九十九坂の途中で(第1話)
それは真冬の夜空を貫く稲妻から放出されたひとすじの閃光か、はたまた、真夏の夜空をさっそうと彩るペルセウス座からこぼれ落ちた儚い流れ星のような、一瞬にして通り過ぎる不慮の出来事であった。
目いっぱいブレーキペダルを踏み込んだぼくは、老狼が泣き叫ぶ断末魔のようなタイヤの軋み音と、垂直ループを回転するジェットコースターの中にいるような激しい重力を同時に感じ、さらに混乱冷めやらぬ中、踏み潰したアルミ缶がひしゃげるのに酷似した不快な音を耳にすることとなる。
「だからいわんこっちゃない!」
なけなしの派遣社員の給料を長年貯め続けてようやく手にした中古の外国車は、修理に要する費用もただ事では済まなかろう。
そもそも、絶対的に悪いのは前の車なのだ。だらだらと下る九十九坂の途中で、カーブでもないのに急ブレーキをかけてきた。ぼくはかろうじて、というか奇跡的に突っ込まずに、止まることができたけど、後ろを走っていた車はそうはいかなかった。
しかし、それだけでは事は済まず、根本を引き起こした前の車は、自らが物理的損傷を被っていないのを確認すると、エンジンの空噴かし音をあとにして、逃げるように消えてしまったのだ。それはあまりにとっさの出来事で、ぼくはナンバーを確認することすら忘れていた始末だ。
腹立たしいのを通り越えて、ただ呆れるしかなかったけれど、しだいに怒りの矛先が別のものに向けられるのを、ぼくはうすうす感づいていた。そうなのだ。後ろの車にも多分に非がある。下り坂で車間をあんなに詰めてあおっておきながら、あげくの果てに停止できずに突っ込んできたのだから、その行為は言語道断で、決して許されるべきものではないはずだ!
手前にそびえた松の枝が邪魔をしていて後続車からは見えにくくなっている待避所は、ぼくと後ろの二台の車が占領するだけで余地はすっかりなくなった。こんなときは得てして二次的な事故にも留意しなければならないものだが、観光の名所でもないこんな山奥だと通行車といっても実態はほとんどなきに等しく、どうやらその心配はなさそうだ。
へこんだバンパーの上でオレンジ色のハザードランプがむなしく点燈する愛車の無残ななれの果てを、ぼくは呆然と見つめていた。
後ろの車から姿をあらわしたのは、これといった特徴の見あたらない黒縁眼鏡をかけた四十前後のやせ男だ。なよなよとした表情からは、あれだけの攻撃的な運転をしていたという印象はみじんも感じられない。ひょっとすると吹っかけてくるかもしれぬという憂心とは裏腹に、男が発した声はいかにも自信なさげな負の音調を奏でていた。
「あのお、お怪我はございませんか――?
ああ、よかった。本当に申し訳ありません。あなたの急なブレーキに反応することができなくて、ぶつかってしまいました」
「免許証を拝見できますか?」
「えっ、なるほど。それはそうですよね。はい、どうぞ」
と、男はズボンの右ポケットから免許証入れをすっと取り出すと、中身を開いて見せた。
「川本誠二さん……。住所は川崎市の宮前区ですか。
こんなところまでなにしに?」
「まあ、特に理由もなく、ぶらりとやってきただけなんですけど」と、男はそわそわする素振りをみせた。
「あんなに車間を詰めていちゃ、停まれるものも止まれませんよね。
先ほどのお言葉を返すようですが、ぼくのブレーキはさほど急なものだったとは思えませんけど?」
「いえ、ごもっともです。私も少々焦っておりました。九時までにとある場所までたどり着かなければならなかったので、つい……」
「それに、こっちは神奈川県とは逆方向ですよね。いったい、あなた、どこに行きたかったんですか?」
「はい、そのお……」
男はうつむいてしまい、出てくる言葉はしどろもどろになっていた。ぼくはわざとらしくふっとため息を吐くと、
「いずれにせよ、お急ぎだったということですね。でも、こうなってしまったからには、その約束の刻限に間に合うことはなさそうですね」と突っ放した。
あんなにぶつからんばかりに急いでいてこんな事故を引き起こしたのだから、おそらくその時刻に間に合うことはまずあり得ない、とぼくは勝手に推測したのだ。
「ところで、あなた、お一人なんですか?」
逆に、小声で男が訊ねてきた。
「そうですよ。それがどうかしましたか?」
「いえ、別に……」
そういうと、男は間が悪そうにぼくの愛車の後部に目をやった。「へえ、ボルボのV40ですね……。少々、バンパーがへこんでしまいましたけど、走ることはできますか?」
