すごくファラオです!
SF=すごくファラオです(ヘボン式ローマ字表記)
王妃・ネフェルティティは玉座から表の庭を見遣ってため息をついていた。
大団扇をあおぐ侍女たちの手を止めさせると、ネフェルティティは玉座からおもむろに立ち上がった。母なる大河の向こうに広がる砂漠から吹き抜けてくる乾いた熱風が頬を焼く。
表の庭には満々と水がたたえられた池がある。母なる大河、ナイル河から引かれた水はさながら鏡のようにつややかな水面を誇っている。その水面はネフェルティティの美貌を映し出した。子供を六人も生み歳を重ねたその姿は、それでも咲き誇る花のような美しさを保ったままだった。しかし、表情は暗い。
というのも……。
ネフェルティティは侍女の一人を呼んだ。
その場に傅いた侍女に、ネフェルティティは声を掛けた。
「侍女、今、偉大なるファラオは何をしておられる?」
ファラオ。ネフェルティティにとっては夫に当たる。
しかし、侍女は首を横に振った。
「それが……、ここのところ宮殿の奥深くにお隠れになってお姿をお見せにならないのです」
ネフェルティティは誰にも聞こえないようにため息をついた。
ファラオのネフェルティティへの寵愛ぶりは相当なものだった。正妃であるところのネフェルティティが子を六人もなしていること自体がその証左であろう。二日と空けずに正妃の宮殿に渡るファラオなど古今例がない。神官たちも「これは尋常ならざることだ」と眉をひそめていたと聞く。しかし、それもまたネフェルティティの美貌のなせる業と宮中では噂となっていた。
しかし、ここの所、ファラオの御渡りがぱったりと絶えた。
最初こそ、「あの変わり者のファラオのこと」と悠長に構えていたが、さすがに一月も御渡りがないとなると不安にもなる。もしや寵愛が絶えてしまったのではないか……。それどころか、わたしのことが疎ましくなり始めているのではないか……。
寵愛の絶えた妃の末路など悲しいものだ。
ネフェルティティは侍女に向いた。
「そなたに命じる。ファラオに贈り物を届けよ」
「贈り物、にございまするか」
「ええ。唯一神アテンへの供物といえば、ファラオもお慶びとなろう」
「はっ」
侍女は頭を下げたまま後ずさりをして、宮殿の奥へと消えた。
さあ、これでファラオのご機嫌は治るのであろうか……。
池の水面に映るネフェルティティの憂いの表情は、折から吹く熱風によって千々に乱れた。
ネフェルティティのファラオ・アメンホテプ四世。彼は歴史学上特異な地位にあるファラオである。
当時のエジプトは、アメン=ラー神を頂点とする多神教であった。当時のファラオはアメン=ラー神の化身とされ、その権威によってエジプトの正当な支配者として君臨していたのである。その点、アマテラスオオミカミの子孫であることで王権の正当性を担保した日本の天皇制・神道の関係ともよく似ている。
しかし、アメンホテプ四世は違った。
治世4年のことだ。彼はファラオの権力の源泉たるアメン=ラー神信仰を捨てたのである。
その代りに彼が持ち出したのは、ラーの仮の姿の一つとされるアテン神である。アテン神を称揚するのと同時にエジプト中の神々をすべて否定し、神殿をすべて破却することで、事実上のアテン神一神教体制を作り上げたのである。これが人類史上初の一神教とされている。さらに、彼はアメンの名が入った己の名を嫌いアクエンアテンと改名したのであった。
実を言えば、この一連の「アマルナ宗教改革」により硬直的であったエジプト文化に変化が訪れ、写実的・現実的なアマルナ美術が花開くことになるのだが、これはあくまで余談である。
侍女に供物を届けさせたことが功を奏したのか、数日後、ファラオより「謁見を許可する」との申し伝えがあった。
かつてはそれこそ気軽にネフェルティティの宮殿に渡ってきていたはずのファラオにあるまじき言葉だ、といぶかしく思いながらも、ネフェルティティは侍女を引き連れてファラオの宮殿へと渡っていった。
しかし、ファラオの宮殿の前に着くや男たちに阻まれた。額の上に大きな青銅の円盤をくくりつけている男たちは、アテン神の神官たちだ。なぜか一様に呆けた目をした神官たちは、ネフェルティティ一行を取り囲んだ。
「お主たち、神官風情が王妃の道を塞ぐなど不敬であろう!」
ネフェルティティの言葉にも、アテン神の神官たちは怯まなかった。
「偉大なるアテンを前にすれば、王妃もファラオも神官も民草もございませぬ」
「なっ……!」
なんたることだ。ネフェルティティは全身の血が逆流する思いだった。仮にもファラオの伴侶は神にも準ずる立場のはずだ。それが、斯様な神官風情にこけにされるとは……。
しかし、結局は多勢に無勢。しかも男と女。腕力を持ち出されては面倒だ。ネフェルティティはいきり立つ侍女たちを押さえた。
それを見届けたかのように、神官の一人が口を開いた。
「ファラオの命です。ここより先は王妃様しか登ってはならぬとのこと」
侍女を引き連れてはならぬ? どういうことぞ。
しかし、神官たちの鋭く、そのくせ生気の抜けた目に不気味なものを感じて、結局はその言葉に従うことにした。なおも何かを言おうとしている侍女たちを笑顔で抑え、年嵩の神官に促されるがまま、ファラオの宮殿へと上り込んだ。
暗い回廊を右に左に進むうち、やがて奥の間へと通された。
