BRAT&FART
作:長谷川 ※R15
これは今から10年ほど前の話だ。
アメリカはニューヨーク、マンハッタン。
アメリカンドリームの聖地とも言うべき劇場街、ブロードウェイを西へ折れたところに、かつてボヘミアンの溜まり場だったブリーカー・ストリートという通りがある。
その通りを更に横道へ逸れた先にある場末の映画館、『Cinema Anthony』。
当時華の17歳だった俺は、学生の本業である勉強など景気よく放り出してよくその映画館に通っていた。
シアターは3つだけ。しかも1シアター40席というケチな映画館だ。
建物は古くオンボロで、エントランスを飾っていた赤い看板は塗装が剥げていつ見てもみすぼらしかった。
館内も狭く、カウンターにはいつも無愛想なばあさんが1人だけ。売店なんてもちろんない。
今にして思うと、あれだけ数多くの映画館がひしめき合っているあの界隈で、あんなふざけた映画館が潰れずに残っていたことが不思議だ。いつ訪ねてもシアターはほとんど貸切状態だったから、あるいはあの映画館がどこぞのファミリーの取引場所になっていて、あのばあさんはその上前を撥ねていたのでは、なんて想像に走ってしまう。
まったく馬鹿げた空想だ。
しかし当時の俺はそんな馬鹿げた空想に耽るのが大好きだった。
いや、薬がないと生きていけない薬物中毒者みたいにハマり込んでいた、と言ってもいい。
『Cinema Anthony』で上映されていた映画はどれも、大通りの大劇場なんかじゃ絶対に上映されないであろうB級映画ばかりだった。あとはごく稀に――こんな言い方をすると意識高いワイン野郎や皮肉屋なイギリス人は憤慨するだろうが――辛気臭くてつまらないフランス映画やイギリス映画なんかも上映していたような気がする。
けれど俺は、隣の席に座っているのがたとえ幽霊だったとしても不思議じゃない、そんなオンボロ映画館で観るB級映画が大好きだった。
それもただのB級映画じゃない。俺が『Cinema Anthony』へ足を運ぶときはいつだってマフィアやギャング、殺し屋と言った裏社会に生きる男たちが主人公の映画が目当てだった。いわゆるサスペンスとかハードボイルドとか呼ばれるジャンルの映画だ。
ああいうジャンルの映画と『Cinema Anthony』が持つ頽廃的な空気の親和性は異様だった。あのあちこちひび割れたコンクリートの箱の中で観るデカダンス映画はいつだって雰囲気満点だった。
あの独特の空気感は、ニューヨーク広しと言えどきっと『Cinema Anthony』でしか味わえなかったことだろう。
つまるところ『Cinema Anthony』は俺にとっての隠れ家であり、秘密基地であり、アジトだった。あそこへ行けばいつだって手軽に〝俺だけがこの穴場を知っている〟という優越感に浸ることができたし、何だかとても背徳的なことをしている気分になれた。
馬鹿げてると思われるかもしれないが、〝17歳〟と言えば誰しも思い当たるところがあるだろう。
そう、つまり当時の俺はそういうことにひたすら憧れる年頃だった。
あの胸を焦がすほどの憧憬は一体どこからやってきたのか、今思い返してみてもよく分からない。
ただ決められた社会の枠組みだとか、自分に課せられた役割だとか、延々と繰り返されるだけの刺激のない毎日だとか、とにかくそういうものに支配されている息苦しさから逃げ出したかった……のかもしれない。
そんな思いが向かった先がマフィアとか殺し屋とかいう人種が蠢く、いわゆる〝アンダーグラウンド〟と呼ばれる世界だ。
映画の中の彼らはいつだって過激な立ち振る舞いで俺を魅了し、何ものにもとらわれずに生きることの素晴らしさを教えてくれた。ときには絶対的正義の象徴である警察や当局との死闘を繰り広げ、そんなくだらない偶像はぶち壊せと俺を煽り立てた。
果たしてその影響なのかどうか。
いつしかティーンエイジャーの俺は一流の殺し屋になることを夢見るようになっていた。
この息苦しいばかりの世界を、己の手でぶち壊す力がほしかったのだ。
どんな巨悪も、あるいはどんな正義も指先1つで屠れるほどの殺し屋になれば、きっとそんな力が手に入ると思った。俺はその空想を熱狂的に信奉した。
あれは、そう。
そんな17歳の秋のことだ。
貴重な秋休み初日。俺はまるで生まれる前からそうするよう神に命じられていたかのごとく、早朝から『Cinema Anthony』へ足を向けた。
イカした落書きまみれの地下鉄に乗り、ブリーカー・ストリート駅へ。今日は昼を挟んで観たい映画が2つある。1つは2人の殺し屋が殺人事件を目撃した少年を誘拐する話。もう1つはマフィアたちのドロドロした駆け引きや抗争を描く暴力映画だ。
俺は乗車駅で買ったターキー・ブレストを頬張りながら、家から持ち出してきたニューヨーク・ポストを眺めて本日の上映スケジュールを確認した。今から行けば前者の最初の上映には間に合うだろう。
主演は老練で冷静沈着な殺し屋を演じるロイ・シャイダーと、その相方を演じるアダム・ボールドウィン。アクションシーンはそれほどでもないが、主演2人の快演と観客をストーリーに引き込む緊張感はなかなかのものらしい。これは期待できそうだ。
通勤時間を過ぎ、客足もまばらになった駅で地下鉄を下りて改札を出る。折り畳んだニューヨーク・ポストは着古しのジーンズの尻ポケットに突っ込み、足取りも軽く階段を駆け上がった。
ブリーカー・ストリート駅から『Cinema Anthony』までは歩いて15分ほどだ。俺は途中の売店でビッグサイズのコーラと山盛りのフレンチフライを買った。
――え? ついさっき地下鉄でターキー・ブレストを食ったばかりだろうって?
