第三章
その夜はいつもよりも騒がしかった。
眠るリディが起きて外に出ても大人は誰も咎めなかった。そんな余裕すらないようだった。
母が慌てて海面へと昇る。綺麗な長い髪が無惨にも短く切られていた。母に続く叔母達も皆同様に。
――――なにがあったの。
少し前に突然いなくなってしまった年若い叔母のことを思い出した。
他の人魚までどこかにいってしまうんではないか――そんな不安に駆られてリディはこっそりと母親達を追いかけた。いつもなら気づくであろうリディの下手な尾行にも気づかないほど、母も叔母達も切迫していた。
ああ、このままでは海面に出てしまう。
十五歳に満たない人魚は海の外へは出てはいけない。その決まりがリディを押しとどめた。
だから海のなか、上を見上げたまま様子を見守った。
『――――の短剣で……を……せばいいのよ。そうすればあなたは……ど、人魚に……』
『そ……な男……なさい』
『どうして!? 戻りたくないの!?』
『――――!!』
しばらく話し声は続いたが、母も叔母も後ろ髪引かれながら海の底へと潜っていった。
自分の部屋に戻っていないと、いなくなったのがばれてしまう――そう思ってリディも戻ろうとした。
しかし何かに引き止められているような気がした。あの優しいお姉ちゃんの歌声が聞こえた気がした。
たぶん、きっとあの様子では抜け出したことには気づかない。
そう自分に言い訳して、リディはしばらく海の上の、ぼやけた夜空を見ていた。夜の海は漆黒に染まり、空もまた同じように黒くなる。どこまでが海で空なのかも見分けはつかない――ただここまで海面に近づくと、ぼんやりとした満月の光が霞んで見えた。
その満月の光がどんどん見えなくなり――気がつけば海が赤く色づき始めていた。
それが朝の訪れだと、小さなリディには分からなかった。
海の外には、色が溢れてるんだ――そんなことに感動しているリディの目に、赤以外のものが映った。
溶けて、溶けて、溶けて――――。
髪の先からつま先まで、余すことなく海の一部になる。
『…………おねぇ、ちゃん……?』
それは優しい優しい叔母だった。姉のように慕い、実の姉妹のように仲良くしてきた。
瞳から零れたように見えるのは涙だろうか――次の瞬間にはそれすらも海に溶け、海水なのか涙なのかも分からない。
一度も見たことはない涙だった。
海の中で涙なんて見えない。けれどリディには分かった。
――――泣いている。
それから五年かけて、口を割ろうとしない大人たちから情報を得た。
あのお姉ちゃんを泣かせた――そしてその男ときたら。
復讐するには、充分すぎるほど愚かな男だった。
「――リディ」
低くて優しい声が耳をくすぐる。
「――――ぅ、ん……?」
まだ重たい瞼を擦りながらリディが起き上がる。
「朝だ――ていうかもう昼だけどな、いいかげんに起きろ」
ぼんやりとした頭が動き出すまでにはしばらくかかり――目の前にいる男が誰なのか判別するまでにさらに時間がかかった。
「……じんろ?」
「……まだ寝てんのか」
ジンロが苦笑いしてリディの頭を撫でる。
そしてもう一度起きろよ、と念を押された。
そのやり取りでリディの脳も覚醒する。ここは、ジンロ達の隠れ家。
「……おはよう」
「早くないけどな。寝たのが遅いから仕方ないだろ」
そう言いながらジンロが着替えを渡してくる。部屋に来たのはそのためだったのだろう。
渡されたのは淡い水色のワンピースだ。
「着替えたら出て来い。腹減ってるだろ」
ぽん、と一度頭に手を置いて、ジンロは部屋から出て行く。明らかな子供扱いにむっとするが――文句を言う前に相手はいない。
そして現実を訴えるかのように腹の虫は悲鳴をあげる。
「…………くそぅ」
ぶつける相手がいないので、リディは一人でぶつぶつと悪態をつきながら、器用にも座ったままで着替えを完了する。
痛む足で立ち上がれば、裾がふわりと広がる。