「ぼくの車の事ですか? 多分、問題はないですね。ただ、このままずっと放置というわけにもいきませんよね」
「ごもっともです。これは私の過失です。すべて私が弁償いたしますから、ここは穏便に済ませましょう」
やった! ぼくが欲しくてたまらなかった台詞を、こいつは今、不用意にも口走ったのだ。盤石の勝利感にひたって、ぼくの肩から力がすっと抜け落ちた。
「ただ、いずれにせよ警察には来てもらうことにしましょう。それに、保険屋にも現場を確認してもらいたいし……」
何気なくぼくが口にしたこの言葉に、男が一瞬にして凍りついた。
「あのお、このまま見逃していただけませんでしょうか。私にはやむにやまれぬ事情がありまして、警察は呼んでもらいたくはないのです」
男が発したその言葉を聞いたとき、ぼくの心の奥底に、男のわがままに対する落胆の気持ちとは裏腹に、全く別の奇妙な感情がふつふつと湧き起こってきた。
手っ取り早くいえば、ぼくはこの憐れな男に意地悪をしたくなったのだ。派遣社員として受けている毎日の非道な仕打ちや、容赦なく高騰する理不尽な税金の追い打ちなど、現代社会に対する積もり積もったうっぷんを、同じような目に遭っている全国の同世代の若者を代表して、この通りすがりの完璧なる弱者にぶつけてみたくもなったのだ。
「そんな理不尽はまかり通りませんよ。あなたのお歳にもなれば、そんなことはいわずもがなでしょう?
こういう場合、第三者に立ち会ってもらわなければ、あとになってから何とでもごまかせますからね」
すると、男は必死になって首を横に振ってきた。
「いえいえ、私に限って、決してそんな卑怯なまねはいたしません」
男の額から冷や汗が流れている。そのなさけない様子は、まるで、かすみ網にひっかかってもがいている憐れなスズメを思わせた。
「いうだけなら誰でも簡単にできますよ。そういうのは世間に五万といますから」
「つまり、どうしてもだめということですか?」
「警察が嫌だというのなら、まずはあなたの保険会社に連絡をしてください」と、ちょっとは同情したぼくはさりげなく代案を提示したのだが、男はそれにも顔をしかめた。
「実は、私は二か月前の九月にも小さな自損事故を起こしておりまして、そのお、はっきり申しますと、今回は保険会社にもあまり連絡したくはないのです。今後の保険料がどれだけあがってしまうのかと思うととても不安だし、なによりも体裁ってものもありますしねえ」
小ばかにしたようなこの言い草には、さすがにカチンときた。
「何を呑気なことをいっているのですか。事故による保険料の値上がり額なんて、一度やってしまえば、二度目もそんなに変わりはしないものですよ!
保険屋だってあくまで商売が最優先ですからね……」
勢いあまって、気が付けばぼくはそう断言していた。
「一度も二度もそう違いはない、とおっしゃるのですか?」
「そりゃあ、そうでしょう」
男は黙り込んでなにやら考えている様子であった。
この隙に、先ほどと同じあやまちを繰り返さないためにも、ぼくは、男の車のナンバーを確認して、記録しておくことにした。
「『川崎564 や 9999』、車は白のプリウスか……」
それにしても、あんな無謀な運転をするくせに、ナンバーはご丁寧に憶えやすい数字にそろえておくなんて、つくづくおめでたい奴だなと、ぼくはそっとほくそ笑んだ。この大事な情報が記憶から消えないうちに、ぼくは手帳を取り出して、男のナンバーと住所を書き込もうとした。
と、その時だ。背後から紐がぼくの首まわりに巻き付いて、ぐいぐいと締め付けてきた。何が起こったのか分からないうちに、意識が徐々に遠のいていく。
右の耳元からささやくような声が聞こえてきた。それはまるで、天空にいる神さまから発せられたお告げのように、ぼくの脳裏にゆっくりと沁み込んでいった。
「あんなにかまわないでくださいといったのにねえ。でも、おかげで目がさめましたよ。
一度やってしまえば、二度目もそんなに違いはないですって? まさにその通りですよ。人間なんて所詮は外道。ご聡明なあなたのことだから、きっと同意していただけますよね。私のこの素敵な考えに……」
最後の最後になって、ぼくは今まで見落としていたある重大な事実にようやく気が付いた。男の車のトランクのすき間からバンパーに向けて、赤い血がほんのりとしたたり落ちていたのを……。