馬鹿言っちゃいけない。こいつらは映画のお供には欠かせない、最高のソウルメイトだ。
「『COHEN&TATE』、大人1枚」
お目当ての『Cinema Anthony』へ入り、カウンターに座った白髪混じりのばあさんに声をかける。料金は言われる前にカウンターの上を滑らせた。
その金をじろりと睨んだばあさんは、次いでつまらなそうに俺を見上げる。「またあんたかい」とでも言いたげな、実にふてぶてしい態度だ。
けれどそんな威嚇に怯むような俺じゃない。すっかり慣れてしまったやりとりに俺がニッと笑ってやれば、ばあさんはますます不機嫌な顔をしてチケットの半分を渡してきた。
俺は「Thanks」と短く礼を言って、半券に記された3番シアターを目指す。ここでは基本的に席は早い者勝ちだ。
とは言えこの映画館に席を争うほどの客が来るのかと言われれば答えはNo。今日だってカウンターを通りすぎた先の待合室はがらんとしている。
聞こえるのは侵入者を警戒するような空調の低い唸りだけ。
俺は皮張りの重い扉を開けてシアターへ入った。
上映開始まではあと20分近くある。
これならシアターのど真ん中、最もスクリーンがよく見える特等席は俺のものだろう――
と、思ったのだが。
「よう。遅かったな、ボウズ」
意気揚々と扉を抜けた先。まだ照明の明るいホールで座席を見上げた俺は、立ち止まって「Shit!」と悪態をついた。
何故なら俺が今日こそはと奪取を目論んでいた特等席に、年配の男が1人。
薄い唇を皮肉げに歪めたロマンスグレーの男だ。ちなみにその男が口にした〝Brat〟というのは名前じゃない。アレは〝悪ガキ〟とか〝イタズラボウズ〟とかいう意味のナメた言葉だ。しかしあの男は決まって俺を〝Brat〟と呼ぶ。こっちの抗議なんて聞きゃしない。
「またあんたかよ、Fart」
だから俺も負けじと目を眇め、心底憎々しげにそう呼んでやった。
もちろん〝Fart〟というのも名前じゃない。まあ、一言で言うなれば〝クソジジイ〟。そんな意味だ。
「相変わらず失礼なやつだな。せっかくこうしてお前の特等席を温めてやってたってのに」
「Wow、そいつは最高だ。おまけに枯れたオッサンの加齢と煙草の臭いつきってか?」
「ああ、そうだ、感謝しろ。今なら特別に10ドルでこの席を譲ってやる。これだけのサービスがついてこの値段は格安だぞ」
「Get fucked,bum」
〝クソ喰らえ〟。忌々しい思いでそう吐き捨てながら、俺はフットライトに照らされた階段を不機嫌に上った。
そうしてオッサンに陣取られた特等席から2つほど離れた席に腰を下ろす。スクリーンに対してちょっと右に寄っているが、今日も俺は負けたのだ。仕方がない。
「最近よく来るな、あんた。相変わらず暇なの?」
「暇じゃあないさ。だからこうして息抜きに来てる」
「馬鹿言え。本当に売れっ子作家なら、朝っぱらからこんなシケた映画館でガキ相手に小銭をせびったりするもんか」
「お前、どうして俺が小説家なんてケチな職業に就いたと思ってる? 毎日が安息日だからさ」
「そんなに信心深いならミサに行けよ。あんたが売れないのはミサをサボってるからだぞ」
「お前はどうしても俺を売れない作家にしたいようだな」
「信用してほしいならそろそろペンネームくらい明かせばいい」
「その手には乗らん。だいたいお前も殺し屋志望なら、それくらい自分で調べてみろと言ったろう。お前、もし雇い主にエドという男を殺せと言われたら、アメリカ中のエドを殺す気か?」
俺はそっぽを向いて舌打ちした。このオッサンはいちいちイギリス人みたいな皮肉を返してきやがる。
俺が〝Fart〟と呼ぶこのオッサンは自称小説家。毎日のように映画を見ないと自作のネタを拈り出せないというアイディア欠乏症に罹っているらしく、いつもブロードウェイ周辺をうろうろしている。
その中でも『Cinema Anthony』はやつのお気に入りだとかで、俺がこの映画館の存在を知った頃には既にここの常連だった。だから何かと先輩面で能書きを垂れてくるのだが、正直俺はそれがうざったくて仕方ない。こいつさえいなければここのシアターはほぼ毎日貸切りと言ってもいいのに。まったくこの老いぼれは、どんだけ暇なんだか。
まあしかし老いぼれとは言っても、この劇場の妖怪であるカウンターのばあさんほどヨボヨボじゃあない。
見た目は54、5歳と言ったところか。黒い髪に白髪が混ざりまくってるわりには背筋もしゃんとしていて背が高い。顔つきは黙っていればそれなりの紳士に見えるはずだ。ただし、あくまで黙っていればの話。
ムカつくのは今日みたいにラフな襟つきの黒シャツを着ているだけでも、そこそこ品のいい男に見えることだ。アレと同じシャツをうちの父さんが着ていたらどうだろう。きっとただのくたびれたサラリーマンにしか見えないに違いない。
その差を言葉で言い表すなら……Ummm……たぶん、〝渋み〟とか〝貫禄〟とかだろうか。認めるのは癪だがこのオッサンはそこそこ顔がいい。若い頃は女にもそこそこモテただろう。そこそこな。
俺がこのオッサンと出会ったのは今から1年くらい前のこと。その当時から俺は既に犯罪映画の虜で、この『Cinema Anthony』にも頻繁に出入りしていた。
だがここまで人の出入りが少ない映画館に足繁く通っていると、自然、他の常連客の数や顔が分かってくる。俺は毎度のようにこの狭いシアターの真ん中でフレンチフライを貪りながら、次第にある1人の男の存在が気になるようになっていった。