縁取られた白いレースがひらひらと揺らめき、乙女なら誰でも目が奪われるであろうそれにリディも例外なく見惚れた。
「リディー? ごはん食べないの?」
扉から顔を出し、セナが声をかける。
「た、食べる!!」
飯抜きにされてはたまらないとリディが即座に答える。
「じゃあいらっしゃい。やっぱりそういう色も似合うわねー」
眩しい昼の光にリディは目を細めた。
深海にはない明るい太陽の光。
部屋から出て、リディは吸い寄せられるように窓の向こうの世界を見た。
「――――――ぁぁ」
思わず声が零れた。
世界にあるのが青だけじゃないと、知っていたけど。
こんなにも世界は眩しいものだったんだ。木々も緑も、空の青も、花々の鮮やかさも、海にはない色だ。
なんて――なんて温かな色だろう。
「どうした?」
窓の向こうを見つめたままのリディに、後ろからジンロが声をかけた。
「世界は、こんなに綺麗なんだね」
目は窓の向こうの美しい外を見つめたまま、リディは吐息を零しながら呟く。
「足は痛いし、水の中で息はできないし、寿命なんて三分の一だし――人間になっても良い事なんてないと思ったけど、違ってた。こんなに優しい世界の中で生きていけるんだもの。人間てとっても幸せなんだ」
「――そう思える人間は少ないけどな」
ジンロが苦笑しながら、リディの目の前の窓を開けた。
優しい風がリディの頬を撫でる。緑の匂いがした。
「どうして?」
「リディはリディの世界がこの上なく素晴らしいもので、そこにいるだけで幸せなんだなって言われても、ハイそうですって答えられるか?」
海の底は冷たく、光がなく、それが当たり前だからなんてことはないし、海面近くまで昇れば色鮮やかな珊瑚もある――けれど、ジンロの問いに即答できない。
「……無理、だと思う」
「つまりはそういうことだよ。人間にとってはこれが当たり前だから、素晴らしいことだなんて気づけないんだ」
「なんだか、悲しいね」
自分が生きている世界は他から見たらとてもとても素晴らしいのに――そこにいる人はそれに気づけないなんて。
「そうか? ――こうして、リディみたいに気づかせてくれる奴がいるんだから、悲しくなんてないだろ。そのために世界にはたくさんの生き物がいるんだから」
言葉を持つのが、人間と人魚だけだとしても、とジンロが付け加える。
この色鮮やかな世界に、人魚は心奪われるのだろう。
だからこの世界の男に恋をするんだろう。
恋をしたから、人間になるんじゃない――人間になりたいから、恋をする。
たぶん人魚達は――人間の世界に恋をするんだ。
「そこのお二人さん? いらないならごはん片付けるわよ?」
ジンロとリディの後ろで仁王立ちになりながらセナが問いかける。
「た、食べます!! ……ってジンロも?」
もう昼近くなのでてっきり皆朝食は済ませたものと思っていた。
「当然だろ。おまえと寝た時間そう変わらないだろうが」
それもそうだとリディは素直に納得する。
むしろジンロにここまで連れてこられる間寝ていたリディとは違い、総合的にジンロは睡眠時間が短いはずだ。
大きめのテーブルの隅の方に、ジンロと向かい合わせで席に着く。
おそらくここに保護された子供達だろう――家の外ではしゃぐ声が聞こえる。窓からは涼やかな風。目の前の温かい食事。
人間なんて、どうでも良かった。
目的さえ果たせればそれで良かった。
――なのに、どうしてだろう。
今リディは、少しでも長くこの穏やかな時を過ごしたいと心から思っていた。
「……命をかけても良いって思えるほどの恋ってどんなの?」
ちぎったパンを口に放り込みながらリディが何気なく目の前のジンロとセナに問う。ジンロは早くも朝食を食べ終わってしまっていて、リディがゆっくり食事するのを眺めていた。
「なんだ急に」
「――別に、ただ……お姉ちゃんは、人魚に戻る方法もあったのに、それを選ばなかったから……自分が消えても良いって思えるほどの恋って、どのくらい素晴らしいもんなのかなって」
