第160話 守護の力(3)
気がつけば、空は夕焼けの朱に染まっていた。
その茜色の空を、圧迫感さえ伴う狭く暗い路地から、阿呆のように見上げている俺が居た。
「なん、だったんだ……」
まるで白昼夢から醒めた様な感覚。
そうだ、俺は本当にさっきまで夢を見ていたに違い無い。
突然の悲鳴、三人の男と乱闘、神を名乗るミアという子供――どれもついさっき起こったばかりの出来事として、はっきり記憶しているものの、まるで現実感が沸かない。
このまま5分もすれば、朝起きてから夢の内容を忘れ去ってしまうように、この記憶も忘却の彼方へ飛んでいってしまうかもしれない。
「俺、疲れてるのかな」
もし本当に白昼夢を見て、こんな場所でボーっとしていたとしたら、俺は自分が思っている以上に心が参ってしまってるってことだ。
ノイローゼというべきか、精神の病など無縁だと思っていたが、どうやら俺は以外と繊細な心の持ち主だったようである。
なんて、馬鹿馬鹿しい考えを振り払って、とりあえず歩き始める。
そういえば、一体ここは何処なのだろうか、あれこれと悩みながら無為に歩き回っていた所為で、元来た道など全く分からない。
もしかすれば、その時から俺の白昼夢は始まっていたのかもしれないな。
だが、そのお陰で心は不思議と落ち着きを取り戻している。
すでに日暮れということは、早く帰らなければ夕食までには帰るといった約束を破りかねない。
まずはこの細い路地を抜けて、大きな通りへ出るべきだろう。
ただでさえ大きなスパーダの街、しかもやって来たのはここ数日、全く土地勘など無いので、住所を頼りに歩くにはとりあえず起点となる分かりやすい通りへでることがベストだ。
さて、問題は大きな通りへどうやればここから辿り着けるかという事なのだが、とりあえず進んでみる以外に方法は無さそうである。
ただでさえ薄暗い路地は、陽が没しつつある今は刻一刻と闇が支配しつつある。
俺は夜目の利く両目で、似たような景色の続く路地を見通し――いや、待て、両目だと?
「……見える」
それは、あまりに自然、ごく当たり前の事だったので、すぐに気づくことが出来なかった。
俺は今、両方の目でこの暗い景色を見ている。
だがそれはおかしな事だ、なぜなら俺の左目は第八使徒アイの攻撃によって失ってしまったのだから。
それでも左目は、一週間前と何ら変わらないように、確かな視覚として働いている。
何故、どうして、と自問してみれば、思い当たることなど一つしかない。
「そうだね、ここは神様の奇跡らしく、その目を治してあげる」
脳裏によぎるのは、自ら真紅の左目を抉り取り、俺へ押し込む異常な行為。
だが、それで本当に、
「目が、治ったのか」
疑いようも無く、左目が回復したのは事実であった。
それじゃあ、やはりついさっき起こった一連の出来事は本当にあった事で、ミアと名乗ったあの子は、神だったということなのか?
「マジかよ……」
言うとおり、正しく本当に神様らしい奇跡がこの身に起こった。
だが、目から鱗が落ちるパウロのように、即座にミアを神様と崇めたいという気持ちは湧き上がってこない。
いや、そんなすぐ心変わりすると、改心というより洗脳に近く気持ち悪いのだが。
崇め奉ることは無いが、それでもミアは己が神である一つの証拠を確かに示した。
もしかすれば、眼球の再生も一瞬で出来るほどの凄い力を持った魔術士なだけかもしれないという可能性も、いまだに否定しきれない。
だがしかし、ミアの正体が何であれ、俺の目を癒し、さらに‘加護’という力を与えようという意思があるのは事実だろう。
ならば、ミアが神を騙る魔術士でも、本当の神でも、はたまたとんでもない邪神であっても、俺に力をくれると言うのなら、望むところだ。
「いいぜ、試練だか何だか知らんが、受けて立ってやる」
信仰に足るかどうかは分からないが、ミアには心から感謝しよう。
ついさっきまで気持ちがどん底まで落ち込んでいた俺を、茶番とはいえ立ち直らせてくれたし、加護と言う名の力を授かる可能性を示してくれた。
ただ、如何せん加護を授かる為にクリアしなければならない試練が何なのか分からないので、今すぐどうこう出来る話では無さそうだ。
ミアの言葉を信じるなら‘僕の目’つまり俺の左目が教えてくれるらしい、何か反応があるまで待つかしないだろう。
さて、とりあえず今すぐ教えて欲しいことと言えば、試練の内容よりも、宿まで帰る道筋なのだが、
「そう簡単に神様が助けてくれるワケないか」
左目には何ら変化は無い、ようするに、自分で道を切り開くしかないという事だ。
やれやれ、せめて陽が沈む前にはこの貧民街を抜けて大きな通りへ出られると良いのだが――
「きゃあああああ!」
突然、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
「え、いや、マジで?」
もしかして、俺はまたしても神の悪戯に弄ばれているのではないだろうか?
