「やっと起きたか。」
妹の春香が礼緒に言った今日の一言目がこれだった。
母娘揃って出されたばかりのコタツに足を入れ、干し柿を食べながらファッション雑誌なり芸能情報誌なりを読むのはいいが、それでいて二人揃って「痩せたい」と言うのはやめてほしいと礼緒は常々考えている。
「母さん、干し柿は?」
「そこにあるよ。」
母のそこという言葉は言わなくてもわかるから代名詞で済まそうと使う言葉ではなく、戸棚なら戸棚、タンスならタンスという名刺が思い浮かばずにいるときに使う言葉である。タンスに干し柿を置く人もいないとは思うが。
「どこ?」
「ほら、そこよ、そこ。」
干し柿は確か保存食のはず。砂糖のそんなにない時代に貴重な甘味料として使われていたことを礼緒は並の人より知っている。ただし、知識としてであって実体験としてではない。
東京大空襲を生き残った祖父は生前、干し柿を見るといつもその時代の砂糖のことを長々と話し始めたから礼緒はすっかり覚えてしまったというのがその理由。
だからと言って、渡家では干し柿を大事にするのかと言うと、不思議と年末までには全て食べ尽くされてしまう。
「え〜っと……」
「干し柿ならもうないぞ。」
食器棚の戸を開けて干し柿を捜している礼緒に春香がそう言ってきた。
一個残っていた干し柿を巡って取り合いになっていた幼い頃は、兄妹ゲンカの仲裁に入った母が、兄に干し柿を渡す代わりに妹にチョコレートやビスケットを与えるので、礼緒は干し柿を手に春香の持っているお菓子を恨めしそうに眺めていたのをよく覚えている。
それが数回続くと、妹とサラと共謀して、わざと一個か二個干し柿を残して、三人でわざとケンカをしてお菓子をせしめるという技を実行したものだ。
が、礼緒とサラが中学生になり春香も十歳を越えると、残しておいたその干し柿は中学に行って部活をしている間に春香の腹の中に入っていて、いつの間にか流し台の角に柿の種が置かれているようになっていた。
そして今日も、干し柿の種だけしか残されなかった。
「何と言うことだ。」
「それほどのことか!」
「今年、一個も食ってなかったんだぞ。」
「もうすぐハタチの人間の言うことか。」
それもそうだが、でもやっぱり干し柿は食べたかった。御節料理か雑煮のように毎年決まった季節に食べているものを今年に限って食べないというのは、夏休みのない夏、日本シリーズのない秋を体験するようなものだ。
なければないで生きてもいけるだけに、理解してくれる人は少ない。
二階にあるさほど日当たりの良くない部屋が礼緒の部屋である。
この部屋の北に向いている窓を開けるとトラックの多く走る国道があり、国道を越えたはるか向こうに山が見える。知識としてその山の麓が今は亡き祖父母の家で、今は伯父夫婦が住んでいる。
干し柿はその伯父夫婦が毎年、伯父の弟、つまり、礼緒の父の誕生日ごろになると送ってくる。
生まれる前からそうだったので、礼緒にとって干し柿とは買うものであるという感覚が欠落している。
山が紅葉で赤く染まったのを見て、今年も秋になったなと感じさせる。
と同時に、干し柿が食えなかったことの空しさも感じる。
礼緒の携帯に電話が架かってきたのは課題だったレポートがそろそろ終わりに差しかかってきたときだった。そろそろ架かってくるだろうとは思っていたが、よりによってJリーグのロスタイムのPKの最中に架かってきたのは少し頭にくること。電話の相手はまるで狙いすましたかのように、昔から礼緒が机に座ったりベッドで横になって掛け布団を被った瞬間に携帯をとらせる。
土曜に授業を履修しなかったのはやはり正解だった。こうして何の気兼ねもなくJリーグの試合を聴けるし、昼過ぎまで寝ていられる。その代わり、月曜から金曜まで授業がかなり詰まっていて一日のほとんどを大学の中で暮らさねばならないが。
「サラか、何の用?」右耳は受話器の向こうのサラに向いているが、左耳はラジオが中継しているJリーグに向かっている。
『礼緒? よかった……、いないかと思ったじゃない。もっと早く出なさいよ。』
「で、何の用事なんだ。」
『私の家から本何冊か持ってったでしょ。』
一昨日、大学の帰りにサラの家に行ったとき、サラの部屋の本棚に並んでいた本を数冊持ってきた。もちろん、借りることはサラに断わったつもりだし、その本も今日中に返すつもりだった。レポートの締切りは月曜日の三限。その本を使って今回の課題のレポートを作成する、あるいはそっくりそのまま書き写すのだから、手元にこの本がないことには話にならない。
「もうすぐ返すよ。あと一枚か二枚で終わるはずだから、終わったらすぐそっちに持って行く。」
『冗談じゃない! 今すぐ持ってきてよ。こっちだってレポート書いてるのに、その本がなかったら全然書けないじゃない。』
「そう。」
『「そう」って、軽く受け流さないで。じゃぁ、待ってるからね!』
電話を切った瞬間のサラの顔が思い浮かぶようだ。何の因縁かサラの同級生を続けて十六年目、因縁も何もエスカレーター式の学校に行っていればいやでも同級生になるが、ほぼ同じ顔をした二人の女性の腹からほぼ同時期に生を受けてから十九年、理論上遺伝子の半分を共有しているサラは、礼緒の今までの人生でずっと礼緒の側にいた。
「遅かったじゃないのよ。」
「先にレポート書き終えてから来た。おかげで単位は手に入った。」
チャイムも押さずに鍵の掛かっていないサラの家の玄関の扉を開けると、般若のような形相をしたサラが立って待ち構えていた。
「私はどうなるんだよ。二日でレポート書けってのか?」
「サラならできる。」
「できるか!」
サラが礼緒の家から少し離れたところに住んでいるのならば電車が事故かなんか起こしてストップしていたと言えるが、真向かいに住んでいる彼女にそんな言い訳は通用しない。
仮に離れたところに住んでいても、従姉妹で十九年、幼稚園、小学校、中学校、高校、そして大学の学部学科に至るまで悉く同級生を貫き通して十六年のサラは、おそらく礼緒の行動の全てを知っているに違いなく、言い訳など意味を持たない。
「徹夜すればだいじょうぶだ。できるかどうかで気にする必要はない。」
「そうじゃないだろ。さっさと返せ。」
小学校の頃まで、礼緒の部屋は日当たりのいい南向きの部屋だった。窓を明ければ真向かいに住んでいるサラの部屋が丸見えで、必然的にサラの着替えも覗けはした。それが、中学生になったとき、春香と部屋と交換させられた。今までの部屋よりは広いが、日当たりが悪い。窓を開けたときに広がるのはいかにも排気ガスが漂っていそうな国道で、今までのサラとの道路を隔てたコミュニケイションが寸断されてしまった。
サラの家と礼緒の家とを隔てる道路は、車が一台入れるかどうかというような狭い未舗装の道路で、今でこそ道幅を狭く感じるが、小学生のときはかなり広く感じた。一塁と三塁との間が二メートル弱という恐ろしく変則的な野球を男友達としているときはその二メートル弱がかなり遠くに感じたし、向かいに住んでいるサラはもっと遠くに感じていた。たまに春香の部屋に行ってサラの部屋のほうを見ると、小学生のときに感じていた距離の広さを感じることはなく、何とすぐ側にあったのかという感想を受ける。
サラのプライバシーを考えた両親の気持ちもわからないではないが、礼緒はサラを女性として意識していなかった。サラの着替えが見えてしまったときにマズイと思ったことがあっただけで、自分から進んでサラのプライバシーを覗いたことはない。
最後にサラの着替えを覗いたのは、別に意識して覗いたのではなく、朝、起きたときカーテンを開けただけだが、サラが胸にブラジャーを当てている瞬間だった。そのときは向かいに住んでいる人は女なんだなと意識させられたが、サラが自分にとっての女性だとは思えなかった。ずっと一緒に住んでいるようなものだから、従姉妹という関係であっても、礼緒はサラに対して、誕生日で言えば双子の妹、実質で言えば双子の姉のような感じしか持てなかったし、今でもその気持ちは変わらない。
「あれ、スピーカーが変だぞ。」サラの部屋のステレオでラジオを付けるとJリーグの中継はとっくに終わっていた。
「どうかしたのか?」サラはこっちを向くことなく、画面に目をやりキーボードをたたきながら答えた。
「右が全然音出さんのだ。」
「そうだよ。AVケーブルが壊れて、左側しか使えんのだ。……、くれ。」
「ないよ。」
サラの部屋にあるCDも、その三割ほどは礼緒が買ったものだ。CDプレイヤーを持っていないわけではないが、ステレオコンポで聴いたほうがいい音声が出るとサラの部屋で聞いているうち、いつの間にかサラの持ち物になってしまった。
「礼緒、悪いんだけど、ちょっと図書館に行ってきてくれないかな?」しばらく止むことのなかったキーボードを叩く音が途切れたとき、サラは唐突に振り返ってこう言った。 「何か言ったか?」そのまま流動的にサラの部屋にあったCDを聴いていた礼緒はサラの言葉を聞いていなかった。
「図書館に行ってきて。」
「俺が?」
「レポート書いてる最中だもん。それとも礼緒は、か弱き乙女を一人で街中に歩かせる気なのカシラ?」
「真っ昼間じゃねぇか。」
「今の世の中、昼間でも危ないよ。いつどこで隕石が落ちてくるかわからないし、道を歩いていていきなり食中毒にかかるかも知れないし。O−157とか。」
サラが礼緒に用事を言いつけるときに、理由には絶対になりえない理由をつけるときは、どうせたいした用事ではないとき。礼緒にしても断わるほどでもないのでそのまま受け入れるが。
「ね、お願い。」
「で、何を借りてこいってんだ。」
「ほい。」サラは必要な本をメモ用紙に一覧表にして渡した。サラのメモを信用できるのであれば、サラが今求めている本は三冊。
「重そうなもんばっかり書きおって。」
「男だろう。それぐらい持て。」
「しかたないか。じゃ、行ってくっか。」
メモ用紙を胸ポケットに入れ、晴天の中、図書館まで自転車を漕いでいく。