それが〝Fart〟。
このイケ好かない小説家だ。
気づけばFartは、俺がシアターに足を運ぶときはいつもそこにいた。映画の趣味が合うのか、はたまた単なる嫌がらせか、俺が映画館に来ていつもの席に腰を下ろすと視界の端には必ずFartの姿があった。
初めは互いにそれほど意識していたつもりはない。
けれど薄暗いシアターでの邂逅がついに7回目を数えたとき、
「お前、こういう映画が好きなのか?」
と、エンドロールを見届けてシアターを出ようとした俺に、後ろからFartがそう声をかけてきた。
Fartも最初はただの興味本位だったのだろう。だから俺は答えた。
「あんたこそ」
と。するとFartは皮肉げに笑った。
「俺は映画なら何でも好きだ。だがお前がここに顔を出すときはいつもマフィアやら殺し屋やらがスクリーンの中で拳銃をぶっ放してる」
「……」
図星だった。俺は知らぬ間に自分の趣味嗜好を探られていたことに一抹の不快感を覚えながらも、「ああ、そうだよ」と答えた。
するとFartは更に冷笑して、
「あんな映画のどこがいいんだ?」
とまったくナンセンスな問いを投げかけてきた。
直前まで俺と2人きり、同じ映画を見ていたとは思えない発言だ。つまらないと思うなら観なければいいのに、少なくともこいつは7回も俺と一緒にフィルム・ノワールを観ていた。
なのにそんな頓珍漢なことを言うFartに俺は眉をひそめながら、頭のてっぺんからつま先まで、まじまじとその姿を眺めたのを覚えている。
するとFartはその視線と沈黙とを俺の答えと受け取ったのか、
「晩飯をおごってやる」
そう言った。
俺とFartの特等席争奪戦が始まったのはその頃からだ。
ちなみにその晩、俺はFartによって連れ込まれた怪しげなバーで馬鹿みたいにうまいステーキを1ポンドも食わされ、更には酒まで飲まされた。
念のために言っておくが、当時俺は16歳だ。ニューヨークでは21歳未満の市民が酒を飲むことは固く禁じられている。
なのにFartは平気な顔でカリブ産のキュラソーを「オレンジジュースだ」と言って俺に飲ませた。そのポーカーフェイスに騙された俺はまんまと喉を鳴らしてグラスを呷り、翌日二日酔いで学校を休む羽目になった。
癪なのはそれだけじゃない。Fartはその晩、酔っ払ってべろんべろんになった俺からこちらの素性を洗いざらい聞き出しやがった。
そんなことを見ず知らずの男に喋った記憶なんて毛ほどもないのに、Fartは次に会ったとき、
「よう、Brat。酒が飲めないやつに殺し屋なんて務まらんぞ」
と、親にも話したことのない俺のささやかな夢を何もかも知った風に嘲笑しやがったのだ。俺は目の前が真っ暗になった。
以来、Fartはことあるごとに〝殺し屋志望〟の俺をからかってくる。たぶん俺みたいなやつが本当に殺し屋になれるなんてハナから思っちゃいないんだろう。「もしお前が殺し屋になれたら、そのときはお前を主人公にしたベストセラーを書いてやる」と笑われた。そのとき俺は――引き金を引くかどうかは未来の自分に委ねるとして――殺し屋になったら真っ先にこのオヤジの眉間に銃口をつきつけてやろうと心に誓った。
だがこうは思わないか?
このクソオヤジは姑息な手段で俺の内臓を暴いたってのに、俺はこいつの腹にメスを入れることさえできないなんて不公平だって。
ここは自由と平等の国アメリカだ。建国の父トーマス・ジェファーソンは独立宣言の中で謳った。〝すべての人間は平等につくられている〟と。
だから俺は俺のやり方でFartの腹を開いてやろうと思った。本人は自分が小説家であること以外、「殺し屋になりたいならそれくらい自分でつきとめろ」と言って名前さえ教えようとしない。まったく、どこまでもふざけたヤツだ。
だがいい。そっちがその気ならお望みどおりにしてやる。
そう思った俺はある日、映画館を出て帰路に就いたFartのあとをひそかに尾行けた。
3分で撒かれた。
だってあいつ、通りに出るなりタクシーに乗りやがったんだ。俺が一流の殺し屋だったなら自分も別のタクシーを掴まえて、運転手に「あの車を追跡しろ」と言うこともできただろう。
しかし悲しいかな、俺はまだ月に100ドルの小遣いを何とかやりくりしているしがないティーンエイジャーだ。どこまで行くのか分からない車を追って自分もイエローキャブに飛び乗るなんて大胆な真似は、金欠という名の壁に阻まれできなかった。
そんなわけで俺は今もFartの素性を何一つ掴めないでいる。なのにこいつを売れない小説家だと決めつけてかかっているのは、俺を見る度に優越感丸出しの顔でニヤニヤ笑うFartの大人げのなさがムカつくからだ。
しかしそうして俺がもたついている間にも、俺たちの関係は少しずつ変化し始めていた。
そう。
神の目にしか映らないくらい少しずつ、着実に。
× × ×
「最高だった」
と、目の前のホットドッグにかぶりつきながら俺は言った。
「いいや、最低だね」
と、渋い顔でベーグルサンドを口に運びながらFartは言う。
『Cinema Anthony』で『COHEN&TATE』を観終わったあとのことだった。俺たちは一度映画館を出、ブリーカー・ストリート沿いにあるブランチカフェで軽めの昼食を取っていた。
本当によく食うやつだって?
