第303話 白金の月20日・イスキア古城
イスキア古城に向けて、王立スパーダ神学校の生徒達が列を成して緩やかな勾配の丘を進んでいく。
その先頭を行くのは、数百人の人数の中にあっても目立つウイングロードのメンバーである。
「ふわぁ……眠みぃ、あと手が痛ぇ」
純白のユニコーンの背の上で、ネロはそんな不満を意味もなく呟く。
いや、多少なりとも意味はあるかもしれない。
ネロが痛いのは手のひらだけということは、他の部分には一発も拳を受けることはなかったことの証左であり、また、古流柔術を達人レベルで使いこなしても尚、手のひらが痛むほどの剛拳だったということでもある。
ただこれだけの事実で、ランク5に相応しい両者の実力を鑑みることができた。
「自分だけ楽しい思いしといてそれかよー」
ネロのさらに上を行く不満顔で、隣で轡を並べるカイが訴える。
「俺はお前ほど喧嘩が楽しいワケじゃねぇんだけど」
「だったら俺に譲れよな、あのオッサンくらい強いヤツとなんてそうそうやりあえねぇぞ!」
そんなこと言われても今更である。喧嘩を売り買いした当事者はネロとグスタブであり、あの状況下で、
「代わりに俺の友人がお前の相手をするぜ!」
などと言えば、ボディーガードを雇って強くなった気でいる勘違い野郎と同じレベルの残念さである。
多少なりとも男のプライドを持つネロが、そんなことを言えるはずがない。
「ねぇ、ちょっとアンタ達、昨日の晩どこでなにやらかしてきたの?」
男二人の会話に背後から割って入ったのは、馬上で長いツインテールを揺らすシャルロットである。
金色の円らな猫目はジト目に変わっており、これ以上ないほど二人へ疑惑の眼差しを送っている。
「は? なんの事だよ、昨日はテントの中でそれはもう健やかに眠っていたぜ」
「そうそう、ギルドの酒場で喧嘩沙汰なんて起こしてねーから!」
「このバカ!」と、同じ台詞が、それぞれ別の意味合いで発せられた。
「もう、信じらんない! お酒を飲みに行くくらいなら許そうと思ったけど、喧嘩までしてくるなんて――」
「声がデカいぞシャル、教師にバレたらどうする」
「誰の所為だと思ってんのよ!」
「カイ」
「おい、喧嘩したのはお前だろネロ!」
わいわいと騒ぎ始める三人から一馬身離れて進むサフィールが、
「ほんと、バカばっかり」
偽スレイプニールの上で、ぼそりと呟いた。
今日も平常運転なウイングロードの行く先に、小高い丘の上にそびえるイスキア古城が見えてきた。
現代でもほとんど同じ建築技法、一種完成された堅固なスパーダ様式の城は、おおむね四角形をしている。
東西南北の四隅が円筒形の防御塔となり、角を結ぶ辺は、上に兵士がズラリと並べる城壁が立つ。そのすぐ外側に今は水の張られていない空堀、そこにかかる唯一の入り口である跳ね橋は上げられたままで、正面の城門もまた硬く閉じられている。
そうして、往年の防衛力を今もそのまま維持している国境線の堅城は、スパーダの未来を担う若き騎士達の訪れを待っているのだった。
イスキア古城は百年以上も前に行われたスパーダとファーレンの熾烈な領土争いの歴史を今に残す貴重な旧跡である。
しかし今や両国の関係は敵対から中立、そして友好へと変化してからすでに五十年は経過している。再びこの場所が地獄の最前線と化すことはないだろう。
「古き兵どもの魂よ、叶えられた平和という名の鎮魂歌の中で、安らかに眠るが良い、永久に――」
「なに黄昏てんのさウィル、観光しにきたわけじゃないんだよ」
「申し訳ございません、シモン様、いつもの発作ですのでどうかご容赦を」
現在まで補修改築が施され城として最低限の機能は維持されている、つまり、崩れる心配のない城壁の上で、沈み行く夕陽を眩しそうに眺めながら意味不明な事を述べるウィルハルトに容赦のない突っ込みが二連撃。