図書館というものを見るとサラの小学生の頃を思い出す。三年前に建てられたばかりのこの図書館には小学生のサラの映像を重ねるなどできないが、それでも、図書館という代物は小学生時代のサラを思わせるキーワードとして礼緒に作用する。
小学校の頃、サラはイジメられた。サラの母は礼緒の母の双子の妹だから、名字が違ってもサラは礼緒の従姉妹にあたる。だけど、礼緒とサラとが隣り同士で歩いているのを見たらそんな関係だとは夢にも思わないだろう。
サラはハーフ。サラの父はアフリカ系アメリカ人で、同じアメリカ人でもサラの父は一昔前であったら蔑視を込めて「クロ」と呼ばれていただろう。日本語を何のアクセントの違いもなく自由自在に話すし、サラもサラの父も国籍は日本にあるのだが、外見上サラを日本人と見る日本人は少ないのではないだろうか。物心ついたときには礼緒の隣りにいて、礼緒にとってはサラの褐色の肌は当たり前だったが、そうでない人にはサラは黒人にしか見えないはずだ。
今の日本は法で平等が保証されているが、それは建て前だけでしかなく、様々な形で今でも差別が残っている。悲しいことにそれは真実。肌の色、髪の色、性別。国籍、言語、宗教。先祖が何をやっていたか。そして今の日本を支配している差別が学歴。日本人同士でこうも差別を氾濫させているこの国で、今は多少解消されたが、一昔前まで日本人以外の『ガイジン』が、それもヨーロッパ系の白人ではない外国人がどんな差別を受けていたは記すまでもない。
小学生だった頃はその一昔前。どんなにサラが苦労をしても、サラの褐色の肌は日本人のような色にならない。同級生の中でサラの肌を何とも思わず、イジメに加担しなかったのは礼緒ぐらいのものだったサラは、当然のように登校拒否を経験した。
イジメと言っても殴る蹴るのイジメではなく、礼緒以外の誰一人としてサラの相手をしないという村八分のイジメだった。教室にいるのが辛くなって、学校に行くのを拒否し、学校に行っても教室に行かなかったのは小学校二年の終わり頃から四年の中頃まで。サラの両親にその相談を持ちかけられた担任は、学校に行ったサラを教室ではなく学校の中の図書館に連れて行った。図書館にいても担任はサラが教室に戻るまで毎日声を掛けて、教室の中ではサラを迎え入れる雰囲気を作り出そうと懸命だった。
大学までストレートにつながっている学校で、礼緒とサラ以外に近所で同じ学校に通っている人はいなかったし今でもいない。電車に二回乗らなければ学校に着かないのだから、今でも近所に同級生は住んでいない。イジメの被害者と加害者が近所だったらサラは学校の外でも一人ぼっちだったろう。
小学校の六年間、サラの父は仕事のついでに礼緒とサラを、礼緒が三年生になったときは春香も車に乗せて学校まで行ってくれた。毎朝同じ時間に一緒に小学校に行って、同じクラスなのに教室の中にサラはいなくて、授業が全部終わると図書館にサラを迎えに行って、サラの父の運転する車に乗って一緒に帰る。
「いつも窓際の席に座って、自分一人で勉強してたんだな。俺が教室の中でヌクヌクとしてたときも。」
学校図書館で一日中過ごす生活をしばらく送るうち、サラの勉強のペースがクラスのそれよりも遥かに先に行ってしまっていた。
そのときからだろうか。礼緒とサラとの立場が逆転してしまったのは。それまでは礼緒が兄でサラが妹のようなものだったのに、背で礼緒を追い抜き、テストの点数でも礼緒を追い抜いたときから、サラが姉で礼緒が弟のような感じになってきた。それでもサラが礼緒を呼ぶのは相変わらず『レーちゃん』だったが。いつからだろうか。サラが礼緒に対して『礼緒』と呼び捨てになったのは。背でもう一度サラを追い抜いたときにはもう『礼緒』だった。
「すいません。この本を捜しても見あたらないんですけど。コンピュータじゃあったんですが。」カウンターに座っている頭髪に多少白髪の混ざった男性に聞いてみた。
「あぁ、その本は貸出中ですね。」カウンターのディスプレイに貸出中の三文字が緑色で記されている。「あ、でも全集の中にありますね。全集の五巻から七巻にも同じ内容がありますから、左側の書庫の大きく08と書いてある場所を見てください。」
嫌な予感はした。小学生の頃のサラを思い浮かべながら本を捜していると、一冊、また一冊とB4版で厚さ五センチほどの本が手に乗り、既にかなりの大きさと厚さを持った本を二冊手にしていたところに、それと変わらぬ本の形を持った三冊が加わった。
「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょ……(五冊まで借りられるからいいけど、これで三冊とかしか借りられなかったら二度に分けて借りなきゃならんのか。……、いや、何で俺がサラのためにそこまでしなけりゃならないんだ?)…」
「そ、それでは、返却は二週間後の二十四日です。」言葉こそ事務的だが、カウンターの人はだいじょうぶかというような面持ちで礼緒を見た。
数多くいる公務員の中で、人に頭を下げるのは郵便局と図書館ぐらいなものだという言葉があったが、郵便局が株式会社になった今、図書館だけが頭を下げる場所になった。
カウンターで貸出の手続きを済ませ、コインロッカーの中に入れてあったリュックを取り出すと五冊のうち二冊しか入らない。
残る三冊を自転車の前カゴに入れてやっとの思いでサラの家に着いてもせめてお礼の言葉の一つもあれば救われたのに、サラの部屋に入ったときの言葉は礼緒の図書館に行った行動を無意味と化させた。
「ごめん、あたし三冊とも文庫でもってたんだ。」
サラの机の上には厚さこそあるものの、借りてきたばかりの本と全く同じ中身の本が、文庫本となって片隅に置かれていた。それも全部合わせても借りてきた本一冊分の半分以下の重さでしかなく。
「返してきて。お願い。」
「あのな。」
「そうだ! 行ってきてくれたらさっき春香から貰った干し柿あげる。」
「そうじゃないだろうが……」
サラのこういう性格にももう慣れた。登校拒否から立ち直った瞬間から礼緒はサラの掌の上で弄ばれるようになっていて、損な役回りをずっと演じ続けている。干し柿一つで重い本を持ってさっきと同じ移動をすることを引き受ける礼緒も礼緒だが。
「お疲れさま。」
「並のお疲れじゃないよ。まったく……」
「それと、AVケーブルもちゃんと接続したから、ちゃんとステレオになってるぞ。」
出かけている間にサラはケーブルを調達したらしい。
AVケーブルという言葉を礼緒の父が初めて耳にしたとき、アダルト・ビデオ・ケーブルと勘違いした父にこっぴどく叱られた。あれぐらいの年代はAVをオーディオ・ヴィジュアルと捉えることはできないらしい。
「たまにはクラシックでも聴くか?」
「よくわからんからサラに任せる。」
二往復を果たした礼緒の帰還を歓迎するかのように、ワープロソフトを使ってレポートを書いているサラは、その手を休めてアイスコーヒーを煎れて持ってきた。皿の上には春香が持ってきたという干し柿と、サラの母が料理ついでに揚げたドーナツが乗っている。
「砂糖がない時代はこれが甘味料だったんだけど、私はこっちのほうがいいわ。」サラはそう言うと砂糖のかかったドーナツをぱくついた。
礼緒の右手は迷わず干し柿に向かっていた。砂糖とは違う仄かな甘みが口の中に広がる。 「礼緒は昔からよく食べてたよね。」
「そうだよな。伯父さんがたくさん送ってきて、それを食べてるだけなんだから好きって感じじゃないんだけど、秋になると食べるものだって感覚があるからな。」
ステレオのスピーカーがクラシック音楽を奏でる。一見すれば優雅なコーヒータイムだが、散らかり放題のこの部屋ではそういう感傷に浸るなどできない。礼緒の部屋も似たようなものだが、仮にサラに彼氏ができて、サラが自分の部屋に彼氏を招き入れたとしたらその男はサラと数分後に決別するであろう。
「少しは掃除したらどうだ。」
「そのセリフ、そっくりそのまま礼緒に返すよ。礼緒の彼女を礼緒の部屋に招いても、二度目の往復は絶対にないと思いなさい。」
部屋の状況を見て同じ気持ちをお互いに描くのは、礼緒とサラとの血のつながりを思い起こさずにはいられない。
「あんまりジロジロ見たところで、下着と成績表はしっかりとしまってありますから御安心なく。」
「『御心配なく』だろ。それに、最初から探してはおらん。」
「嘘つくんじゃないよ。昔はしょっちゅう私の着替え覗いてたし、試験の度に成績表覗いてたし。」
「成績表覗くんはお互い様だったじゃないか。中等部のときも高等部んときも。」
中等部、高等部と上がるにつれ、小学校時代の礼緒を知らない同級生が増えてくる。受験を潜って入ってきた同級生は初め他人の成績をやたらと気にして、その次になってやっとクラスと溶けこもうとする。その流れに取りこまれるようにサラも礼緒も成績表を覗いていたが、百点満点のテストで何点を取ろうと、絶対評価では五段階評価ではいくつ5を貰おうと、余程のことがない限り大学までのエスカレーターから下ろされることがないことを気付かされて、中間や期末に対する興味が失せてしまった。
学校やクラスによって違うが、礼緒の経験で言えば最初の試験は小学校から上に上がってきた面々よりも彼らのほうがいい点を取る。進学塾でテストでの点の取り方を心得てここに来た人間にはどうやったって点取りで敵いはしない。が、回を重ねるに連れてだんだんと入り交じり、三年になるとその立場が逆転する。
点の取り方は知っていても、学び方を知らないということだ。とくにうちの学校の試験には点取りの技術など役に立たない。
「さてと、それじゃレポートの続きでもするか。礼緒、USB貸して。」
「だめ。」
「どうして?」
「今回は手書きだから。」
普段、レポートを書くのには礼緒もワープロソフトを使う。が、今回に限りレポート用紙にボールペンで書いた。ワープロソフトを使って書くということは書いた文章を何らかのメディアに保存できるということで、サラにそのメディアを貸せば一々長い文章を書かずともレポートができてしまう。こんな事をしていたらレポートの意味もなくなるが、論文からの引用や、参考文献をキーボードで打ちこむときなどは有効ではある。
