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人魚姫は恋を知らない
作:青柳朔



第五章


 その日は新月だった。
 月がないから、地上を照らし出すのは星達の小さな輝きだけ。盗みにはもってこいの日。
 実行犯は思いのほか少なかった。ジンロとリディを除いて五人――その他城外に待機しているのが三人だけだ。
 挨拶をしている場合でもないと、リディは軽く会釈するだけで済ませた。事情はすでにジンロから通達済みらしい。
 ジンロが仲間と動作だけで合図をして別れる。リディはジンロの後を当然のようについて行った。
 懐にはきちんと短剣がしまわれている。

「リディ、走りながら聞け」
 ジンロがリディの隣まで合わせて、声を潜めてそう言った。
 リディが頷くと、ジンロは苦笑した。
「――世の中には、誰かを憎まないと生きていけない奴がいるんだ」
 何の話だろう、とリディは思いながら黙って耳を傾けた。
「そうしないと、辛くて生きていけなかったり、悲しみに押しつぶされたりする。仕方ないんだ、生き物は弱いもんだからさ」
 ただ、とジンロの顔が曇る。
「目的を失ったら、どうなると思う? 憎む相手がいなくなってしまったら? ……どうやって生きていけばいい?」
「――何が言いたいの、ジンロ」
 ジンロの顔を見ることができず、リディはただそう呟く。
 ジンロはリディのことを心配しているのだ。ここで復讐を果たしたら、リディは生きる目的を失ってしまうから。
「……この先に何があっても、自分を見失うなよ。前に言っただろ、リディはただ素直に笑っている方がいい」
 そう言って、ジンロが立ち止まる。
 リディもそれに合わせて走るのを止めた。行き止まり――否、扉があった。
 ここが目的の場所。
 この向こうに復讐する相手がいる。
「――私はこの五年ずっと復讐のことだけを考えて生きてきたの」
 懐から短剣を取り出し、リディが呟く。
 ジンロの視線が痛くて、リディは俯いたまま顔をあげなかった。
「復讐は、私が自分を罰するためのものなの。何もできなかった私に対する罰であり、仇討ちなの」
 許せないものを罰する――自分と、相手の男を。
「でも私――これが終わったら恋をしてみたい。お姉ちゃんみたいに全てを投げ出してもいいと思えるような恋が」
「……できるよ。きっと」
 俯いたままのリディの頭を、ジンロが優しく撫でる。いつもより優しいジンロの口調に、涙腺が壊れかける。
 泣くのは嫌でリディは必死に涙を堪えた。まだ泣いて、甘えていい時じゃない。
 ジンロがゆっくりと扉を開ける。
 リディは自分の息を飲み込んで、短剣を強く握り締めた。




 その部屋の空気に、リディは唖然とした。

 真っ暗な誰もいない部屋。

 人のぬくもりを感じない。抜け殻のような空間だけがそこにあった。
 綺麗に掃除されていて、埃なんて少しも積もっていないけれど、すぐに分かった。この部屋は使われなくなって随分経つのだ。
 部屋の作りは十分すぎるほどに豪華だった。間違いなく、この城の主の寝室だ。
「――どういうこと?」
 リディは振り返り、ジンロを見る。
 答えを彼なら知っているはずだと――なんの疑いもなく思った。

「……もういないんだよ。リディ。この部屋にいるはずの奴は、五年前に死んだ」

 そのジンロの言葉を飲み込むまでに、どれほどの時間がかかっただろうか。一瞬のようで、永遠のようでもあった。
 ジンロの言葉が何度も何度も頭の中で繰り返された。
 強く握り締めていた短剣は、緊張の糸が切れた瞬間に絨毯の上に落ちた。

