第300話 白金の月20日・アヴァロン市街路地裏
かつてパンドラ大陸全土を統一したエルロード帝国、その中枢たる帝都の名がアヴァロンという。
現在のパンドラ中部の都市国家群に名を連ねるアヴァロンという国は、その名の通り、古の帝都から名づけられているのは魔王伝説を知るものなら誰でも簡単に想像がつくだろう。
旧魔王領などとも呼ばれるのは、事実として、都市国家アヴァロンが帝都の領域に含まれる立地だからである。
といっても、かなり外れのギリギリ領域内という場所であり、エルロード帝国皇帝の座すアヴァロン皇城が聳え立つ中心区画は、この都市国家よりもやや北側に位置する。
現在、その真の帝都は『神滅領域アヴァロン』という呼び名でランク5ダンジョンに指定されており、アヴァロン皇城、通称『魔王城』は未だ城内に何人たりとも侵入を許さぬパンドラ最難関ダンジョンとして君臨している。
伝説のエルロード近衛軍がそのままアンデッドとして今も城を守り、漆黒の守護竜が天を支配しているのだ。
しかしながら、伝説の帝都も、最難関ダンジョンも、今この路地裏を一人で歩くリリィには全く関わりのない話である。
「……ふわぁ」
と、小さい欠伸を漏らす幼い姿のリリィはどこまでも無防備。
だが、つい先ほどまでアヴァロンの情報屋にて、現在の情勢や噂話や裏クエストなどなど、多種多様かつ複雑な話を聞いてきたばかりである。
少女リリィでも少しばかり情報の整理に頭が疲れるといった具合なのだ、幼女状態に戻ればさもありなん。
情報屋とのやり取りそのものは、実にスムーズに行われた。
ともすれば浮浪者かモンスターかと見紛うような薄汚れた格好の偏屈なゴブリンの男が情報屋であったのだが、スパーダにて喫茶店兼酒場兼情報屋の『フェアリーテイル』を営む妖精の店主カレンの紹介状を手渡せば、素直に情報を売ってくれたのだ。
本来ならば必要と思しき部分のみをピンポイントで聞くべきなのだが、一刻も早くクロノの元へ帰りたいリリィとしては、ゆっくり情報収集に興じる暇などない。
知っていることを洗い浚い吐け、と言わんばかりに金貨の小山をテーブルにぶちまけると、ゴブリンの情報屋は実に様々なネタを懇切丁寧に教えてくれた。
差当たり、リリィとフィオナにとって最も重要な情報は「全滅させても問題ない人間の集団」の存在である。
リリィの使用する『思考制御装置』はそもそも人間専用の魔法具であるし、フィオナの生贄としても、同族である人間でなければ意味がない。
つまるところ、ファーレンの盗賊と同じような集団こそ二人の望む‘獲物’なのである。
さて、昨今のアヴァロンにてそのような集団が都合よく存在しているかどうかというと――
「うおっ、危ねっ!?」
という叫びと共に、リリィの眼前を小さな人影が横切った。
如何にも注意力散漫な幼い子供姿のリリィであるが、幼女状態にあっても彼女はそれほどトロくさいわけではない。
突如として目の前、ちょうど表通りから自分の進む路地裏へと駆け込んできた人物が、ギリギリのところで衝突を回避する行動をとれたことをはっきりと認識しており、リリィはその場でただ立ち止まって相手が避けきるのを待った。
結果的には、ただ驚いて硬直してしまったようにしか見えないのだが。
「おっと、いけね!」
一人で騒がしく登場し、また、忙しなく動き回るのは、どうやら少年であるらしい。
年の頃は十を越えるかどうかといったところ、スラム街の住人らしくみすぼらしい服装だが、その半そでから覗く手足は健康的に日焼けされており、子供らしい元気に満ちている。
彼が慌てているのはその手に抱える大きな籠、そこへ一杯に詰め込んであるオレンジがリリィを避けた拍子に何個か転がり落ちてしまったからだ。
ネズミのように素早い身のこなしで、路地裏の狭い地面に転がる丸く大きなオレンジを拾い上げていく少年。
リリィは己の足元にも一つ転がっていることに気づき、何ともなしに小さな両手で掴んで拾った。
「へへっ、ソイツはアンタにくれてやるよ!」
白い歯が輝く、どこまでも真っ直ぐな少年らしい爽やかな笑顔と言葉がリリィへ向けられた。
