表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

テーマ短編’15

ちきゅー、サイゴの日

作者: 木下秋

「たとえ明日世界が終わるとしても、私は今日、リンゴの木を植えるだろう」


マルティン・ルター

「ダメだ、ダメだってわかってんだけどもよぉ……」


「うんうん」


「これで最後だ、っていっつも思うんだけどよぉ。でも、“ルパン”が俺を呼んでるんだよなぁ……あのキラメキと、コウフンがよぉ」


「わかるわぁ」



 パチンコについて熱く語る十七歳の少年Aに、少年Bはしみじみと相槌を打った。


 ――煙草の煙を、吐きながら。



「……なぁ」



 随分長い間スマホと睨めっこをしていた少年Cは、しかめっ面で言った。



「あの音が聞きてぇよ。キュイキュイキュイン」


「ははっ。うめぇ。キュイキュイキュイン」



 しかし、少年AとBには、聞こえなかったようだった。二人して、大当たり確定音のマネをして、笑っている。



「なぁ! 聞けって! バカ!」



 「ああん?」とユニゾンで返す、AとB。「あんだよ」。「なにキレてんだよ。ヨーちゃん」。



「ヤベェよ。おどろくなよ?……隕石落ちるって」



「……はぁ? インセキ?」



「いつ?」




「明日」





     *





 不良少年達の溜まり場といえば、『校舎裏』、『体育館倉庫』、『冬場の使われていないプール』などのジメジメしたところが思い浮かばれるが、一番の“憧れの場所”いえばやはり、『屋上』だろう。

 授業中、教室にはとどまらずに屋上へ行き、日光をいっぱいに浴びながら、どこからか仕入れてきた煙草をふかす。――彼ら、少年ABCらにおいてもやはりそうで、ジメジメしたところになんかいらんねぇとばかりに、彼らの足は上へと向かった。

 しかし、屋上への扉には――当然ともいえるのだが――“鍵”が締まっていた。金色に鈍く輝く、南京錠。

 だが、そこは力有り余る不良少年達である。無理やりにでも開けようとすれば、鍵や扉なぞぶち壊して、屋上には簡単に出られそうなものだった。――しかし。偏差値の低さ(・・)では都内屈指である、ここ荒蘭あばらん高校ではあるが、そんなことをしようものならば後が面倒だった。荒蘭の守り神こと、生活指導の渋谷先生が黙っていないからだ。

 この学校に巣食う不良少年少女達からしたら、一人の先生くらいイザという時は、ヤろうと思えばヤることだってできるだろうが、学力低しとはいえども、せっかく入学した高校。誰もが口にはしなくとも、ちゃんと“卒業”くらいしたいなぁと、内心思っている。せっかくできた友人達と、離れ離れにはなりたくないなぁと、みんな思っているのだ。それに皆、不良はしたいが、少年院や刑務所には、やはり入りたくはない。だから、三十代半ば――筋骨粒々の――それでいてネチッこい性格である渋谷先生を、誰も相手にしたくないのである。いざとなれば“退学処分”という名の武器を振り下ろすことのできる渋谷先生と、いざとなれば“ヤる”ことのできる不良生徒達との関係は、さながら冷戦状態であった。

 昼過ぎに少年ABCが屋上への扉前の踊り場にたむろし、煙草をふかしているのはこうした理由からだった。扉にはめ込まれた磨りガラスは、白くあたたかな光を放ち、煙を際立たせていた。ポカンとする少年二人に、少年C、もとい、田村洋平は言った。



「イヤ、マジだっての。Twitter見てみろって」



 「エイプリルフールネタじゃねぇの?」少年A、藤井健人が言った。「インセキが落ちるって、あれかよ。アルマゲドンかよ」少年B、市村二三矢(フミヤ)が続く。

 二人とも笑みを浮かべ、まだ信じてはいないようだった。健人は映画「アルマゲドン」のテーマを口ずさみ、二人でハハハと笑っていた。――だが、スマートフォンでもってTwitterを見、yahooニュースを見、2ちゃんねるのまとめサイトを見ているうちに表情はみるみる青ざめて、真実を知った。


 三人は一時(いっとき)、情報から置いてけぼりにされていたのだ。




 キッカケは、一ヶ月以上前のことだった。世界中の天体観測を趣味にしている者達の内、何人かがついにそれ(・・)を見つけてしまった。情報はネットを介してじわじわと、拡散していった。『隕石が、地球に接近している』。

