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小春日和

作者: 愛田美月

 春はまだ遠い。

 工藤小春は茜色に染まりはじめた空を見上げ、そう思った。冷えた空気が身にしみる。

 歩くたびに、手に提げたスーパーの買い物袋が音をたてる。中身はとんかつソース。母に頼まれたお使いの帰りだった。

 息を吐くと白く見える。二月も後半に入ったが、まだまだ暖かくなる気配はない。

 夕焼け色に染まり始めた街並みは、どこか淋しげで、だが、とても綺麗に見えた。

 小春は思いついたように、足を進める方向を変えた。少し遠回りして、夕日を見て帰ろう。そう、考えたのだ。

 今歩いている道を左にそれれば、高架橋がある。そこから見える夕日がとてもきれいだったのを思い出した。

 しばらく歩くと、目的の高架橋が見えた。少し長めの階段を上りきる。それだけで、息切れする自分に、小春は少し驚いた。以前ここに来た時は、息切れなどしなかったのに。

 それだけ、体力が落ちているということなのだろう。

 二年前から、家にこもりがちなのだから当たり前か。そう思って、一人自嘲気味に笑う。

 古く、少し錆びた欄干に片手をついて、小春は落としていた視線を上げた。

 顔を上げた先に、一人の男性の姿が見えた。黒いコートを着た男性は、欄干からかなり身を乗り出し、下を覗いている。コートが風ではためいていた。

 危ない。

 かなり、危ない。

 小春は男性が何をしているのか測りかねて、立ち止まったまま、男性を見つめた。

 少しでもバランスを崩せば、まっさかさまに下へ落ちてしまいそうだ。落ちればまず助からないだろう高さに加え、この下には電車が通る。小春は嫌な想像をして、身を震わせた。自殺でもしようとしているのではないか。そんな疑念が頭をよぎる。

 そっと、小春は歩き出した。男性から目をそらさずに。

 男性がこちらに気づいた様子はない。より一層欄干から身を乗り出している。

 さらに小春は男性に近づいた。

 小春が見詰めている先、男性が不意に体を起こした。

 よかった。これで、落ちる心配はなくなった。小春が安堵の息をつこうとしたとき。男性が不意に足を欄干にかけたのである。

 乗り越える気だ。

 小春の脳裏にあった自殺という二文字が大きくなった。小春はとっさに走った。跨ぐように片足を欄干の外に出した男性のコートに手を伸ばし、必死に掴む。

 男性がバランスを崩した。

「うわぁ」

 男性は悲鳴とともに、小春の方へ向かって倒れてくる。

 小春はつい、避けてしまった。男性が、高架橋の上に背中から倒れこむ。

 動かない。

 小春は立ったまま、倒れた男性の顔をこわごわと覗きこんだ。持っていたスーパーの袋が、動きに合わせて音を立てる。

 男性は小さく呻くと、閉じていた目を開いた。小春と目が合う。

 小春は、慌てて一歩後退った。

「君か? コート引っ張ったの。何するんだよ、危ないだろう」

 男性がそう言って、半身を起した。背中を打ったのだろうか。後ろに手をまわして背中をさすっている。

 小春はとっさに言い返そうとして、口を開く。だが、言葉は何も出て来なかった。

 言葉など、出てくるはずはなかったのだ。この二年というもの。小春の口から、声が出たことすら、なかったのだから。

 不審そうにこちらを見ていた男性の顔が、ゆっくりと驚きの表情に変わった。小春はその変化を訝しく思い、無意識に眉間に皺を寄せる。

「君、小春ちゃんだろ。工藤小春ちゃん。大きくなったなぁ」

 男性は先ほどまで顰めていた顔を笑顔に変えた。小春は更に眉間の皺を深くする。

 なぜ、名前を知っているのだろうか。その思いが顔に出たのだろう。男性は小春を安心させるかのように、柔和な笑顔を見せた。

「覚えてないかな。君のお兄さんと同級生の、浅井拓朗。工藤の家に遊びに行かせてもらったとき、何度か君とも顔を合わせてるはずだけど、やっぱり覚えてないか」

 言葉の最後には困ったような表情で、男性は小春から眼を逸らした。

 よっこらしょ、などと言いながら男性は立ちあがり、近くに落ちていた黒いカバンを拾う。それを眼で追いながら、小春は記憶を辿っていた。

 男性の言った浅井拓朗という名に聞き覚えがあった。確かに小春の五つ上の兄、夏輝に浅井という名の友人がいたはずだ。

 小春はもう一度男性の顔を凝視した。小春がまだ小学生のころ、兄はよく友達を家に連れてきて遊んでいた。その頃の友人の中に、彼がいたのだろうか。

 視線に気づいたのか、男性が無意味な笑顔を小春に向ける。

 刹那、記憶にあった顔と重なった。確かに、小春は彼に会ったことがある。その、困ったような、どこかはにかんだような笑顔を、小春は確かに知っていた。兄の友人の中では珍しく、少し大人しいタイプだったので、印象に残っていたのだ。それに、彼は家に来るといつも笑いかけてくれた。