母と叔母の髪と引き換えに手に入れた短剣で、男を刺せば人魚に戻れると――そう説明されたのに、受け取ることが無かった。
「お姉ちゃんは泡になりながら泣いてた……泣いてたけど、とっても綺麗に微笑んでた。あの表情の意味が私は今も分からない。消えることに満足してたわけじゃないのに、どうして笑えたんだろう」
「……おまえな、二十三歳の青年にそんなこと聞くな。その質問に答えられるほど素晴らしい恋愛なんてしてねぇよ」
「ジンロって二十三歳なんだ」
「人の話を聞け」
ごつんと頭を叩かれる。強くはないが、そんなこと親にもされたことないのでリディはむっとするばかりだ。
「年齢は関係ないでしょ、お姉ちゃんは十五歳だったんだもの。今の私と一緒よ?」
言い返すとジンロは面白くなさそうに睨んできた。
そんな二人を傍観しながらセナがくすくすと笑い出す。
「そうねぇ、恋に年齢は関係ないもんねぇ。そういうのは人それぞれに運命の出会いってやつがあるんじゃない?」
「セナさんは?」
「あったらこの年まで一人身でいないわね」
そう言うセナはどうみてもまだ二十代前半だが――それまでまったく出会いがなかったとも思えないが、リディはそんなに色恋沙汰に興味があるわけでもない。
「すべてを投げ出してもいいって思えるほどの決意は凄いことなんじゃないかしら。どんなことであってもね」
「ガキを褒めるな、図に乗るぞ」
人魚として生きてきたすべてを投げ出す――暗にリディも褒められたが、即座にジンロが釘を刺す。
「ガキじゃないもん」
「十五歳はまだガキなんだよ、人間の世界じゃ」
そういうジンロはたった五歳上なだけじゃない、とリディが膨れる。三百年の寿命を持つ人魚からしてみれば五年の差は小さい。
「……完璧に子供ってわけでもないけどな。ちょうど大人と子供の境目ってとこか」
そう言いながらジンロの大きな手がリディの頭を撫でる。
それが子供扱いだと分かっていても嫌じゃないと感じてしまうのはやはり――まだ子供だからなのだろうか。
「自分で決めたことの責任は自分でとらなきゃいけない。けどまだリディは大人に甘えて良いんだ。失敗した時は大人に泣きつけば良い」
「――――例えばジンロとかに?」
現在のところの身近な大人に問いかけると、優しく微笑まれて「そうだな」と答えられてしまった。困らせるための言葉だったのに、そんなに優しい顔をされると何も言えない。
「甘えさせてくれる大人がいて、甘えられる年齢のうちに甘えておけ。大人になったらそれすら出来なくなるんだから」
髪を撫でる手は本当に優しい。
本当にこのまま寄りかかってしまいそうで、リディは泣きたくなった。
すべて一人で、誰にも頼らずに目的を果たそうと――そう思っていたのに。
「……どうしてそんなに優しいの」
ジンロにとってもセナにとっても――リディは赤の他人で、もとは種族すら違うのに。
「性分なのよ。あたしもジンロも、気がついた時には親がいなくて、子供の力でどうにか生きてきたわ。でも大人に助けて欲しいってどこかで思ってるのよ、助けてくれるような大人なんて一握りしかいないって心のどこかでは分かってるのに――分かってるからこそ、自分達は大勢のろくでもない大人にはなりたくなかった。どんな子供でも、毎日笑っていて欲しかったの」
自分がそういう子供になれなかったから。
そう言いながら微笑むセナの顔が痛い。
自分はこの人達に守られる資格のない子供だと。
そう声高に叫びたい。
恵まれて育った、愛されて育った、復讐なんて考えるのも――結局は自分のためなのに。何も出来なかった自分を慰めるだけの行為なのに。
優しさが痛む足よりもなお胸に痛い――そう思うのに、その優しさに全身浸かってしまっている駄目な自分。
情けなくて涙も流れなかった。
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