 それはNASAをはじめとした世界中の宇宙開発に関わる機関が――また、政治を牛耳る者達が、一丸となって守り続けてきた秘密(・・)だったが、彼らは今日になって、その秘密を暴露したのだ。


 その秘密の名は、『カタストロフィ』といった。




「じゃあなんだ。その『カタストロフィ』とかいう隕石が、明日地球に落ちるってか。そんでもって、恐竜みてーに人類滅亡」



 健人が言った。



「『かたすとろふぃ』、って、なんてイミ?」



 二三矢が言う。



「イヤ、意味はわかんねーけど、そういうことらしい。『箝口令』がナントカ、って……」



 洋平が答えると、二三矢はすかさず、またもや質問をぶつけてくる。



「『カンコウレイ』、って、なんだ?」



 「うるせェな! オレもよくわかんねェよ!」。洋平がキレると、二三矢は黙った。一足先に情報を手に入れた洋平も頭の整理がついていないようで、挙動には落ち着きがなかった。手にした煙草の先には二センチにもなる灰がついたままで、それを落とすことすら忘れているようだ。



「……さっきっから学校の中がいつもよりサワガシーのは、そういうことか?」



 階下からは、授業が行われているはずの時間だというのに喧騒が響いてくる。騒がしいのはいつも通りなのだが、その漏れ聞こえてくる声からは、異常に興奮度の高い感情が読み取れた。



「……マジなん?」



 二三矢が恐る恐るといった様子で言う。健人は「テレビつけても全チャンネル隕石に関することしかやってねーってよ」と、報告をする。



「テレ東も⁉︎」


「うん」


「そいつァ、マジだわ……」



 二三矢は絶望、といった表情を見せた。ほとんど無い眉が、八の字になる。

 洋平は、スマートフォンのTwitterアプリの画面をスクロールさせた。タイムラインは、様々な感情で溢れていた。



『世界オワタ\(^o^)/』

『え、ネタだろ?』

『テレビヤバイww』

『パトカーやら救急車やらサイレンの音で外やべぇ』

『隕石ってマヂ?』

『いい天気…(現実逃避)』

『なるほど、おれらには秘密にされてたんか』

『いまから近くのコンビニ襲いにいくわ』

『終末は近い…』

『大統領とか総理大臣なんかは、核シェルター的なのに避難してるんだろうね』

『やり残したこと、なんだろ』

『まぁ、いいんじゃね。別に、将来に楽しみなことなんてないし。みんな一緒に死ねるんならさ』

『人生最後の食事、なんにしよー!』



「……これからどーする?」



 洋平が二人に問うと、同じくスマートフォンを操作していた健人は立ち上がり、



「アヤに会いに行くわ」



 と言った。

 “アヤ”とは、健人のガールフレンドだ。



「会いに行くって……」


「アヤ、一人暮らしだし。アヤん家で、最後は過ごすわ」



 アヤと健人は中学時代からの同級生であり、付き合いはじめてもう五年になる。アヤの家庭は複雑で、健人の支えがあったお陰で、アヤは今元気に暮らせていた。将来は、結婚だってしようと、誓い合っていた仲だ。



 二三矢は「アッ!」と大きな声を出すと、



「……そっか! ……ゴム無しで、ってか」



 と呟いた。



「まぁな。どうせ最後ならな……」



 健人はニッと口の端で笑うと、「じゃあな」と言い残して、階段を駆け下りて行った。

 よっぽどアヤに、早く会いたかったのだろう。凄まじいスピードで、時折何段か飛びながら降りて行った。「じゃあなー」と呑気に言う二三矢の隣で洋平は、あっけに取られていた。中学時代からの付き合いであった、男三人組である。


(あれが最後の挨拶……もう二度と会えない……)