その部屋はさっきまでの暗い回廊とは打って変わり、祝福された光の中に抱かれていた。正面には大きな玉座が置かれており、その奥には、無数に手を地上に向かって伸ばす大きな円――アテン神の御姿――をかたどったレリーフが彫られた壁がある。そして、そのレリーフの元に跪き祈りをささげる男の姿が目に入る。
ああ。
思わず声を上げそうになった。
そうやって熱心にアテン神に祈りをささげていたのは、夫にしてファラオ、アクエンアテンなのであった。
「お、お久しゅうございます」
声を掛けると、垂れていた首を上げ、アクエンアテンが振り返った。
だがその瞬間、ネフェルティティは声を失った。
それは、あまりにも夫の顔が変わっていたからだった。いや、顔だけではない。体つきすらも変わっていた。
かつては丸顔で目が大きく、引き締まった体をしていたアクエンアテンは、今や骨ばった細い頬に細い目で、やせ細った体ながら腹だけが異様に張り出しているという異相だった。一月前に見た夫の姿ではない。
声を失っていると、アクエンアテンが口を開いた。だが、その声は一月前のままだったことが、さらにネフェルティティの混乱に拍車をかけた。
「待っていたぞネフェルティティ。どうした、まるで檻から放たれたライオンを見るような顔をして」
「……あなた様は本当に、偉大なるファラオ、アクエンアテン様なのですか?」
震え声のネフェルティティ。
と、アクエンアテンはこけた頬を撫でながら顔をしかめた。
「ふむ、やはり、お前には通じぬか」
「どういう、意味です」
「お前のような未開人に話したところで理解できるかは分からぬが、話してやろうか」アクエンアテンは昏い笑みを浮かべて玉座にどっかりと腰を下ろした。「まず、はっきり言っておこう。お前の伴侶たる男、アクエンアテンは既にここにはいない」
「なんですって」
「貴様の伴侶は既に別次元に転位させ、代わりに私がすり替わっている。申し遅れた。私は<時の旅人>。遠き時代からやってきた者だ」
意味が分からないながらも、ネフェルティティはわめく。
「すり替わる? そんなことが出来るはずが」
「人間の認識など物理法則と比すればいい加減なものだ。ちょいちょいと催眠にかけてやればいくらでもごまかすことは出来る。貴様の伴侶はアテン神なる幼稚な神を信仰しておったようだが、その信仰ミームに細工をして、容易く私の存在をアクエンアテンと誤認させることに成功したぞ」
もっとも。『アクエンアテン』は続けた。
「貴様ほど近い関係ともなれば信仰ミームに<誤認ミーム>を組み込んだくらいではどうにもならん。貴様を遠ざけていたのもまさにそのため」
『アクエンアテン』はゆっくりと玉座から身を起こした。のろのろと歩きながら、ネフェルティティとの距離を詰める。その顔は、かつて褥で唇を合わせた愛する男の顔ではなく、怜悧な、そう、まるで蛇のようだった。
「さらに、貴様の伴侶は貴様との婚姻により権威を確立していた。貴様を除いてしまってはせっかく奪った権威が失墜しかねん」
古代エジプトでは女系相続が一般的であった。王位継承権は基本的に王女が持ち、その王女の伴侶が王位を得る形で権力移譲されてきた。
「だが、ここで風向きが変わった。貴様はもう無用よ」
『アクエンアテン』は中空に四角を描いた。するとその四角が白く光り、何事かを告げ始めた。それに応ずるように、『アクエンアテン』は何かを告げ始めた。それは呪文のようでありながら、一方で何かの意味を有していそうだったが、ネフェルティティには分からない。
と、ある瞬間に、ネフェルティティの眼前の空間に大きな黒い渦が生じた。
「ワームホールだ。貴様も伴侶と同じく異次元に送ってくれる」
渦はやがて引力を生む。吸い込まれていく感覚がネフェルティティの全身を包む。最初こそその力に抗っていたが、やがてはこらえ切れなくなった。
体が宙に浮く。その瞬間、とてつもない速さで闇がこちらに近づいてきた。いや、こちらが吸いこまれているのかもしれないが、ネフェルティティの側ではその区別がつかない。
だが、愛するファラオの名を騙った男の高笑いが遠くに聞こえているのを、ネフェルティティはずっと背中に感じていた。
アクエンアテンの治世12年ほどを境に、突如としてネフェルティティの消息が途切れる。
その頃、アクエンアテンはネフェルティティとの間に儲けた娘をスメンクカラーという若者に娶らせファラオとし、その共同統治者となることで権力の座を確保した。その際の詳しい事情はエジプトの砂の下に埋もれ、現代には伝わっていない。
しかし、アクエンアテンの、細い顔に長い手足、そして膨らんだ腹部が印象的な立像は、古代エジプト文明の中でも異彩を放ち続けている。
さて、最後に少し、私の話をしたい。
なぜ私がこのような小説を書いたのか、だ。
この時代では推理小説という文芸ジャンルが持て囃されている。その中で登場する概念に「完全犯罪」というものがあるのは周知の事と思う。
しかし、完全犯罪とは悲しいものだ。
字義通りであればあるほど、完全犯罪は誰にも気づかれない。誰しもが何者かの作為があったことさえも気づかずに通り過ぎてしまうのだ。
かつてエジプトにアクエンアテンなるファラオがいて、その王がすり替わっているという事実に誰が気づかないのと同じことだ。
それを遺憾に思った「完全犯罪者」が、己の自己顕示のためにこれを書いたとしたら。
<時の旅人>は普遍なるもの。この宇宙の誕生から死まで、歴史に寄り添う、神にも等しき存在。
実はアクエンアテンって、ツタンカーメンのお父さんです。