第205話 クロノVSラースプン
果たして、『呪怨鉈「腹裂」』は進化を遂げた、フィオナの純血を啜ることによって。
彼女の背中を斜めに一閃、刃先に真っ赤な鮮血が触れたその瞬間、呪われた大鉈は歓喜に震えた。
黒化で抑えているはずの忌まわしき絶叫が割れんばかりに脳内に木霊する。
その悲鳴ともつかない声なき声に紛れて、
(最後の血は満ちた、私も貴方も、大切な人をその手にかけたのだから)
俺は確かにその言葉を聞いた。
その言葉の意味を理解する前に、頭の中で勝手に浮かび上がる断片的な映像の数々。
月明かりに照らされる野山。
倒れ伏す無数の騎士の死体。
目の前に立つ赤い鎧の騎士。
己の足元に転がる最愛の人。
その彼の血に塗れた鉈の刃。
それらはきっと、鉈を振るった少女の記憶、いや、呪いとなった今は鉈そのものが持ちえている記憶なのだろう。
ノイズの入り混じった情報は、その時の状況を正確に知ることは出来ない。
だが、彼女が手にする鉈が、思い人である少年を斬ることによって、さらなる力を得たことは間違いなかった。
「そうか、それが進化の条件だったか」
どうやら、フィオナの当ては微妙に外れてしまったようだ。
ただの娘を斬っても、進化をする事は無かった。
他では無い、ここまで共に戦ったフィオナだからこそ、進化するに足る力を得られたのだ。
仲間を手にかけなくてはいけないとは、最悪の条件である――だが、それによって得られる力は最高。
「……これなら、アイツをぶった斬ることが出来る」
『呪怨鉈「腹裂」』よりも、さらに刃が大きくなり、その刀身はもはや両手剣の領域。
刃先から柄頭まで黒一色だったが、今は血管が脈打つように真紅の光を刃に宿し、より禍々しいデザインへと変貌を遂げている。
掴んだ柄から黒色魔力を流し込めば、その赤いラインが脈動し、以前にも増して濃密な赤黒いオーラが吹き上がり、鉈そのものが炎を纏っているかのようだ。
これが最後の進化形態、愛する男の為に村一つ滅ぼした少女の憎愛が篭った呪われし鉈の真なる姿、その銘は、『絶怨鉈「首断」』。
「後は俺に任せて、ゆっくり休んでくれ」
スパーダで冒険者生活を再開するに当たって、リリィが拵えてくれた『妖精の霊薬』を、横たわるフィオナの背中に振り掛ける。
小袋一つ分の量を全て使い切り、美しい乙女にあってはならない凄惨な傷跡を癒す。
「はい……頼みます……」
倒れたまま、いつもよりずっと眠そうな、トロンとした瞳でフィオナが弱弱しくそう呟いた。
俺は頼りない見習い魔術士ローブを脱ぐと、それでフィオナの白い肢体を包み込み、そのまま横たわらせる。
「ああ、それじゃあ行って来る」
全く重さを感じない、ついに完全に腕と一体化したような感覚の大鉈を肩に担ぎ、一歩を踏み出す。
ヤツはとうとうリリィを捕らえ、その両手でもって妖精結界ごと押しつぶそうとしている。
耳に届くのは、悲痛なリリィの悲鳴と邪悪に笑うモンスターの鳴き声。
俄かに湧き上がる怒りの感情に、嬉々として『絶怨鉈「首断」』が呼応する――斬れ、早く斬り捨てろ、敵は殺せ、全て殺せ。
呪いに意識を呑まれそうになるギリギリ一歩を踏みとどまりながら、俺は刃を振りかぶり、叫んだ。
「リリィを離しやがれぇえええええええええええええ!!」
振るわれた呪いの刃は、ついに鋼の如きラースプンの毛皮を切り裂いた。
命中したのは左腕、猛然と斬りかかってきたクロノを前に、急ぎリリィを手放し、そのまま身を翻したお陰で深手を負う事は無かった。
「大丈夫か、リリィ」
クロノは視線こそ飛び退いたラースプンに向けたままでいるが、その大きな背中でリリィを庇うように立ち、一回り以上成長した鉈の刃を油断無く構えた。
「うん、大丈夫……痛いけど、クロノが来てくれたから、大丈夫だよ」
背中を見せている為に、リリィがウットリと蕩けるような視線を向けていることにクロノは気づかなかった。
「すまん、霊薬はフィオナに使っちまってもう無い」
リリィの上段左の羽が半ばから千切れているのをクロノは視界にはっきりと捉えていた。
「ううん、いいよ、自分の分を使うから。