「オレ、結局童貞のまま死ぬんだなぁ……いいなぁ……ケント……」なんて言っているちょっと頭の弱い二三矢に比べ、洋平は複雑だった。



 洋平を正気に戻らせたのは、ジョギ、ジョギ、という音だった。



「……おまッ、何してんだよ!」



 二三矢はいつも持ち歩いている大きな裁ちバサミで、学ランの下部分を雑に切り落としていた。



「短ランにしてんの」


「はァ⁉︎ おまっ、バカかよ!」


「だってよー、明日地球終わんだろ?」


 二三矢は短ランを完成させると、袖を通して表情を子どもの様にきらめかせた。「ホラ! カッケーだろ!」



 洋平は呆れて笑った。




     *




 学校の中は、いつも以上に荒れていた。


 窓ガラスは割られ、そこから椅子を投げている者がいる。上半身裸で、どこから持ってきたのか酒瓶を掲げている者がいる。赤い顔をし、笑う女達。学校には、もう家に帰ろうとも思わない荒くれ者だけが、残っているらしい。洋平と二三矢は教室に荷物を取りに帰ると、クラスメートと少し、隕石について話した。もうかなり知れ渡っているらしく、皆最後の時を楽しもうと、必死だった。

 ギザギザの破片が残った窓の向こうからも、何やら音が聞こえてくる。――サイレンの音。こんな時でも、働いている者がいるのだろうか。洋平は少し、そんなことを思った。



 二三矢が「近くのスーパーが無料バイキング会場になってる」というので、小腹の空いた二人はとりあえずそこへ向かうことにした。一階に向かうと、段々と静かになる。静かな廊下に、足音が響いた。昇降口で靴を履き替えていると、後方で微かな、声がした。

 女生徒の、悲鳴。

 二人は顔を合わせると、外履を履いたままそっと、廊下を歩いた。阿呆で通っている二三矢も、この時ばかりは引き締まった表情になる。

 二人は――健人を入れた三人は、不良で名が通り、喧嘩だって盗みだって何度かはしたが、女・子どもに手を出す様なことは決してしなかった。それについて、意見を交わしたことはない。だが、それが三人間の、“暗黙の正義”だった。



 足音を忍ばせ、閉まるところが見えた扉の前にゆく。『男子トイレ』。

 先方を歩いていた洋平が、二三矢に目で合図をする。言葉を用いない会話の末、洋平は扉を蹴り開けた。

 爆発音に近い音が、辺りに反響する。速やかに部屋に入った二人の目には、誰もいない見慣れたトイレの様子が写っていた。――いや、三番目のドアが閉まっている。

 たまらず二三矢は駆け出すと、三番目の扉に飛びついた。上から個室に侵入すると、中からはもみ合う声が聞こえてきた。



「……ッ! テメッ! ……コノッ……!」



 扉に身体がぶつかり、何度か音が弾ける。中では二三矢が後ろ手に鍵を開け、扉を開いた。

 転がり出てくる二三矢。その後ろには、服のはだけた、猿ぐつわをされた女生徒が一人。

 そして、もう一人。



「渋谷……ッ!」



 息を荒げ、ジャージのズボンを半分下ろした、生活指導教員、渋谷がそこにはいた。


 洋平は面食らう。渋谷はスッとジャージのズボンをあげると、少し逡巡したあげく、奇声を上げて洋平に飛びかかった。――彼はこの世界的な状況に、自暴自棄になった一人らしい。


 いくら喧嘩経験のある洋平とはいえど、捨て身の攻撃にひるんだ。ガラ空きの顔面に渋谷の右拳が入り、覆いかぶさる様に突っ込んできた彼に押したおされ、渋谷は洋平に馬乗りになる。


ヨダレを垂らし、眼を血走らせた渋谷の顔は、まさに“狂気”だった。荒い息をし、洋平の喉に両手を伸ばす。洋平は、全身の血が冷たくなった。

 しかし次の瞬間、洋平の身体に覆いかぶさっていた渋谷の身体は、吹き飛ぶことになる。二三矢が、ラグビー選手さながらのタックルをお見舞いしたのだ。

 「だいじょぶか?」。二三矢が右手を伸ばす。洋平はそれに応じて手を伸ばし、立ち上がると、今度は身体が熱くなった。

 (イケル……。身体はまだ動く!)。二人は渋谷に対峙し、姿勢を低くした。闘争本能にようやく火が付き、パチンコで大当たりした時のように、脳内麻薬が、ドバドバ出た。



「アアアアアアアアアアア‼︎」



 誰ともなく叫び、身体をぶつけた。腕を、脚を振り回し、隙を見つけ、打撃を打ち込んだ。


 洋平が立ち上がった時点で、勝敗は決まっていた。





「……ハァ、……ハァ、……ハァ」



 トイレの隅に、顔を血だらけにした渋谷が転がっている。二人も軽く、怪我をしていた。洋平は瞼を切り、右目をつむっている。二三矢は二度目のタックルをしかけに行った時に膝蹴りのカウンターを真っ正面から食らい、両鼻の穴から血を流していた。

