第275話 お友達(1)
白金の月24日の午後、ネルの耳に待ちわびた終業のチャイムの音が届いた。
上品なお姫様らしく、教科書や筆記用具を片付ける動作さえもゆったり優雅なネルだったのだが、今は一秒でも時間が惜しいと言わんばかりの様子で、机の上に並ぶものを鞄の中へ慌しく放り込んでいく。
そうして、そそくさと立ち上がり、その背中に生える両翼で飛び立たんばかりの勢いで教室のドアを飛び出していこうとしたが、
「お待ちになって、ネル様」
不意にかけられた声によって、彼女の足は止められた。
振り返り見れば、そこには同じ故郷から留学しているアヴァロン貴族の女子生徒を筆頭に、クラスメイトの学友数人が立っている。
ネルほどではないが、彼女達の誰もが見目麗しく、高貴な家柄に相応しい気品、とでも言うべき雰囲気を纏っている。
男からすれば何とも目の保養になる集団であるが、同じ教室にいる幹部コースの男子生徒にとっては特別に目を惹くようなものではない。見慣れた日常の一風景に過ぎないのだ。
「はい、なんでしょうか?」
「随分とお急ぎのようですが、今日もクラブには来られないのですか?」
王立スパーダ神学校には、というより、パンドラ大陸の中部都市国家群にある学校には、課外活動のためのクラブという組織が存在する。要するに、部活である。
ネルは勿論、ウイングロードのメンバーは全員、同じクラブに所属している。
それは、およそどの学校でも最も入部するにあたって厳しい条件が課され、それでいて多くの生徒が憧れる、最も華やかなクラブ――『社交クラブ』だ。
学生のクラブとはいえ、そのメンバーは一定以上の爵位を持つ貴族のみで構成される。
それぞれの情報交換は勿論のこと、ここでの出会いが将来的に大きな影響力を持つ人脈へと育ってゆくのだ。
まして、国の頂点に立つ王族との交流がどれほど貴重なものであるかは言うに及ばない。
もっとも、社交クラブ主宰のパーティにて誰にも話しかけられず壁際でただじっと立っていただけの哀れな王子様もいたりする。無論、彼は二度とクラブへ顔を出すことは無くなったが。
当然ながら、ネロとネルのエルロード兄妹は本来あるべき、いや、それ以上に交流を求められている。
それは単に将来性が見込めるというだけでなく、それだけの魅力を二人が持ち合わせているからに他ならない。
面倒くさがりのネロはよほど気が向かねばクラブには顔を出さないが、真面目で人当たりの良いネルの出席率は高い。
ただし、彼女もランク5の冒険者パーティの一員である、その多忙さは並みの学生パーティの比ではない。
よって、絶対数的に出席できる日時は限られてくる。
だからこそ、そうした数少ない‘余暇’を有効に使う手段として、社交クラブへの出席は最善手と呼べる。
「すみません。今日は用事があるので、遠慮させていただきます」
だが、即答で断った。
「まぁ、それは残念ですわ」
言葉どおりに眉を八の字にした表情を浮かべる同郷の女子生徒に対し、ネルも如才ない顔で応答する。
「折角誘ってくださったのに、ごめんなさい。私、しばらくはクラブへ顔を出す事はできないと思います」
「しばらく、と言いますと、野外演習からネロ様が帰ってくるまで、でしょうか?」
「……はい、そうですね」
僅かな間を置いてからネルは肯定した。
その様子にどこか思うところがあったのだろうか。相対する女子生徒は少しばかり鋭い目つきに変わり、口を開いた。
「ネル様、素性の知れない冒険者風情、しかも男性に、あまりお情けをかけるべきではありませんよ」
「え?」
一瞬、何を言われているか本気で分からず、目をぱちくりさせるネルだったが、少しずつ台詞の意味が理解できてくる。
冒険者の男性、それでいて自分と交流がある、その条件に一致する人物はたった一人しかいない。
「すでに学校中に噂が流れ始めていますよ。またしてもネル様に馴れ馴れしく近づく不貞の輩がいると――」
「クロノさんはそんな人じゃありませんっ!」
瞬間、教室がシンと静まり返った。
高貴な生まれといえど人の子、しかも年頃の学生とあれば、大声の一つや二つ出す事は珍しく無いが、お姫様の理想系とまで言えるネル・ユリウス・エルロードが教室中に響き渡るほどの声をあげることは十分驚愕に値する。
しかしながら、驚いたのは彼らだけでなく、声を発したネル自身もそうであったようだ。
思わぬ反論に目を丸くする女子生徒だが、彼女と同じようにネルもまたその円らな青い目を見開いていた。
直後には、ハっと気づいたように、恥かしそうに俯きながら台詞を重ねる。
「あっ、すみません……けど、クロノさんは噂されているような悪い人なんかじゃありません」
ここで言う噂とは、一ヶ月近く前に流れ始めた‘触手男’の方である。
「クロノさんは、私の大切なお友達なんです。悪く言うのはやめてください」
