第290話 天使降臨
街中で迷子になっていた幼い兄妹は、ネルの手によって無事に親元へと帰された。
途中でお腹が空いた、と泣き出すアクシデントもあったが、そこはお姫様お手製のタマゴサンドでどうにか凌いだ。
そうして、ありきたりだが、誰もが望むハッピーエンドを迎える。
だがしかし、ネルにとってそのエンディングを迎える為の代償は、あまりに大きかった。
「わぁ~どうしましょう、もう試合始まっちゃってますよぉ~ひぃ~」
いつもの輝くロイヤルスマイルで迷子家族と別れを告げた直後、とっくに陽が沈み満点の星空が広がるスパーダの街を、ネルは半泣きで走った。
道行くスパーダの人々は、両翼を広げて疾走する王女様の姿に、みな驚いた表情で振り返り見る。
だが、彼女に声をかけられる者は一人として存在しなかった。
そうして、上層と下層を区分けする第二防壁の正門も顔パスして一気に走り抜けたネルは、ついに大通りの先に聳え立つ『大闘技場』を目にした。
流石に目的地が肉眼で確認できれば、筋金入りの方向音痴であるネルであっても迷うことは不可能である。
いよいよ道順を間違える心配が失せたネルは、夜になって人通りが引き始めた上層区画の大通りを、風の速度強化魔法を併用して全速力で駆け抜けていった。
緩やかなカーブを描く巨大な石造りの壁が目前まで迫る頃には、ネルの耳には、その内側で湧き上がる観客の熱狂的な歓声が届いた。
剣闘に疎いネルでも、試合が随分と盛り上がっているだろうことが察せられた。
いや、多少なりともテレパシー能力を持つネルだからこそ、そのストレートな感情の篭った大声援を、より直感的に理解することができるのだ。
だが、ネルを驚かせたのはそんな観客の興奮ではなく、雑多な声援に混じって聞こえてくる「クロノ」という名前であった。
「そんなっ、もうクロノくんが試合してるっ!?」
いよいよネルは焦る。
もしかしたらクロノの試合の割り当ては後半でまだ間に合うかもしれない、なんて淡い希望も抱いていたのだが、それは『大闘技場』から響いてくる熱い「クロノ」コールによって粉々に撃ち砕かれてしまった。
「待っててくださぁ~い、クロノくぅーん!!」
しかしながら、回復役の出番は試合後であるのだから、試合中ということは自分の出番としては十分間に合うタイミングではある。
もっとも、今のネルにはそんなことを冷静に考える余裕はなかった。
「クロノくんが待ってるんです! 早く入れてください!!」
という意味不明な供述を繰り返す隣国のお姫様に、会場入り口の受付嬢は困惑する一方であったが、どうにかネルが回復役としての参加証明書を提出したことで、ついに『大闘技場』への入場が果たされた。
だがしかし、ここまでの道のりは完璧だったが、闘技場内の構造はネルにとって全く理解不能に思えるほど複雑なものであった。
まるで地下遺跡系のダンジョンに迷い込んでしまったような錯覚を覚えながらも、ネルは自分の直感という最も信じてはいけないものを信じて、通路を突き進んでいった。
そうして彼女が行き着いた先は、どこかの観客席であった。
「きゃぁーー! クロノ君――っ!」
「クロノ様ぁー頑張ってぇー!」
「キモい魔眼なんかに負けないでぇー!」
「あ、ポップコーンなくなっちゃった……」
ここはどうやら若い女性客が多いようで、アリーナで激闘を繰り広げるクロノへ黄色い声援を送っている。
その中には、ついこの間クロノの隣で微笑んでいた、美人で有名なギルド受付嬢エリナの姿もあった。
彼女たちが熱烈にクロノへラブコールを送っている姿に、言いようのない感情がふつふつと腹の底から湧きあがってきそうになったネルだったが、今は気にする余裕はない。
「魔眼って……まさか、ハイドラのっ!?」
確認するまでもなく、闘技場内に掲げられた巨大なメッセージボードには、輝く光の魔力でこう書かれていた。
『黒き悪夢の狂戦士クロノVS狂える魔眼サイード・マーヤ・ハイドラ』
そして、その魔眼が本物だということは、
「ダメっ! クロノくん避けてっ!!」
黒い薙刀を握る大男の顔面が、不気味な紫の閃光を発したことで、ネルには確信できた。
彼女はハイドラ家に伝わる『紫晶眼』を、パーティメンバーにして真の魔眼覚醒者たるサフィール・マーヤ・ハイドラが実戦で使っているのを目撃したことがあるのだ。
ガラハド山中で手負いのラースプンを仕留める時にも一役買ったことは、まだ記憶に新しい。
だが、クロノがその恐怖の結晶化光線をその身に浴びようとしているのは、彼の体にまとわりつく三体のアンデッド――としか思えない、酷い欠損の目立つオークとエルフと人間の女によって、逃れられないように思えた。
もうダメだ、その絶望が足元から這い上がり、背筋を凍らせようとした瞬間。
