不気味な色合い。大地は赤茶けた岩山が連なり、そこら中から火を噴き、溶岩の大河が縦横に流れている。
地獄――いや、煉獄、と呼ぶべき高熱と焦熱と灼熱で溢れる場所、気がつけばフィオナはそんなところに立っていた。
「ここは……」
辺りを見渡しても、人影どころか、生物の気配さえ感じない。
周囲の光景は、学生時代に訪れた火山地帯のダンジョンを彷彿とさせる。
必ず四人以上でパーティを組むことと注意される危険度の高さだが、結局、一人で最奥まで探索した灰色の思い出が残っている。
パンドラ大陸にはここまで破滅的な火山が存在するのかどうかは不明だが、この異常な燃える天空を眺めれば、どうにも現実世界ではないように思えた。
そこまでの疑問がもてれば、これは夢なのでは、という解答に至るのは早かった。
思い返せば、リリィと一緒に仲良くベッドインしていた、それから起床した記憶はないのだから、時系列的に考えればやはり今は夢の中ということになる。
どうせ夢を見るのなら、もっと美味しい夢が良かったなどと残念な感想を抱いたその時。
「ようこそ若き魔女、久方ぶりの客人じゃ、歓迎するぞ」
どこからともなく、女の声が響いてきた。
とろけるように妖艶な声音、だが、やけに耳に残る、甘い毒のような響き。
この声の持ち主は恐らく、その気になればたったの一言だけで男を魅了にかけることができる。
存在そのものが危険。そう直感したフィオナは台詞の意味を考えるよりも、真っ先に体が警戒反応をとった。
幸いとでもいうべきか、今の自分は三角帽子と魔女ローブのセットに『アインズ・ブルーム』と完全武装している、戦闘となってもそうそう遅れをとることはない。
「くっくっく、そう警戒するでない。そもそも、ここへ来ることを望んだのは他でもない、そなたであろう?」
再び響いてくる甘い声の響きは、やはりどこから聞こえてくるのか皆目見当がつかない。
だがその言葉の意味に、フィオナはようやく気づく。
「まさか……貴女が、神なのですか?」
素面で言うには馬鹿げた台詞、だが、答える相手は大真面目。
「如何にも、儂こそがそなたの祈りに答えし、黒き神々の一柱よ。神前だとて、遠慮することはないぞ。さぁ、近こう寄れ」
尊大でありながらも、どこか馴れ馴れしい物言いの神、女の声なのだから女神と言うべきか、ともかく、今はその指示に逆らう余地はない。
フィオナはすでにして理解できている。ここはただの夢ではなく、神が自らの意思によって、加護を与える者を特別に招きいれた神域であると。
慈悲に溢れる善なる神であるならば、多少の無礼も寛容な心で許してくれるだろうが、相手は自身が望んだ通り悪神の類に違いない。
機嫌を損ねれば死亡は確実、そうでなくても、気まぐれに何を仕出かすかわかったものではない。
もっとも、注意しただけで咄嗟の言動を制御できるならば、天然の称号をフィオナは冠していない。
死なばもろとも、の心意気で余計なことを考えず、女神の呼びかけに応え一歩を踏み出した。
自分が歩いている所は、よくよく見ればただの岩山の斜面ではなく、明らかに人工物と思われる加工の施された石の階段である。
背後に焼ける大地と火を噴く山々が一望できることから、どうやらここはここに聳え立つ火山の中で最も高い山、その山頂付近であるらしい。
恐らく悪しき女神はこの煉獄山の頂にて、フィオナの到着を待っているのだろう。
そうして、ほどなく頂上にたどり着いたフィオナの目に映ったのは――
「これはまた、見慣れた造りの神殿ですね」
白亜の大聖堂――などと、かつては呼ばれていたと思しき、朽ちた神殿の遺跡であった。
数ある古代遺跡の一つであると、ベテランの冒険者ならば風化の具合やその建築様式から断定できるだろう。
「エリシオン大聖堂にそっくりです」
だがしかし、シンクレア共和国の聖都、十字教の総本山たるエリシオンで学生時代を過
ごしたフィオナだからこそ、その最も的確な感想を口にする事ができた。
「元、エリシオン大聖堂じゃよ」
だが、思わぬ肯定の言葉が返ってきたことに、フィオナは少なからぬ驚きを覚える。
「元、とは?」
「なに、遥か昔、大昔の話じゃ、語って聞かせるほどのものではない」
「……そうですか」
