第171話 月夜の逢瀬
宿に戻ったのは、空が茜色に染まり始めた時間帯である。
必要最低限の装備・アイテムを買い揃えた俺達は、夕食もどこかの店で済ませてこようかどうかと話しながら帰路についたが、結局はこの『猫の尻尾亭』で味は60点、量は100点の食堂で食べようということになったのだった。
俺は客室の前まで戻ってくると、一人で薄い扉を開けて中へと入る。
ここに泊まり始めてからはリリィと一緒だったが、昨日から何故か隣室であるフィオナの部屋で寝ている。
部屋の作りは全く同じなのだが、やはり一緒に寝る人が違えば気分も違うのだろう、まぁ今までずっと一緒だったから少しばかり寂しくはあるが、文句をつけるところではないのでリリィの好きにさせている。
「なんだかんだで疲れたな」
俺はピカピカの一年生印の見習い黒ローブを脱ぎ捨てると、そのままベッドへ腰掛けた。
『悪魔の抱擁』を着ていた頃は、寝る時以外は脱ごうとは思わなかったけど、この見た目通りの着心地なローブじゃあずっと着ていたいとはお世辞にも思えない。
リラックスしたい時は脱ぐべきである。
皺にならない内にさっさと仕舞っておこうと思い、今日の朝とは違って少し腹が満ちた『影空間』へローブを放り込んだ。
何と言っても15本もの長剣を補充できたのだ、これで5本分余力を残して魔剣をフルに使うことが出来る。
ちなみにこの5本の余剰分は、モルドレット会長が詐欺のお詫びにとサービスしてくれた。
詐欺罪の慰謝料として5万クラン相当の物品は適正なのかどうかは分からんが、もともと訴えるつもりもなかったので、それで手打ちにした。
まぁ一応は筋を通したというところで、もう二度とあんな店利用するか! と怒り狂うほどではない、金が溜まったら今度こそ呪いの武器を買いに行こうと思ってる。
呪いの武器といえば、結局、買いはしなかった。
『聖銀剣』を売り払えば2つは購入できるだけの金が手に入ったが、黒色魔力や闇属性特化のモンスターを相手にしたことを考えて、とっておいた方が良いと思いなおしたのだ。
聖銀の性質上、黒色魔力をかけると浄化されてしまうため魔剣として利用できないというデメリットはあるが、普通に手で握って振るうには申し分ない。
見せてもらった他の呪いの武器も結構な魅力溢れるものばかりだったから、かなり気持ちも揺らいだが、ぐっと堪えることにしたのだ。
なにより、あのリッチなスケルトンのセールストークに乗せられるのも癪だしな。
さて、とりあえずは夕食の時間まで、購入した品々のチェックでもしようかなと思い、再び『影空間を開こうとした時だった。
「ん、手紙か?」
枕元に、四つ折の紙が一枚あることに気がついた。
もしかして、またシモンからの伝言だろうか? そんな予想をしながら紙を開いてみると、
今夜、広場で待っている。
ただ、その短い一文だけが書かれていた。
「誰だ……」
俺の胸中に不安が渦巻く、差出人不明の手紙を貰えば誰でもそうなるだろう。
せめて高校時代に貰っていれば、ラブレターかもしれないと舞い上がっていただろうが、残念ながらこのシチュエーションを思えばそんな甘い期待など持てそうに無い。
考えうる限りで、謎の人物が俺宛へ手紙を送ると考えられるのは……もしかして使徒か? 第八使徒アイのふざけぶりを見れば、気まぐれで何を仕出かすか分からない、ヤツなら冒険者に紛れてどこへでも現れることが出来るだろう。
だが、それならあらかじめ名乗る可能性のほうが高いか? 俺が恐れおののく様がみたいというのであれば、使徒の名前を記すほうが効果的だ。
使徒じゃないとすれば、次に上げられるのは自称神様のミアか。
いや、これもやはり名乗るだろうな。
だとすれば、またしても俺に加護を与えたがってる別の神様でもいるのだろうか?