でも、しばらくは飛べないわ、それに――」
もう、今の姿を維持できないということは、言わずともクロノは理解した。
クロノはすぐ後ろで眩い光が明滅するのを感じたのだ。
「いいさ、後は俺がやる、そこでフィオナと一緒に休んでてくれ、カッコいいとこ見せてやるからさ」
半ば冗談めかしたクロノの台詞に、
「うん、クロノ頑張って!」
幼い口調の声援が返って来た。
「行くぞ――」
その声に背中を押されるように、クロノは勢いよく駆け出す。
向かう先には赤きモンスターの巨体。
より激しい怒りの篭った目つきでクロノを睨む、それは左腕を斬られたからか、それとも嬲っていた獲物を逃した所為か。
どちらにせよ、ラースプンには元よりこの場にいる三人を生きて帰すつもりは無い。
だが、それはクロノとて同じこと。
両者は互いに必殺の意思をぶつけ合う。
鉈を振りかぶって迫るクロノに対抗するように、ラースプンも自ら一歩を踏み込み突撃を始めた。
その瞬間、クロノはその場で鉈を振り下ろす。
いくら刃が大きくなったからといっても、未だ数十メートルある距離を届かせることなどできるわけが無い、そのはずだったが、
「――赤凪」
果たして、『絶怨鉈「首断」』の刃は届いた。
ラースプンの身を再び切り裂いたのは、脈打つ黒き刃から放たれた、血で形成される真紅の刀身。
進化したことで新たに習得した『赤凪』は、鉈がこれまでに啜った血を大元にして新たな刃を作り、斬撃の瞬間だけ刀身を延ばす遠距離攻撃用の武技だ。
迫り来るラースプンに、その巨体と同じ色合いの刃は数十メートルの間に瞬く真紅の軌跡を残し、強烈な斬撃を見舞った。
肩口から鮮血を噴出すラースプン、だが、怯んだのは一瞬で、致命傷には至らず、怒りのままにクロノへの突撃を続ける。
互いの刃と腕が届くほどに間合いが縮まるのは、ラースプンの移動速度でいえば瞬き一つするほどの時間。
だが、その動きをクロノの目は確かに捉えていた、そもそも、それぐらい出来なければ戦闘開始1分と待たずに拳で叩き潰されていただろう。
「はあああっ!!」
互いの距離がゼロになった時、至近距離での乱打戦が幕を開ける。
クロノが繰り出すのは『絶怨鉈「首断」』の禍々しき斬撃。
ラースプンが打ち出すのは、紅蓮の炎を纏う猛々しき打撃。
斬撃は相手の巨体に幾筋もの赤い軌跡を刻みつける。
打撃は、脆弱な人間の体など一発で叩き潰す一撃必殺の威力を誇るが、素早く、かつ巧みに立ち回るクロノを捕らえる事ができない。
すぐ脇を通り過ぎた大木の如き腕の薙ぎ払いに黒髪を揺らすクロノの顔には、かすかな余裕が浮かんでいた。
それは、ようやく相手を殺す刃を持ちえたからか、いや、その理由は、実はもっと単純なものであった。
「お前、動きが鈍ったな」
思わず、そんな呟きがもれる。
だが、それが答えだった。
ラースプンの動きは、僅かだが、確かに戦闘開始当初よりも落ちていた。
どうやら、これまで与えてきた数々の攻撃が、スタミナを削るというダメージになって効いてきたようだ。
ラースプンも高い防御力に任せて無駄に攻撃を受け止めてきたワケでは無い、冒険者三人の連携を前に、受けざるを得なかっただけ。
それでも、鋼の防御のお陰で常に優勢に立っていた、それこそ、あと一歩で勝利を得られるほどに。
しかし、今までは無視できていた些細なスタミナ低下の問題が、事ここに至って表面化した。
「悪いな、俺はスタミナには自信があるんだ」
対して、クロノの動きは全く衰えを見せない。
一週間不眠不休で活動可能なクロノにとって、大量に魔力さえ消費しなければ一時間未満の戦闘で動きが鈍るなどありえない。
ラースプンの足元で鉈を振るうクロノは、まるで今戦いが始まったばかりのような動きを見せる。
端から見れば、両者にそこまで大きな速度の違いは見受けられないだろう、それでも、僅かながらも確かにクロノの速度がラースプンを上回っていた。
そして、その差はラースプン自慢の防御を切り裂く刃をクロノが手に入れた事で、勝敗を分ける決定的な要因となる。
「黒凪――」