「喰らえ、悪食っ!!」
クロノがいつの間にか手にしていた、大きなモンスターの牙を元にしたと思われる大剣を盾に、魔眼の閃光を防ぎきっていた。
その後は、一気にクロノが攻勢に出る。
あまりに激しい攻めの勢いに、幾度もモンスターとの激闘を経験してきたランク5冒険者のネルでさえ、固唾を呑んで見守ることしかできなかった。
いや、見蕩れるといっても良い。
戦いそのものを好まないネルにとって剣闘とは受け入れ難い存在であったが、今の自分はここに集った数万のスパーダ人と同じように、明らかな興奮と高揚感に酔っていた。
「俺に力を寄越せ――『腕力強化』」
特に、クロノが自分との特訓で身につけた思い出の強化魔法を発動させた瞬間、ネルは歓喜に打ち震えた。
まず間違いなく強敵と呼べるハイドラの魔眼使いを相手に戦う死闘の中で、自分が教えた強化魔法を使ってくれたのだ。
役に立てた、他でもない、この大切なお友達のクロノに――そう直感的に理解したネルは、今までに感じたことがないほどの喜びを感じた。
それは、先ほど幼い迷子を親元に帰した感動などと比べ物にならないほどに。
「クロノくん――」
『腕力強化』を発動させたクロノは強かった。圧倒的といえるほどに。
明らかに人外の膂力を発揮する魔眼使いを相手に、正面から打ち合い、しかも、呪いの大剣の二刀流を見事に使いこなして。
「二連黒凪」
ついに、目にも止まらぬ速さの黒い武技でもって、クロノは勝負を決めた。
吹き飛ぶ右腕、転がり落ちる首。
素人目で見ても、完全に決着がついた。
そもそも、首を落としても生きていられる人の種族など、吸血鬼の純血種くらいである。
だが、今ここで行われているのは普通の剣闘ではない、相手は呪いの武器使い、すなわち、マトモな‘人’ではないのだ。
そして、その異常性をここぞとばかりに、サイードという名の魔眼使いは発揮してみせた。
「あ……あっ……アアァアア嗚呼嗚呼ああああああああああああああああああ!!」
迸る紫の閃光、その出力はこれまでで最大。
クロノの反撃は即座に行われる、だが、それは僅かだが致命的なまでに遅きに失した。
「ちくしょう、やっちまったな……」
通称、スクリーンと呼ばれる闘技場を覆う結界は、観客の、いや、ネルの目の前に、眉根を寄せて、苦悶の表情を押し殺すクロノの顔を映し出していた。
そして、その苦しみの原因となった紫水晶と化した右腕もまた、はっきり映されるのだった。
「あ、いや……そんな……」
会場は激闘の末にサイードを打ち倒したクロノの勝利に沸きあがっている。
だが、ネルの心には、暗く冷たい、後悔という名の闇が宿る。
「クロノくんの……右手が……」
止めるべきだった、ハイドラの魔眼の脅威を、自分はよくよく知っていた。
無茶でも我侭でも、王族の横暴でもなんでもいい、クロノの試合をやめさせるべきだった。
自分にはそれができるだけの力がある。
だが、それは今となっては全て後の祭り、後で悔いるから、後悔なのである。
「わ、私が……止められなかったから……試合に、遅れたから……クロノくんは……」
そう、つまり、全ての原因は、約束の時間に遅れた自分にある。
「治さないと、私が、治さないと……早く、クロノくんを……」
ふらり、と夢遊病患者のような足取りで、ネルは一歩を前に踏み出す。
アリーナへ続く通路は、彼女がつい先ほど潜り抜けてきた客席ゲートから、遠く回って至るしかない。
だが、その回りくどい正規のルートを辿る気などない、いや、そもそもそんな発想すらネルの頭にはすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
「クロノくん、今すぐ、行きますから――」
ネルの瞳には、片腕を失った苦しみに耐えるクロノの姿しか見えない。
だからこそ、ネルは進む、最短距離を真っ直ぐに。
「――クロノくんっ!」
そうして、誰か止める間も無く、地上十数メートルの位置にある観客席から、アヴァロンのお姫様がダイブするという驚愕の乱入は実行されたのだった。
アリーナに舞い降りた天使ことネルは、その優しい微笑みが似合う美貌を悲しみで歪ませていた。
その大きな青い瞳からは、薄っすらと涙さえ浮かんでいる。
参ったな、彼女を泣かすのは、これで二度目じゃないか。
「すまないネル、かなりの重傷だ」
俺は自らの油断が招いた負傷を、自嘲気味に苦笑しながら正直に申告する。
「あ、ああ……ごめんなさい、クロノくん、ごめんなさい、私が遅れたから――」
「いや、俺の詰めが甘かっただけだ」
優しいネルのことだ、こんな明らかな自己責任の負傷でも、余計に責任を感じたりするのだろう。
けど、俺にはその辺を上手く納得させられるだけの言葉は出てこない。