「小春ちゃん、まだ声、出せないんだね」

 疑問形ではなく、断定的に、浅井拓朗は言った。

 小春は、スーパーの袋を握る手に力を込めた。

 小春が声を出せないことを、どうして知っているのだろうか。一瞬そんな疑問がよぎったが、すぐに兄から聞いたのだろうと思いなおす。

 小春はゆっくりと頷いた。

 その時、列車の近づいてくる音が耳に届く。轟音が風と共に通り過ぎていく。

「そっか」

 轟音の隙間、拓朗の声が小春の耳に届いた。

「それにしても、小春ちゃん。どうしていきなりコート引っ張ったりしたの? びっくりしたよ」

 拓朗の言葉に、また無意識に口を開いてしまってから、小春は気づく。口を開いたところで、声は出ないのだ。また、やってしまった。何度声を出そうと口を開いても、どんな言葉、どんな音すらも小春の口から洩れることはないのに。

 小春は、スーパーの袋を提げている手とは反対の手で、コートのポケットを探る。ポケットの中から出したのは、小さなノートとペンだった。

 ペンの蓋を外し、小春はノートを開いて文字を連ねる。

『浅井さんが自殺するのではないかと思って』

 小春はそう書いたノートを拓朗に向かって開いて見せる。

 拓朗はその文を読んで、苦笑したようだった。

「ああ、そうか。そうだよね。そんな風に見えたかもしれないね。でも、それは誤解だよ」

 小春は拓朗に見えるように広げていたノートを、もう一度自分に向け、ノートにまた記入する。

『誤解って?』

 そう書いて、また拓朗に見せると拓朗は欄干の方に歩みを向けた。小春はその姿を眼で追う。

 拓朗は、欄干から少し身を乗り出すと、ある一点を指差した。

「ほら、あそこ。紙がくっついてるだろう。あれ、就職案内の書類なんだ。うっかり風で飛ばされてしまって。なんとかとれないかと思って」

 促されるまま、小春も欄干から少し身を乗り出した。欄干の外、高架橋の下の方に確かに白い紙が引っ掛かっている。その紙は風にあおられて、今にも飛んで行きそうだ。

 小春は体を起こすとまたノートに書き込んだ。まだ引っかかった紙を見ていた拓朗の肩を叩いて、こちらに注意を向けさせる。

『でも、あれを取ろうとするなんて無茶です。足を滑らせたら、就職どころじゃなくなります』

 ノートに書かれた文字を眼で追った拓朗が、読み終えたのか小春を見る。

 小春は、拓朗が怒ったのではないかと思った。こんな、自分よりも五つも下の小娘に、説教まがいのことを言われたくない。そう、思われたのではないか。

 小春は、少しの後悔とともに、視線を落とす。そんな小春の頭より高い位置から、溜息が聞こえてきた。小春は身を固くする。

「まったく、その通りだね」

 少し、疲れたような声音に驚いて、小春は顔を上げた。拓朗の苦笑が目に映る。

 てっきり、怒り出すと思ったのに。

 小春はよく分からないような気持ちになり、首をかしげた。

「ごめんね、小春ちゃん。それと、ありがとう」

 微笑んで言われた言葉に、小春はなぜか顔を熱くした。本当に、なぜ顔が熱くなるのか分からない。ただ、拓朗の優しい微笑みを見ているうちに頬が熱くなった。

 きっと顔が赤くなっているはずだ。

 そう、思い至って、小春はごまかすように、顔と手を大きく横に振った。

「小春ちゃん?」

 あまりのオーバーリアクションを不審に思ったのだろうか、拓朗が小春の名を呼んだ。

 小春は慌てて、ノートを広げ文字を書きだす。

 それを、拓朗が横から覗く。

『私、夕日を見に来たんです。だって、とっても綺麗でしょう』

 書き終えて、拓朗の方を見ると、拓朗と目が合った。

 拓朗はゆっくりと、視線を小春から正面へと向ける。

 高架橋の上。その下をまっすぐ延びる線路のずっと先。日中よりも大きく見える茜色の太陽があった。線路の左右に建てられた家やビルや電柱が、夕焼け色に染まっている。

「本当、奇麗だ」