いいんだよ、俺は育ち盛りなんだから。
それに上映中に食べたフレンチフライは、今や最高に面白い映画を観たあとの興奮で完全に消化されてしまっている。俺は映画を観たあとは大抵こうだが、それにしてもこんなに楽しめた映画は久々だった。
「あんた観てなかったのかよ、あのコーエンが血塗れになりながらテイトを撃つシーン。あそこは最高にクールだったぜ。それにラストのトラヴィスとのやりとりも」
「あれがクールだと? 冗談じゃない。そもそもあのコーエンとかいう男は、30年もあの仕事をやってるくせに抜かりすぎだ。殺し屋なら、普通は自分が撃った相手が確かに死んだかどうか確認するだろう。やつは二度もそれを怠ったんだ。まったくひどい脚本だった」
「けど最初の父親はともかく、あの状況でテイトが生きてるとは誰も思わないだろ。だってコーエンは完璧にやつの心臓を撃ってた」
「ふん。俺だったら心臓じゃなく頭を撃ったね。あの距離ならその方がより確実だった。そもそもあのテイトとかいう若造が気に入らん。殺し屋なら警察に追われるのは当然だ。それをいちいち蹴っ飛ばされた鶏みたいに騒ぎやがって」
「そんなに言うなら、あんたが自分で理想の殺し屋を書いてみろよ。売れれば映画化されるかもしれないし、もしそうなったら特別に観に行ってやってもいいぜ」
まあ、本当にそんな売れ線があんたに書けるならな。そんな皮肉を朝食のピーナッツバターみたいにたっぷりと塗りつけて、俺は口の端で嗤ってやった。
Fartはそれが物書きとしてのプライドなのか、はたまた歳を重ねるごとに偏屈になっていく人間の性ゆえか、映画を観終わったあとは必ずこうしてシラミを探すようなことを言う。
だがそこまで言うならあんたの小説を見せてみろと迫っても、のらりくらりと躱すばかりで一向に尻尾を見せなかった。
まったく、この卑怯者のロクデナシめ。他人の作品はいくらでも批判するが、自分の作品は誰にも批判されたくないって?
それともやっぱり〝売れっ子小説家〟なんて肩書きは嘘なのか?
どちらにせよとんだチキン野郎だ。違うなら正々堂々と――
「殺し屋が主人公の話なら、もう書いてる」
――白状しろ。
そう俺が心の中で言い終える前に、Fartはそう言ってニヤリとした。
その笑みを見て俺は確信する。
なんてこった。まさかこいつは俺を挑発してやがったのか? 皮肉を皮肉で迎撃するために。
だとしたらなんて大人げのないやつなんだ!
「へえ、そうかよ。で、それ、いつ映画化するの?」
だがここで青筋を立てたりしたらこのジジイの思うツボだ。俺は必死でそう言い聞かせ、こめかみがひくつきそうになるのをこらえながら尋ねた。
対するFartは至って余裕の表情だ。それどころか俺を策にハメたことで満足したのか、微笑みながら優雅にエスプレッソなんぞ啜ってやがる。
God damn it。
死ぬほど憎たらしい。
「映画化はしない。たとえそんな話が来ても、俺は断る気でいるからな。あの話には映画にして映えるような華がない。礼拝で聞く説教より退屈だったと観客に叩かれるのがオチさ」
「主演がトム・クルーズで監督がトニー・スコットでも?」
「ああ、無理だね」
「そりゃ、原作がよっぽどの駄作ってことだ」
「俺はリアリストなんだ」
すました顔で食べかけのベーグルサンドを掴みながら、Fartは言った。
余談だが、信じられないことにFartの注文したベーグルサンドにはハムもベーコンもスモークサーモンも入っていない。年寄りの胃には重すぎるからと、挟んであるのは定番のクリームチーズとレモンをかけたアボガド、そしてアクセントのマスタードだけだ。こいつはそれでもニューヨーカーのつもりだろうか。まったく歳は取りたくない。
「だから映画みたいに派手だが破綻した話は書かない。いや、書けないんだな。昔から染みついた習慣、あるいは性格みたいなもんだ。ただ上から命ぜられるままに淡々と、誰にも知られることなく、慎重かつ確実にターゲットを殺していく話。そこにはヒーローも悪役もいない。ただ殺す人間と殺される人間がいるだけ……そんな話が世の中に受けると思うか?」
「それがあんたの〝理想の殺し屋〟?」
「殺し屋に理想もクソもあるか。そういう生き物なんだよ、殺し屋ってのは。俺はただその現実に従っているだけだ。そして現実ってのは、往々にしてそういうもんさ」
薄い唇に薄い冷笑を貼りつけて、悟ったようなことをFartは言う。俺はそんなFartの顔をちらりと見ながら、ケチャップとマスタードたっぷりのホットドッグにかぶりついた。
いつもならそこで「小説家のくせに夢のないやつ」とか「これだから年寄りは嫌だ」とか、俺からも更なる皮肉をかましてやるところだが、今日は敢えて見逃してやる。
何故なら珍しく意見が合ったからだ。
そう、現実ってのはそういうもんだ。
でも、俺はだからこそ、そんな現実に風穴を開けられる殺し屋になりたい。