「先生も可哀相に……。礼緒の悪筆を読むほうの身にもなりなさいよ。」
自らの字の汚さは自分自身で認めている。何しろ自分で書いた文字が自分で読めなくなるときもあるぐらいだから。
「そうして手書きなのよ。」
「春香に貸してっから使えなくて。」
「珍しいこともあるもんだ。春香が機械文明に手を出すとは。」
「パソコンぐらいで驚くんじゃない。」
「自力に頼るか。」
諦めて自分一人で文章を作り出したサラを見て自分の部屋に帰ると、テレビとつないであったはずのゲーム機からAVケーブルが一本なくなっていた。
せっかくの日曜だというのに朝早くに起こされてしまった。正午過ぎまで寝ていようとしていた礼緒は電話で無理やり起こされ、半分寝ぼけながらサラの話し相手にさせられた。 『ないのよ!』
「何が?」
『もう二週間も遅れてるの。礼緒、責任取って……』
「で?」サラのこういう冗談を最初に聞いたのは中学生のとき。さすがにこの歳になってくると冗談も冗談ではなくなってくるが、身の覚えはない。
「本当は?」
『辞書がいるの。どんなに探してもウチにはないし。』
「文庫であるんじゃないのか? 昨日みたいに。」
『あったらこんな電話しない。悪いけど図書館につき合ってもらうわ。礼緒がいないと困るの。』
「俺が? 何で?」
『とにかく一緒に行って。』
電話の向こうはレポートに追われてまともに寝ていないらしく、身仕度を整えてサラの家に行ったとき、サラはベッドに横になっていて、パジャマを着たまま受話器を握りしめて眠っていた。ディスプレイはスクリーンセイバーになっていて、解除したとしてもパスワードを知らない礼緒には開けない。
「呼ばれてこれですよ。サラは僕に何をしろってんでしょうか。」
「サラのことはレオのほうが詳しいんじゃないのか。」サラの父は軽く笑いながらそう答えた。
廊下に立っているサラの父は、これから出かけるとかでワイシャツにネクタイをしていた。見るからにジェントルマンという感じを受けるが、実際、近所で一番礼儀正しいのは彼だろう。
「一緒に図書館に行く約束をしたはいいんですけど、これじゃぁ……」
「そうか。」
それから彼はサラを軽くゆするようにして起こした。同時に何やら英語で話していたようだが、その中で礼緒にもわかったのはサラの名とGET UPだけ。
それにしても本物の英語は中学や高校の英語教師の発音と何と違うことか。中等部で英語を習いだしたとき、サラの父と発音があまりにも違っているので教師の口は本当に英語なのかという疑問を抱かせた。
ただ一つだけ言わせてほしいことがある。礼緒の名前、渡礼緒のWATARIはいいのだが、REOをLEOと発音しないでほしい。彼が礼緒のRをLと発音していることはサラに注意されるまで気付かなかったが。
「それじゃ、サラのことを頼むぞ。」
眠気のまだ覚めやまぬ娘を礼緒に託して、サラの父は奥さんと一緒に教会に行った。昔は礼緒もサラと一緒にミサなるものに行ったことがあるが、礼緒自身はキリスト教徒ではないということに気付いてから、ほとんど教会に行くことがなくなった。
中学一年のとき、父方の祖父の葬儀を寺で行なって、その墓も寺の敷地内にあると知った瞬間から、渡家は仏教徒に組み込まれていると知ってしまった。
それでも、礼緒は仏教徒であるなどとは少しも考えていない。経も経典も読んだことのない上に、神社に行っても賽銭も出さずにタダで祈るようなこの礼緒に何等かの宗教を嵌め込むには、薬物を使って洗脳でもしない限り不可能だろう。
「ふわ?」
「『ふわ?』じゃない。人を呼びつけておいてグースカ眠りこけおって。」
「お父さんは? さっきまでいたような気がしたんだけど。」
「教会。」
「……、今週もサボっちゃったか。」眠い目をこすりながらベッドからゆっくりと起き上がった。
サラは生まれてすぐに洗礼を受けて、それから今まで一貫してプロテスタントを通している。が、大学生になってからはサラは教会に真面目に通うタマではなくなっていた。
信じられないかも知れないが、日本国内で何等かの形で宗教の信者として登録されている人の数は二億人を軽く越えてしまう。と同時に、日本人で宗教を信じる人は全体の二十八%でしかない。
日本人は一人で八つの宗教を信じているのか、一つも信じないかの二通りしかないということか。
「日曜だって言うのに何でこんな事をしなけりゃならんのだ。」パジャマを脱いで着替えている最中のサラは礼緒を廊下に追い出し、ドアに鍵まで掛けている。
「それは俺のセリフだ。」
サラは礼緒を男として認識してはいるだろうが、意識してはいない。あまりにもお互いが近すぎて、礼緒もサラもお互いを異性として意識したことがないまま、お互いが最も身近な異性になってしまった。
テレビでのキスシーンを見て、影響を強く受けたサラは礼緒にそのシーンの再現の相手をさせた。今思えばそれが礼緒にとってのファーストキスだったし、おそらくサラにとってもそうであったろう。ただ、それは幼稚園児のときだったからそれが特別な意味を持つものとはそのときは思えなかった。そのときからずっと、お互いの存在は便利な異性であって恋愛の対象にはなれずにいる。礼緒もサラとの関係をそこまで進めようとは思わないし、ドアを明ければ着替えの最中のサラがいるのに覗こうとはしない。
礼緒とサラとの関係がこのままズルズルと結婚にまで進んで行ったら、礼緒は人生の全てをサラの側で送ることになるだろう。……、礼緒はこのまま一生サラの尻に敷かれ続けるのだろうか……
傍から見れば礼緒とサラは恋人同士として映るだろう。事実、サラ以上に礼緒を知っている女性はいないし、一生を供にする女性として誰かを選べというなら、礼緒は好きという気持ちを考えずにサラを選ぶかも知れない。サラがずっと側にいた十九年間を覆せるほどの女性に出会えるとは到底思えないが、人に恋をするということを知らずに結婚へと走って行くという自分の未来が見えてしまう。
「さ、行こ。」
「うん。」
廊下に出てきたサラは季節に合わせた厚手の服に変わってはいたが、膝上二〇センチの白いミニスカートは変わることはなかった。サラは澄ました顔でいるが、駅前のブティックでこのスカートを買って、初めてこのスカートを履いて礼緒の前に現れたとき、無性にドキドキさせられた。サラのこのスカートの姿を見たい気持ちはあっても、同時に外を歩くときにサラに向けられるいかにもいやらしそうな男どもの目線を一つ一つ遮りたくなる気持ちによって打ち消される。
「他のに着替えないか。」
「大丈夫。パンツ見せるようにはできておりませんの、オホホホホ……」
「そういう問題じゃないんだよな、男ってのは……」
事実、図書館までの上り坂を歩いていくサラに投げ掛けられる視線は様々ある。外国人という視線もあるだろうし、近所の人にとっては知り合いを見る視線もあるだろう。が、男性から投げ掛けられる視線は明らかに統一されている。
「礼緒、これ終わったら映画でも観にいくか?」
サラも男の目線に拒絶反応を起こしているが、礼緒はこのとき、もしかしたら、自分にそうした行動を起こさせていることを喜んでいるのではないだろうかと考えたがすぐに否定した。
「…(ないな。そんなの)…」
「日曜だってのに礼緒が早起きしたんだから、そのお祝にどこかに行きませんかと言っているのだよ。」
「お祝はいいが、肝心のレポートはどうするんだ?」
「徹夜したお蔭で大分書けたし、あとはコピー撮って書き移すだけだ。」
サラから図書館に行こうと言うとは進歩したものだ。切羽詰まっているから仕方のないことだが。
サラのトラウマはしばらく図書館に足を運ばせるのをためらわせた。行っても自分がイジメられていたという記憶を呼び起こさせるだけで、サラを連れて図書館に行っても本を取るのも雑誌を読むのもできないまま逃げるように図書館の建物から出ていくのが当たり前になっていた。
幼児体験から抜け出すために礼緒を巻き添えにして図書館に何度行ったことか。礼緒が行っても行かなくても、逃げ出すときは逃げ出すし、いるときはずっといた。自分の意志で図書館に行って、自分の求めるままに本を手に取れるようになったのは高等部になってからではないだろうか。そのころこの図書館ができて、気付いたときにはこの図書館の四階が礼緒とサラの第三の居場所になっていた。
この日は図書館の中に入ると迷わず三階にある参考資料室に向かった。滅多に入らないこの部屋の中には誰が使うのだろうと思わせる辞書が所狭しと整列されているが、よく見るとわりと新しい辞書であってもかなり使いこまれていることがわかる。
「礼緒、そこのラテン語の辞書取って。」
「ラテン語? 何に使うんだ?」
「なければギリシャ語でもいいよ。」
「あるよ。これでいいのか?」
ラテン語の辞書を何に使うのかわからないまま、ラテン語とギリシァ語の辞書を一冊ずつサラに手渡した。
「διαλεκτικη……、弁証法……。言葉だけじゃないの。そこの哲学辞典取って。」
「あいよ。」
礼緒が必要だと言った理由がわかった。書架の一番上の段にサラは手が届かない。礼緒だってそんなに背の高いほうではないが、一番上の本は軽く取れる。そこまで考えて礼緒を呼んだサラは偉いが、この図書館の設備は館内の至るところ、例えば参考資料室の中でもサラのすぐ側に三十センチほどの脚立を置いていることに気付いていればもっと偉かった。
サラの手にした哲学辞典は英和辞典とかと違って単に意味だけを載せた辞典ではない。一つの事柄を場合によっては一ページ以上に渡って説明している礼緒たち哲学科の学生にとっては教科書以上に役に立つ本なのだが、何しろ高い上に絶版中で、神田に行っても、ネットを探っても手に入らない辞書。よくこの図書館は書架に並べてくれたものだ。
哲学辞典を手にしたサラは開いている席を探して室内だけでなく館内をうろつきだしたが、休みの日の図書館というものは全ての席が受験生に使われていて、どこにも一般の利用者のための椅子が空いていない。礼緒もそうだが、図書館で本を選び本を眺めている人のほとんどが立っている。せっかく立派な図書館を建てたのだからもう少し椅子を用意してくれてもよかったのではないのか。