 拓朗の呟きには感嘆の意が込められているように、小春は思った。

 小春は拓朗の横顔から、大きな夕日へと視線を移す。

 本当に、奇麗だ。

 小春も、そう思った。




『検査の結果、どこも悪いところは見られませんでした』

 医師の言葉に、小春の母は声を荒げた。

『嘘です、先生。この子は本当に声が出せないんです。悪いところがないわけがないわ。悪いところがないなら、なぜ、声が出ないんですか』

 医師と向かい合うように椅子に座った小春の背後に立つ母が、少し震えていることに小春は気づいた。小春の肩に置いた母の手が、震えていたから。

『考えられる原因でいえば』

 医師は、小春と母を交互に見ながら口を開く。

『心因性のものではないかと。何か、極度にストレスを感じるようなことがありませんでしたか?』

『そんな、ストレスがたまるようなことなんてありません』

 小春の肩を掴む母の手に、力がこもって痛かったのを、小春は今でもよく覚えている。


 突然声が出なくなったことに気づいたのは、朝起きてしばらくしてからのことだった。高校の制服に着替え、ダイニングにいた母におはよう、そう言おうとして口を開いた。口を開けば出るはずの声が、なぜか出てこない。出るのは息だけ。喉を押さえ、必至に声を出そうとしていた小春に気づいた母は、最初冗談だと思ったようだった。だが、小春の本気を悟り、慌てて病院に連れてきた。

 その病院で医師から言われた、心因性という言葉に、母はひどくショックを受けたようだった。

 母を悲しませたくはなかった。

 家に帰った後、母は小春に聞いた。

 何があったの? 

 何か辛い思いでもしたの?

 お母さんに言えないことなの?

 小春は答えられなかった。小春自身でさえ、その時は大きな要因となるようなものが思いつかなかったからだ。

 何も言わない、何も言えない小春を、母は泣きながら抱き締めた。

 



 拓朗と会った翌日。

 小春はまた、高架橋に来ていた。数年前、この近くに線路下を通る地下通路ができてから、この高架橋を利用する人がめっきり少なくなった。

 今も、小春以外誰もいない。

 まだ、少し高い位置にある夕日を眺めながら、小春は声が出なくなった時のことを思い出していた。

 なぜ、声が出なくなったのだろう。

 二年間、何度も考えたことだ。

 二年考えて、なんとなくこれが原因ではないか。そう思う事があった。


 声が出なくなる数日前から、小春は長年付き合いのあった友人ともめていた。きっかけは友人が意中の男性に振られたことだったように思う。

 振られ、悲しむ友人に、小春は出来うる限り慰めの言葉をかけたつもりだった。

 だが、友人には届かなかったのだ。

『小春ってさ。いつも笑ってるよね。こっちが悲しんでるときにあんたの顔見ると、なんかムカつく』

 ショックだった。小春はただ、友人を元気づけようとしていただけだ。そんなこと、言われる筋合いなど、ないではないか。いつも笑っている人間は、何を言っても傷つかないとでも思っているのか。

 あの日から、友人との関係がぎくしゃくし始めた。

 小春は人とどう接していいか分からなくなっていた。

 自分の言った一言で、誰かが傷つくのも、誰かが言った一言で、自分が傷つくのも嫌だった。

 どうすればいいのか分からなくなった。

 そして、小春は声を失った。


 そんなことで、声を失うのかと人は言うだろう。小春自身もそう思う。たったそれだけのことでと。きっと他に、もっと辛い思いをしている人はいるはずなのに。

 なんて自分は弱いのだろう。小春はそう思うのだ。

「あれ? 小春ちゃん」

 声をかけられて、小春は我に返って声の方を見る。その先には、昨日会った浅井拓朗がいた。今日は昨日の黒いコート姿とは違い、ダウンジャケットに、ジーパンというラフな格好だ。その手には紐が握られている。そして、その先には柴犬がつながれていた。