リリィが何か返事をする前に、少年は急いでいると言わんばかりにさっさと背中を見せて、再び路地裏の奥へ向かって走り始める。
「白き光の導きがあらんことを――じゃあなっ!」
後ろに手を振りながら、その台詞だけを残して少年はスラム街へと通じる路地の奥へと消えていった。
リリィはプレゼントされたオレンジを手にしたまま、少年が残したフレーズを反芻する。
ああ、なるほど、と低速回転の子供頭脳が納得の行く解答を導き出すと同時、
「こらぁ! 待ちやがれこのワルガキっ!!」
新たな人物がまたしてもリリィの佇む路地裏へと姿を現した。
今度は少年でも人間でもなく、横幅のある大きな異形のシルエット。
どこからどう見ても豚の頭を持つ人物は、それが精巧な被り物でもない限り、間違いなく豚獣人であることが分かる。
ブヒーブヒーと鼻息荒く憤った様子と、身にまとうエプロン姿、そして叫んだ台詞の内容からいって、幼女リリィでも即座に先ほどの少年とこの豚獣人の関係性を察することができた。
「ああっ、そのオレンジは! さてはあのガキの仲間――」
そのまま突進するかのように小さなリリィへ迫る巨体だが、一歩手前で急停止した。
「――なワケねぇか、スラムのガキがこんな良い身なりしてるはずねぇよな」
頭の天辺から足の先までまじまじとリリィを見つめ、納得したように呟きを漏らす。
スラムのガキ、つまり貧民街に住まう子供が、今のリリィのように染み一つない真っ白い清潔なローブ姿でいられるはずはない。
「はい」
弁解の必要がない事を理解したリリィは、手にするオレンジを本来の持ち主と思しき豚獣人の男へと差し出した。
「おお、ありがとなお嬢ちゃん」
最初の剣幕とは打って変わって、朗らかな笑みを豚面に浮かべながらオレンジが受け取られる。
「オレンジ屋さん?」
「いいや、果物屋だよ」
オレンジ限定で販売しているのではという幼女リリィの大穴予想は外れたが、まぁ、おおよそ想像通りの人物であることが判明した。
この豚獣人は果物屋の店主であるらしく、そして、先ほどの少年は店先から大胆にも籠ごと商品を強奪した泥棒小僧であるに違いない。
「あっちに逃げたよ」
リリィは少年が走り去った方向を短い指を指して素直に申告する。
「あーこりゃあもうダメだ、スラムまで逃げ込まれちゃ手を出せねぇよ」
やれやれ、と言った風に豚獣人が愚痴を漏らす。
「全く、最近はやけにスラムのガキ共が悪さしやがる……おい、お嬢ちゃんもこんな路地裏を一人で歩いちゃいけねぇ、早くママんところに帰んな」
「うん」
そもそも妖精に両親と呼べる存在はないのだが、ローブ内に羽を隠した今のリリィは表向き人間の子供である。
余計なことは言わず、良い子の見本とばかりに元気な返事をして、忠告通りに路地裏を抜けて明るい表通りへと出た。
豚獣人は一つだけ取り戻すことができたオレンジ片手に、店のある方へ向かって人ごみの中へと消えていく。
それとは反対方向へと歩き出したリリィは、幼い子供にあるまじき妖しい笑みを零して呟いた。
「アレが『白光教会』ね、なるほど、情報の通りじゃない」
『白光教会』、それが情報屋で得たリリィにとって最も都合の良い獲物の名である。
だが、今の彼女に重要なのはそこではなく、その信徒と思しきオレンジ泥棒の少年についてであった。
「ちゃんと顔を覚えていて良かった、こんなところで出会えるなんて、ふふ、運命を感じるわ――」
リリィはあの元気溌剌とした少年に明らかな見覚えがあるのだ。
果たして、彼にどんな経緯があってアヴァロンにいるのはわからない。
わからないが、あの少年は紛れもなくダイダロスからの避難民、第十一使徒ミサの襲撃を奇跡的に生き延びた五十人の生き残りの内の一人。
そして、あの悲劇をクロノ一人の責任として糾弾した二人目の人物。
「――クロノに石を投げたこと、私は許していないのよ」
この少年誰だっけ? という方は、第155話『拒絶(1)』をご覧下さい。ちなみに、このあとがきでは「ナキムって誰だっけ?」と書かれています。
2012年11月26日
前々回からお祝いの言葉をいだたきましたが、今回を正しく『300話』とさせていただきます。読者の皆様、ここまで読んでいただき、本当にどうもありがとうございます。