「空いて……ないか。」
「辞書は借りるわけにはいかんからな。」
「コピー撮りにきただけだから席はなくったっていいんだけどね。」サラはそう言うと参考資料室から出てコピーの行列に並んだ。
一階が文庫・新書と、新聞、雑誌に、カウンター。二階に書架と地方資料があって、三階が参考資料室と閲覧室とコピー機が四台。そして四階の南半分には図書館の経営している、本当はそうではないのだが利用する誰もがそう思っている、食堂兼喫茶店がある。その食堂は昼になると利用者だけでなく図書館に何の用事もない人が訪れ、安い昼食を求めて列を作る。
多くが付近のオフィスビルで働いているサラリーマン。駅前の一等地に立っている図書館だから彼らも仕事の合間によく利用しているらしく、いつこの図書館に足を運んでも背広姿の人を必ず見かけるが、絶対と言っていいほどその八割は四階のみの利用者である。本当に小さな地方都市なのに不釣合なほど設備が整っている図書館は市の自慢の建物ではあるが、他の都市にまで通用するような建造物というわけでもない。
「どこに行くの?」
「上。」
「だったら、私の分の席とっといて。」
サラがコピー機に並んでいる間、礼緒はその四階に行くべく階段を上り、その食堂の前にまできた。そろそろ昼時を迎え、日曜の今日はサラリーマンではないが、利用者が食事を求めて列を作り始めていて、礼緒もその列の最後尾に並ぼうとしたが、なぜかその列に並ぶ気がしなくなった。
その列とは関係のないところにいた、右手に白い杖を持ち、左手に犬を連れている一人の男性を今日も目にしたから。
彼は図書館によく足を運ぶ。足を運ぶが本には興味を示さない。いや、興味を示さないというのはこの場合正確ではない。彼は興味を示すのだが、滅多に手に取りはしないのである。だから、彼は玄関に入ると、書架と呼べるべきものがほとんどない四階に階段やエレベーターで直接行く。
礼緒の場合、図書館に入ると、本を手に取って、書架の前で立ったまま読むか、自分のために確保した席に座って読むかである。ところが、図書館に入ると彼は特別な部屋に連れて行かれる。四階の北半分、さほど日の当たらないこの区画にである。
そこに何があるのかはつい最近まで、厳密に言えば今日まで興味を示さなかった。ガラス張りの向こうだから彼が何かをするところは食堂で礼緒が普段サラと座っているところからでも拝見できるが、礼緒には覗きこむ趣味もないし、興味もないので今までその部屋に関心を示さなかった。
「何か私に用でもおありですか。」
唐突に礼緒に声をかけてきた人がいる。部屋にこれから入ろうとしている彼である。
「そうですね、あなたのような人には無意味な部屋ですもんね。」
彼の隣りにはこの図書館の司書がエプロンを前に掛けて立っていた。
「ですが、生涯に一度ぐらいこの部屋を体験しておくのもいいかも知れませんよ。中に入ってみますか。」
「え、ええ……」
礼緒は司書に勧められるままガラス張りの部屋に入っていった。入っていったが何ということはない。さっきサラと一緒に空席を探していた閲覧用の四人掛けテーブルと同じ大きさのテーブルが二つと、食堂のよりもいい出来の椅子が八つ、そして何列かの書架があるだけ。二階の延長とも思えるが、何と無く寂しげな感じがする。
「この中の感想はどうですか。」
「う〜ん。」何とも言えなかった。
「そうでしょうね。書架をご覧になってください。」
司書に勧められるままに書架を眺める。書架に通常あるはずの本はそこにはなく、ただファイルがあるだけ。ファイルの背には今まで自分が読んだり目にしたりした本のタイトルが並んでいるだけで、多少奇妙だが、勧められるべき代物とは思えない。
「中を開いてみればわかりますよ。」
そこで、ファイルの一つを取り出して中を開いてみる。
「どうですか。」
このときの礼緒は大きな衝撃を受けていた。ファイルに綴じられた紙にインクで書かれた文字はなく、ただ点字が並んでいるだけ。
「もう一度眺めてもらえますか。」
書架と、書架から取り出したファイルの一つをもって椅子に腰掛けた彼を眺める。彼はファイルを開いたあと、右手の指を紙の上に置いて滑らせている。後ろを振り向いてみるとファイルの何とも少ないことか。礼緒の知っている本のタイトルが書架に並んでいることはわかったが、彼にはこれだけの本しか与えられていないこともわかった。
「これが目録……」礼緒が手にしたピンク色のファイルは薄い。一冊はサインペンの手書きで、もう一冊は点字で書かれているが、これが同じ内容を書いた目録だというのなら、彼の読書欲を満たすなどということはありえない。
「昨年の五月に作った目録ですが、それからほとんど変わっていないんですよ。ペンで書いて、点訳もして目録を作ったはいいのですが、それから書き足したのは二回だけですからね。」司書の声は不本意をそのままに表している。
礼緒がガラスの向こうで目録と呼ばせているファイルを読んでいたとき、コピーを撮り終えたサラが礼緒に手を振ってきた。当然食堂にいるものと思っていた礼緒がここにいるのだから、いったい何をしているのだろうと思ったに違いない。
「席とっておいてくれてたんじゃなかったの? 何してるのよ。」
「サラ、ちょっと来てくれないか。」
「なんで?」
ガラス戸を開けて、礼緒はサラにもここを見せようとサラを呼び寄せた。サラにとってもこの部屋は初めて目にする部屋だったようだが、点字本の少なさよりも、初めて盲導犬を目にしことのほうがサラの強い興味を呼び起こさせたようだ。
「かわいいわね。」買い主のすぐ側でじっと座っているシェパードの頭をサラは撫でている。
「餌はあげないでください。仕事と餌とで葛藤させますと、彼は苦しみますから。」
「?」
「今はいいですけど、よく、歩いている最中の彼に生ハムとか、ドッグフードとかあげる人がいるんです。困ったものです。」
殴られても蹴られても盲導犬はじっと黙っている。そして餌をあげたとしても食べないことが多い。仕事中は買い主の目に徹している彼らの寿命は、盲導犬となってからせいぜい二〜三年。肉体的なものではなく彼らの精神的なものがそうさせる。人の親切心も、目に徹していることと犬としての本能との葛藤を生むだけ。
サラが盲導犬に視線を向けている間、礼緒は書架の本に目を走らせていた。本といっても冊子体になっていて、かなり厚めで大きな紙が本を構成している。
棚には同じタイトルを持ったファイルが連綿と並ぶ。小説でも二から五冊。辞書に至っては三十冊を越えている。
「これ、全部が辞書ですか。」
「インクだと小さくもなりますが、点字はそうはいかないんですよ。」
彼は書架から抜けているファイルの本を読んでいた。背表紙には一昔前のワープロの文字でタイトルが記され、その右隣りに凸凹が施されている。彼にとってはその凸凹こそが文字であり、インクなど無用の長物ということか。
抜けている本は礼緒も以前読んだ小説だが、それは文庫本一冊で完結した本。ところが、背表紙によれば彼の読んでいるのは全五巻のうちの三巻目。
「全五冊……?」
「それは全て、ボランティアの方々に作っていただいたんです。一枚一枚打ち込むのですから一札の本を作るのにはたいへんな時間がかかりますけど、それでもこの本はまだ短いものですよ。」
「こうやってペンかなんかで押していくんですか?」礼緒はジェスチャーでペンを持ってテーブルをつつく姿を示した。
「タイプライターがありますし、来年度の予算で点字印刷用のプリンターを購入する予定ですから。」
「タイプライターですか。」
「これですよ。」司書はテーブルの下からダンボールに入れられているタイプライターを取り出した。ボタン六つの。
「初めて見た。」
「便利になったものですが、それでも満足のいくコレクションはできませんね。ボランティアの方々に頼ってばかりですが、率直に言いますと予算はさほど出ていないですし、せめてあと三〇%は増やしたいんですけど、それすら今の予算じゃ無理ですからね。」
予算といっても礼緒のアルバイト代でどうこうできるようなレベルではないだろう。
「これでも拡充しているほうなんですよ。ウチの館で作った本を他館に郵送したり、逆にこっちに送ってもらったりしてそれなりに需要は満たしていますから。」
これで拡充? 本の量だけで言えば、どこかの献血ルームの待合室のほうが設備は整っているのではないのか。
それでも、点字本を置いている図書館自体が少ないことを考えれば、拡充していると言えてしまうことか。
「そうだ。点字だけじゃなくテープのほうも見ておきますか。何も点字だけがウチの設備ではありませんからね。」
そう言うと司書は別の部屋へと礼緒達を案内した。そこにはカセットテープがずらっと並んでいて、さっきとは違い手書きのラベルの上に透明なシートに打ち込まれた点字が背に施されている。
「聖書がある……」サラは『旧訳聖書』のラベルの貼られたテープに素早く反応した。 「聖書は両方とも私の声で録音したんですよ。ただ、カセットテープは使う度に減っていきますから、巻によってはそろそろ録音し直さないといけないのもありますね。」
「これ全部読んだんですか。」
「ええ。もちろんここにある全部を私一人で録音したわけじゃないですけど、二百本近くありますが、七割以上はこの館で人間の声で吹きこんだものです。」
「一冊まるまる読むんですよね。大変じゃないんですか。」
「夏目漱石の『こゝろ』も『坊っちゃん』も市販されているものですし、その他にもいくつか市販されている文芸カセットやCDがありますからそんなに苦労はしませんよ。でも、名作といわれるものしか出てないですから、あまり有名じゃないのはこちらで吹き込まなきゃいけないんです。」
「どうしてカセットも置いたんですか?」
「視覚に障害を持っている方が全員点字を読めると思いますか? 今現在、日本には約二十二万人もの視覚に障害を持った方がいます。ですが、その中で点字を読める方は約五万人しかおりません。どうしてかわかりますか。」