 しかし不思議と、全く痛くはなかった。



「……イッテぇ……」



 二三矢が鼻をこする。



「クッソ……!」



 二三矢はだめ押しをするかのように、倒れる渋谷の腹めがけて蹴りを打ち込んだ。



「オイ……もうやめとけって」


「でもコイツッ! クズだぜッ!」



 二人は顔を見合わす。二三矢の左目は腫れ上がり、試合終わりのボクサーみたいだった。なんとも、痛々しい。



「明日で地球おわんだろッ⁉︎ じゃあもうコイツよォ! ……ここで殺しちまおうぜ!」



 洋平はここではじめて、少しだけ、痛みを感じた。身体のどこが、ではない。

 渋谷教諭には、二人は入学当初からずっといびられ続けていた。街で吹っかけられ、やむを得ずした喧嘩によって、修学旅行に連れて行ってもらえなかったりなんかした。廊下で会えば嫌味を言われ、ずっと憎み憎まれの関係だった。



 ――しかし。



「やめとけ」



 洋平は力なく言った。



「でもコイツよォ! さっきだって……! クソ教師ッ!」



 二三矢はまだ、蹴ろうとするのをやめない。



「やめろって! 死んじまう!」


「もう関係ねェよ!」



「明日オレたちだって死ぬにしたって! わざわざ人殺してから死ぬことねぇって‼︎」



 洋平は叫んだ。

 口の端が切れた。



「……罪背負って死ぬこたねぇだろ」



 二三矢は肩で息をしていたが、それを少しづつ、落ち着かせた。


 冷静になると、男子トイレの個室でそのやりとりをずっと見ていた女生徒の元へ行き、ゆっくり猿ぐつわを外した。



「大丈夫かよ……」



 女生徒は何も言わずに、その場から走って、逃げ去った。



「ちぇっ。礼もなしかい」


「いいだろ、別に」



 洋平は笑って二三矢を促して、トイレを出た。

 口の端が、痛かった。




     *




 駐車場に向かうと、二人は乗ってきた原付に跨った。

 洋平がヘルメットをかぶろうとすると、二三矢が「ヨーちゃん!」と声をかける。そちらを見ると、二三矢はこれ見よがしに、ヘルメットを後方に放り投げた。

 洋平は笑い返すと、真似をして、後方にヘルメットを投げた。そうして、ノーヘルのまま原付を発進させる。



 スピードメーターは、一度たりとも、見なかった。




 近所のスーパーに行くと、中には店員はいなく、しかし客はたくさんいた。

 あの時(・・・)みたいに買い溜めをするような人はいないものの、みな自分勝手に、商品を持ち帰っていた。商品棚には空きが目立つ。ほとんど、もうすでに持ち去られてしまっているようだ。

 ダンボール箱は乱暴に、引きちぎられるように開けられ、肉コーナーでは丸々のチャーシューにかぶりついている者がいる。まるで、皆ゾンビになってしまったように見えた。

 二人は歩きながら目に付いたものをカゴに入れ、歩いた。血を流しながら歩く二人はこの異常時にあっても異様で、二人があるくとモーゼの海割りのように人が避けた。食いしんぼうの二三矢は眼をランランとさせ、甘いものギライの癖にがめつくスイーツまでカゴに入れるので、洋平は呆れた。




「さぁて。どうするか」



 スーパーの駐車場で二人、生ハムを囓りながらビールを飲み、洋平が言う。

 Twitterを見ると、クラスメート達が学校の屋上への扉をこじ開け、屋上でBBQ(バーベキュー)をしているらしいという情報を得た。それを二三矢に伝えると、彼はウゥンと、曖昧な返事をした。



「行くか?」


「……屋上ねぇ……」



 二三矢は空を見上げながら、両手をモジモジとさせていた。付き合いの長い洋平は、わかった。これは二三矢の、何か言いたいことがあるんだけど、恥ずかしくって言おうか言うまいか迷っている時の、癖だ。



「……なんだよ。なんか、言いたいことあんだろう」



 洋平が言うと、二三矢はちょっぴり驚いて、エヘヘと頭をかいた。



「……オレ、家、帰るわ」


「……ハァ?」



 信じられない、といった心境だった。(夜遊び好きで、家になかなか帰らないお前が?)