 小春は欄干についていた手を放して、拓朗の方へ歩み寄った。犬に視線を落とす。

「ああ、うちの犬で、名前はコタ」

 小春は、そっとしゃがみ込むとコタに手を伸ばす。頭をなでると、コタは嫌がる素振りは見せず目を細めている。

 可愛い。

 そう思って、小春は自然と笑顔になる。

「小春ちゃん、今日も夕日を見に来たの?」

 聞かれて、小春は拓朗を見上げ、頷いた。

「そうか。俺も昨日見た夕日が忘れられなくてね。コタにも見せてやろうと思って、いつもの散歩コースを外れてこっちに来たんだ」

 言いながら、拓朗は夕日の方へ眼をやる。先ほどよりも、低い位置に来た夕日は今日も大きく温かい。

 空も、街も、人も茜色に染まる。小春や拓朗も。

「小春ちゃんって、今、いくつだっけ」

 唐突に、拓朗が聞いた。小春は、夕日から拓朗に視線を移す。

『十九歳です』

 小春は取り出した、小さいノートにそう記す。拓朗はそれを横から覗きこむように見て笑った。

「ははっ。そうか、もう十九歳か。俺も歳とるはずだよな。初めて会ったときは、小春ちゃんまだ小学生だったのに」

 小春は、もう一度、ノートに文字を書く。

『拓朗さん、二十四歳ですよね? まだまだ若いじゃないですか。お兄ちゃんは、俺はまだ青春だ! って言ってます』

 それを見た拓朗は、夏輝らしいとまた笑う。

「小春ちゃん、十九歳ということは、今大学生か」

 拓朗の言葉に、小春は小さく首を横に振った。

『大学には行っていません。今は、家で家事手伝いです』

 なぜ大学に行ってないのか。そう、質問が来ると思った。だが、拓朗は違う言葉を口にする。

「じゃあまた明日、雨が降らなかったら。ここで一緒に夕日見ないか?」

 誘われて、小春は目を見張った。

 拓朗は笑顔で、小春の答えを待っている。

 どうしようかと迷っていると、拓朗はまた口を開く。

「コタが、小春ちゃんのこと気に入ったって言ってるし。な、コタ」

 拓朗は視線をおろし、コタに話しかける。

 コタはまるで返事をするかのように、一声吠えた。小春の顔に笑顔が浮かぶ。

『じゃあ、明日』

 そこまで書いて、小春はふと思った。今日は日曜日だから、この時間に会えたが、明日は平日だ。仕事はないのだろうか。

 書く手を止めて、呆けている小春をどう思ったのか。拓朗が小春の前に手をやって、上下に振って見せた。

「小春ちゃん。どうしたの」

 小春は我に返って、思ったことを書き出した。

『拓朗さん、明日お仕事ないんですか?』

 書き終わって、拓朗の顔を見ると拓朗は情けなさそうに顔をゆがめていた。

「実は先日、勤めていた会社が潰れてね。今は就職活動中なんだ。昨日、ここで飛ばした紙も就職案内の紙だって、言っただろう」

 言われて、小春は思い出した。

『すみません』

 そう書くと、拓朗は首を横に振った。

「謝ることなんてないよ。本当のことだから」

 小春はなんて言ったらいいのか、否、なんと書いたらいいのか分からなくなって俯く。すると、こちらを見上げているコタと目が合った。コタはおとなしくお座りの体制で、必至にしっぽを振っている。