ネルがここまで毅然と反論するのが予想外だったのか、相対する女子生徒は困惑の表情を浮かべるのみで、二の句が告げないでいた。
「私の身を案じてくださるのはありがたいですが、プライベートな交友関係にまで口を出すのは、少しばかり行き過ぎではないでしょうか。
私とて、すでに子供ではありません。お付き合いする友人くらい、自分で選べます」
珍しく強い語調のネルは、そのまま勢いで押し切るかのように辞去の言葉だけを残して、教室から出て行った。
ネル・ユリウス・エルロードは憤慨していた。
こと怒りという感情においては無縁と言えるほど穏やかな性格の彼女であるが、自分の友人が侮辱されれば声を荒げる気概は持っていたようだ。
(どうして……どうしてみんな、クロノさんのこと悪く言うんですか……酷いです)
根も葉もない悪評だけが一人歩きして生まれた幻想によってとあれば、心優しいネルの憤りも尚更である。
(ああ、ごめんなさいクロノさん、また私の所為で悪い噂が……)
心ない事を言うクラスメイトに不満を覚えると同時に、自分もまた彼の迷惑になってしまっていることを嘆かわしく思った。
そもそも自分はアヴァロンの第一王女という隔絶した身分を持つ。
ただの冒険者でしかない男と関わりを持てば、真意と関わり無く妙な噂が立つだろう事は想像に難くない。
どれだけ自分に善意があろうとも、時と場合によってはかえって相手に迷惑になる。大きなお世話という言葉の意味くらい、ネルは知っている。
だからこそ、時には自分から離れる決断も必要なのだが、しかし、
(でも、クロノさんはもうお友達ですし……私から勝手に距離を置くなんて失礼なことできません)
彼女には全くその気は起きなかったようだ。
(それに、クロノさんには迷惑ばかりで、まだ全然お返しができてないですし)
そうして、クロノと離れない理由ばかりを考え続けていたネルだったが、ふいに視界に入った人影を認識して、思考を打ち切った。
気がつけば校舎を出て、クロノの寮に向かって学内に敷かれた並木道を歩いているネルの前方には、ここ数日で見知った背の高い黒髪の男の姿がある。
「あっ、クロ――」
弾むような呼びかけは、最後まで言い切らず、途中で飲み込むこととなってしまった。
「え、あれ、あの人って……」
自分でも気づかぬ内に困惑の表情を浮かべるネルの視線は、大事なお友達のクロノではなく、その隣で笑顔の花を咲かせている美しいエルフの女性へ向けられている。
記憶の中にある姿と即座に一致しなかったが、見知った人物であるとネルの頭脳は解答を導き出していた。
「確かエリナさん、でしたっけ、ギルドの受付の」
最短でランク5まで登り詰めた『ウイングロード』ではあるが、結成当初は当然、冒険者ギルド学園地区支部を利用していた。
そこで美人と評判の看板受付嬢の顔を、同性であるとはいえ、知らないはずがない。
何故そんな人がここにいるのか、そんな誰もが最初に抱くだろう疑問をすっ飛ばして、ネルはその大きな胸に名状し難い不安感のようなものを覚えた。
「なんで、どうして、クロノさんと……」
悪い意味でドキドキと胸の鼓動が高鳴る。
自分でも何故なのか分からないが、気がつけば、楽しげに談笑しながら並んで歩くクロノとエリナの後ろを、気配を消してこっそり近づいていた。
ネルは攻撃力こそないが、これでもランク5パ-ティの一員、気配と音を殺して対象に接近する技術はそれなりのレベルで持っている。
その気になれば、支援系の魔法を併用してより精度の高い隠密も可能である。
ついでに、自身の得意な風の魔法を応用すれば、
「ません――にいい――うから――」
多少の距離が空いていても、その声を拾うことも出来る。
途切れ途切れに聞こえてくる男女のやり取りは、数十秒もすれば、はっきり近くで聞いているかのように鮮明なものとなった。
「――最近来てないし、寂しいじゃない」
「ごめん、明日には行くから、オススメのクエストをよろしく」
「うふふ、クロノ君が満足するようなキツいヤツを特別に選んでおいてあげる」
「今一人だから、あんまりヤバいのはちょっと……」
ネルは途中で、声を運ぶ風の魔法と足を止めた。
「私、なに、してるんでしょう……」
どうして、普通に話しかける事が出来なかったのか。
盗聴の真似事をするなんて、人として許されざる行為である。
並木道の向こうへ消えていく二人の影を見送りながら、心中に渦巻く自己嫌悪がネルを苛む。
「……クロノさんのところに、行かないと」
完全に二人の姿が見えなくなった頃に、ネルは再び歩き始める。
後ろめたい気持ちがあったとしても、ネルにはどうしてもクロノと会わないという選択肢は取りたくなかった。
いや、今のような感情を持て余してしまうような時だからこそ、彼に会いたくて仕方が無かった、二人きりで。
結果的にネルは当初の予定通り、クロノの住まう寮へと向かう。その足取りは、どこか重いものだった。
おや、ネルのようすが・・・