 洋平は言った。「なんでさ」



「オレさ……親孝行したい」



「『オヤコウコウ』⁉︎」



 洋平の声は裏返っていた。物を知らない二三矢がいつも意味を尋ねてくるみたいに、今日は洋平が意味を問い質したい気分だった。(『オヤコウコウ』ッテ、ナンダ?)



「おれさぁ、母ちゃん、いんだろ?」



 二三矢は、親一人子一人という家庭で育ってきた。



「いつかさぁ……恥ずかしいけど、したかったんだよなぁ。親孝行」



 洋平は合点がいった。さっき二三矢が取っていたスイーツは、母親の為に持ってきていたのか、と。



「そっか……」



 二三矢が真剣に言っているのだとわかると、茶化す気分も消え失せた。このまま、行かせてやろうと思った。二三矢の見ている空を見上げると、いつもの午後の晴れ空が、いつものようにそこにあった。とても、明日地球が終わってしまうだなんて、思えなかった。



「……じゃあ、俺も家帰っかな」



 学校に戻ろうかとも思ったが、二三矢の言葉が頭に残っている。『オヤコウコウ』。



「そっか」



 二三矢はそう言うと、スーパーからかっぱらってきた食料をスクーターの椅子の下のスペースに入れた。筆記用具などの入ったカバンは、「もうこれイラね」といって、投げ捨てた。



「またな!」



 二三矢はいつものようにそう言うと、原付を発進させた。



「おう! じゃあな!」



 洋平はそう言って、気付いた。



(あっ……)



 “また”は、ないんじゃんか……。



「バカが……」



 洋平は一人取り残されて、そう、独りごちた。




     *




 洋平が家に帰ると、母は玄関先でよろこび、また怪我を見て心配したりと忙しかった。父は職場から歩いて帰ってきたのだと、そこで知らされた。



「今はお風呂場で水を汲んでくれてるのよ。水が止まったら困るでしょう」



 ここ最近、洋平にとって家とは“寝るところ”であり、家族と話すことはほとんどなかった。帰って眠り、起きると学校へ。そのまま遊び、寝る為に帰ってくる。友人宅で眠ることもあり、帰って来ない日が何日も続くこともあって、その度に両親は心配したのだが、洋平はそんな時、定期的な連絡だけは欠かさなかった。洋平を動かしたものは、罪悪感だった。『不良をやってることは別にオレの勝手だろう』、とは思ってはいたものの、『あの人(・・・)達に余計な心配をさせる必要もない』とも、思っていた。


 久しぶりに足を踏み入れたリビング。窓際のカーテンレールには何本かのハンガーがかかっている。洋平や父のシャツがかかっている。色褪せた花柄のカーテンには、幼少期包まって遊んだりした。畳んである洗濯物。テーブルの上の、母の髪留め。コルクボードには家族の写真。洋平が三歳の頃の、近所に住んでいた女の子にキスをした瞬間をおさめた写真もあって、物心ついた洋平がそれを「外してくれ」と何度頼んでも、母はそれを決して剥がさなかった。それが今もそこにある。カレンダーには、パートの予定が書かれている。――明日以降の予定が。



 生活感のあるリビングの風景をぼぅっと眺めていると、



「洋平」



 声がした。



「……父さん」



 外では恥ずかしくて、“オヤジ”と呼んでいる存在。家では恥ずかしくて、呼び方は“父さん”のままだった。



「おかえり」



「……」



 “ただいま”の四文字を、洋平は言うことができなかった。




     *




 明るいうちに風呂に入り(傷が沁みて、今日一番の激痛を味わった)、リビングに戻ると夕食が出来上がっていた。午後五時半。外からは、あちこちから定期的に、サイレンの音が聞こえてくる。窓からは、夕陽が射していた。



「久しぶりね。……家族三人でごはんを食べるなんて」



 父は「そうだな」と返事をしたが、洋平はなんとも言えなかった。



 洋平は久しぶりに、母の作った味噌汁に口をつけた。……味が薄い。でも、あたたかく、ちゃんと味がするから不思議だと、思った。

 洋平が日々食べているのは、スーパーで買った惣菜、コンビニでバイトをしている健人が持ってくる、廃棄になった弁当やパンだった。最初は母の作る料理なんかより味が濃く、美味しいと思っていた。