 小春はしゃがんでコタをなでた。コタはまた、気持ち良さそうに目を細める。

「コタは本当に、小春ちゃんが気に入ったみたいだな」

 そんな言葉が頭上から降ってきて、小春の心にぬくもりを与えた。




 翌日。辺りが夕焼け色に染まるころ。小春は家を出た。

 高架橋へ上ると、反対側の階段から、拓朗が上ってくるのが見えた。

 小春は思わず笑顔を作ってしまい、慌てて表情を引き締めた。

 拓朗の前を歩いていたコタが、小春に気づいたようだ。コタは拓朗を引きずるように走り出した。

 小春にの足に飛びつくように前足を上げて、コタは尻尾を左右に振る。

 その姿に、嬉しくなって小春はしゃがんでコタをなでた。

 それにしてもどうしてコタって名前なんだろう。

 ふと、小春はそう思って拓朗を見る。

 拓朗は笑顔で、小春を見返した。

 立ち上がって、夕日のよく見える位置まで来ると、小春は欄干の上に小さいノートを置いて、ペンを走らせた。

『どうして、コタって名前なんですか?』

 小春のノートを見てから拓朗は言った。

「ああ、俺の名前が拓朗だろ。小さい拓朗で、小拓朗。略して、コタ」

 小春はそれを聞いて、口元を押さえた。笑いそうになったのだ。だが、笑っても声は出ない。それが気持ち悪いと言われてから、小春は人前で笑うことを避けていた。

 小春の様子を見ていた拓朗は、こう言った。

「小春ちゃんの声、出るようにはならないの?」

 聞かれて、小春は目を伏せた。その様子に、慌てたように拓朗が言う。

「ごめん、小春ちゃん。言いたくなかったら言わなくてもいいよ」

 コタが、小春の足に顔をすりよせて来た。小春が足元を見ると、コタの黒い瞳と目が合う。小春は少し微笑んで、ノートにこう書いた。

『明日、話せるようになるかもしれないし、一生話せないかもしれないって、お医者さんに言われました』

 拓朗は小春のノートを覗きこんで呟いた。

「そうか」

 そう言って、拓朗は小春の頭をなでた。

 驚いて、小春は身を引いて頭に手をやる。

 そんな姿に、拓朗は声をあげて笑った。そんな拓朗を見ているうちに、小春もつられて笑う。

「小春ちゃん。笑ってる方が可愛いよ」

 拓朗に言われ、小春は目を見張る。男の人からそんなことを言われたのは初めてだった。小春は顔が熱くなるのを感じる。

 今が夕方でよかった。夕日のおかげできっと、顔が赤くなっているのも気づかれはしないだろう。




 翌日も、その翌日も、そしてそのまた翌日も。小春はあの高架橋の上で拓朗と会った。もちろんコタも一緒だ。当初の目的は夕日のはずだったのに、小春はいつの間にか拓朗とする何気ない会話を楽しみにしていた。

 人との会話を楽しみにするなんてこと、ここ最近の小春にはなかったことだ。自分でも、この変化に少なからず驚いている。

 なぜこんな風に考えられるようになったのだろう。

 拓朗は優しかった。話せない小春に、眉を寄せるでもなく、いろいろな話をしてくれた。一方的に喋るのではなく、小春に返答を求めてくれた。

 小春が、ノートに書くのを辛抱強く待っていてくれる。時には、ノートに書ききる前に、小春が何を言おうとしているのかを察してくれた。

 

 今日もまた、拓朗と会う約束をしている。何を着て行こうか。そんなことを考えるのも、久し振りの感覚だった。

 二階の自分の部屋。小春は、鏡の前で服を合わせる。どれも、二年以上前に買ったものばかりだ。最近の流行など分からない。ダサい子だと思われてはいないか。そんなことを心配してしまう。今度、思いきって母を誘い、買い物にでも行ってみようか。

