第264話 白金の月11日12時の出会い(1)
正午を示す鐘の音がスパーダの街へ響き渡った時刻、新たな装備に身を包んで上機嫌なクロノは神学校へと戻ってきていた。
黒コートのような外観をした『悪魔の抱擁』がもたらす抜群の着心地は、未だにクロノの感動を持続させている。
むしろこうして実際に着用して歩いてみれば、改めてその身が軽くなったかと思うほどの感覚である。その素晴らしい一体感に思わずクロノの顔から笑みがこぼれる。
だが、残暑の厳しい晴天の下で厚い革の黒コートに身を包んだ強面の男がニヤリと笑みを浮かべて歩く様は、如何にも不審人物らしい。
道行く生徒が自然と避けていることにクロノは気づいていなかった。
「あ、あの、クロノさん!」
しかしながら、ここにパーフェクト不審者なクロノへ声をかける者がいた。
自分のことを「クロノさん」と呼ぶ人物の心当たりといえば、今頃学食か購買で大暴れしている魔女が真っ先に思い浮かぶのだが、すでにして声音だけで判断できる程度には付き合いがある。
今呼びかけられた声は彼女ではないことはすぐに分かる、さて、だとするならば一体誰なのか、答えは振り向けば即座に出た。
「ああ、ネルさんじゃないですか」
そこには、黒髪碧眼の美少女にして、背中から白い翼を生やしたあまりに特徴的な姿のアヴァロンのお姫様が立っていた。
「お久しぶりです」
「あ、はいっ、お久しぶりですねっ!」
どこかテンぱった様子で挨拶の礼をするネルとは、先月の終わり頃に食堂で一悶着あった以来である。
同じ学校の生徒といってもコースが違えばそうそう会う事は無く、お互いに冒険者としてクエストにも出向くので、一ヶ月近く顔を合わせることがないのは当たり前のことだろう。
それでも、こうしてばったり再会できた偶然にクロノは素直に喜ぶ。
「あの、私、クロノさんに謝らなければならないことが……」
「はぁ、なんですか?」
彼女に謝罪されるいわれは無いクロノとしては、ハテナマークを浮かべることしきりである。
「その、えーと……食堂での事で、何だかクロノさんに物凄く酷い噂が流れているようなので、あのっ、本当にごめんなさい!」
「あっ」
そういえばそんなこともあった、と忘れるほどではない、いや、むしろエディが噂の改善に活躍してくれることを心から期待を寄せているくらいには気にしている事案である。
だが、クロノはこの「白昼堂々アヴァロンのお姫様を辱めた凶悪な触手男」という噂が流れていることについては、人の性、不幸な成り行き、と半ば諦観の念を抱いており、騒動の発端ではあるがネル自身に対して思うところは何も無かった。
「あーいや、気にして無いといえば嘘になるけど、ネルさんが謝ることじゃないですよ」
「うぅ、その、でもぉ……」
心底申し訳なさそうな顔を白皙の美貌に浮かべるネルを前にすると、かえって自分の方が悪く思えるから不思議だ。
実際、クロノはこの時点で周囲の生徒たちから訝しげな視線が集り始めていることに気づいてしまった。
「俺に何か被害があったワケじゃないですし、もう一ヶ月近くも前の話ですから、もう気にしなくてもいいですよ。
それに、今の噂は悪の奴隷商人を成敗した『ウイングロード』で持ちきりですから、俺のことなんてもう忘れかけてますよ」
そう、ここで新たなネル姫様に対する狼藉疑惑がかからない限り、生徒たちはクロノの事など綺麗に忘れてくれるだろう。
「そうだ、こっちの噂の方は俺がこの前に受けたクエストとも関わりがあったんで、ネルさんにはお礼の一つでも言っておこうと思ったんですよ」
「え、あ、はい、そうですか? あっ、でもそれじゃあクロノさんのクエストってもしかして――」
とりあえず、話題の転換には成功したと内心ホッと一息つくクロノ。
しかし、「関わりがある」という一言だけで、すぐに事情を察するネルはどこかおっとりした雰囲気に反して、存外に頭の回転は速そうである。
「ファーレンの盗賊討伐ですか?」
「はい、正式に受けたわけじゃなかったんですけど、成り行きで討伐しました」