さっきと全く同じシチュエーション、違うのは俺の心のあり方くらいなものだ。
さて、どうにも疑心暗鬼になっても仕方無い状況ではあるが、
「何も聞かなかったフリは、できないよな」
そうさ、俺は薄っぺらい決心を早々に破って、やっぱり自分が思うままに行動することにしたのだ。
例えこの悲鳴が罠であっても、今の俺に見捨てるという選択肢はありえないのだ。
願わくば、今度こそ本当に見知らぬ誰かを助ける事ができますように!
路地裏のさらに奥、今にも崩れそうな石壁が袋小路となって立ち塞がっている場所で、ついさっき見た神様の自作自演と全く同じシチュエーションが展開されていた。
「おらぁ! さっさと出すもん出しやがれ!」
「へへ、テメぇが結構な金貨持ってんのは知ってんだよぉ」
如何にもな風体の男達が三人、寄ってたかって一人の少女を壁際に追い詰めている。
万に一つの可能性として、部外者が口出しするべきではないのっぴきならない事情が彼らの間にあるのかもしれないが、まぁあの口ぶりから言って恐喝以外には有り得ないだろう。
「おい、そこで何をしている」
様子を窺う必要性も無いので、さっさと姿を現して男達に声をかける。
ついでに威嚇の意味を篭めて睨みつけるのも忘れない、俺が本気で睨むとクラスメートの誰も、友人でさえ目を合わせようとしてくれないほどの効果を発揮するのだ。
「ああ?」
華麗に身を翻して、一斉に俺へ敵意の篭った視線を向ける男三人組。
ついさっきもほとんど同じ反応を返された俺としては、デジャビュを感じることしきりである。
しかしながら、今回こそは正真正銘の恐喝だろう。
男三人組は、さっき俺がブッ飛ばしたのと全く違う風貌であるし、まして絡まれている女の子も服装こそ似ているがミア本人では無い。
「なんだテメぇは?」
お決まりと言っていいほど誰何を問う台詞。
とりあえず、通りすがりの冒険者だ、とでも言おうとしたその時であった。
「あっ、テメぇ!?」
「うおっ! 待ちやがれっ!!」
壁際の少女は男達の体を押し退けて、一気に駆け出す。
あまりに突然の行動と、思いのほか素早い逃げ足で少女は俺の横を通り過ぎ、あっという間に暗い路地の向こう側へ姿を消して行った。
「なんだ、その……邪魔したな」
何もしてないのに事件は解決してしまった。
一瞬の隙を突いて逃げ出すとは、スパーダの女性は逞しいものである。
俺はそんな感想を抱きつつ踵を返そうとして、
「おい、待てや兄ちゃん」
呼び止められてしまった。
「あーあーどうしてくれんだよぉ、俺らの大事なお仕事邪魔してくれちゃってよぅ」
「コイツはちょっと謝罪と賠償が必要なんじゃねぇのかなぁ?」
どうやら恐喝相手に逃げられてしまったようで、男達はご立腹のようだった。
「テメぇ、ランク1の冒険者だろ、粋がった真似しやがって、とりあえず有り金全部出しゃ見逃してやらねぇこともねぇぜ」
そう言って、三人の中で一番ガタイが良いスキンヘッドの男が、腰から下げる長剣を引き抜いて、俺へと迫る。
男は凄い殺気を叩きつけているつもりなのかもしれないが、特にこれといって驚異的な気配は全く感じられないので、俺はこれみよがしに首から提げてるギルドカードですぐランク1冒険者だってのが分かったんだろうなぁ、とか全然別なことを考えていた。
「おう、どうした、ごめんなさいとか、すみませんでしたとか、何とか言ったらどうなんだ、ええ?」
気がつけば、スキンヘッドは剣を構えることもなく、全くの棒立ち状態で俺の目の前までやって来た。
「早いトコ謝ったほうがいいぜぇ、アニキは強化も使いこなす凄腕の戦士だぜ、ランク1如きじゃ相手んなんねーぞ?」
「アニキの必殺武技でソイツの腕ぶった切っちゃってくださいよー!」
後ろの二名がハゲのことをアニキがどうとか囃し立てている。
なるほど、コイツは強化も武技も両方扱える戦士クラスなのか、それは確かに凄い、冒険者ランク3に匹敵するんじゃないだろうか。
「なぁ、お互い面倒事は御免だろ、大人しく見逃してくれないか?」
向こうはどうにもヤル気満々だが、一応最後まで話し合いでの解決を試みる。
だが、
「テメぇ、馬鹿だろ」
どうやら交渉は決裂なようだ。
ハゲはゆっくりと片手で剣を振り上げると、いきなり絶叫した。
「『腕力強化!』」
剣を握る右腕に、力瘤が浮き上がる。
「出たぁー! アニキの『腕力強化』だぁ!!」
と、後ろの舎弟その1が懇切丁寧に説明してくれる。
だが、ハゲのアニキは強化魔法につきものの魔力の気配が一切感じられない、そもそも詠唱すらしていない、もしかして、ただ思い切り力を篭めているだけなんじゃないだろうか?