「さぁ……」ずっとそうだと思っていた。
点字を絶対読めるものだとばかり思っていた礼緒は、司書のこの質問に答えることができなかった。
「視覚に障害を負った方の六十五%は十八歳以後になって視力になんらかの障害を持った方々なんです。彼らのほとんどは点字を自由自在に読めるわけではありませんけど、以前のように本を読みたいって気持ちは強いんですよ。ですからこうしてカセットテープに移すのです。利用者の要望に応えるのが我々図書館員の役目ですし、一人でも読みたいという人がいれば、その人のために本を用意するのが我々の仕事なんですよ。」
「CDにしないんですか?」
「少しずつしています。品質を考えてもそのほうがいいんですけど、操作を考えるとカセットのほうが楽という方も多いですし、なにせ、予算が……」
カセットもその数は決して多くない。さらに、普通なら文庫本一冊で住むはずの量が、カセットになると二本から三本、場合によっては五〜六本となる。
礼緒がある日突然視力を失ったとしたら、礼緒は点字を覚えようとするだろうか。駅のホームの階段の手摺に点字が施されていることがあるが、それに手を触れても礼緒の指は単なるザラザラとしか認識できない。エレベーターのボタンも、押しボタンの信号機もこのまま指先で読み取れることのないままでいて、礼緒の読書欲を満たすにはカセットテープに頼りきることになるだろう。
「ここにはまだありませんが、長編小説などは二十本から四十本は行きますね。県立図書館で今、『レ・ミゼラブル』をダビングしてもらっていますが、はたして何巻になるんでしょうか。」
『ドン・キホーテ』や『レ・ミゼラブル』がここに並んでも、それで彼らの読書欲を満たすなどできはしないだろう。過去の文芸作品もそうだけど、ここにあるのはある程度古い本が押し並べて揃っていて、最新の本をこの中から捜し出すことはできない。
何とかして彼らの読書の欲求を満たすことはできないのだろうか。それには莫大な時間とかなりの労力がかかるが、決して不可能なことではなかろう。
「と誰もが思うんですけど。ただ、それを実行できる人は少ないですね。」
恥ずかしながら、礼緒もおそらくその中の一人であろう。
ガラス張りの部屋から出てきたとき食堂の混雑のピークは過ぎ、礼緒達が席に着く前にトレイに水の入ったコップを二杯乗せてウェイターが動き出していた。
「雨……」
「傘持ってる?」
「持ってるわけないでしょ。天気予報信じたんだから。」
「だよな。折りたたみでも持ってくりゃよかった。」
「どうせすぐ止むよ。」
窓際の席に座ると大地に水溜まりが創られている最中だった。天気予報は大きく裏切られ、天気予報を信じた二人は供に傘を持っておらず、自動的に図書館の中での雨宿りを選ばざるをえなくなった。
「初対面で、英語で話しかけてこなかった男性は礼緒とあの人ぐらいかもね。」
「そうか?」
「礼緒は知らないだろうけど、どこに行っても私は英語で話しかけられるんだから。レンタルビデオで洋画借りようとしても、レジの人が『それは日本語吹き替え版ですよ』って英語みたいな日本語で話しかけてくるんだから。この図書館だって本を借りようとしても英語で話しかけられたし、利用券に私の名前を日本語で書いたら驚くし。」
「知らないところで苦労してるんだな。」
「純然たる日本人で扱ってくれるのは礼緒だけだよ。みんな頭ではわかっていても、行動を見てると全然違うんだよね。それか、渡兄妹が別格なのか。」
「普通だろ。」
わからない。サラが日本語を話すのは当たり前だし、日本語を書いて、日本語を聞き取るのも当たり前だ。だけど、それは礼緒の意識の中に外国人というイメージが植えつけられる前からサラがいて、サラの肌の色が自分と違うことを不可思議と思わせる前からサラがいるから。十九年間一緒にいて、サラはほとんど日本語だけでしか礼緒に話しかけてこないのは、礼緒が英語を話す人ではないことをサラは知っているからというよりも、日本人同士で話をするのと同じなだけ。礼緒もそれが当たり前のことと思っている。
「最近つくづく感じるんだけど、私って特別なのかな。」
「どこが?」
「視線が違うんだよね。たぶん自意識過剰だけど、礼緒とあまりにも一緒にいると礼緒以外の人といるのに違和感覚えるんだ。」
小学生の頃、クラスのみんながサラを村八分にする理由が最後までわからなかったが、それは今でもわからない。
小学生にはよく好きな子に意地悪をするというのがある。それで好きな子の注目を集めようとするのだが、礼緒にはそれができなかった。サラのことを自分も一緒になってイジメるのがいやだったのと、礼緒は否応なくサラに注目されているからというのがその理由。クラスの誰よりも、いや、サラの家族よりも礼緒はサラの側にいる時間が長い。好き・嫌いの感情の前に側にいる礼緒に否応なくサラは注目の視線を投げかける。
「さっきの礼緒、すごく真剣だった。」
「そうか?」
突然自分の目が失われたらと考えて、礼緒は彼の立場になってあれこれと考えていた。それがサラの言う真剣に値するかどうかはわからないが、真面目にそのことを考えているのは間違いない。
「何も見えなくなるのが怖くなったんだ。もしそうなったら自分はどうなるんだろうってね。でも、現実にその人達はいる。」
「私の目に何かあったら、礼緒は私の目になってくれる?」
「たぶんね。」
「ずいぶん頼りない返事だな。」
「仕方無いだろ。現実に起きたら真剣に考えるだろうけど、サラに何か起きるなんて夢にも考えられないからな。」
サラに何かがあったときは、礼緒にも何かがあったときとしか思えない。礼緒に何も起きずにサラにだけ起きたならばそのときの礼緒はサラの側にずっといるだろうけど、それは今の二人の関係の延長上であって、サラへの恋心が呼び起こすものではないはず。
サラが礼緒ではない人と思えもしない。サラしか知らないサラのプライバシーもあるだろうし、礼緒にだって礼緒のプライバシーはある。けど、その事実を受け入れられない。礼緒はサラのことを全て知っている気がする。内でも外でも礼緒の隣りにはサラがいて、離れていても礼緒はいつの間にかサラのすぐ側に身を置いている。
「お待たせ致しました、カレーライス二人前です。」
「は〜い。」
サラも礼緒のことを別人だと思ってはいないのか、裸以外のプライバシーは礼緒の前に平気で曝す。礼緒の前でいい格好をするでなし、変にお嬢様ぶって猫を被るでなし、礼緒と二人きりの状況ではありのままの自分をサラは礼緒の前で曝している。家の中でカレーを食べるのと同じようにここのカレーを食べているサラはさすがに着ている服に黄色い染みを飛び散らせてはいないが、それぐらいしか子どものときのサラとの違いを見せていない。
「礼緒って干し柿好きなくせに、福神漬は嫌いなんだよな。」
「サラも知ってるだろ。食べすぎて腹壊して三日ほど寝込んで。」
「幼稚園の頃じゃないか。それに、腹壊したのは風邪のせいであって福神漬のせいではない。礼緒が寝込んだあと、入れ替わりで私も寝込んだんだ。」
「十四年前のことをよく覚えてるな。」
「礼緒は寝込んだだけだけど私は入院したんだからね。」
十九年の付き合いが無限の話のネタを作り出す。毎日会っているのにその会っていることが話の種になって、数日で芽が出て、数ヶ月で花が咲き、数年経てば無限の実を生み出す。よく枯れぬものだ。
サラは今がずっと続くと思っている。礼緒にもその気持ちもあるが、目の前にいる人への意識はいつまでたっても従兄弟の枠を飛び越えることはない。いつも一緒にいた二人の子どもを、時は容赦なく、一人は男に一人は女に育て上げた。女の身体ができあがり、男とセックスすれば子どもができるようになっても、受け入れるであろうたった一人の男との間に恋愛感情を持っていなければ何も生まれはしない。サラは今が永遠に続くと思っているから、彼女にとって目の前にいるのはただの幼馴染みの従兄弟。
「雨だけど、映画行く?」
「言い出したのはサラだろう。それに言っておくが、俺はそんなに金ないから自分の分は自分で出せよ。」
「礼緒にそんなの最初っから求めてないよ。私だって女の子なんだから奢ってもらいたいけど、目の前にいるのが礼緒じゃね。どうせ、万年金欠病のあなたにそんな甲斐性もないでしょうし。」
礼緒はおそらく、サラ以外の女性とデート、あるいはデートのようなことをした場合、確実に失敗するであろう。女性はサラか春香しか知らないのだから、その女性をサラのようにあしらってフラれるか、変に意識してボロを出して御破算になるか。
「俺はこれしかない。」隠すことなく、礼緒は財布の中身をサラに見せた。
「これじゃ、スラれても戻ってくるわ。」
「だろうな。」
「でも、同じアルバイトで同じ時給で、なんでこうも違うわけ。」
財布というのは何とも早く金を食い潰していくものであろうか。これで一人暮らしでもしようものなら、電話も電気も止められて、おかずが醤油か塩という共産主義のような暮らしをしなければならないだろう。
「礼緒のことだからどうせ貯金なんかもしていないでしょうし。」
「そりゃ、サラはそんなに買うのもないだろ。俺は定期を自分で買ってんだし。」
「まぁ、それもそうだ。しょうがない。今日は自分の分も自分で出しますか。」
「それが当たり前なんだ。」
「だからここは礼緒に任せるか。」
「こらこら。」
サラはそう言うと伝票を礼緒に押しつけて一足先に食堂から出ていった。サラはそういう人だ。
食堂から出てもなおガラスの向こうには指で本を読み続けている人がいた。そしてサラは彼のことを気に止めぬふりをして階段を降りていく。無理に気を使って面倒を見る必要はないから。
確かに目が不自由ではある。だが、彼は不健康ではない。視覚に障害がある人を補助するのは誉めるべきことであるが、電車やバスなどで白い杖を手にしている人に席をゆずる必要はない。ここで彼に気を使ったり励ましたりしするのはそれと変わらないこと。
彼は一人の人間なのだから。