「ところでBrat。お前、来週の日曜日は暇か?」
「Why?」
いきなり話が飛んだので、俺は思わず眉をひそめた。Fartからそんなことを訊かれたのは初めてだったから、というのもある。
「31日は平日だから、実質日曜がハロウィンみたいなもんだろう。それとも、お子様はおうちでママの特製パンプキンパイを食べるのに忙しいか?」
「暇だよ」
マザコン扱いされたことにイラッとして、俺の口はつい脊髄反射を起こしていた。
が、今にして思えば、それもFartの罠だったのだ。その答えを聞いてニヤリとしたFartの忌々しい顔を、俺は今でも神を呪いたくなるほどハッキリと覚えている。
「なるほど。つまりお前にはハロウィンパーティーに誘うガールフレンドも、誘ってくれる友達もいないってことか。寂しいやつだな」
「う、うるせえな! 俺はただ、そういう馴れ合いが嫌いなんだよ。それに日曜は前からチェックしてた映画の公開日だから、それを観て過ごそうと思ってたんだ」
「ふうん。ならそういうことにしといてやる。だがどうせ映画を観に来るならちょっと付き合え。面白いものを見せてやる」
「面白いもの?」
してやったり、という顔をしているFartを心底憎々しく思いながらも、俺は思わず片眉を上げて聞き返した。
Fartはその問いに、ベーグルを口へ運びながらニヤニヤとして頷いている。最後の一口だ。いつも思うがこのオッサン、年寄りのくせに物を食い終わるのが異様に早い。
「それ、『COHEN&TATE』より面白いの?」
「あの映画は最低だと言ったろう」
最後に手についた食いカスを払いながらFartは言った。……まったくこのオッサンも頑固だな。
だがいいだろう。そこまで言うなら見定めてやる。このオッサンの言う〝面白い〟が本物かどうか。
もしそれが最高につまらなかったら、こいつの正体は〝売れない作家〟でファイナルアンサーだ。
× × ×
10月30日、日曜日。
ニューヨーク、セントラルパーク。
俺はそこで煙草を吹かしながら目を細めている目の前のオッサンを、唖然として眺めていた。
フランケンシュタインのマスクに開いた小さな2つの覗き穴から。
「……まさか本当に仮装してくるとはな」
「あんたがしてこいって言ったんだろうが!」
あまりの衝撃に正常な判断力を失った俺は、そう叫びながらマスクを地面へ叩きつける。剥ぎ取られたフランケンシュタインは口を半開きにした間抜け面のまま、赤い石畳の上で潰れた。
ふーっと満足そうに煙を吐いたFartの頭上には天使。こう言うとこのオッサンが神の祝福でも受けているかのように聞こえるが断じて違う。天使は天使でも、翼を広げた彫刻の天使だ。
Fartが待ち合わせ場所として指定してきたベセスダの噴水。その中央の柱の上で、天使はもう100年以上前からこの公園を訪れる人々を見守っていた。
噴水の背後に広がるのは、紅葉した木々に囲まれた湖。ここより北のJacqueline Kennedy Oassis Reservoir――パークの中心部を占める巨大な貯水湖――に比べたら子供みたいに小さな湖だが、さすがに10月末ともなると湖畔にはキンとした冷たい空気が張り詰めている。
「いや、あれはほんの冗談のつもりだったんだが……そうか。お前、そんなにハロウィンが楽しみだったのか」
「うるせえ! 俺はあんたが仮装してこいっつーから何かあるのかと思って言うとおりにしてきたんだよ! ハロウィンなら仮装して行くのも当たり前かって思うだろうが!」
「だとしても、まさか公園の向こうからフランケンシュタインが歩いてくるとは思わなかったぞ。それ、駅からずっと被ってきたのか? 意外と律儀なやつだな」
「なわけあるか! 公園に入ってから被ったに決まってるだろ! だってほら、周りもみんな仮装してるし!」
俺は今にも地団駄を踏みたい衝動を必死に抑えながら、大勢の来訪者で賑わう噴水広場を指さした。
そこには紫の三角帽子を被った魔女や毛むくじゃらの狼男、顔の半分が潰れたゾンビに何故かまぎれているダース・ベイダーと、とかく人ならざる者がうようよしている。
それもそのはず。何せ今日はこのセントラルパークで、毎年恒例のハロウィンイベントが開かれるのだった。
それもただのイベントじゃない。いつもなら出店が出たりどっかのバンドの野外ライブがあったりとその程度の催し物なのだが、今年は滅多にない目玉行事がある。
エドワード・ハート。
現役民主党議員の街頭演説だった。
ハートは来週の火曜に迫ったアメリカ大統領選挙の超有力候補。現副大統領にして過去にCIA長官も務めた経歴がある共和党議員ボブ・R・ブッシュと並び立ち、今や大接戦を繰り広げているパーソン・イン・ザ・ニュースだ。
そのハートが今日、これからこの公園に最後の追い込みにやってくる。