やや落胆の気持ちと、確かに、昔の話などどうでも良いという納得の気持ちを抱きながら、フィオナは崩れかけの巨大アーチを潜り抜けた。
正面に鎮座する巨大な聖母アリア像はその頭部だけが綺麗に砕け散っており、ここに一切の信仰心が残されていないことを証明しているようであった。
敬虔な十字教徒、どころか、白き神など欠片も信じていないフィオナとしては、特別に気になる光景でもない。
彼女は淡々と、元エリシオン大聖堂であったらしい巨大な廃墟を真っ直ぐに進み続ける。
歩みを止める障害はない。ここには現実の大聖堂のように、警備任務に励む聖堂騎士の一人もいなければ、古代魔法を利用した十二層の多重広域結界も存在しないのだから。
そうして、ついに大聖堂の最奥へとたどり着く。
その聖銀でできた巨大な両開きの扉が自動的に稼動し、フィオナをその内へと導いた。
そこは何もない。ただ白い壁で覆われただけの、神聖な間というより、いっそ牢獄めいた雰囲気の広間であった。
その中央に佇む、一つの黒い影。
「さて、まずは自己紹介でもしようかのう。それなりに有名なつもりではいるのだが、そなたは遥か海を隔てた別天地、アークのエリシオンより参ったそうであるからのう」
大きな黒い三角帽子と、漆黒のローブ。
フィオナの姿ではない、それが、目の前に立つ女神の格好であった。
ただ、真っ先に目に付く特徴がソレというだけで、次の瞬間には、フィオナの魔女装備とは全く異なっていると気づくことができるだろう。
なぜなら、女神の白い裸体がほとんど全て露わになっているからである。
ローブはマントのように背中へ流され体の前面は開いており、そこから惜しげもなく晒される女神の肉体は、およそ全ての男性を虜にし、同時に、全ての女性を嫉妬させる魅惑的にして扇情的なものだった。
正しくこの煉獄山を体現するような胸、寄せられた谷間はどこまでも深く底を見せない。
その胸元は光を反射しない材質不明な黒いビキニスタイルのトップスによって、はちきれんばかりに納められている。
抗いがたい誘惑に逆らい視線を少し下げてみれば、そこにあるのはただくびれただけの細い腰ではなく、戦士の様に――否、古代の英雄像のように美しく引き締まった腹部が映る。
さらに視線を下げれば、際どい角度と面積のボトムが覆う下半身。
大きく魅了の曲線を描くヒップライン、だが、そこから伸びる足は腰周りと同じく引き締まっており、逞しさと美しさと淫らさで彩っていた。
膝から下は黒い革の編み上げブーツで覆われており、その高いヒールによって、ただでさえ長い両脚はより長く、クロノ並みの長身は、より高く押し上げられている。
そんな女神の肉体は、人気踊り子も超高級娼婦も鼻でせせら笑えるほどに艶やか。これに匹敵するのは伝説で魔王を誘惑したという淫魔女王くらいだろうか――いや、彼女こそが本人では、冗談抜きで、フィオナはそんなことを思った。
「失敬な、あやつはもっと下品なだらしない体つきよ、儂と一緒にするでない」
「すみません」
心を読まれたことに最早、驚きなどない。その気になればリリィでもできる、神であるならさもありなん。
「それで、えーと、女神様のお名前は?」
言葉どおり、神前でも全く遠慮をしないフィオナはいつもの目つきで、名を問う女神の顔を――見る事はできなかった。
深めに被った帽子によって、目元が明らかになっていないのだ。
いいや、そのあまりに不自然なほどの見えなさは、認識阻害の魔法を行使しているように思えた。
しかしながら、その下半分が露わになっている顔、すっと通った高い鼻筋に、細い顎のライン、色っぽい肉厚の唇、それらの要素だけですでに完成された美貌の持ち主であることを悟らせる。
女神は、ルージュ代わりに鮮血を引いたような真紅の唇を可笑しそうに歪ませて、口を開く。
「おお、そうじゃったな、ふふ、名乗るにもったいつけるつもりはない、どうせ偽名じゃ」
「えっ?」
「儂の名は――」
さらっととんでもないことを言った気がした。いや、間違いなくフィオナは気づいていたが、それを見事な神スルーをして、女神は偽りの名を騙った。
「――エンディミオン、古の魔王に仕えし黒魔女よ」
翻るのは、夜空のように煌く艶やかな黒髪の長髪。
そして、帽子に隠れて見えないはずの目元が一瞬だけ、二つの真紅の輝きを灯したのを、フィオナは確かに見た。