使い慣れた武技を始め、次々と繰り出す斬撃の嵐に、モンスターの血飛沫が舞う。
本能的に戦いを心得ているモンスターは、それでも致命傷となる部分を紙一重で避けている。
しかし、切り傷が一つ増えるごとに、血が一滴流れるごとに、ダメージは確実に蓄積されていく。
そうして、戦いはついに終局を迎える。
「二連黒凪――」
ラースプンの股下を潜り抜けた瞬間、両の後ろ足に二連続の黒凪を斬りこむ。
二回連続で黒凪を発動できるという単純な効果だが、進化の力を端的に現すともいえるだろう。
その漆黒の二連撃は、これまでで最も深くモンスターの肉体を切り裂いた、それは、足を斬られて思わず体勢を崩してしまうほどに。
倒れこんでくる真紅の巨躯を前に、クロノは大上段に鉈を振り上げ、次なる攻撃の準備を整えていた。
そして、それはこの戦いに幕を下ろす最後の一撃であると、クロノは確信している。
クロノの目の前には、ちょうどラースプンの頭部が倒れこんできている、鉈は処刑を執行する断頭台のように、その瞬間を待ち望む。
「――闇凪」
黒凪を放つ時よりも、さらに濃いオーラが刀身を包み込む。
クロノは凄まじい勢いで自身の黒色魔力が鉈に吸収されているのを実感する。
刀身に走る赤い光はより妖しく輝きながらドクドクと脈打つ、それが喜んでいるように感じるのは、よほどクロノの魔力が美味なのか、それともこれから強靭な一個の生命を奪えることに対する期待か。
そして放たれる『絶怨鉈「首断」』がもたらす最大最強の武技『闇凪』。
吸った魔力の分だけ強化され、今や『黒凪』の威力をも大きく上回る、驚異的な斬撃力をもって漆黒の一撃は振り下ろされる。
その銘の如く、敵の首を断たんがために。
「くっ!」
これまでで一番の手ごたえ、鋼の毛皮を斬り、分厚い筋肉を割き、太い骨を断つ、しかし、命まで絶つことは叶わなかった。
グガァアアアアアアアアアア!!
何度目かとなるラースプンの咆哮、だがその声音には最早凶暴性の響きはなく、耐え難い苦痛に悶える哀れな絶叫でしかない。
激しくのたうちまわるラースプンの巨躯には、その絶大な攻撃力を象徴する右腕が無かった。
「外したか……」
そう呟きながら、大きく息を吐くクロノの傍らに、倒木のように赤い右腕が転がっている。
クロノが『闇凪』を必殺のタイミングで放ったその瞬間、それこそ生存本能の成せる業か、ラースプンは右腕で頭部を庇った。
それはクロノの目にも映らぬ速度で、気づいた時には、首では無く二の腕あたりに『絶怨鉈「首断」』を叩き込んでいた。
他の部位よりも硬いだろう右腕だが、鉈は見事に断ち切って見せた、しかし、腕一本を切断しただけでは、即死させるには足りない。
まして、生命力の高いモンスターならば尚更。
早く、トドメを刺さなければ――
クロノはすぐに追撃を仕掛けようとする、が、ラースプンの動きの方が早かった。
「うおっ!?」
素早く立ち上がったラースプンは、無事な左手を地面に突っ込んだかと思いきや、そのまま土をスコップのように巨大な手のひら一杯に包み込み、クロノに投げかけたのだ。
あまりに無様なその一撃、だがそれは確かにクロノの足を止める。
凄まじい勢いで飛んでくる土砂を前に、クロノは黒盾を形成しつつ横に飛んで回避行動をとった。
その一方で、すでにラースプンは背中を見せて一目散に駆けてゆく。
「あっ――」
と思った時にはもう遅い、その赤い巨体は深いガラハド山脈の森に紛れて、正しく「あっ」と言う間に逃げてしまっていた。
「に、逃げられた……だと……」
後に残ったのは、満身創痍となった『エレメントマスター』の三人と、切り落とされたラースプンの右腕。
突如として周囲一体に静寂が戻ってくる、激闘の跡が生々しく残る空き地に佇むクロノにとって、この静けさは酷く虚しいものに思えてならない。
同時に、逃げ出した二人の人物が使用したのであろう空き地を照らす『灯火』の魔法が効力を失い、静寂だけでなく、夜の闇まで戻ってくる。
クロノはそんな静かな暗闇の中で、
「ちくしょぉおあああああ!!」
涙ながらに叫び声をあげることしか出来なかった。