「あの、良かったら、聞かせてくれませんか?」
今回ばかりはアルザス戦の時と違って、人に話すには全く差しさわりの無い内容である。
クロノが遭遇した盗賊団は見事に壊滅、捕まっていた女性もリリィのお陰で心身ともに救われた、どこにも話すに憚る部分は無い、むしろ自慢に語っても良いほどだろう。
とりあえず、自分一人では無く『エレメントマスター』というパーティあっての解決だったので、クロノは特に誇張することなく、事の顛末を淡々と語って聞かせた。
ただし、下手なところで女性の‘本当の記憶’を漏らすわけには行かない、そこは違和感がないよう適当に誤魔化す。
「――まぁ、それじゃあやっぱり、捕まっていたうちの生徒を救い出してくれたのは、クロノさんだったんですね!」
クロノは用心棒の一人と戦っていただけなので、実際に救出したのはリリィとフィオナの女性組みである。
だが、細かいことはいいのよ、という勢いのネルを前に、
「ま、まぁ、そういうことになりますね」
思わず肯定の言葉を吐き出すクロノであった。
「ああ、本当に良かった、私、彼女達のことがずっと心配で――」
どうやら、ネルはその天使のような見た目に反することなく、盗賊に捕まった同じ学校の女子生徒を救出したいが為にこの一件に関わっていたようである。
だが、黒幕こそ潰したものの、例の女子生徒は盗賊の手の内にあったまま、商品としてスパーダの屋敷に移送されることはなかった。
故に、ウイングロードのメンバーでは彼女達を直接救出することは叶わなかったのだ。
それでも、奴隷商人にとって最も重要な商品となるファーレン貴族の娘をはじめとした見目麗しい少女たちを全員無傷で助け出すことは出来たのだから、名声を高めるという意味ではかえって幸運であったといえるだろう。
「私が言うのもなんですけど、本当にありがとうございます! あっ、もしよろしかったら、お昼をご一緒しませんか? お礼というには大したものではないですけど――それに、お兄様たちにも、是非ちゃんとクロノさんのこと紹介したいです!」
「あ、いや、それは……」
クロノの胸に一抹の不安がよぎる。
ネルはどう思っているのかは分からないが、クロノは例の食堂での一件において、アヴァロンの王子様ネロとスパーダのお姫様シャルロットの二名は、割と本気で殺意を向けていたことに気づいている。
面と向かって動揺することはないが、真正面から向かい合って仲良く出来るかと言われれば無理だろう。
少なくともクロノはそこまで腹芸に秀でているわけではないし、相手方もそんな友好関係は望まないだろう。
覆すことが不可能なほど最悪の第一印象となってしまったが故に、クロノは出来れば彼らとは顔を合わせたくは無い。
事はクラスメイトと喧嘩して気まずい、なんていうレベルじゃない、相手は王族なのである、変に恨みを買えばどうなることか分かったものではない。
さらに最悪の可能性を考えるなら、クロノに何かあればリリィとフィオナが黙っていない。
それはクロノの自惚れではなく、例の一件で食堂から去った後、二人がなかなか溜飲を下げてくれなかった実体験からくるものだ。
もしあの二人が本気で怒りを覚えたならば、きっと幹部候補生専用の寮に星と太陽がワンセットで落ちてくることになるだろう。
「すみません、今日は先約があるので」
ここは断るのが正解だと即座に判断する。君子危うきに近寄らずを実践するクロノであった。
それに、先約があるというのも丸っきり嘘ではない。
「あら、そうなのですか、残念ですぅ」
いくら男なら放っておけないほど残念な顔をネルがしたところで、クロノの判断は揺らがない。
「それじゃあ、俺はこれで」
これ以上お姫様の相手をしていると、どんな薮蛇になるか分かったものでは無いと危機感を覚えたクロノは早々に切り上げることにした。
すでに友達と呼んでも差し支えないほど交友を深めたウィルハルトがいるので、王族という存在の特別さを忘れがちになってしまうが、こうして改めて接してみると、自分の言動一つでとんでもない事になるかもしれないリスクを再認識する。