放っておいてもニューヨーク中から人が集まるハロウィンのセントラルパークで演説を計画するなんて、やはりハートはなかなかのキレ者だ。世論調査でやや押され気味のブッシュがテレビで垂れ流す根も葉もない中傷CMなど歯牙にもかけず、むしろ「私は誹謗中傷ではなく政策で共和党と戦います」なんて微笑んで、今やアメリカ中を沸かせている。
そのハート本人が訪れるとあって、セントラルパークはかつてない賑わいを見せていた。
と言っても演説の時間までまだ間があるから、パークに集まりつつある支援者は今のところ出店で買った軽食を食べたり、イベントの1つとして用意されたパンプキン・カービング――ジャック・オ・ランタン作り――に熱中したりしている。どうにも空模様が怪しいのが気になるが、陽気なニューヨーカーたちはそんなものなどお構いなしだ。
「まあ、そうカッカするなよ。せっかくのハロウィンだ。はしゃぎたいなら好きなだけはしゃげばいい」
「俺はあんたに呼ばれたから来ただけであって、ハロウィンなんてほんとはどうだっていいんだよ! で、何なんだ、あんたが言ってた〝面白いもの〟ってのは!?」
「今のお前のことさ」
「帰る!」
「待て、冗談だ。実はお前に見せたいものがあってな……」
息巻いて身を翻し、ずかずかと歩き出そうとした俺を、Fartは笑いながら呼び止めた。
が、そのFartがふと何かに気づいたように言葉を切る。つられて振り向けば、視界いっぱいに黄色が飛び込んできて俺は一瞬仰け反った。
「Hello! ハロウィンイベントへようこそ! 本日の記念にポラロイド写真はいかがですか?」
目が痛くなるような黄色のカツラに丸い付け鼻。笑いながら泣いている顔のペイントがちょっと不気味な細身のピエロが、1台のカメラを手ににこにことそこに佇んでいる。
黄緑色のオーバーオールの胸元には『1snap=$5』と書かれたプラカード。
なるほど、写真屋か。しかし1回の撮影につき5ドルって、ぼったくりもいいところじゃないか?
「いや、写真はいいよ……興味ないんだ」
「おやおや、そう言わず。せっかくのハロウィンじゃないですか~。お父様と一緒にいらした記念に、素敵な1枚をお撮りしますよ!」
「お父様?」
何言ってんだ、このピエロ?
俺は今日、ここには1人で――
と、そこまで考えてから、俺はようやく気がついた。
思わずバッとFartを振り返る。Fartは明後日の方角を向いていた。
その口角が小刻みに震えている。――あからさまに笑いこらえてんじゃねえか!
「おい、クソジジイ! なに他人のフリしてやがるんだ! このピエロ、あんたのこと〝お父様〟だってよ!」
「いや、生憎俺にはこんな間の抜けた息子はいない」
「俺だってこんなヤニ臭い親父を持った覚えなんかねーっつーの! ちくしょう、不愉快だ! やっぱり帰る!」
「まあ待てBrat、こちらさんも商売なんだ。そう目くじら立てずに、少しは喜捨の心を持て。――1枚頼むよ」
俺は唖然とした。Fartは自分の普段の言動を棚に上げ、黒いスラックスのポケットからおもむろに財布を取り出すと、そこから抜き出した5ドル札をさも紳士然とピエロに差し出した。
それを受け取ったピエロは戯けた身振り手振りで礼を言い、「さあ寄って寄って」と言わんばかりに真っ赤な手を振っている。冗談じゃない。
一体何が悲しくてこんなオッサンとのツーショットなんか撮られないといけないんだ? これじゃ親子どころかゲイと勘違いされてしまう。念のために言っておくが、俺にそっちの趣味はない。
いや、けどあるいは、Fartにはそっちの気があったりして?
そう言えばこのオッサン、結婚指輪もつけていないし、これまで一度も自分の家族の話をしたことがない。この歳で妻も子供もいないんだとしたら、考えられる可能性は3つある。
ただの行き遅れか、奥さんと死別あるいは逃げられたか、そもそも女に興味がないか。
3番目だったらシャレにならない。
だから今日も俺をここに呼んだのか?
だとしたらこの状況は限りなくヤバい。
そこまで思い至った俺が青い顔をして立ち尽くしていると、ときにFartが身を屈め、足元から何かを拾い上げた。
ヤツの手の中でくたりと力なく萎れたそれは、俺が先程地面に叩きつけたフランケンシュタインだ。
「ほら、せっかく持ってきたんだ。何なら被って写ったらどうだ?」
「い、いえ……結構です、Sir」
「何を急に畏まってんだ。もしかして写真は苦手か?」
「いや、苦手なのはゲイ……」
「俺はこれまで誰かに写真を撮ってもらったことがない」
ぼそりと零れかけた俺の本音は聞こえなかったようで、Fartはふと手元のフランケンに目を落としながら言った。
その言葉がちょっと意外で、俺は目を丸くする。Fartの表情には特に何の感慨も浮かんでいないが、これだけ長く生きてきて一度も写真を撮られたことがないなんてことがあるんだろうか?
