第151話 悪夢(1)
体が重い、頭が重い、まどろみ続ける意識は決してこの温かい空間から脱することを許容しない。
だが、ボンヤリした怠惰な思考を許さない、
「何時だと思ってる! さっさと起きな!」
母によって、俺は確かに目を覚ました。
「ん……何、時?」
呆れたように答える母の声は、現時刻がAM七時を大きく過ぎていることを示した。
「……そう、か」
「まだ寝ぼけてんのか……ほら、さっさと準備しないと本当に遅刻するよ!」
それだけ言い残して、母は艶やかな黒髪を翻して、部屋を去っていった。
モデルのように整ったプロポーションの後姿を見送った俺は、未だに眠気が抜けきらない頭を振って、よろよろと立ち上がる。
いや違う、これは眠気じゃない、もっと本能的に体が休息を求めているのだ。
おかしいな、昨日は夜更かしした記憶もない、いつも通りの時間に眠りについたはずだし、翌日に疲れを残すような運動などもしていない。
そう、昨日はいつもと変わらない平和な一日だったのだから。
「着替える、か……」
未だ低速回転を続ける頭のまま、俺は体を引き摺るようにクローゼットへ向かい、ハンガーにかけてある学ランに袖を通した。
それから先は、毎日同じルーチンワーク、特に意識しなくても、体は勝手に動いてくれる。
顔を洗い、歯を磨き、朝食をとるためにリビングルームへ足を向け、そこで家族と朝の挨拶を交わす。
「……おはよう」
出てくる言葉、ただでさえ低い俺の声がさらに一オクターブは低い、亡者のような呻き声になってしまっていた。
だがそれだけで、いつもと何も変わらない。
昨日も一昨日も、そして明日も明後日も同じコトを繰り返すだろう、当たり前の光景。
「おはよう」
テーブルについている父は、スーツ姿で新聞を広げながら顔を上げて俺へと短い挨拶。
それほど珍しくない一般的な父親の姿だが、小柄で年齢を全く感じさせない童顔のお陰で、新入社員どころか、まだ同じ学生ではないかと思えるほど。
が、実の父である以上、それに違和感を覚えることは無い。
「おはよう。
真央、体調悪いの?」
小鳥のさえずりよりも涼やかに耳に届くのは、姉である真奈の挨拶と、俺を気遣ってくれる優しいお言葉。
真央、その名前で呼ばれるのは、何故だか酷く久しぶりな気がする。
「いや、熱は無いし、風邪引いたわけじゃない……ただ、ちょっとダルいというか、ヤル気が出ないというか」
覇気の無い台詞をだらだらと続ける。
姉貴はそんな俺の様子に、とりあえず病ではないことに理解を示す、きっと寝不足か何かだと納得してくれたんだろう。
俺は文芸部の締め切りに追われて徹夜することもあるので、睡眠不足で今のようにグッタリした様子を家族に見せることはそう珍しいことでは無い。
だが、今日の俺は明らかにおかしい。
どう考えても疲労するような原因は無いのだが、体がまるで俺の言う事など聞けるかと反乱を起こしたかのように、動きが鈍い。
これはもしかすれば、肉体的な疲労ではなく、精神的なモノなのかもしれない。
もっとも、そんな精神的なショックを受けるようなコトも無かったはずだ。
勢い余って白崎さんに告白して玉砕したとか、そういう類の物悲しい青春イベントは経験していない。
まぁ、告白しようと思い立つほど熱い恋愛感情が彼女にあるわけではないのだが。
「なにボーっとしてんだ、コレ持ってさっさと行きな! もう百合子ちゃんが迎えに来てるよ!」
「……百合子、ちゃん?」
母に愛情少な目弁当を押し付けられつつ、そんなコトを言われる。
百合子ちゃんって、誰だ、ああ、待て、ついさっきまで考えていた白崎さんの名前じゃないか。
え、なに、迎えに来てるって? 誰を? 俺を?
ありえない、別に白崎さんとは同じ部活なだけで、知人以上友人未満の関係だ、恋人関係などもっての他、クラスメイトに話したら「妄想は創作の中だけにしとけ」と哀れんだ目つきで言われるだろう。
いや、だがしかし、現実に迎えに来たという以上は、俺の妄想ではない。
白崎さんが迎えに来たのは、きっと部活関係の何かだろう、よく分からんが、まぁそういうこともあるのだろう。
適当に考えつつ、何はともあれこれ以上待たせるのは良くないと思い、弁当を乱雑に突っ込んだ学生鞄を持って、リビングを出る。
「いってきます」
家族三人のいってらっしゃい、の声を後ろに聞きながら、足早に玄関へ向かう。
だが、靴を履き替え、見慣れた家の扉に手をかけた瞬間、俺の体は硬直した。
「……行きたく、ない」
ふと、そんなことを思った。
この気だるい体と鈍い頭は、確かに動く気力を大いに殺ぐ原因になりうるだろう。
だが、今の俺はそんなヤル気の問題では無い、もっと根源的に、本能的に、これ以上足を進めるのを拒む。
行きたくない、それは学校に?