日本人であるクロノは身分制がもたらす理不尽に上手く対処する自信などあるはずもない、いつ地雷を踏むか戦々恐々といったところ。
ならば、地雷原は避けるに越したことはない。
「あっ、えーと、その……はい、それではまた、クロノさん」
未だに残念そうな様子を隠さないネルに、やや後ろ髪を引かれる思いではあるが、クロノは立ち止まる事無くその場を去っていった。
今日のシモンは、行きつけのストラトス鍛冶工房を訪れていた。
と言っても、
「それじゃあおじさん、早速試し撃ちしてくるよ!」
ちょうど店を出るところであったようだ。
二本の長い筒、否、ライフルを背負った制服姿のシモンは、年季の入った木の扉を勢いよく開け放って出て行く。
「はいよ、いってらっしゃい」
そんな子供がはしゃぐような姿のシモンを、鍛冶職人であるレギン・ストラトスはいつものように愛想の良い微笑みを浮かべながら見送った。
そろそろ正午の鐘が鳴ろうかというのに、シモンは昼食をとるのも忘れて学校の演習場で‘新作’を撃ちまくるのだろうと思えば、ますます微笑ましい。
元気な孫でも相手したかのような温かい心持ちになったレギンは、その良い気分のまま仕事場へと戻ろうとした、その時であった。
「失礼、レギン氏は――おっと、ちょうど店先に出ているとは運が良い」
再び開けられた扉から、重々しい声と共に、大きな黒い影が現れた。
「おや、これはモルドレッド会長ではありませんか、こんな零細工房にわざわざお越しいただけるとは」
その声の主、漆黒のローブと煌びやかな黄金を身に纏った巨躯のスケルトン、ヴァイン・ヴェルツ・モルドレッドの姿を目にしたレギンは、飄々とそんな言葉を口にした。
スパーダ最大のモルドレッド武器商会、その創設者にして現会長がどれほどのビッグネームかというのは、鍛冶職人であれば分からぬはずも無い。
おまけに、実際に自分の下へ武器の製造を依頼する大口のクライアントであるならば尚更である。
だが、レギンが驚いた様子を全く見せないのは、二人にある程度の交流があることを窺わせた。
対するモルドレッドは挨拶もそこそこに、先ほどまでシモンが小さなお尻を乗せていた丸い椅子にどっかりと腰を下ろす。勝手しったるなんとやらという態度。
「招待券を持ってきた、どうかなレギン氏、今年こそは」
カウンターの上に一枚のチケットが、モルドレッドの骨の手でヒラリと乗せられた。
「ああ、もうそんな時期ですか」
分厚い丸めがねのレンズの奥で、レギンの目が細められる。
視線は置かれたチケットに注がれており、そこに書かれた『呪物剣闘大会』の文字をなぞっていた。
「ふむ、そうですねぇ、今年は私も協力させてもらいましょうか」
その言葉に、髑髏の眼窩に灯った紫の輝きがゆらめいた。
「ほう、まさかこれほど色よい返事が聞けるとは、毎年誘った甲斐があったということかな、それとも――」
「ええ、お察しの通り、心変わりですよ、将来有望な若者の姿を間近で目にしていると、とっくに枯れ果てたと思っていた情熱が不思議と湧き上がってきましてねぇ」
喜悦に揺らめくモルドレッドの眼光を、レギンは真っ直ぐ見つめる。
彼の目もまた、この恐るべき容姿を持つスケルトンに劣らぬ鋭い光が宿っていた。
「おお、素晴らしい! これは期待しても良いのですかな、レギン氏、貴方が‘また’呪いの武器を打ってくれると」
「ブランクは長いですが、まぁ、調整くらいなら出来るでしょう」
「いや結構、それで十分だとも。
ところで、レギン氏を心変わりさせた‘有望な若者’とは?」
レギンは黒ぶち眼鏡をクイと人差し指で上げてから、可愛い孫についてかたる老人のような表情で応える。
「守秘義務があるので名前は教えられませんが、ふふ、あの子は凄いですよ、私よりも多くの死を‘創ろう’としているのですから。
ところで、モルドレッド会長は『銃』という武器について、ご存知ですかな?」