雪解けの頃
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
目が覚めると、金髪の、ちょっと厳つい男の顔が目の前にあった。
眩い程の金髪ってよく言ったりするけどさ、
「ほんとに眩しいんだな……」
なんなのかな、寝起きの目にはきらきらしすぎるね、少々。
いくら寝起きでぼーっとしていたとはいえ、こんなことを呑気に考えている場合じゃなかった。
次の瞬間には、ベッドらしきものに身体を起こしたまま、腰に手を回し後ろから首筋に刀を当てられていた。
「お前、どうやってこの家まで来た。何故、今更。切られなくなければ、とっとと全て吐け」
「えっ……え!?」
斬られたくはない。
けど、どう来たも何も、そもそもここがどこなのかすら分かっていない。
答えられるはずもないので、正直に聞いてみることにした。
「あのー、ここ、どこですか?」
そう聞いた途端、体に回された腕に一層力が籠ったのを感じた。
多分殺気とかも出てたんだろうけど、私にはさっぱりだった。
だから余計なことを考えたのだろう。
(どうせイケメンの腕の中なら、拘束じゃなくて抱擁的な意味合いで、が良かったなぁ……)
そう考えたのも束の間。
「お、お前は一体何を考えている!?」
その綺麗な顔を真っ赤にして、イケメンが私から手を離した。
「え、いや、別に、」
なんだか安心感を覚えた気がした、なんて言ったらおかしいよね。
「だからお前はどうして……」
イケメンが頭を抱えている。
でも、そもそもなにがなんだ分からないんだって。
ここがどこかも、なんで今こうなっているのかも、このイケメンが知り合いなのか誰なのかも、
「……あれ、わたしは!?」
「おい、どうしたんだ!?」
この人、甘いな。そう感じた。
慌てたようにタオルを探して差し出して来る彼の手。
意味が分からず受け取らないわたしの頬を拭い、それでようやく瞳から涙が流れていると分かった。
気付いてしまったのだ、わたしが、何も思い出せる事がないことに。
わたしは、わたし。
でも、自分の名前も、今まで何をしてたのかも、親の顔も――何一つ、思い出せない、というより分からないのだ。
靄がかかったかのように、思い出せないことをそう言ったりするけれど、わたしの場合は靄どころでない。
ベッドの横の小窓から見える、真っ白な雪景色。
すべてを覆い尽くし、何もなかったかのように見せる、そのまっさらな白さ。
まるで、今までのわたしという存在も同じように、雪に覆い隠されたかのよう。
気付くと口から言葉が零れていた。
「え、あ、わ、わたしは……」
「どうしたリサ」
「リサ?わたしは、」
「だから、さっきから一体何を言ってるんだ」
そう言いながら両肩を強く掴まれる。
乱暴な。そう思い怯んでしまう。
その瞬間、少し慌てた様子だった彼はハッと驚いたように表情を変え、自嘲するように笑った。
「お前……そうか、所詮そんな奴だったんだな」
「なに、一体なんなのよ!?」
何を言いたいのだろう。
結局、この人は知り合いなのだろうか。
だからといって、弱味は見せられない。
味方とは限らないし、知り合いでないのなら尚更。
でももしそうならば、『リサ』と言う名前がわたしの――
「まあいい。お前が何者のつもりでも、どっちみち城に届けなきゃいけないんだ」
「し、城……?」
結局わたしの素性は分からないままなのか。
そもそも、届けられた時点で捕まったりとかしないといいのだけれど。
「普通の人間ならば、まずこの森には来ないからな。調査の必要がある」
「この……森?」
そう聞き返すと、彼は重々しく頷く。
「ああ。城の管轄だからな、この森は。入って来る――いや、入って来られる人間は僅かだ」
「そうなの? じゃあ、何故わたしはここに、
ドンとベッドサイドのテーブルを叩かれ顔を上げると、椅子から身を乗り出した彼に強く睨み付けられる。
小さく呟いたつもりだったが聞き咎められたようだ。
「何故、だと? しらばっくれるんじゃない。お前が何者でも、俺を、国を裏切った反逆者――この国に仇なす者に違いはないのだから」
「……っ」
知らない。わたしはそんなこと、するはずない。
そう言いたいけれど、記憶も何もない今、わたしはそれを否定し切れない。
それでも否定すべきか逡巡していると、ノックもなしに部屋の扉が開いた。
「よう、ロブ! 家ん中探してもどこにもいないから焦ったぜ、って……」
扉から姿を現した茶髪の青年は、いきなりまくし立てたと思ったら、わたしの存在をようやく認識したらしい。
なぜか、即座に部屋の外に出て扉を閉めた。
「お楽しみのところ、邪魔したなら悪かったな! いや、俺もまさかお前がこんな時に女を連れ込んでるとは思わねえだろ? 娘ちゃんはなんか食わせとくから、早目に出て来いよ!」
扉の外で何か言い訳がましく言ってるけど、お楽しみ、連れ込む、って……絶対違う!