否、行きたくないのは、外だ。
玄関を潜った先に広がる外、世界、俺の家と隔絶された、異なる世界。
「いや、ダメだよな……学校は、ちゃんと、行かないと……」
それに、この扉の向こうには何故か分からないが白崎さんという待ち人もいるのだ。
深みに嵌ってしまいそうな暗い思考を振り切って、俺は玄関の扉を開いた。
「あ――」
開け放たれた扉の先に広がっている光景は、地獄だった。
土の地面は血に濡れ、凄まじい衝撃によって生まれたクレーターのデコボコが無数に穿たれている。
左右は轟々と燃え盛る炎が迫り、よく見れば、その火の中には十字架に磔にされた誰かが焼かれている。
燃えているのは、人だけではない、それは大小様々な家であったり、馬車であったり、兎に角そこにあるあらゆるモノは破壊され、火がついていた。
「貴方は、逃げられない」
その小さな少女の呟きは、深く俺の耳に突き刺さった。
視線を僅かばかり下げると、そこに彼女は居た。
俺を待っていたのは、亜麻色の髪にセーラー服がよく似合う白崎百合子では無く、
「逃がさない」
髪も肌も服も純白にして、煌々と輝く真紅の瞳を持つ、神の使徒。
「サリエル……」
第七使徒サリエルは、細身の白い槍を手に、俺の前へ立っていた。
「この世界から、逃れることは許されない」
サリエルの細腕が奔る。
目に全く見えない速度で繰り出された細槍の突きは、深く俺の腹部に突き刺さった。
「がはぁっ!?」
飛び散る血飛沫、全身を駆け抜ける激痛、どうすることもできず、ただ反射的に腹を貫く槍を両手で握った。
次の瞬間、槍が引かれる。
その刃は引き抜かれないまま、突き刺した俺の体ごと、グイグイと引っ張られる。
「ぐあっ……や、やめ、ろ……」
槍を握った細腕一本で、ゆっくりと、だが確実に外へと、異なる世界へとサリエルは俺を引きずり込んでゆく。
足を踏ん張って、精一杯粘るが、それは結局、無力な俺の儚い抵抗に過ぎない。
「……やめろ……やめて、くれ」
イヤだ、そこには行きたくない、外には、その世界には行きたくない。
俺の居場所はここなんだ、家族が、平和な日常がある、ここなんだ。
だからそんな、血みどろで、痛くて、苦しくて、大切な人を誰も守れないような、そんな世界になんか、行きたくない。
「や、め――」
「絶対に、逃がさない」
体が宙に浮く。
完全に抵抗することができなくなった俺は、ゆっくりと、槍に貫かれたまま、家の玄関を飛び出す。
そうして、俺が完全に‘異世界’へ放り出された瞬間に、さっきまで過ごした、俺の家は、真っ赤な炎に包まれて――
「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「――クロノぉ!」
俺の名を呼ぶ声に、意識は完全に覚醒した。
「あ……ここ、は……」
目を見開くと、視界は右半分しか映らない。
その狭い視界の中に、泣きそうな顔の幼いリリィと、見慣れたギルドの客室とは少々異なる木の天井が見えた。
「夢、か……」
なんだか、酷くイヤな夢を見た気がした。
夢の中にいる俺が、果たしてどんなおぞましい光景を目にしたのか、今となっては分からないが、兎に角最悪な内容だったに違い無い。
その所為で俺はうなされ、心配したリリィが飛んできたというワケだ。
「俺は大丈夫だ、心配いらないぞ、リリィ」
「……うん」
安心させるように、リリィの小さな体を抱き寄せて、頭を撫でた。
いや、逆だな、こうして撫でていて落ち着くのは俺の方だ。
そうして心に冷静さが戻ってくると、色々な点に気がつく、そう、例えば悪夢にうなされた所為で、酷く寝汗をかいてしまっている俺の体とか。
「悪い、汗臭かったかな」
「ううん、クロノの匂い、イヤじゃないよ」
それでも汚すわけにはいかないだろう、俺はそっとリリィを腕から解き放つ。
小さな羽根をパタパタさせながらベッドから飛び降りたリリィは、朝食の用意は出来ていることを伝えてから、部屋を出て行った。
最後まで不安そうな表情を隠せていなかったが、そんな顔をさせてしまっているのは他ならぬ俺自身だ。
「……大丈夫、俺は、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、俺は呟く。
忘れることは出来ない、考えないことも出来ない、だから、現実は受け止めなければならない。
「顔、洗うか」
ここは、スパーダにある冒険者が主に利用する宿泊施設の一室。
あの戦いが終わってから、今日でちょうど一週間が過ぎようとしていた。