車を一台作るのには様々な工程を必要とする。その工程のうち、五体満足な健常者でなければならないという箇所はむしろ少数である。足が不自由な人でも、腕が不自由な人でも、健常者と同じように働き同じ給与を手にする。自分が社会の中で生きているという満足感を与えることと、口で福祉福祉というのとどちらが勝れているかを考えてみれば、このときのサラの視線の動きは当然のこと。
「止んだ止んだ。」
階段を降りて図書館の玄関に来ると、雨はもうほとんど止んでいた。哲学辞典のコピーをしまってあるサラの袋はどう見ても耐水性ではない。
「よし、映画行こう。」
雨が止み、道に水溜まりが点在し、傘を差さずに歩いている人のほうが多くなってから映画館へと向かった。図書館の二件隣りのビル全体が映画館で、大通りに面する壁にあまり似ていない肖像画の描かれている看板が数枚掲げられている。
「学生は千八百円か……、あるかな。」
「すいません、高校生一枚。」
「学生一枚ですね。」
サラは以前春香の学生証を借りて年齢をごまかして中に入ったこともあったが、およそ五年間、中学生料金で入っているうちに顔を覚えられてしまい、二度とその手は使えなくなっている。
「千五百円ですか。」
「千八百円。」
「おつりはいりませんから。」
「三百円足りないよ。」
サラはケチなのだろうか。使うときには使うが、使わないときには絶対に使わない。その場面が極度に少ないせいかサラの支出の肩代りをすることも数多くあるが、礼緒の財布の中身が素早く減ってしまう理由の半分はここにあるのではないだろうか。
「礼緒、起きなさい、礼緒!」
映画館に入った記憶と席に着いた記憶はあるが、肝心の映画を観た記憶が最初の数分だけしかない。前評判は高かったが礼緒自身はあまり観たい映画でもなかったし、その裏付けは始まってから数分で明らかになった。
「礼緒ってここにくると絶対に寝るよね。たまには芸術に浸るとかしないの?」
「その芸術を上映すれば観るよ。でもね、監督が誰だから観るとか、主演が誰だからここにくるとかはしたくない。面白いものは面白いし、つまらんのはつまらん。同じ物語でも、小説もあるし漫画もあるし、劇もあれば映画だってある。俺は漫画がいい。誰が演じてるのか考えないで、物語の世界に浸れるんだから。」
「と、理由をつけて本を読まないと……」
「俺だって読むときは読むぞ。」
漫画、文学と絵画を合わせた芸術方法。一つの情報に対し二つ以上のメディアを使用するのをマルティメディアと言うが、漫画はその先駆的情報。現在、様々な箇所でマルティメディアが取りだたされても、結論から先に言えば、とっくの昔にマルティメディアは情報を席捲している。大人が漫画を読むのに眉を潜める人もいるが、漫画をどんなに罪悪視しても、その人はとどのつまり時代についていっていないだけではないのか。
「これってどんな映画だったんだ?」
「ちょっと。これにしようって言ったのは礼緒なんじゃないの。」
「そうだったっけ。」
「私、本当は純愛ラブロマンスなんてたまにはいいかなって思ったんだよ。礼緒を優先させてこれにしたんじゃないの……」
「そういうの好きじゃないんだよな。」
「わがまま。」
「変な影響受けられると困るんだ。」
「ヌンチャクがやたら売れるとか。」
カンフー映画が流行ったとき、サラではなく近所の男友達数名と連れ立ってこの映画館に来たことがあった。が、そのときのことは映画を観たことよりも映画館を出たときの周囲の変化のほうを鮮明に思い出す。学校が違うのであくまでも噂でしかないが、何人か翌日ケガをして学校に行ったらしい。
「それだったらまだいい。」
それから一週間後、今度はサラと一緒にここに来た。そのときに観たのがいかにも泣かせますという恋愛映画だったが、幸いなことにそのときのサラは全く影響を受けないでくれていた。仮に影響を受けていたとしたらどうなっていたであろうか。主人公の女性が、余命幾許もない恋人の男性と最後に心中してしまうという結末の影響をサラに受けられた日には……
「なに馬鹿なこと言ってるのよ。さ、二本目行くよ。」
「二本目?」
「一本目は礼司のリクエストに応えたんだから、二本目は私につき合ってくれたっていいでしょ。」
「ちょ、ちょっと待て。」
「行くの!」
本心から言えば純愛ラブロマンスはあまり好きではない。が、腕を取られて引っ張られている以上サラの望む映画を観ないわけにはいかない。
サラの望む映画を観てもいいのだが、いかにも泣かせて感動させますよというのは、ドラマにしろアニメにしろ、そして映画にしろ礼緒は好きではないし、あまり観ない。礼緒は基本的にバラエティーの好きな人間だから、視聴率を集めているドラマが騒がれていても必ずと言っていいほど裏番組を観ているし、特番などでなつかしのアニメの名場面を集めた番組などを観ても、感動させる場面だけを何度も何度もくり返して観させられた結果、今では感動も何もなくなってしまった。
『そんなことない。きみが好きなんだ。もう、きみがいないと何もできないんだ。』
『だめ!』
『愛してる……』
寝ないで最初から最後まで観た。紆余曲折の末に主人公が告白をするシーンでは映画館の中のあちこちからすすり泣く声がしたが、最後まで礼緒にその感情は生まれなかった。
「感動……」
「そうか?」
「もう、少しは礼緒も感動しなさいよ。」
この映画は決して感動しないような内容ではないし、この映画を観にきた観客のほとんどはサラと同じ感想を持ったに違いない。無論、礼緒が特別感動しないタチというわけではないのだが、なぜか最後まで映画の中に浸ることができなかった。
サラがこの映画に感動したのは感情移入をしたからではないか。映画で出てきた主人公の恋人を自分と重ね合わせて、最後は手に手を取り合ってメデタシメデタシという筋書きを迎えた彼女を自分と重ね合わせて映画を観ていたのだろう。だが、物語は現実と違いすぎる。
「喫茶店にでも行くか?」
「レポートは。」
「そうか……、忘れてた……」
「ジュースぐらいなら奢るぞ。」
道の両側に犇めいている自動販売機の前で足を止めて、五百円玉一枚を入れてサラにボタンを押させた。
「コーラにしよ。」
大きいのを買っても半分ぐらいしか飲み切れない。だからサラの手にあるコーラの残り半分は礼緒の胃に入ることになる。
釣銭と、礼緒の買ったコーヒーのホットを手にして再び家への足取りを再開した。既に日も暮れているが、これでもかとばかりに街灯と店の醸し出す明かりが道を照らし、サラの履いているミニスカートへの男共の視線は昼間と変わることはない。そっと車道側に立って歩いているのも、車からサラを守るためではなく、向こうの歩道を歩いている人に見せたくないという気持ちがあるから。
サラは映画館から出てから家に着くまで、コーラを口に含むとき以外はずっと二本目の映画の話を続けていた。映画の中に憧れを抱いて、自分にもああいう恋ができるはずだと確信を持っているサラには、空想と現実との境がほとんど崩れかかっている。いくら現実に近い映画であってもそれは台本に描かれた架空の世界であって、誰にでも体験できるシテュエイションではないのに。
「私もああいう恋をしたいわ。」映画の中のようになるには礼緒もサラも民法と学校教育法が許しはしない。一度高校を卒業して、かつ、十九歳になっている礼緒達に十六歳で高校一年生の彼らと同じシテュエイションを作れはしない。
「すれば。」
「……、」
「……」
「礼緒!」
恋愛は誰だってする。映画の中での主人公も主人公の彼女も、物語の世界の中ではそれぞれ一人の人間でしかないのだから、誰にでもすることの視点がたまたま彼らに向けられていただけでしかない。が、彼らが美男美女の組合せである必要もない。一組の恋愛が成立したということは、同時に彼なり彼女なりに想いを寄せていた人にとっての失恋の誕生でもある。そして、物語の中での彼らはえてして主人公よりも下のランクに置かれる。彼らだって恋愛をしたっていいじゃないか。人の数だけ恋愛があるのだから。
「あんたが幼馴染みだなんてのが私にとっての最大の悲劇だな。白馬に乗った王子様だなんて言わないから、誰でもいいから迎えに来てくれないものか。」
「放っておいても来る。」
「そお。」
「末期のときにちゃんとあの世から。」
「そうじゃないでしょ!」
いつか、サラに彼氏ができたとき礼緒は祝福するだろうか。
想像できないことだけど、礼緒ではない男性がサラの肩を抱いてウエディングドレスを着たサラを連れていくときがくるのか。あるいは、礼緒の側にサラではない女性がいて、礼緒の手から薬指の指輪が見知らぬ女性に手渡されるときがあるのか。
「……」
「何よ、人のことジロジロ見て。」
二個の缶が家のすぐ側の自動販売機の隣りに置かれたゴミ箱に捨てられ、いつの間にか礼緒達は家の前についていた。生まれ育った街の迷路を、足はプログラムされているかのように記憶している。何を話していようとも、風景が目に入ることなく、ただサラの顔だけを見ているのに自然と自分の家の前に着いてしまう。
「明日は寝坊するんじゃないよ。」
「ほいほい。」
今と変わらぬ明日は確実にある。礼緒とサラとの間にあるその安心感が決して『さようなら』と言わせない別れを作る。好きなときにいつでも会えるという安心感と、それが永遠に続くという安心感と、別の家に住んでいても、お互いはすぐ側にいるという事実に裏付けされて。
朝早くに叩き起されてから、家に帰って向かい同士の家の自分の部屋に行くまでに、手一つ握りはしなかった。傍から観れば恋人でも礼緒とサラとの関係は幼馴染みの域を越えはしないし、今日一日の行動がデートのように見えてもデートという意識はない。恋愛映画を観て影響を受けても、サラがその影響を示す相手は礼緒ではない。
サラがその影響を試す相手を礼緒に紹介したとき、礼緒に訪れるのは祝福の気持ちよりも失恋の気持ちではないのだろうか。
礼緒とサラとの当たり前のような関係が崩れ去ったとき礼緒は平然としていられないだろうし、今までサラが一緒にいたことで満たしてきた“女性が側にいるということ”を追い求めるようになるだろう。でも、どんなに追い求めてもサラ以上の女性などいはしないだろう。サラがすぐ近くにいるのが当たり前すぎてサラに気付きもせずにいるのだから。