神だったら神らしく夢にでも登場してありがたいお告げの一つでもしてくれよ。
グルグルと無為な思考ばかりが渦巻く、こんな手かがり一切不明の状況では、差出人など分かるはずもない。
しかし、だからといってこの謎の手紙を全く無視するというのも後味の悪い話である、そもそも気になりすぎる。
やはり行かない、という選択肢はとれないな。
「よし、そろそろ行くか」
今日はもう着ることは無いだろうと思っていた魔術士見習いローブを再び羽織って、暗闇が支配する夜のスパーダへ一歩を踏み出す。
とりあえず夕食の時にリリィとフィオナに手紙の一件は相談済み。
「では、私とリリィさんが先行して広場で潜んでいます、もし危険がありそうなら、すぐに『黄金太陽』を撃ち込みますので安心してください」
そんな俺の殺害計画としか思えない提案をされたが、前半部分は現時点で出来る最善策である。
「せめて『火炎槍』にしてくれ」
と、一応は釘を刺しておいたから、大丈夫だろう。
もう『悪魔の抱擁』は無いし、『蒼炎の守護』もフィオナに返却済みで、特別に頼れる防御力は今の俺には無い。
でもまぁ本当に使徒でも現れない限りはなんとかなるだろう、と思いながら俺は夜道を歩き始める。
『猫の尻尾亭』は割りと大きな通りに面しているため、外灯の明りの恩恵が受けられるので歩く道は最低限照らされている。
もっとも、今日は見事な満月の夜なので、外灯が無くとも多少は夜の闇は和らぐ。
これから宿に戻るというのだろうか、酒に酔った冒険者風の男を時折見かける。
広場に向かうのは俺だけのようで、稀にいる道行く人とはすれ違うばかり。
歓楽街とは別な方向になる広場へ近づくにつれて、ついに完全に人気が無くなり、俺が石畳を蹴る音だけがコツコツと響く。
果たして、この先には一体何者が待ち構えているのか、もうすぐ判明するだろう解答に少しだけ期待が高鳴る。
文面から見て、待ち合わせ場所は恐らく今日何度か行き来したオベリスクの立つ広場だろう。
スパーダには中央広場を始め、他にも広場と呼ばれる場所はあるが、特別指定しないで俺が広場で連想する場所はここしかありえない。
ついでに‘今夜’という正確な時刻を示さない曖昧な時間指定だが、この雲ひとつ無い夜空に満月が昇ってからそう経ってはいない、痺れを切らして帰ってしまうほど相手を待たせてはいないはずだ。
もっとも、こんな手段を用いてわざわざ呼び出したんだ、恐らく夜明けまで待とうというだけの気概はあるだろう。
「よし、この先だな」
昼間はあれだけ賑わっていたが、今はただ静寂が支配する広場の入り口に立ち、勇んで踏み入ってゆく。
そこまで広いところじゃない、入れば中央部分に鎮座する『歴史の始まり(ゼロ・クロニクル)』がすぐ目に入る。
見たところ、その台座含め10メートル超の巨大なオベリスクの前には、人影は見当たらない。
「なんだ、まだ来てないのかよ……」
急速に頭が冷えてゆく。
思えば、ただのイタズラだった可能性を全く失念していた、そうだ、普通はコレが一番在り得るパターンだろう。
俺はガッカリすると同時に、リリィとフィオナには余計な手間をかけさせてしまったと後悔しながら、これから差出人が現れるだろうという低い可能性を確認するため、十分だけ待とうとオベリスク前まで歩いてゆく。
そうして、闇夜に溶ける様な漆黒の壁面を見上げるほどにまで接近した時だった、
「来てくれたんだね、ありがとう」
その声は、オベリスクの反対側から聞こえてきた。
居た、差出人はすでにこの場にいたのだ。
俺はその事実に驚き半分、警戒半分といった心持ちで、急いで反対側へ回り込む。
果たして、そこで俺を待っていたのは、
「……リリィ」
「ごめんね、こんな風に呼び出しちゃったりして」
すでに見慣れた、この異世界で最も親しく信頼できる相棒、リリィ、その真の姿である少女となって、そこに立っていた。
そうか、今日は満月の夜だから、『紅水晶球』も加護も無しで、こうして少女の姿でいられるんだ。
だが、そんな事よりも不可解なのは、
「どうして、わざわざこんなコトを?」
そうだ、差出人不明の手紙を装わずとも、俺になんていくらでも話すことが出来るだろう。
たとえフィオナに聞かれたくないようなプライベートな相談でも、一声かければどうとでもなった。
「……ごめん、なさい」
リリィは、これまで見たことが無いほど悲しげな顔で俯き、そう謝罪の言葉を発した。
「いや、怒ってるわけじゃない、リリィがこんなことするってことは、それ相応の理由があるんだろ、聞かせてくれないか」
いつも幼い子供の見た目通りに純粋で天真爛漫なリリィだが、子供状態においてもかなりの理性や思考能力を持っている、いわば‘空気を読む’ことが普通に出来る。
だから子供特有のイタズラやワガママなどは決して言わないし、しようともしない。
32歳相当の、とまではいかないが、それなりに冷静な判断力と理解力を持つリリィが、こんなことをするのには必ず理由がある。
今になってもそれがどんなものなのかは全く予想がつかない、だからこうして聞くしかない。
リリィに、一体何があったというんだ?