「天涯孤独だったんでな。一緒に写真を撮るような相手がいなかった」
「……」
「かと言って、自分1人で写真を撮る機会なんてのもそうそうあるもんじゃないだろう? それじゃただのナルシストだ」
「そうかい? 俺は正直、あんたは泉に映った自分に恋するタイプだと思ってたぜ」
「ほう。ギリシャ神話を知ってるとは、意外と博識じゃないか」
「何なら今日からナルシッサスって呼んでやろうか?」
「いいや。それならヴィクターと呼べ」
「何だって?」
「こいつの父親の名前さ。――ほら」
「うわっ!?」
ほんの少しばかり油断した、次の瞬間。俺の視界は突然暗転し、その状況を理解するよりも早く腕を引かれてよろめいた。
直後に聞こえたカシャリという小気味良い音。そのときになって俺はようやく2つの覗き穴から視界を取り戻す。
正面にはカメラを構えた赤鼻のピエロ。――くそっ、撮られた!
その事実に気づいた俺はすかさず抗議しようとしたが、まるでマスクの下で口を開いた瞬間を見計らったかのように、Fartが俺の頭へ右腕を乗せてくる。重い!
「もう1枚頼むよ」
マスクごと押さえつけられた俺がその腕をどかそうと奮闘している間に、再びカシャリ。次に覗き穴の向こうに見えたのは、俺を見下ろして満足げに笑うFartのしたり顔だった。
腹が立った俺はありったけのスラングでFartを罵倒してやったが、やつはそんなものどこ吹く風だ。むしろ聞き慣れたBGMのようにそれを聞き流すと、もう1枚の5ドル札と引き替えにピエロから2枚の写真を受け取っている。
「ほら、こっちがお前のだ、クリーチャー」
受け取ったばかりのポラロイド写真は真っ黒で、何が写っているのかサッパリ分からない。しかし時間が経つと切り取られた時間が浮かび出し、そこには父親に押し潰された息子の姿があった。
ハッキリ言って、こんなものもらったところで俺はちっとも嬉しくない。
むしろ屈辱のあまり破り捨ててやりたかったが、結局そうしなかったのは、もう1枚の写真を見つめたFartが嬉しそうに目を細めてやがるのが覗き穴の向こうに見えたからだ。
……shit。
仕方がないから、破り捨てるのは家に帰ってからにしてやる。
それから俺たちは出店で適当に軽食を食べたり、無難な景品がもらえるというスタンプラリーに参加したりしながら、噴水広場の北にあるThe Great Lawnへと移動した。
〝見せたいもの〟というのが何なのか、Fartは一向に明かそうとしない。本当はそんなのただの口実で、もしかしたら俺を引き留めるためのデマカセなのではとも思ったが、そうするとFartの同性愛者説がにわかに信憑性を増して恐ろしかったので、俺はそれ以上の追及をやめた。
The Great Lawnはその名のとおり、木々が生い茂るセントラルパークの真ん中にぽっかりと開いた芝生広場だ。このパークのシンボルとも言うべき場所で、だだっ広い広場からはニューヨークの摩天楼がよく見える。
その芝生広場の北側にはステージが組まれ、秋の風に星条旗がたなびいていた。
ステージの上には白いスピーチ台。
大統領候補、エドワード・ハートの演説用ステージだ。
「もうすぐ始まるな。聞いていくか」
と、そのたいそうご立派なステージを眺めてFartが言った。
演説の時間まではあと30分以上あるにもかかわらず、ステージの前には早くも大勢の支援者が集まり始めている。中にはただのお祭り気分でやってきた輩もいるのだろうが、まあ、それにしても大した人気だ。
「俺、まだ選挙権ないんだけど?」
「社会勉強だ。来年からはお前も国政に参加するんだろう?」
「政治なんて興味ないよ。あんなのは所詮、金に汚いジジイどもが自分の欲望を満たすために政治家ごっこをしてるだけだろ」
「そいつは映画の観すぎだな。政治家が本当にそんな連中ばかりなら、この国はとっくに潰れてる。まあ、中には本当にどうしようもない馬鹿も確かにいるが」
煙草を咥え、黒い外套のポケットに手を入れて歩きながらFartは皮肉げに笑った。
風が吹いて、黄色や橙色に染まった木の葉がブワッと舞い上がる。この時期のセントラルパークは落ち葉がすごいのだ。
俺は潰れたフランケンシュタインを小脇に抱えたまま、革のジャケットの前を掻き合わせた。そうしながら、ちょっと口の端を上げて言う。
「意外だね。あんたにも人並みの愛国心があったなんて」
「最近芽生えたんだ。歳を喰ったせいかな。アメリカもまだまだ捨てたもんじゃないと、この歳になってようやく思えたのさ」
「じゃあ、それまではどう思ってたんだよ?」
「こんな国とっとと潰れちまえと、そう思ってた」
「ひでえオヤジだ」
「若気の至りってやつだな。若いうちは誰でも一度は考えるだろう?」
「どうかな。映画の観すぎなんじゃない?」
「なに、お前もすぐに分かるさ」
Fartは低く笑いながらそう言って、ステージの方へ足を向けた。
やっぱり俺は未来の大統領――になるかもしれない男――の演説なんてまったく興味がなかったけれど、仕方がない。皮肉屋の愛国者のために今日は特別に付き合ってやる。これで1年前に食わされたステーキの件はチャラだ。
俺とFartはステージ前に集まった群衆の中に加わり、そのままハートが現れるのを待った。