「…………死、んだ?」

 五年も前に?
 呆然と立ち尽くすリディを見つめながら、ジンロが答える。
「おまえが復讐しようとしていたこの城の王子は、五年前の新婚旅行で船が難破して……数日後に浜に遺体が打ち上げられていた。奥方は無事らしいけど、この城にはいない」
「じゃあ、お姉ちゃんが消えた、すぐ後……?」
「……そうなるな」
 リディが膝から崩れ落ち、暗い部屋の中でもう五年も主に座ってもらっていない椅子を眺めた。
「じゃあ、これまでのこと――全部無駄だったの?」
 もう生きてもいない男を憎み続け、復讐しようと誓って。
 その為に海の外へ行くことを、どれだけ待ち望んでいたか。
「……言ったろ。誰かを憎まなければ生きていけない奴がいるって。リディがそれだった。意味は確かにあったよ……リディを生かし続けた」
 ジンロは復讐する相手がもういないことなど、ジンロは気づいていたはずだ。けれどそれはリディを支える目的だったから――こうしてリディ自身がきちんと目の当たりにするまで黙っていた。
「もう、ここに用はないだろう? 帰ろう」
 ジンロはリディの前にしゃがみ、俯いたリディの顔を覗き込みながら優しく問う。
「……無理だよ。帰れない」
 ぽつりとリディが呟く。
「――リディ?」
「お姉ちゃんのこと話したでしょ? 目的を果たせなかったら、私達人魚は海の泡になる。もうすぐ夜も明ける……私、消えちゃう……」
 急に目の前に現れた現実に、リディが震えだす。
 消えるわけがないと思っていた。迷いなんてなかったから、復讐が果たせないことなんてありえないと思っていた。
「怖い……やだ。消えたくない……私、帰りたい。セナさんと、約束したのに……」
 震える身体を抱きしめるように、リディは両腕を抱えた。
 この身体で、あの優しい風も、木漏れ日も、子供達が遊ぶ声も――感じることが出来なくなるのか。
「ジンロ、やだ。……助けて」
「リディ……」
 涙が今にも溢れ出しそうなほど瞳に溜めながら見つめるリディの小さな身体をジンロが抱きしめる。
「大丈夫だ、大丈夫だから……」
 言い聞かせるように耳元で囁くジンロの声を聞きながら、リディが堪えきれなくなって涙を流した。
「ジンロ」
「大丈夫だ。きっとなんとかなる――だから帰ろう」
 顔は見れないけど、ジンロが微笑んでいるが分かった。優しく髪を撫でられて、ジンロの心臓の音を聞いて、少しだけ不安が和らいだ。
 確信なんてない。保証なんてない。
 それなのにジンロが大丈夫だと言うと、本当に大丈夫な気がしてくる。

「うん――帰ろう。ジンロ」

 作り笑顔ではなく、心の底から自然と笑みが零れた。
 ジンロがリディを腕の中から解放し、手を差し出す。
「走れるか?」
「頑張る」
 ここはまだ自分の戦場。リディは迷うことなくそう答えて、立ち上がった。
「無理はするなよ」
 ぽん、とジンロに頭を撫でられて、リディは微笑む。子供扱いさてれいるようで最初は少し嫌だったが、今ではそんなジンロの優しさが嬉しい。
 足は相変わらず痛むけれど、最近ではこの痛みにも慣れてきた。
 だんだんと屋敷の中が騒がしくなってきた。
「――見つかったな」
 ぽつりとジンロが呟く。他の仲間が、という意味だ。ジンロとリディは今まで誰にも見られていない。
「急ぐぞ」
 ぎゅ、とジンロがリディの手を握る力を強めた。リディはただ頷いて、手を握り返す。
 扉を開け、二人は走り出した。
 すぐに二人は見つかった。予想以上に追っ手が多い。
「見つけたぞ! 盗賊だ!」
 背後からそう叫ぶ声が聞こえて、ジンロが舌打ちした。
 まるで出会った時の再現だ。
「――ジンロ」
 以前の逃亡の時よりも増えている追っ手に、リディが不安になった。
「飛び込むぞ」
 え? と問い返すリディも、周囲を見て納得した。
 見覚えのあるところを走っていた。この先にあるものを、リディは良く知っている。
「了解」
 リディがそう答えたときには、もう地面を蹴っていた。
 以前のように海に飛び込みながら、二人は決してお互いの手を放さない。

 眩しいほどの朝日が、東の海から顔を出そうとしていた。














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