 だが、それがどうだろう。半年も経つと、だんだんと、コンビニやスーパーの味には飽きがくる。何を食べても、何故だか美味しいとは感じなくなってくるのだ。

 久々に口にした、いわゆる“おふくろの味”。前に一度味噌汁が飲みたくなって、お湯に味噌を溶かして飲んだことがあったが、どうやったってその味にはならなかった。玉子焼き、ほうれん草のおひたし。母は「スーパーに行くのがこわかったから、冷蔵庫にあったものだけで作ったの」と前置きをしたが、どれもおいしかった。洋平はただ黙って、よく噛んで、食べた。



 やがて、電気がつかなくなった。覚悟はしていたものの、暗い。父は災害用のリュックを引っ張り出してくると、蝋燭を出し、火をつけた。テレビの音もなく、皆無言で、咀嚼をする音だけがしていた。


 食べ終わる頃、父が口を開いた。



「洋平、話しておきたいことがある」



 洋平は父を見た。父も、しっかりと洋平を見すえた。



「……というより、謝っておきたいことなんだ。こんな時だろう、だから、ちゃんと言っておきたいんだ」



 洋平は何を言われるのかと、身構えた。



「……今までちゃんと叱ってやれなくて、ごめん」




     *




 洋平の父、田村博は食品を扱う商社のサラリーマンで、仕事人間だった。洋平が幼い頃、父とした約束を、仕事を理由に破られたのは数知れず。それほど、仕事に熱心な男だった。

 しかしそれには、理由があったのだと言う。



「父さんは……こんなことは自慢話でもなんでもないんだけれど、若かった頃は、不良でな……今の、洋平みたいに」



 そんなことは初めて聞いた話で、洋平は驚きを隠せなかった。目の前にいる、この真面目なサラリーマンである父が、不良……?



「そう……誇れることでもなんでもない。あの頃は良かったと、思い返せることでもない。たくさんの人に迷惑をかけた……悪いことも、暴力的なこともした。法を犯すようなこともな。……私を変えたのは、母さんだった」



 話によると、手のつけられない不良少年であった父、博は、ある日喧嘩に負け、ぼろぼろになって道路に横たわっていた時、手を差し伸べてくれたのが、当時近くの女子高に通っていた若かりし母だった、というのだ。



「まぁ、いわゆる一目惚れでな。でも母さんは助けてくれはしたけど、そういうツッパったヤツはすきじゃなかったんだ。……私は必死で変わろうとしたよ。当時、父が身体を壊したこともあってね。家族だって、支えてやらなきゃいけなかった。不良をやめて、格好も変えて、自らが落書きでめちゃくちゃにしてしまった教科書を、あちこちを消しゴムできれいにしてね。先生なんかからは、『中身が変わってしまった』だなんて言われたよ。母さんにはアプローチを続けてね。ようやく認めてもらえた。当時私は十七歳だったけれど、高校卒業と同時に今の会社に入ってね。そりゃあ必死に働いた。……お前も生まれたからな」



 しかし、バブル崩壊後の日本経済、博の働く企業も、業績はずっと良かったとは言えなかった。リストラがあり、若い大卒の新入社員もたくさん入った。博は若い世代に負けまいと、会社に認められようと――家族を護ろうと。若い頃の過ちの贖罪をするかのように働いた。



「もう私の人生だとは思わなかった。ただ洋平、お前の為に……。なんて言ったら、恩着せがましいかな」



 皮肉にも、博が家族をないがしろにしたせいで、洋平は不良になった。運動会にも、学芸会にも、授業参観にも行けなかった。――いずれも、行くと“約束”はしたのに。

 遊園地にも、水族館にも、動物園にも連れて行けなかった。――いずれも、“約束”したのに。それが守られることは、なかった。



「中学に入ってお前が不良になった時、母さんに言われてお前を説教しようと思って部屋の前まで言ったことがあったんだ。……でも、私にどんな説教が、できるというのだろう。私のせいでこうなったのは明白だった。それも、私だって若い頃は……不良だった……」