だから結局、ネルの両目から涙が零れ落ちるわけで……ああ、ちくしょう、罪悪感で胸が張り裂けそうだよ。
そしてきっと、俺が自己嫌悪に苛まれることさえ、彼女は悲しんでしまうだろう。
だから、あえてその涙に気付いていないかのように振舞う。
「ところでネル、俺の右腕は治るのか?」
実際、スパーダの医療がどれくらいのレベルなのかは分からない。
だが、治癒術士のクラスを持つネルならばその方面にも詳しいはず、そう思ったのだが。
「はい、クロノくんの腕は、必ず私が治します」
想像以上の答えが返ってきた。
力強くそう言い放ったネルは、もう悲しみに涙する表情ではなく、緊急手術が必要な重傷者を前にしたベテラン外科医のように覚悟を決めた顔つきとなっている。
「本当に、治るのか?」
「はい、安心してください、私の『天癒皇女アリア』の加護で、今すぐに治してみせますから!」
そしてネルが中空に手を翳すと、リリィが空間魔法を行使する時と同じような白い光の魔法陣が瞬時に描き出される。
「ネル・ユリウス・エルロードの名において命ずる――出でよ、『白翼の天秤』」
その内より、一本の長杖を取り出した。
それ自身が輝かんばかりの純白に彩られ、魔法の杖というよりも、一級の美術品といった方が納得できる外観。
材質は聖銀か、いや、似ているがまた違った別の金属のように思える。
先端部分には、彼女の翼をそのまま模したかのように、左右に広げられた白い両翼があしらわれている。
流石はランク5冒険者といったところだろうが、何だか凄そうな装備である。
「クロノくん、腕を出してもらえますか?」
俺は再び左手で触れてから、右腕をグルグル巻きに包み込んでいる触手を操作し、患部を晒す。
改めてマジマジ見ると、本当に酷い。完全に肘から手首の間が紫水晶になっており、向こう側が透けて見えるほどの透明度だ。
インチキ手品道具でニセモノの腕を仕込んでいるように思えるが、これが本物なのだから始末に終えない。
「大丈夫です、これくらいの結晶化なら、後遺症も残さず完璧に解呪することができます」
「おお、マジか! ありがとうネル、助かった」
「いえ、だって私、クロノくんの回復役ですから」
どこまでも天使を地で行くお人だな、ネル姫様は。
しかし、今すぐ治癒ということは、このままアリーナのど真ん中でやるというのだろうか。
普通、こういうのって退場した後に医務室とかでやるのかと思ったんだが……まぁ、モルドレッドがケチをつけてこないところを見ると、これもショーの一部として許容されているってことなのだろうか。
アヴァロンのお姫様がいきなり舞台へ乱入したのだ、役者としては十分、観客も彼女が何をしようとするのか、興味津々に違いない。
「では、いきます」
ネルが右手に『白翼の天秤』という長杖を持ち、左手を俺の患部に優しく当て、そして、ゆっくり瞼を閉じると、加護を与える神の名を唱えた。
「白き聖なる癒し――『天癒皇女アリア』」
再び瞼が開かれると、ネルの青空のような瞳は、夕焼けを思わせる真紅の色合いに変わっていた。
黒髪紅目はミア・エルロードと同じ、なら、その実の姉であるアリアも同じ髪と瞳の色を持っていたかもしれない。
外見の変化だけをみれば、瞳の色が変わっただけであるが、すぐ傍に立つネルから感じる雰囲気や魔力の気配は段違いに差がある。
この感覚が極まると、使徒のように圧倒的な威圧感と存在感を発するようになるのかもしれない。
ともかく、今のネルはアヴァロンに五人しかいない希少な『天癒皇女アリア』の加護持ちの一人として、俺をその癒しの力で解呪せんとしてくれている。
「إلهة يبارك شفاء الضوء الأبيض」
相変わらず俺には聞き取れない魔法の詠唱が始まる。
そこに篭められた術式が、正しく魔法として機能、あるいは、加護の力と共鳴しているのだろう。その手に握る『白翼の天秤』が俄かに明滅を始めた。
「أنا أطلق العنان لعنة جميع」
そうして、十数秒に渡る詠唱がついに終わりを迎え、
「――『白天解呪』」
その癒しの力を発動させた。
「うおっ!」
刹那、眩い光が結晶化した右腕から発せられ――ちくしょう、今日は閃光をくらってばっかりだ!
そんな下らないことを思いながら、俺は反射的に目を瞑った。
神は言っている「ポップコーンください」と・・・
2012年10月29日
実は前回、『予約投稿』ではなくウッカリ『いますぐ掲載』でやってしまって、木曜の夜中に一度アップされてしまってました。
「あれ、どうやって削除するんだっけ・・・」と格闘すること数分後、なんとか削除したんですが、感想を見ると「投稿消されてるけど?」とこのミスをしっかり目撃してしまった読者が多数いるようで・・・申し訳ありません、私のミスでした。以後、気をつけます!