姿勢が姿勢だし、早とちりにも程がある、なんてわたしが言えないけど……
彼も部屋を出ようとし、直前でわたしの方を振り返った。
見つめられたのでその目を見つめ返す。
「お前は、何とも思わないのか?」
「……何を?」
「いい。そこから動くなよ、逃げたりしたら……覚悟しとけ」
そう言い捨て部屋から出て行き、わたしは一人残された。
わたしが裏切り者って、あの人がロブとかいう名前らしくて、娘がいて……
まっさらな頭にいきなり入ってきた様々な情報を整理する間もなく、わたしはの意識は遠のいた。
考えている内にいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
小さな窓から見える風景は、はじめに目覚めた時のような銀世界ではなかった。
小さな広場となっている家の回りを囲む森、日の光を反射し輝く、所々に残る雪、沢山の水溜まり、そして雪の下でも生き残ったと思われる、小さな草花。
……わたし、どれだけ眠っていたの!?
慌てて起き上がり周りを見回し同じ場所にいることを確認した後、自身の体を見下ろして気付いた。
……服、替わってる。
あの金髪の男性が替えてくれたのだとしたら――なんだろう、すごく悔しい気がする。
それにしても、体がひどく怠い。
立ち上がろうとしたら、体が重くなったかのように感じよろめいてしまった。
その途端、扉がいきなり開いて数名の男性らしき人達が入って来る。
次の瞬間には、床に座り込んだわたしはあの金髪の男性――えっと、ロブ?に抱き締められていた。
(く、苦しい! 背中が!)
そう伝えたくてもがくが離してくれない。
まさか、目覚めたタイミングを見計らって絞め殺すつもりか。
「そんなはずないだろう!」
……え?
わたし、何も言ってないよね?
もしかしてまた口に出てた?
「いや、そうじゃなくてな……取り敢えず全部説明するから、聞いとけ」
全部聞き終えた頃には、日が暮れていた。
全部って言っても、そんなに長くないと思ってた。
正直舐めてましたすみません。
そういえば、国が……とか、反逆者とかややこしいこと言ってましたものね、大事だものね。
結局のところ、わたしがその『裏切り者』ではなかった。
わたしはリサ、金髪の男はロバートという名前で、わたし達は夫婦だったらしい。
茶髪の男はフランクといい、彼が連れて来たのは、一年半前に生まれた一人娘のアリス。
わたし達は国の、それも国王陛下直属の機密諜報機関のメンバー。
結婚した直後から、暫く前から動きのきな臭くなってきた隣国との内通者を、ロバートとフランクが秘密裏に調査していた。
わたしといえばその頃に妊娠し、出産後も休暇をとりほとんどの時間を家で過ごしていた。
その間に、わたしにとっては同僚であり親友でもあり、そして同時に隣国との内通者でもあったサリーがせっせと、わたしが内通者であるという証拠作りに勤んでいたらしい。
彼女はよく家にも遊びに来ていて、職場だけでなく自宅にも偽の証拠を残していっていた。
そしてアリスが生まれ半年程経ったある日、突然わたしが失踪したという訳だ。
それもご丁寧に、怪しげな仕掛けや手紙など、証拠となる様々な痕跡を残して。
彼女はいつものようにわたし一人のわが家を訪れ、一部の者しか入れないこの森からわたしを連れ出した。
そしてその足で城へ向かい、わたしの失踪と残された証拠の数々をロバートに突き付けた。
彼女は捜査しているのが誰かまでは気付いていなかったものの、国王の信頼も篤く裏の参謀とも呼ばれる彼なら揉み消しはしないだろうと、更には上手くいけば彼自身を陥れられると踏んだらしい。
幸いロバートに咎めはなかったものの、それなりにお叱りの言葉は頂戴し、人間不信が悪化しただとか。
彼は稀にいる超能力者というようなもので、主に接触などによって人の、特に親しい者程深く、心の声を聞くことができる。
記憶がないとは気付かず、一年間行方不明になりながらもわたしを信じているつもりだったのに、今までと態度の変わったわたしと接し頭に血が上ってしまったのだと、自分は信じきれていなかった、申し訳ないと何度も謝られた。
一年もの間監禁され、記憶を失う程の何かもあったというのに、何も気付けなかった自身の不甲斐なさにも悔いていると。
これらが明らかになるのに一週間がかかったらしい。
そしてその間、わたしはずっと眠っていたと。
……それは体も怠くなるはずよね。
記憶が戻るかはまだ分からない。
けれど、今のわたしでもまた夫を好きになることができそうだ。
そう伝えると、感極まったように泣かれてしまった。
いきなり夫と娘と言われても実感はわかないが、そう言うと泣きそうになる彼とのこの生活をずっと続けていくのは、きっと楽しいだろう。
そして冬が明け、春のうららかなある日わたしたちは教会で、死が二人を分かつまで、互いを信頼し愛し続けると、再びの誓いを済ませた。
遅刻すみません!
何かありましたら、ご指摘など頂けるとありがたいです。