学府とは
王都「あけましておめでとうございます」
子狸「おめでとうございます」
礼儀正しく身体を前傾した王都のひとに子狸さんもぺこりとお辞儀した。
時刻は宵の口。年越しまでは、まだ間がある。
しかし魔物たちが都合が悪くなると持ち出す連合国の標準時においてはそろそろ日をまたぐ頃だ。
ここ大陸に「標準時」という概念はなかったが、もしも規定するとしたら連合国を基準に置くというのは筋が通る。
なぜなら彼の国は人類発祥の地であり、魔法の在り方を定める「法典」が眠る地だからだ。
だが――
新年の挨拶をしている場合ではないことも、また確かな事実であった。
場所は地下通路。
地下通路の奥深くには、九代目の勇者が魔王と相まみえ、何らかの約定を交わしたとされる「地下祭壇」がある。
目には見えない深い闇。歴史には残らない戦いは全てがここに集約し、地下へと沈むかのようだった。
子狸「っ……」
子狸さんは動揺している。
学府を追ってここに来た。学府とは三大国家に巣食う得体の知れない秘密結社だ。
彼らは、この世界にあってはならない知識と技術を持っている。
学府と戦い、打ち滅ぼすことが、この時代に生まれた管理人の「役目」だった。
逃げ場はない。追い詰めた筈だ。
それなのに、ひっそりと闇に佇み子狸さんを待ち受けていた人物は――
校長「来たか。……バウマフの小せがれ」
子狸「うそだっ!」
ここへと至る全ての状況が一つの事実を指し示している。
校長先生は学府の手先だ。
激しくかぶりを振った子狸さんに、しかし残された時間はあまりにも少ない。
逡巡しながらも前へ出た。
子狸「うそだっ……チク・タク・ディグ!」
奇妙な話だが、圧縮弾でどうにかなる相手ではないという信頼があった。
そしてそれは正しかった。
子狸さんが放った圧縮弾は、まるで校長先生を避けるように後方の闇に紛れて消えた。
子狸「なにっ」
校長「教師に逆らうとは!?」
校長先生の手にはサックス。
強力な異能は特定の「像」を結ぶ。
気のせいでは済まされない強大な力が働くとき、目に見える姿がなくてはならない。
それがこの世界の本来あるべきルールだからだ。
子狸さんのイメージに割り込みを掛けて圧縮弾の軌道を逸らした校長先生が不機嫌そうに言った。
校長「やめろ。危ない。やめろ。私の“力”は万能でも無敵でもないのだぞ……! ここまでだっ、バウマフ! お前は、家へ帰れっ……」
子狸さんがぎょっとした。どうして今まで気付かなかったのだろう。
かつて子狸さんは、強力な異能持ちと敵対したことがある。他者を洗脳する凶悪な異能だ。
その人物と、校長先生の容貌は酷似していた。
校長先生は苛立ちを隠そうともしない。
校長「お前には関わりたくないのだ。私の兄が愚かにも豊穣の巫女に挑み、敗れ去ったそのとき、お前もその場に居たことはわかっている……!」
校長先生は子狸さんを警戒している。
内心の動揺を表すように、手に持つサックスの輪郭がぐにゃりとゆがんだ。
送信系(テレパスと呼ばれる)は、もっとも複雑で高度な力を備えた異能だ。
そして何より、老境に達した校長先生には適応者としての長い蓄積と経験があった。
それは史上最高峰の適応者、トンちゃんにすらないものだ。
王都のひとが憎々しげに校長先生を睨んでいる。
……双子の適応者には、同じ系統の異能が宿ることが多い。
その場合、力の総量も分け合うことになる。
しかし、これは……。
王都のひとは用心深く繰り返した。
王都「あけましておめでとうございます」
子狸「おめでとうございます」
新年の挨拶をしている場合ではなかったが、子狸さんが返事をしてくれたから調子に乗ったのかもしれない。
あるいは、子狸さん以外に興味がないのか。王都のひとの体表が微細にふるえた。
一方、校長先生には余裕がなかった。
いつも肌身離さず持ち歩いているサックスに異変が起きつつある。
輪郭がゆがみ、二重三重にもぶれて見えた。
りーん……
りーん……
鈴鳴る音のようなものが聴こえる。
校長「ちっ……!」
校長先生は舌打ちした。……暴走し掛けている。サックスを鷲掴みにし、声を荒げた。
校長「待て、落ち着けっ、テレパス! バウマフの父親を刺激するのはマズイっ。あの男の交友範囲は広いっ、しかも揃いも揃って私達が苦手とする手合いだっ」
子狸さんの父、お屋形さまは有名人だ。
学生時代に様々な武勇伝を打ち立て、パン屋にしておくには惜しいとすら言われている。
校長先生の説得に、サックスは落ち着きを取り戻しつつある。
他の適応者ならいざ知らず、校長先生は得難い宿主だった。
学校という職場は、精神干渉型の異能にとって非常に好ましい環境だ。
まるで異能に意思があるかのような校長先生に口ぶりに、子狸さんは戸惑っている。
子狸「誰と、何を……。あなたは、いったい……」
しかし状況は待ってはくれない。
ずしん、と地下通路が揺れた。ハッとした校長先生が頭上を仰いで歯噛みした。
校長「カリウスっ……戦っているのか? 誰とっ、何のためにだ!? これだから騎士は……!」
校長先生が教職を志したのは、知性や知識が人間にとっての最大の武器だと信じているからだ。
それなのに、彼の邪魔をするのはいつも彼自身が下らないと見下している暴力だったから、戦う力を持つ人間に対していびつな優越感とコンプレックスを抱いている。
校長先生は叫んだ。
校長「まだだっ、まだ私はこんなところで終わるわけには行かない!」
しかし時間がない。こんな筈ではなかった。いつもそうだ。
追い詰められている。余裕がない。校長先生は子狸さんの肩を掴んで乱暴に揺すった。縋れるものであれば、何でも良かった。
校長「バウマフ! 受信系の異能持ちはどこにいる!? 強力な適応者だっ、そいつさえいれば、私は!」
――無敵になれる。
校長先生はそう言った。
王都のひとの表情が険しい。
校長先生は異能について知りすぎている。いったいどこでそんなことを知った?
学府なのだろう。では学府とは、いったい何なのだ?
……心当たりは一つしかない。
口には出せなかった理不尽への問いがある。王都のひとは言った――。
王都「あけましておめでとうございます」
子狸「おめでとうございます」
~fin~