 そこまで思ったとき、携帯電話が音をたてた。メールの着信音だ。小春は、机の上に置いていた携帯電話を手に取り、折りたたみ式のそれを開く。

『ごめん、小春ちゃん。急に予定が入って、今日はいけない。本当にごめんね』

 拓朗からだった。小春は溜息をついて『気にしないでください』それだけ、返信した。

 服を広げていたベッドの上に、寝転がる。携帯電話をベッドの上に転がした。

 楽しみにしていたのに。

 気が抜けてしまった。寝返りを打って目を閉じると、階下で玄関のドアが開く音が聞こえた。母は家にいる。父が帰ってくるにはまだ早い。

 小春は目をあけ、起きあがった。

 そっと、自室のドアを開けると、階下から母の声が聞こえてくる。

「あら、夏輝。どうしたの? 今日帰ってくるって言ってた?」

 どうやら、一人暮らしをしている兄が帰って来たようだ。

「いや、ちょっと不幸があってさ。浅井って覚えてる? あいつの母親亡くなったんだって……」

 兄の言葉は続いていたが、小春の耳に届いたのはそこまでだった。急に、冷水を浴びたような気分になった。

 今、兄は何と言ったのだろう。

 浅井の母親が亡くなった。そう言ったのではなかったか。

 小春はいてもたってもいられず、階下に下りて行った。兄を探して、ダイニングに入る。

 兄は、冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出しているところだった。

 物音に気付いたのだろう。振りむいて、小春を見つけて兄は微笑んだ。

「よう、小春。元気か?」

 小春は、家のあちらこちらに置いてある、小さなホワイトボードの一つを手に取った。それについているマジックで、ホワイトボードに文字を連ねる。

『浅井さんって、浅井拓朗さんのこと?』

 そう書いたホワイトボードを、兄に突きつけるように見せる。

 牛乳をコップに注がず、ラッパ飲みしていた兄は、ホワイトボードを見て牛乳パックを口から離した。

「なんだ、小春。浅井のこと覚えてるのか」

 小春は、頷く。兄は納得したように頷き返した。

「そうか。まあ、あいつくらいだったもんな。お前にかまってやってたのって」

 小春は、あまり覚えていなかったが、頷いた。

「あいつもなあ、不幸続きだよな。勤めてた会社は倒産して、そうかと思ったら、両親が事故にあってさ。いい人たちだったのにな。父親は即死で、母親もなんとか今日まで生きてたけど、結局意識回復しないまま亡くなってさ。本当、なんであいつばっかりこんな目に遭うんだろうな」

 兄は、ため息交じりに口を閉じた。

「夏輝、喪服見つかったわよ。袖通してみなさい。夏輝、聞いてるの」

 母の声が奥の部屋から聞こえてくる。夏輝は返事をして、持っていた牛乳パックを小春に押し付けるとダイニングを後にした。

 残された小春は、愕然としていた。

 拓朗が、そんな悲しい目に遭っていたなんて。

 そんな悲しい目に遭っていながら、どうして小春にかまってくれたのだろう。

 何を思って、小春に笑いかけてくれたのだろう。

 メール。そう、先ほどのメール。拓朗はどうして、そんな目に遭いながら小春に気遣いできたのだろう。

 どうして、そんなに人に優しくできるのだろう。

 小春は、そんな思いを抱えながら、母に声をかけられるまでその場に突っ立っていた。




 拓朗からメールが来た日から、一週間がたった。もうすぐ、二月も終わる。それでも、まだ、寒かった。

 小春は、あの日以降も毎日、高架橋へ行った。雨が降っていても、もしかしたら、拓朗が来ているのではないか。そんな思いに動かされて。

 だが、拓朗は姿を見せることはなかった。

 