その辺に転がっていた木の空き箱に片足を乗せてカッコいいポーズを決める王子様に、さらなる追撃が。
「しかもそのポーズなんなのさ、もう、恥ずかしいからやめてよね!」
「こうしてスパーダ王族の品位が貶められていくのですね、実に嘆かわしい」
あまりに苛烈な口撃を前に、流石のウィルハルトも歴史に思いを馳せていますよ的な表情を崩さざるを得なかった。
「ええい、歴史のロマンを心得ぬ無粋な者どもめ……」
渋々ながらも木箱から足を下ろす。
「何事もなく入城できたからって、油断しすぎなんじゃない?」
「うぬぅ、痛いところを突いてくる」
王立スパーダ神学校の生徒たちは、このイスキア古城へ予定よりもやや早い夕暮れ前に到着していた。
シモンの言う「何事もなく」とは、正しくその通りで、ダンジョンを行軍しているというのに一度たりともモンスターの襲撃がなかったのである。
時には城内にゴブリンやオークなどの人型モンスターが住み着いていることもあり、過去のイスキア丘陵における野外演習では、入城前に立て篭もるモンスターを掃討する擬似的な攻城戦が行われたことも何度かあった。
「昨日は荒れてなきゃいいけど、なんて話したけど、こうして何もないのもかえって不気味だよね」
「うむ、襲撃までいかずとも、ケンタウルスの影一つ見えないのは些か妙であるな」
イスキア丘陵の見晴らしのよい丘に最も多く生息しているモンスターが、上半身が人、下半身が馬の半人半獣、ケンタウルスである。
このダンジョンへ踏み込んだ冒険者が最初にエンカウントするのは大抵このモンスター、逆にこちらが先に発見することもあるだろう。
得意な弓を持って沈黙羊の群れを狩るケンタウルスの姿は、ここではそう珍しい光景ではない。
「しかしながら、過去には三日目まで全くモンスターと遭遇しなかったという事例もある、今回も偶々という可能性は十分残っている」
「そうだね、とりあえずは明日の索敵次第――」
その時、二人、いや、護衛メイドのセリアも含めて三人に向かって駆け寄ってくる足音が聞こえ、反射的にそちらへ視線を向けた。
現れたのは軽鎧を纏った少年、ウィルの直属部隊に所属する騎士候補生の一人である。
「失礼します、ウィルハルト王子――」
「今は閣下と呼べと言っただろう!」
「ああ、気にしなくていいよ、続けて」
これ見よがしに赤マントを翻らせるウィルハルトの脇腹をライフルのストックでズンズン突っつきながら苦笑するシモン。
茶髪の騎士候補生は困惑した表情を浮かべながらも、報告を果たすべく続きを口にした。
「司令部の設置が完了しました、ご案内いたします」
「うむ、ではよろしく頼むぞ、我が騎士エディよ」
「え?」
ウィルハルトの返答は酷く真っ当なものだったが、隠す事なく驚いたという表情を見せる騎士候補生。
「む、名前はエディであっていたと思ったのだが?」
「い、いえ、エディであってます、まさか、名前を覚えてもらえているとは――」
「配下の名を覚えぬ将がどこにいる。我が灰色の頭脳にかかれば、此度の野外演習に参加せし合計三百名の顔と名は一晩で全て暗記済みよ!」
ふぁーはっはっは、と自慢げにいつもの高笑いをあげるウィルハルトだが、今回ばかりは珍しく本当に自慢できることであった。
「では参ろうか」
「はい、ウィルハルトお――閣下」
「うむ!」
エディの先導で歩き出すウィルハルトは閣下呼ばわりされて鼻歌でも奏でそうな上機嫌ぶり。
だが、友人の素直に尊敬できる才能の一面を見たことで、シモンは可憐な微笑みを咲かせるだけで、特に注意をする事もなかった。
白金の月20日は、第272話『腕力強化っ!』と同じ日です。魔法を練習するクロノの前に、ネルが訪問して教える話でした。ネロが仲間と楽しくやってる裏で、妹はもっと楽しい事をしていたという構図ですね。