 父は洋平から目をそらした。



「お前を叱ることのできない父であったことを、謝りたいんだ。……すまない。……ごめんな」



 洋平は、なんと言って良いのかわからなかった。かつては約束を守らない父を、恨んだことだってあった。でも、この話を聞いてしまったならば、理解は――許すことはできる。

 洋平が不良でありつつも、それでも“絶対にやってはならないこと”の境界線を踏み越えることが決してなかったのは、真面目な父の後ろ姿が脳裏に浮かぶからだった。“約束”は守らない父であったが、そんな父に護られて生きていることは、もう十七歳の洋平にはわかっていた。しかしだからといって、全てを許し、「全然気にしてないよ。今までありがとう」だなんて、口が裂けても言えなかった。十七歳の洋平は、大人の寛容さと子どもの頑なさという矛盾を、どうしようもなく、抱えていたのだ。



「……」



 けれど、何かを言わないといけない。沈黙の中で、次に言葉を発さねばならないのは自分だと、洋平は思った。



「……」



「……いいよ」



 絞り出すように言った一言は、無電気の沈黙ゆえに伝わり、暗がりゆえに、あたたかく広がった。



「もっと早く言えば、良かったよな」



 夜は静かに、深まっていった。




     *




 リビングに布団を敷いて、川の字で寝ましょうよ。久しぶりに。そう言ったのは、母だった。


 この家に越して来る前、田村家はアパートに住んでいたことがあった。洋平が三歳までのことである。洋平には薄っすらと、その記憶があった。

 母がそう言った時、洋平は露骨に嫌な顔をしたのだが、それは暗闇に紛れて見えなかった。でも、母の嬉しそうな顔はなぜか、見えた気がした。

 その顔は今のものより若々しく、髪も黒々とした、かつての母の姿。そんな母の顔を、暗闇の中で目にした。

 『オヤコウコウ』。二三矢の声が脳内で再生される。洋平は黙って、それを受け入れた。



 暗闇の中に、三枚の布団が敷かれる。母は右へ、父は左へ。空いた真ん中のスペースに、洋平は横たわった。恥ずかしく、こそばゆくってたまらなかったが、自分で自分に呪文のようにオヤコウコウオヤコウコウ……と唱え、横たわった。


 蝋燭の火が消え、母が「おやすみ」と言った。父もそれに応えるように、「おやすみ」と言う。洋平は黙ったままで、思案にふけった。



(最後……。最後の日だ。寝たら、もう死ぬだけ。……でも、なんでこわくはないんだろう)



 両側に、親が横たわっている。外はもう、静かだ。いつもの夜だった。太陽の落ちた後。月と星だけがよわよわしく、光る。



(……最後にオレは、“おやすみ”も言えないのだろうか。



 “ただいま”が言えなかった。“いただきます”も、“ごちそうさま”も言えなかった。……挨拶を言うことができなくなったのは、いつからだろう。



 父の真実。家族の為に働いていた父。いつまでも不良のオレ。……そう。“不良”だから、言えなかったんだ。不良は挨拶なんか、しないから。



 後悔があったのだとしたら、素直に挨拶ができなかったことだ。意地をはったせいで、“おかえり”も、“ただいま”も言えなかった。……“おいしいよ”とも言えなかった。“ありがとう”だって……)



 洋平の左隣からは、鼻をすする音がした。母が泣いているのだろうか。




「おやすみ」




 暗闇に紛れて、洋平は言った。

 自分の声じゃない気がした。




(もし……もし隕石が、落ちなかったら……いつも通りに目が覚めて、起きたら……




 そしたらオレは、きっと“おはよう”って、言うんだ。そして、オレは変わるんだ。


 もう不良はやめる。かつて父さんがそうしたみたいに……。今からだって勉強する。大学は行かなくたっていい。でも、いつか、父さんにオレっていう存在ができたみたいに、オレに大切な人ができた時のために……その人たちをその時、ちゃんと護れるように、働きたい……そのためなら、って、思えるんだ……。


 きっと……明日があるんなら、オレは変わるんだ……



 そして、本当の、本当の親孝行を……きっと…………)




 ……





 ……






 洋平は静かに、心穏やかに、眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  《ちきゅー、サイゴの日》、読ませていただきました。  誤解を生むかも知れませんが……。自分には、読むのにすごく苦労した作品でした。  隕石という絶対的な絶望と、作中の《ゾンビになってし…
2015/05/03 17:32 退会済み
管理
[一言] 読ませていただきました! 地球が終わることになったら、人間はどうなるんだろうと想像した時に、ものすごくたくさんのシチュエーションが考えられると思うのですが、とても上手く組み合わせられていると…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