 今日も小春はいつもの時間に家を出た。行きかう人の少ない住宅街の道を、小走りに進む。この道をもう少し進んで、左に曲がると線路脇の道へと出る。

 その道の途中に高架橋があるのだ。小春は高架橋に急いだ。辺りはだんだん茜色に染まり始めている。

 不意に、コートのポケットに入れていた携帯電話がバイブレーションと同時に音を立てた。

 小春は立ち止まると、慌てて携帯電話を取り出し、開く。

 メールではなく、電話だ。

 なぜ、メールではなく、電話なのだろう。小春は、話すことができないのに。

 ディスプレーには、浅井拓朗の文字。

 拓朗さんからだ。

 小春は思うと同時に、通話ボタンを押していた。

『……小春ちゃん?』

 拓朗の声だ。一週間ぶりの拓朗の声。どうしてこんなに嬉しのだろう。そう思うくらい、嬉しくて、小春は見えないと分かっていながら、何度も頷いた。

『なかなか、連絡取れなくてごめんね。今、あの高架橋の上にいるんだ。夕日がね、とても綺麗だよ』

 小春はまた、頷いた。今、私も向かっているよ。そう言えたら、そう伝えられたらどんなにいいか。

『小春ちゃん。聞こえてるかな。こうやって今電話してるのは、小春ちゃんに伝えなきゃいけないことがあったからなんだ』

 小春は、なんだか嫌な予感がした。拓朗の優しく響く声が、影を帯びているような気がしたのだ。

『コタがね。亡くなったよ』

 小春は息を飲んだ。

 すぐには、拓朗の言っていることが理解できなかった。

 何を言っているのだろう。

 小春を見ると、元気にかけてきて、ちぎれんばかりに尻尾を振っていたコタが亡くなったなんて。そんなこと、あるわけがないのに。

『お兄さんから聞いてるよね。俺の母が死んだの。その母の葬式が終わって、三日後に。眠るように死んでいたんだ。コタも、もういい年だったからね。寿命だったのかな』

 拓朗の声は淡々としていた。小春は違和感を覚える。拓朗の口調から、あらゆる感情が抜け落ちているような、そんな気がした。

 小春の胸に不安がよぎる。

『これでもう、俺は誰からも必要とされることはなくなったんだよな……もう、独りになってしまった』

 小春は首を大きく横に振る。

 そんことはない、そんなことはないよ。

 そう、声に出せたらいいのに。

 そう、言いたいのに。

 声が出ない。

 横に並んでいれば伝えられる言葉が、今は伝えられない。伝えることが出来ない。

 小春の耳には、すぐそばにいるように拓朗の声が聞こえるのに。拓朗が遠い。

 小春は走り出した。携帯電話を耳にあてたまま、今までにないほど、必死に、必死に走った。

『毎日、毎日。母の意識が回復するんじゃないか。そう思って病院へ行っては、落胆してこの道を通ってたんだ』

 拓朗の声が掠れて聞こえる。

『仕事もなくなって、これからどうして行こうって、不安になってたときに、小春ちゃんに会ったんだ』

 少し間が空いた。小春は走りながら、拓朗が話し出すのを待つ。落としてしまわないように、強く携帯電話を握りしめて。

『あの日、小春ちゃん、俺が自殺するんじゃないかって思ったって言ったよね。俺はあの時、否定したけど。本当は、あのまま足を滑らせて死んでも構わないって思ってたんだ』

 いつもなら、拓朗の声を聞くだけで穏やかな気持ちになれたのに。いつもと変わらない口調なのに。どうして、こんなに不安になるのだろう。

『……ここから見る夕日がこんなに綺麗だなんて、小春ちゃんに会うまで気付かなかった。最後にこんなに綺麗な夕日を見ることができるのも、小春ちゃんのおかげだよ』

 最後って何? 何を言ってるの。拓朗さん。

 小春の目に、あの高架橋が映った。もう少し、あと少し走ればあそこに着く。

 小春の耳に、拓朗の声が届く。

『今日まで、ありがとう。小春ちゃん』

 拓朗の声がそう告げる。

 ありがとうって、そんな風に言ってもらえるようなこと何もしてない。

 小春はようやく、高架橋へと上がる階段にたどりついた。走り疲れた身体は悲鳴を上げている。小春は階上を見据えた。足に力を入れて階段を上る。

 いつも上っているはずの階段が、いつも以上にとても長く感じる。

『最後に小春ちゃんに話せてよかったよ。ごめんね。長いこと聞いてくれてありがとう。さよなら』

 拓朗の声が別れを告げた。

 さよならなんて、聞きたくなかった。拓朗は今度こそ、本当に自殺しようとしているのではないか。小春は怖くなって、走りすぎて疲れた足を無理やり動かして、最後の一段を上り終えた。

 その瞬間、通話が切れた。

 携帯電話から、通話の切れた音が空しく響く。小春は携帯電話を持った手をおろした。欄干に片手をつき足を止める。

 疲れた、このまま座り込みたい衝動に駆られる。苦しくて、肩や胸が上下する。乱れた息の音が耳に届く。

 小春はゆっくりと、顔を上げた。

 小春の目に、拓朗の姿が映った。

 いつも、二人並んで夕日を見るその位置に、拓朗は一人で立っていた。手にしていた携帯電話をポケットに入れて、拓朗は欄干に手をかけた。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 拓朗の姿が、ふいに歪んで見えた。目に、知らず知らずに涙がたまる。