「ただいま。」
「兄ちゃん、伯父さんがまた干し柿送ってきたぞ。食べるか。」帰ってきた礼緒を出迎えた春香は、廊下に置かれていた送られてきたばかりの伯父からのダンボールに入った荷物を指し示した。
「ああ。」
「じゃあ開けてくれ。」
荷物の封はまだ開かれておらず、中に入っているものが本当に干し柿かどうかなどわかるはずもない。
「春香、ハサミくれ。」
「ない。」
「ないって、そんなわけないだろ。」
「捜してもどこにも見当たらないから、兄ちゃんが帰ってくるの待ってたんだ。わざわざ。」
ダンボールを縛ってあるビニールの紐はきつく結ばれていて、指先を痛めるだけでなかなか解けず、引っ張っても切れない。
「だめか?」
「ああ。父さんに開けてもらうか?」
「父さんも母さんも留守。」
「何で?」
「パチンコ。夕方には帰るって。」
「十時頃だな。」もし渡家の今が十五〜六年前であったら、礼緒と春香はパチンコの駐車場で脱水症状を起こしてこの世に生きていられなかっただろう。両親供にパチンコが好きだというのには文句は言わない。が、少しは勝ってくれというのが子供達の感想。一枚五千円のチョコレートなどを持ってきてもシャレにならない。
「兄ちゃんの怪力を以てしてもだめってことは……」
「力だけなら春香のほうが上だろうが。」
「しゃぁない。カッターナイフでも持ってくっか。」
「最初っからそうしろ!」
春香の性格は昔からサラに似ているとは感じていたが、ひょっとすると母方の血を引いた女性は全て同じ性格を有するのかという仮説も生まれた。姿形は違っていても中身は全く同じなのではないのだろうか。春香の場合は、クラスの男子の前と礼緒との前での露骨なまでの態度の違いを知っているが、礼緒という存在は彼女達にとって同じ行動を取らせる存在なのだろうか。
持って生まれた性格でも、サラが春香の性格形成に与えた影響は計り知れないものがある。春香とサラと礼緒と三人というのが幼稚園の頃の遊びの形で、小学校に入ったときサラと春香との間は家にいるときだけになって、春香が礼緒とサラとの間から少し離れていったが、実の姉のようにサラを慕っている春香には、礼緒よりもサラのほうが人生に影響を与える人間だったのではないだろうか。
「これのどこが干し柿だ。」
「柿には違いはないだろうが。」
ダンボールから出てきたのは、荷物の中に入っていた手紙によれば、今年になってやっと実をつけたという甘柿、そして、畑で取れたばかりというジャガイモ。干し柿を送ってくるときでもダンボール一箱の全部が干し柿というわけではなく、分量だけで言えばカボチャやジャガイモのほうが多かった。
「ウチで干し柿作れってのか。」
「干し柿は渋柿じゃないのか。これならわざわざ干す必要もないし。」
「皮剥いて食うか。春香もいるだろ。」
「その前にお裾分けぐらい持ってってやったらどうだ。せっかくのデートだってのに、兄ちゃんのことだからどうせ姉ちゃんを怒らせたんだろうし。」
「? デート?」
「ノロケ話しはともかく、お裾分けぐらいしなさいよ。」
「それじゃ、柿をいくつか……」
「少しは残しておけよ。」
ビニール袋に甘柿とジャガイモをいくつか入れて、叔母の家に持っていくと。玄関まで来て礼緒を出迎えたのは叔母だった。せめて妹の元にぐらい姉が行くべきでないのかとも思えども、いない人に文句を言ってもどうにもならない。
「またパチンコ。」
「そうなんですよ。」
「姉さんもしょうのない人だね。夕ごはんまだだったらうちで食べる?」
「いえ、いいですよ。」
「これから作るところだったし、サラもそのほうが喜ぶでしょうから。春香ちゃんも呼んでらっしゃいよ。」
柿数個とジャガイモ数個で、礼緒と春香は叔母の手料理にありついてしまった。突然の来客にも関わらず、叔母は礼緒と春香の分の料理をすぐに用意してくれたが、手早く用意するところはさすがだ。
同じ顔をした双子の姉妹で、性格もやはりパターン通り。だけど、サラの母と我が母となぜこうも違うのか。無いものねだりと言ってしまえばそれまでだし、サラはサラで我が母親のほうを羨ましく言う。
「さぁ、どうぞ。」
「いただきます。」
その家にはその家の料理があって、作る人が違えば違う料理になる。同じ顔の人が同じ炊飯器で作った御飯でもどことなく違うし、この家で食べる料理でもサラの父の作るときと叔母の作るときと、サラの作るときとでは全然違う料理になる。普段母の手料理を食べている礼緒もパチンコの被害を被るときは自分で作るし、春香の料理の実験台になるときもある。それぞれ違う味がするけど、慣れ親しんだ故郷の料理が一番美味しく感じるのは誰でも同じだろう。
礼緒にとっての故郷の味はどれになるのだろうか。鍛えあげられたおかげでかなり料理に自信を持ったから、一人暮らしをしてもたった一つの問題、金銭というファクターを除けば苦労しないでやっていける自信はある。となると、礼緒の両手が故郷の料理を作る道具になるのだろうか。
何か一つぐらい故郷の味がほしい。このまま家を出て家庭を築いても変わることのない味。例えば、伯父の家から送られてくる干し柿は渡家のアイデンティティを確保する食品の一つだろうし、家を出て一人暮らしをするようになっても干し柿だけはずっと求め続けるかもしれない。
「柿食うか?」テーブルの上に並べられた料理が胃の中に消えたのを見計らって、サラが礼緒と春香に言ってきた。テーブルの中央には小さめのバスケットがあり、リンゴと持ってきたばかりの柿が置かれている。
「ん?」
「食後のデザート。せっかく貰ったんだから新鮮なうちに食わんと。」
「そうだな。」
「じゃ、皮剥いてくれ。」サラの視線は礼緒に向かっている。
「何で俺が。」さっきの荷物といい、やはりサラや春香のこの性格は血だと確信せざるを得ない。
「この中で一番庖丁を使うのがうまいのは礼緒だ。それとも、真っ赤になって塩味まで利いた柿を食いたいか。」
「わかったよ。」
テーブルに座ったまま庖丁を駆使して柿の皮を剥いて四分の一に切る。一枚の小皿の上に皮が残り、干し柿とはまた違った甘さの柿の味が口に広がる。
「礼緒が女だったらさぞかしモテるでしょうね。家事全般こなすし、これで部屋を奇麗にできれば完璧……」そう言うとサラの言葉は途中で止まった。
「お兄ちゃんが女装したらどうなるか想像したでしょ。」
「……うん。」
人に雑用を押しつける人間を二人ほど知っている。今だってこうして二個目の柿の皮を剥いているというのに、お礼の一つも言わないどころか勝手に人を想像の中で女装させるような人間を。
「冗談抜きで礼緒の嫁さんになる人は気楽だろうな。」
「ホントにそうよ。」
軽く言っただけのサラのその言葉に春香がすばやく反応を示した。サラの言う礼緒の嫁さんが誰であるかを直視する視線と供に。
「何で私を見るのよ。」
「さぁ。」
三兄妹のような関係でもサラ一人が従兄妹であって兄妹ではないと知ったときはそうでなかっただろうが、礼緒とサラが高等部に移って大学生になって、一人の男と女になったときにはもう、礼緒とサラとの関係が従兄妹から恋人同士に移ったと春香は信じるようになっていた。
本人の意志を全く無視するような言葉だ。とは思えども、妹の口からそう言った言葉を聞くと客観的に見れば礼緒とサラとはやっぱり恋人同士なんだろうかとも考えさせられる。今日だって、図書館は別としても、映画を一緒に観にいったということはデートとも呼べることではある。礼緒とサラが一緒になって喫茶店に行ったり映画館に行ったりするのはあまりにも有り触れたことになってしまって、当の本人にデートという感覚を呼び起こさせはしなくなっている。
「お姉ちゃん。お兄ちゃんをモノにするなら今のうちだよ。いくらお兄ちゃんだっていつまでも便利なイトコじゃないんだから。」
「礼緒を?」
「お兄ちゃんだって、本当はお姉ちゃんの手料理のほうがよかったんだよな。愛する人の手料理を食いたいという、浅ましいというか、モテない男の切なる願いというか。」
「思ってねぇぞ。」
「礼緒、行きましょ。」春香が礼緒とサラとをくっつけようとする言葉を放つと、サラは必ずと言っていいほど逃げる。
しかし、こうしたケースで礼緒の手を引いて二階の自分の部屋にまで連れて行ったのはほとんどないことだった。
「何の用だ。」
「レポート手伝ってくれ。」
春香の言葉で意識されて何か言われるのかとも思ったが、結局サラの部屋の中ですることは同じだった。実際、散らかりかたも限界に達しているこの部屋で何かをしようとする気は起きないだろうし、その相手が礼緒だというのも部屋の中でのサラをいつも通りにさせる要素。
「で、俺に何をしろってんだ。」
「いてくれるだけでいいよ。何だか礼緒が側にいると切羽詰まるって言うかさ、何やるにも捗るんだよね。」
「? ……、しゃあねえか。」
カーテンが開いていて春香の部屋からまる見えになっているこの部屋では、サラに妙な気を起こしても何もできない。部屋の中から自分の家を見ると、明かりが蘇っていた。おそらくパチンコから帰ってきたのだろう。
「どこまで書いたあったんだ。」
「あと一枚で規定の枚数を突破。」
「じゃぁもうすぐだな。」
「でもここから先が進まないんだ。何だろう。礼緒が隣りにいると安心するんだよな。書けそうな気がするというか。」
「俺は精神安定剤か。」
「いつも礼緒の側にいるから、礼緒がいないとなんか寂しくなるんだよな。」
「やっぱりカルシウムか。」
ワープロの画面に向かってはいるが、サラはキーボードをほとんど叩けないでいる。図書館に行く前と比べてみてもほとんど文章が進んでおらず、下手をすれば明日に間に合わない。
「なんだろう。安心できないって言うのかな。図書館の中で会った人じゃないけど、私の目が見えなくなっても礼緒がいると思うと安心できると思うんだ。乳離れとか親離れとかいう言葉があるけど、私の場合は礼緒離れができないってことなのかな。」
「離れる必要あるのか。」