「ありがと、クロノ、私のこと心配してくれてるんだ」
「当たり前だろ、何があったんだ、話してくれよ」
言葉にせずとも、リリィには俺の心が分かる、だから今の俺の気持ちも伝わっているだろう。
そして、リリィは静かに応える。
「私ね、怖かったの……昨日、一人にしてくれってクロノに言われて。
クロノが私の傍にいたくない、私を置いて、一人で何処かに行ってしまう、でも、クロノを止めることが出来なくて、結局、黙って見送ることしかできなかった……」
そんな、心配かけたとは思っていたが、まさかそこまで傷つけてしまっていたとは。
「だから夜になって、クロノが元気になって帰ってきて、凄く嬉しかった。
でもね、私は、大人の私は、それでも声をかける勇気がもてなかった。
子供のままでいられれば、余計なコトを考えずにいられて、今日みたいに楽しく過ごせたけど、ダメなの、こうして大人になるとね、イヤなことばかり、怖いことばかり考えちゃって――」
そういえば、昨日の夜から今日まで、リリィは一度も意識を戻すことはしなかった。
『紅水晶球』を手に入れてからは、ほぼ毎日何時間かは要所で意識を戻して俺と会話し、相談し、雑談に興じた。
今日みたいに買出しというイベントがあるなら、どこかのタイミングで意識が戻っていてしかるべきだった、けど、俺はそのことに気づくことは出来なかった。
リリィが心の深い部分で何を抱えているかを知らずに。
「ごめんなさい、こうでもしないと、今の私、クロノに会えなかったの。
自分で話しかけられないから、クロノの方から来て貰ったの、ホントにごめん、こんなの、ただのワガママだよね」
「いや、謝るのは俺のほうだ、ごめんな、リリィにそこまで心配かけて、不安にさせてしまった。
勝手に落ち込んで、勝手に元気になって、なんかダメだな俺、自分のことばかりで、リリィのこと分かってやれてなかったな」
確かに、あの敗北は、あの拒絶は、俺の心を木っ端微塵に砕くほどの衝撃だった。
けど、そんな俺を思ってくれる、気遣ってくれる、リリィ、彼女はずっと傍にいてくれたんだ。
ならば、いつまでも落ち込んでる場合じゃないだろ、思いに応えてやらなきゃダメだろ、リリィにこんな悲しい顔をさせるんじゃねぇよ。
「ううん、やっぱり私が悪いの、勝手に怖がって――でもね、」
そこで言葉を区切って、リリィは軽やかに地面を蹴ると、真っ直ぐ俺の胸に飛び込んできた。
満月を背景に、輝く羽が虹色の軌跡を残して迫る姿は、どこまでも幻想的だった。
半ば見蕩れるような心持ちで、リリィの少女となっても小さいと言えるほどの華奢な体を優しく受け止める。
「ふふ、クロノが悪いと思ってくれるのなら、私のワガママを一つだけ、聞いて欲しいな」
そうして、リリィはたまに見せる悪戯な微笑みを浮かべて、真っ直ぐ俺を蟲惑的なまなざしで見つめる。
そんな目で見られて、断れるはずがないだろう。
「なんだ?」
気づかぬうちに深まりそうだった溝を、リリィのワガママ一つで埋められるというのなら、何でもしようじゃないか。
リリィはより一層、笑みを深くして、応えた。
「キス、して」
そう一言だけ言って、そっと横を向いて白く柔らかそうな頬を向ける。
「そういえば、夏越しの祭りの時にはしてやれなかったな」
「うん、だから今度こそ、ね?」
あの時、俺があと1秒だけ早く決心をつけられていたら、大人の彼女へキスをすることが出来ただろう。
けれど、今はもうキスをし損ねる心配などしなくていい、この天高く輝く満月が沈むまで、リリィはこのままの姿でいられる、そしてなにより、俺はもう刹那の間すら躊躇することなどないのだから。
「リリィ――」
リリィの事はいつの間にか、家族、まるで歳の離れた妹のように、何よりも大事に、誰よりも大切に思っている。
きっと、これまでずっと一人で過ごしてきたリリィも同じ思いを抱いているはず。
血の繋がりはないけれど、俺の事を家族同然に思ってくれているだろう。
だから今は、ただ深い親愛の情をもって、彼女の頬にキスを送ろう。