 拓朗はこちらに気づいていない。

 お願い、気づいて。

 小春の願いも空しく、拓朗は欄干から身を乗り出した。

 遠く、踏切の警報器の音が聞こえてくる。

 もうすぐ、電車がこの下を通るだろう。このまま、拓朗が落ちてしまえば助からない。

 そんなの、嫌だ。

 小春はまた、足を動かした。

「……ぃ……」

 涙が頬を伝う。

「……お、願い……お願いやめて、拓朗さん」

 強く、強く思った言葉。

 拓朗が、こちらを向いた。

「小春ちゃん」

 拓朗は驚いたように、走ってくる小春に目をとめた。欄干から乗り出していた身を起こす。

 その体に、小春は抱きついた。

「いや、嫌だよ。拓朗さん。さよならなんて嫌、そんなの嫌だよ」

「小春ちゃん……」

 驚きと戸惑いが、ないまぜになったような拓朗の声。

「拓朗さんは独りじゃないよ。私がいるでしょ。私には、拓朗さんが必要だよ。必要なんだよ」

 ぼろぼろと、涙をこぼしながら、小春は言った。口から嗚咽が漏れて、うまく声が出せなくなる。

 轟音が二人の耳に届いた。電車が、下を通過したのだ。足もとが少し揺れる。

 小春の嗚咽が一時轟音にかき消された。

「さよならなんて、言わないでよ。私を見捨てないで」

 嗚咽の合間、とぎれとぎれに小春は言った。拓朗の胸につけていた頬を離して、小春は拓朗の顔を見上げた。

 どこか呆然としていた拓朗の瞳に、光が宿ったように小春には見えた。

 拓朗の大きな手が、小春の頬を包んだ。

「小春ちゃん。声、出たね」

「え?」

 聞き返して、その声に驚いた。

 口元に両手をあてた。拓朗の手が伝っていた涙をぬぐって、頬から離れる。小春はもう一度、口を開いた。もう、涙は止まっていた。

「拓朗さん。私、しゃべってる?」

 恐る恐る、口を動かすと意識せずとも声が出た。信じられなかった。二年間一度も、それこそ何度も何度も出そうとしていたのに。全く、無意識のうちに声が出ていたなんて。必死で、声が出ていることなんて気づいていなかった。

「信じられない」

 拓朗は、小春に視線を合わせるように、少しかがむと微笑んだ。その優しい笑顔に、安堵する。

「小春ちゃんには、びっくりさせられっぱなしだな。最初に会ったときもそうだけど、また、俺は小春ちゃんに救われた」

 その声に、なぜだか急に恥ずかしくなって小春は目を伏る。

「小春ちゃんを泣かせるつもりなんて、なかったんだ」

「拓朗さん」

 小春は、拓朗の声音に、辛そうな響きを感じ取って顔を上げた。

 笑顔なのに、どこか辛そうに見えるその顔に、小春の顔も曇る。

「独りじゃないって言ってくれてありがとう。小春ちゃんが頑張ったのに、俺が頑張らないわけにはいかないよな」

 自分に言い聞かせるような拓朗の言葉。

 不意に、小春は拓朗に抱き寄せられた。頬を拓朗の胸につけた小春の耳に、拓朗の声が間近に響く。

「小春ちゃんに会えてよかった」

 小春の目にまた、涙が溜まった。まるで涙腺が壊れたように、あとからあとから、涙が頬を伝う。

 拓朗は、小春が泣きやむまでずっと小春を抱きしめていてくれた。

 いつの間にか、夕日は沈み、月と星が二人を見下ろしていた。




 一年後。

 小春は大学生になった。あれから、声が出なくなることはなかった。

 拓朗も、就職先が決まり、今は忙しく働いている。

 それでも、時々。小春は拓朗と一緒にあの高架橋の上で夕日を見る。

 綺麗だねと小春が言えば、綺麗だねとそう返してくれる拓朗がいることに、感謝しながら。

 


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

この小説は、マグロ頭さま発案の『ことば小説企画』に参加した作品です。


ジャンルを恋愛にしたんですけど、これ、恋愛なんでしょうか? 好きだとか、愛してるとか一言も言ってないですしね。でも、近いかなぁと思って恋愛にしてみました。

もし、こっちのジャンルの方があってるんじゃない。なんてご意見がありましたら、教えていただければ嬉しいです。


この企画の作品制限にて、ことばについての自らの結論を書くこととあります。

と、いうわけで、書いてみようと思います。


私にとってのことばとは『難しいもの』でしょうか。使い方一つで、人を救うことも、傷つけることもできます。何気ない言葉が相手を傷つけてしまう。もしくは、自分が傷ついてしまう。だからと言って、それをこわがっていては、何も言えなくなってしまう。

そう考えると、ん〜言葉(の使い方)って難しいよな。って思うのです。


あ〜。なんか、もっと書きたいことがあった気がするんですけども。いざあとがきを書いていたら、出てきません。なんだかなぁ。まあ、あんまりくどくど書いてもしょうがないのでこの辺が妥当なのかもしれません。


では、最後になりましたが、マグロ頭さま。素敵な企画に参加させていただきありがとうございました。


そして、読んでくださった皆様に、感謝の意をこめて。

愛田美月でした。

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― 新着の感想 ―
[一言] なんか暖かくなる作品で良かったです。
[一言] なるほど恋愛とはこう書くのかと勉強になりました。自分なら小春と浅井の出会いの時、助けようと駆け寄った小春がうっかり浅井を高架橋から突き落としてしまう、なんてストーリーにしちゃう所です。これぞ…
2009/03/09 23:07 退会済み
管理
[一言]  拝読させていただきました。  途中でオチが見えましたが、簡潔でよどみのない文章で最後まですんなりと読めました。ともすれば、ひどく暗くなりそうなテーマをさらりと表現してあるのも好みの作品です…
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