「ないよ。ないけど、いつかは礼緒も私も別々の道を行くんだ。礼緒から離れるときがきたら、ずっとこの寂しさに耐えなきゃいけないなんてやだけど、受入れなきゃいけないんだ。やだけど……」最後のほうはあまり言葉が聞こえない。
カタカタカタカタ……
「やっぱり礼緒がいるといないとじゃ大違いなんだな……」
再び画面に向かって文章を打ちこみ始めたサラは、今度は留まる事なくキーボードを叩く音を続けさせている。やっぱり礼緒がここにいるという安心があるとないとでは大違いなのだろう。
サラは大学を出てから何をするかなんて決めてないだろうし、礼緒だってそれは同じ。今までエスカレーターで自動的に大学にまで来たけど、そこから先のことなんて全く考えていないし決まっていない。
親や親類にコネがあるでなし、役人になれるほどマークシートのクジ運があるでなし。かと言って働かないで家でブラブラしているわけにも行かないから自分でどうにかして就職先を見つけなければならないだろう。それでも礼緒はまだいい。
問題はサラだ。褐色の肌を持つサラを通常通りに採用する企業がそんなにあるとは思えない。ただでさえ女性の採用が少ないと言われているのに、さらに“日本人に見えない”というハンディキャップを背負わねばならないサラを、企業はすんなりと採用するだろうか。同時に英語とのバイリンガルという有利な点を持ってはいても、日本人の男で一流大学を出たバイリンガルと、サラとの間で二者択一を迫られた人事担当者の選択は言うまでもない。
「サラは卒業したら何になりたいんだ。就職とか、大学院とか。」
「さぁね。いくらなんでもそこまで決めてないよ。院もいいけど哲学科は院なんてないし、そうなったら結婚でもするかな……。どこかのお坊ちゃんの玉の輿に乗って、何年か経って離婚して、慰謝料ふんだくって悠々自適に生きるの。」
「そんなんでいいのか? せっかく生まれてきたのにそんなつまらん人生で。」
「普通の人間なんだから普通でいいんじゃないの。」
「サラの人生はサラが決めることだよ。平凡な人生なんてつまらないじゃないか。」
「死んだら同じよ。死んだら誰だって『いい人』で終わり。金を貯めても、幸福を手に入れても、みんなあの世に持っていくなんてできないんだからせめて生きている間は楽をしたいのよ。」
「つまんない人生だ。」
「じゃあ哲学でも開けっての? 悟りでも開いて。満たされた人生を創りだす……」
「そうは言ってない。」
「一生を修行に費やして教祖様に顔を覚えられても、一生遊び惚けて酒におぼれても一緒よ。無駄な人生。だったら無駄にならないようにやりたいことをしようよ。」
サラの哲学観を垣間見たような気はする。でも、消極に徹しているサラの哲学に同調はできない。
昼間見た図書館での司書の応対を見て、いいなと思った。一生を掛けるるのにいい仕事だなと。だけど、司書という仕事が誰にでもできる仕事ではないことを知っている。教師のように免許を取ってからでないとできないし、取ったところですぐに司書になれるわけでもない。
だけど、感動はした。視覚に生涯を持つ人でも普通の人と同じように生活を送れるようにする姿に。その感動をサラの消極は味わっただろうか。
「だめだったら礼緒の嫁さんになるからいいよ。そこらへんの男よりゃ素姓は明らかだから心配はないし、危害加えられることもないし、礼緒離れの手間も省ける。」
「軽く言うな。」
礼緒と話しながらもサラの指の動きは止まらない。図書館でコピーしてきた哲学辞典の文章をそのまま書き記して、レポートはあと数行で規定の枚数をクリアするところにまできた。尤も、ギリギリの枚数では可、よくても良で、優を取るにはもう少し書かなければならないからまだまだサラの指の動きはしばらく続くが。
「礼緒はどれぐらい書いたの?」
「レポート用紙で十三枚。枚数だけだったら優、だめでも良は貰えるだろ。」
「その前に試験があるだろうが。」
「そっか……」
「だめだな。そんなん……」
RRRR…RRRR…
会話を中断するかのようにサラの携帯電話が鳴り響いた。礼緒に声を出させないように言ってからサラは受話器を取り、誰だか知らない相手と話をする。
「え、はい。そんな……」
受話器の向こうから小さく聞こえてくるのは男の声。その人と会話をしているということをサラは隠したいのか、礼緒に背を向け受話器を手で覆うように話をしている。小さな声で話していて何を話しているのかはわからないが、どんな理由でも男からの電話というのはあまりいい思いはしない。
ずっと一緒にいてサラのプライバシーの全てを知っているつもりでも、サラだって一つや二つぐらいは隠し持っているものはあるだろう。それを詮索するつもりもないが、やはり気になる。
「ごめんなさい……」
最後に礼緒に聞こえるようにそう言ってサラは受話器を置いた。それから礼緒に目を向けないで机に向かってワープロのキーボードを叩きだしたが、サラは礼緒の視線から逃げるのではなく、逆に礼緒の視線を感じようと礼緒に背中を向けているように感じた。
「誰からの電話?」
「秘密。」
「ふ〜ん。」
「気になる?」振り返って礼緒に軽く微笑んだサラはそう言った。何かいいことでもあったかのように。
「少しはな。」
「デートの誘いだよ。『来週の土曜日か日曜日に礼緒と一緒に……』って。」
「!」
「驚いた?」
「……」
「安心して、断わったから。」サラはそう言って自分の部屋から出ていった。
はっきり言って驚いた。サラが礼緒の知らないところで見知らぬ男性から言い寄られていたなんて。隠しようのない動揺が礼緒を支配して、サラのいなくなったサラの部屋で礼緒は暴れてしまいたくなった。
いつか来ると思ってはいたが、実際礼緒とサラとの間に誰かが入ろうとすると礼緒はこうも動揺を見せるのか。サラをただの従姉妹だなんて思っていても、サラの恋人になりたいという男を見ると、礼緒は激しい嫉妬の炎を燃やしてしまう。
断わったと聞いて安心したけど、電話の向こうの男がサラの理想を全て満たすような男だったときは、サラだって何の躊躇もなく誘いに応じるだろう。そうじゃなくても何度もサラに言い寄ってきたときに礼緒の元から離れていってしまうのではないだろうか。
階段を登る音があって、ドアの向こうからサラの『開けて!』という声が聞こえた。ドアを廊下側へ押して開けると、トレイの上に揃いのカップに煎れてあるホットココアと白い皿の上に乗った干し柿を持ってサラが立っていて、礼緒にそのトレイを手渡した。
「まだあったのか?」
「礼緒にはケーキとかよりこっちのほうがいいと思ってさ。何だったらこれから作るけど、食べる?」
「いや。いいよ。」
「ちょっとそこに立ってて。」
サラは礼緒にトレイを持たせ、散らかっている部屋を片付けだした。とは言え、ある程度の広さのある空間はベッドの上しかなく、絨毯の敷かれた床に小さなテーブルを置くと、自然とベッドが椅子の代わりになる。
「こら、見るな!」
「見てないって。」
サラが少し屈むと、男の性と言うべきか礼緒の視線はサラのミニスカートに向かってしまう。が、同時に干し柿にも向かっている。もう食べ尽くされたと思っていただけに、サラの部屋で伯父の干し柿にまたお目にかかれるとは思わなかった。
「驚かせちゃったね。」落ち着かせると、サラはまずそう言った。
「よくあるのか?」
「その人から電話とかラブレターとか貰うのは今のが初めてじゃないよ。でも、その人とも、他の人とも何もない。私は礼緒としかデートしたことないんだから。」
「そう。」
やるせないイライラがやってきた。このままだとサラを誰かに取られるんじゃないかという気がした。サラの側から離れたくない。サラと一緒にいてサラを一人占めしたい。
……、今がそうじゃないのか。ずっとサラの側にいるということはサラを監視しているようなものだし、サラだって礼緒のことを見つめている。
「今のところ礼緒としか一緒にいたくないんだ。だから、当分は礼緒の側にいるよ。」 「どれぐらい?」
「結婚でもすれば変わるかもね。」
「結婚しても今のままだよ。」
「嘘ばっかり。礼緒だって美人だとかグラマーだとかに興味あるだろ。礼緒の部屋で見たぞ。本棚のどさくさに紛れて置いてあった本の中身を。」
「ちょっと待て、いつの間に……」
十八歳未満お断わりの本を買って漫画の並んでいる本棚に隠してあったのに、いつの間にか他の位置にずれていたことがあった。気のせいだろうと思っていたが、それから二年半してやっとその原因がわかった。
「礼緒だってやっぱりそういう人のほうがいいんだろ。」
「チラッて見るだけならいいかも知れないけど、ずっと側にいて見つめていたい人じゃないよ。外見なんて俺には関係ないからな。鏡に写った自分の顔を知ってるし。」
「それじゃ、礼緒のタイプの女性ってのはどんな人なの?」
「側にずっといてほしい人。」
「ふ〜ん。」
「絶世の美女だとか、FカップだGカップだとかは興味は沸くけど、側にいてほしくない人だったらタイプには入らないよ。」
「変なの? 別に私の前だからって遠慮しなくたっていいのに。」
「遠慮じゃないよ。」
砂糖のたっぷりと入ったココアと干し柿がテーブルの上から消えて、サラは再び机に向かってキーボードを叩きだした。
「私が他の人とデートしてるの見たら嫉妬する?」
「ああ。」礼緒のその返事はそっけないものだった。
「どうして?」
「干し柿ってのはものすごく甘いわけじゃない。甘いものを食べたいと思ったときに、ものすごく甘いケーキとこの干し柿が目の前に出されて、サラはどっちを選ぶ?」
「ケーキかな。」サラは後ろを向いたまま答えた。
「俺もそうだろうけど、俺はそんなに甘党じゃないからたくさん食べられるわけじゃない。一日二日だったらケーキだろうけど、毎日それを選ばさせられたら、いつかは慣れ親しんだ干し柿を選び続けるよ。」
「私は干し柿か?」
「俺の好きなものだし、ケーキを出されても干し柿を選ぶんじゃないか? 安心できるし、誰にも渡したくないし。」
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