流星にさよならを
――変わらないな。あの頃と。
目の前に散らばる光の欠片達。
やるべき事を終え疲れた身体と、解放された心をどっしりとベンチに下ろし、私は輝く光に目を向ける。
町から少し離れた山の上の高台。
見下ろせば、町の灯。見上げれば、星達の灯りが世界を照らしていた。
あの頃と変わらない光。
違うとすれば、新たに建造された家によって、町中の光が増えた事と、星達が動かずその場に留まっている事だ。
私は改めて星空を眺める。
無数の光達は、動くことなくじっとその場で私を見下ろしていた。
その視線に応えるように、私も彼らをじっと見つめる。
『あ、流れ星』
ふいに懐かしい声が、頭の中で響いた。
『けい君は、ちゃんと願えた?』
あの日の流星に、私達が願った事。
あの時と同じように私は願いを叶えるように目を閉じ、そして十数年の時を超えた。
*
子供にしては落ち着いているという大人達からの評価はあったにせよ、決して私に子供の無邪気さやわんぱくさがなかったわけではなかったはずだ。
それなりに走り回り、声を上げて笑い、気に食わない同級生に拳を振り上げたりするだけの元気は持ち合わせていたはずだった。
にもかかわらず私が「落ち着いた真面目な児童」という評価を得ていたのは、両親の所為だった。
理不尽な厳しさがあったわけではない。だが、とにかく両親、特に母親は世間の目というものを人一倍気にする性格だった。
その目は、私の学校の成績であったり、素行の一つ一つに注意深く注がれ続けた。
親なのだからそういう心配をするのは当然の事だろう。
だが私は怖かった。今でもよく憶えている事がある。
それは初めて私がテストで五十点をきり、先生から「次はもっと頑張りましょう」と赤いペンで戒めを刻まれた時の事だ。
苦手な算数のテストではあったが、それでもそこまでの悪い点数をとった事はその時までなかった。しかしその時のテストは私にとって、意地悪かと思えるくらいに苦手な問題が集中したものだった。
受けたテストはちゃんと親に見せるように。それがルールだった。しかしルールと言えど、気分はひどく重かった。良い顔をしないであろう事は容易に想像がついたが、テストを隠すなんて選択肢は、馬鹿真面目だった自分の中にはなかった。
「ごめん。次頑張るから」
そう言ってから母にテストを渡したのは先手をとって、少しでも自分に降りかかるであろう母からの刺々しい言葉を防ぐ為だった。
母は黙ってテストを受け取り、点数に目をやった。その目が一瞬だけ大きく見開かれたが、すぐにその目は普通に戻った。
ちっ。
嫌な音だった。
それが母から出た舌打ちだと理解した瞬間、体がぶるっと震えた。
だが恐怖はそこで終わらなかった。
母の目は、人に向けるにはあまりにも冷たいものだった。
「恥ずかしい思いをさせないで」
そう一言だけ残し、母は乱暴にテストを私に突き返した。
私はしばらくその場を動けなかった。
ぶるぶると体が小刻みに震え、目元は急激に潤み、喉の奥からぐうっと変な声がせりあがった。
怖くて、悲しくて、辛くて、泣き叫びたかった。
だがそんな事をすれば、母はどう思うだろうか。
これ以上母に恥をかかせてはいけない。
幼ながらにそう思った私は、涙を止める事は出来なかったが、せめて情けない声だけはあげぬようにと、ぐっと体に力を入れた。
それからだ。
母への恐怖という見えない力に、心が圧迫されるようになったのは。
その頃ストレスなんて言葉は当然知らなかった。
当時は親は絶対で正義で、間違いのないものだと思っていたから、逆らわぬよう失望させぬようにといつも気を張りながら過ごしていた。
「今日さ、ししざりゅーせーぐんってのが見れる日らしいよ」
誰かがそんな事を口にした。
漢字はまだ習ってないものあって難しく書けそうもなかったが、私もテレビのニュースでその言葉は耳にしていた。
「何それー?」
「流れ星がいっぱい流れるんだよ」
得意気にそう話すカズくんという男子の言葉に回りの皆は興味津々だった。
私はその時どうかと言うと、まるで興味がなかった。
だから、じゃあ皆で今日見に行こうなんて話にまとまり出した時も、自分はいいかななんて思ったりもしていた。
「けい君も行くよね?」
そんな私の心を見透かしていたのか、一人の女子がそう声を掛けてきた。
「うん、行くよ」
気付けば私は、心とは真逆の言葉を口にしていた。
「良かった」
そう言って女子は笑って見せた。
心がじんわりと暖かくなった。
彼女が来るなら、行くに決まっている。
私に声を掛けてきた飯島菜月は、当時私の想い人だったからだ。
*
夜、学校の裏手の山を少し上った高台で集合した私達は、揃って首をもたげ夜空を見上げていた。
その日は天候も恵まれ、見上げた夜には星達がこれでもかと煌めいていた。
まだかまだかと期待する私達の前に、すーっと光の線が流れた。
その瞬間、その場にいる皆が歓喜の声をあげた。
「流れた! 今流れたぞ!」
「すごーい! 初めて見た!」
「願い事しなきゃ!」
「だめだ、早すぎて無理だよ!」
思い思いの喜びの声を、私は少し離れた位置で聞いていた。
そんな時でさえ私は落ち着いた子供だった。一つも彼らのように声を出さなかった。
「ちゃんと願えた?」
ふわりと菜月の声が真横から流れてきた。
「ううん」
「一瞬だもんね」
違う、と私は思った。
その時の私は願おうとすらしていなかった。