「俺を舐めた罰だぜ、腕の一本は覚悟しな――『一閃』!」
と、叫ぶと同時に掲げた剣を真っ直ぐ振り下ろした。
「出たぁー! アニキの必殺武技、『一閃』だぁ!!」
またしても懇切丁寧な解説をしてくれる、ちなみに今回の説明は舎弟その2がお送りしている。
だが、重ねて申し訳無いが、俺の脳天目掛けて繰り出されるこの斬撃、武技特有の圧力というか、威圧感のようなものが全く感じられない、もしかして、ただ思い切り剣を振り下ろしているだけなんじゃないだろうか?
「はぁ、身構えて損したぞ」
ランク3相当の実力者かと思って、魔弾をフルバーストする準備を整えていたが、その必要は全く無かった。
俺は男が剣を振り下ろす右腕を、そのまま左手一本で掴み、その攻撃を止める。
「なっ!?」
ハゲの目が驚愕に見開かれる。
この程度の剣速に安直な太刀筋、おまけに強化も武技も無し、俺の身体能力で止められないわけが無い。
とりあえず、このまま剣を振り回され続けても面倒なので、
「パイルバンカー」
鋼の刀身に、黒色魔力がドリルとなって渦巻く右拳を叩きこんで、粉々に破壊してしまう。
「け、剣が……」
腕を掴んでいた左手を離すと、男はたたらを踏んで二三歩後ずさり、呆然と柄だけとなった剣を見つめた。
「ひぃ!?」
情けない小さな悲鳴を漏らすと同時に、後ろに控えていた舎弟その1とその2が先ほどの女の子と同じように、一目散に遁走を始める。
通路は俺が立ち塞がっているので、行き止まりとなっている石壁を見事なウォールクライミングでよじ登り、あっという間に壁の向こう側へ姿を消した。
どうやらスパーダの人は女性だけでなく男性も素早い逃げ足をお持ちのようだ。
「あ、おい、お前ら……」
そうして遁走をはかった二人を、ハゲのアニキは親からはぐれた子供のような表情で見送ることしかできないでいた。
筋肉達磨なスキンヘッドがそんな顔しても気持ち悪いだけだが。
「おい」
俺が声をかけると、
「な、な、なんだ、なんだよ、まだやろうってのか! ああ!?」
へっぴり腰になりながらも、両の拳でファイティングポーズを構える、どうやら虚勢を張る元気くらいは残っているようだ。
だが、それに付き合ってやる義理などない。
「俺はもう行くぞ、追いかけたりしないでくれよ?」
すでに被害者の少女は危機を脱した、金をとられたワケでも無く、その身に危害が及んだわけでも無い。
この男に個人的な罰を与えようとは思えない、所詮は通りすがりの冒険者だ、彼女を助ける以上の行動をする権利は俺に無いだろう。
「お、おう……」
男はあからさまに安堵した表情で、力が抜けたのかその場にへたり込んでしまった。
「出来ればもうこういう事は止めて、真っ当に冒険者でもやって金を稼いでくれ」
そんな言葉で改心などするはず無いと分かっていながら、そう言わずにはいられなかった。
そうして、俺は何もしていないが、一人の少女が助かった事実に満足感を覚えながら、その場を立ち去った。
さて、帰り道はどっちだろう、もう陽が暮れて辺りは真っ暗になってしまったぞ……