あんなに早く流れる星に向かって、三回も願いを伝えるなんて不可能だという冷めた思いと、一体何を願えばいいんだという疑問が、星に願いをという幻想的な迷信を拒否していた。
「普通に願おうとしても、無理に決まってるよ」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、菜月はそう口にした。
菜月の視線は上に向いていた。だがその目はしっかりと閉じられていた。
「何してるの?」
菜月の行動の意味が分からなかった私は菜月に問いかけた。
目を閉じてしまえば、流れ星を見る事すら出来ない。願い事をする以前の問題だ。
「願ってるの」
まるで私の心を見透かしたかのように、目を閉じながら菜月は得意げに笑った。
いよいよもって意味不明な私はしばらく菜月の顔をじっと眺めていた。
ずっと見ていたいと思う程に、整った横顔だった。
だがそんな淡い思いは、開かれた菜月のまぶたによって遮られた。
「願い事の仕方、教えてあげよっか」
菜月は、まるで誰も知らないどこかに仕掛けた秘密の悪戯を教えるような笑顔を浮かべながら、私に小さく語りかけた。
「流れ星を見つけたらね、目を閉じるの」
そう言って、菜月は再び上を向き目を閉じた。
「目を開けてずっと流れ星を見てたら、流れ星消えちゃうでしょ」
私も上を向き、夜空を見上げた。
すーっとまた星が流れていった。しかしその光はすぐに消えていってしまう。
「だからね、目を閉じるの」
私は視線を菜月の顔に戻した。
「目を閉じて、瞼の裏の夜空に流れ星の続きを描くの」
「続き?」
「そう。そこでなら、流れ星はもう私のもの。だからずっと流れ星は流れ続ける。その間なら、いくらでも願えるでしょ」
私は呆然とした。なんと言葉を返してよいものか、すぐには思い付かなった。
結果しばらくして出た言葉は、とても正直なものだった。
「それって、ズルくない?」
瞬間、言ってしまったと口を抑えたが言葉は既に出切ってしまった後だった。
菜月の目は再び開かれ、私の方に向けられた。
どんな言葉が返ってくるかと不安に思ったが、その表情は予想に反して柔らかいものだった。
「してもいいズルもあるの。覚えといて損はないよ」
私は彼女を好きになった理由を改めて思い出した。
真面目で硬い私にはない、柔らかさと無邪気さ。
それは、私がなりたいと思っていた自分そのものだった。
彼女の近くにいるだけで、そんな理想の自分に近付けた気がして嬉しくなった。
それだけで、心が救われた。
「そうだね」
「そうだよ」
私達は互いに笑った。
「菜月は、何を願ったの?」
「内緒。願いは口にするものじゃないの」
どこか大人びた口調で、菜月は自分の口に人差し指をあてて黙秘を表した。
「そっか。残念」
そう言われてしまっては、私はそれ以上菜月の願いについて聞く事は出来なかった。
その代りに私は星空を見上げ、次の流星を待った。
程なくして、光の弧が空に描かれ始めた。
光が消える前に、私は慌てて目を閉じた。
暗い瞼の奥の夜空の中で、星はまだ流れ続けていた。
ずっと。ずっと。
何を願うかなど決めていなかった。
でも自然と願いが頭に浮かび、私はそれを唱えていた。
唱え終わり、瞼を開く。
開いた夜空にもまた星が流れていたが、もう目を閉じて願う事はしなかった。
「何を願ったの?」
平然と菜月がそう聞いて来て、私は思わず笑った。
菜月は悪戯っぽい笑顔で私を見ていた。
「願いは口にするものじゃないよ」
そう言うと、菜月は満足そうに頷いた。
「それで良し」
*
菜月があの時に何を願ったか。
星を見上げる。
あの日、当たり前のように流れた星達は現れない。
『願いは叶ったよ』
純白のドレスに身を包んだ、彼女の姿を思い出す。
ふいに、ポケットの携帯が震えた。
“けいた、遅くなる?”
その一言に私はすぐに返事を返した。
“いや、もう帰るよ”
私は椅子から腰を持ち上げた。
『願いは、叶ったよ』
大人になっても、あの悪戯っぽい笑顔は同じだった。
“ご飯、冷めちゃうから。早く帰ってきてね”
返信された内容に、思わず笑みがこぼれた。
大人になっても、彼女は無邪気だった。
私は幼い頃の、願い事を思い返す。
菜月とずっと、一緒にいたい。
菜月と結婚した時、 あんなずるいやり方でも願いは叶うものなんだなと思った。
“わかった”
『願いは叶ったよ』
しかし、私の願いと、彼女の願いは、大きく食い違っていた。
いや、どこかで彼女の願いは形を変え、歪んでしまったのだろうか。
大人になった彼女の願いは、私と一緒にいる事ではなくなっていた。
私という給料袋を、傍に置いておきたい。ただそれだけになっていた。
何もせず、私の懐を食い漁り、好き放題に遊びほうける。
どこまでも無邪気に。悪戯に。
そして私にあの悪戯な笑顔を向ける事がなくなった代わりに、彼女は冷たい視線を私に向けた。
人ではなく、物でもなく。温度のない視線。
その視線は、幼い日の母を思い出させた。
私の願いは叶った。
菜月との時間。
しかし、私は知らなかった。
願いが叶う事が、必ずしも幸せではない事を。
“早く君の手料理が食べたいよ、怜美”
もう私は、流星に願う事などしない。
そんな必要はない。そんな事をせずとも、自分の人生は決められる。
私が怜美という女性を選び、再び道を歩み始めたのは、決して願いというレールの上の話ではない。
願いなど、私に必要ない。
「さよなら」
流れる事のない星達と、地面の下で冷たくなっている彼女に、私は永遠に別れを告げた。