周りは仮装したニューヨーカーだらけ。未来の大統領の応援にカボチャ頭や血を垂らした吸血鬼が集まっている光景は何ともシュールだ。むしろまったく仮装していないFartが異様に見える。
俺はと言えば、この状況でFartと一緒にすましているのも何だったので、途中から再びフランケンを被って場の空気に溶け込んだ。
そうこうしている間にも支援者は更に続々と集まってくる。さっきまで群がる聴衆の最後列にいたはずの俺たちは、気づけばサラダボールの真ん中あたりに押し込まれる形になっていた。Oh,Jesus……帰りはえらいことになるぞ、こりゃ。
「Ladies and Gentlemen! 大変お待たせ致しました。これより現役民主党議員、エドワード・ハートによる大統領候補演説を開始致します!」
やがて俺の腕時計の針が午後1時を指した頃。ステージ上部に設けられたスピーカーから熟れた感じのアナウンスが轟き渡り、会場が一気に熱狂した。
星条旗がはためくステージに、すらりとしたスーツ姿の男が登場する。最近テレビでその顔を見ない日はないと言ってもいいほどの有名人。
本物のエドワード・ハートだ。
「皆さん、本日はようこそお集まり下さいました。魔女も怪人も、天使も悪魔も、あらゆる方々が時空と種族の壁を超えて応援に駆けつけて下さったこと、誠に光栄に思います」
スピーチ台に立って開口一番、支援者を見渡したハートの言葉にどっと会場が沸く。
生のハートはテレビのブラウン管を通して見るよりほんの少しだけ若く見えた。まるでハリウッドスターのようにバッチリ決めた髪型はなかなか様になっているし、笑うと浮かぶ目尻の皺が見る側に誠実そうな印象を与える。
ただ、思っていたよりもちょっとばかし背が低い。たぶん並んだら俺とFartの中間くらいの身長だ。笑いながら手を振るハートの顔に、お決まりのフラッシュの嵐が叩きつける。
「おい、Brat」
「うん?」
「耳を塞いでおけ」
そのときFartが、隣で何か意味深なことを言った。……〝耳を塞いでおけ〟だって?
おいおい。それじゃあ何のためにここに来たのか分からないじゃないか。最初に演説を聞こうと言い出したのはあんただろ?
そう言ってやろうと俺が顔を上げた先で、Fartはまっすぐにステージの上のハートを見つめている。
「さて、明日はハロウィンですが――」
と、その視線の先でハートがスピーチ台に身を乗り出した、そのときだった。
視界が暗転――ならぬ明転。
シャレにならない強烈なフラッシュ。
ほんの一瞬、世界から音が消え――
直後に轟き渡ったのは、体を粉々にするような爆音だった。
空を割るような悲鳴が上がる。マスクの内側で見開かれた俺の目に、炎上するステージが見えた。
会場は大パニック。1000を超える来場者が恐慌を来して思い思いに逃げ始める。
その大混乱の間に、見えた。
ステージの前で血塗れになって倒れている人。
燃え上がり、悲鳴を上げて芝生の上を転げ回っている人。
その火を消そうと必死の形相で駆け寄っていく人。
置き去りにされて泣き叫んでいる子供。
慌ててステージの上へ駆け上がっていく関係者。
木っ端微塵になったスピーチ台。
そのスピーチ台の傍に落ちた、誰かの左腕。
「て、テロだ!!」
逃げゆく群衆の中で誰かが叫んだ。
そんなの言われなくても見りゃ分かるよ、dumb-ass 。
問題はこのテロを起こしたのがどこのどいつかってことだ。
すべての音が遠く、今まで経験したこともないような耳鳴りが容赦なく鳴り響く中。
俺は隣に立つFartを、茫然と仰ぎ見た。
Fartはまだハートのいたステージを見つめている。
それからゆっくりと俺の方を見て、何か言った。
耳鳴りがひどくて何も聞こえない。
だけど口の動きだけで何となく分かる。
「だから」
「耳を塞げと」
「言ったろう?」
ドッと、心臓を蹴飛ばされたような衝撃が走った。
次に気がついたとき、俺は叫び声を上げて逃げ出していた。
恐慌状態に陥った群衆に紛れて逃げる。逃げる。逃げる。
俺はとんでもない男と知り合ってしまった。
あのテロの犯人が誰かなんて、もう考える必要もなかった。
あいつは殺し屋だ。
あいつがハートを殺した。
だけどどうして?
何のために?
あのオッサンは愛国者に鞍替えしたんじゃなかったのかよ?
嘘だった?
これまで俺の前で見せていた顔は、並べられた言葉は、全部、全部、全部――
ユダに裏切られたキリストは、こんな気持ちだったんだろうか?
がむしゃらに走って公園を出た。
どこをどう走ったのか、俺の体の一体どこにそんな持久力が眠っていたのか、まるで分からないことばかりだ。
気づけば俺は知らない裏路地にいて、フランケンシュタインのマスクを馬鹿みたいに被ったまま、なおも走り続けていた。
視界が狭い。息苦しい。
だけどこのマスクを外したら最後、俺は警察に捕まってしまうような気がする。
だって俺は殺し屋とずっと一緒にいたのだ。
今日に限ったことじゃない。この1年、暇さえあればあの殺し屋とつるんでいた。
そんな俺を警察がマークしていたとしたら?
俺もハート殺しの共犯だと容疑をかけられていたら?
フランケンのマスクの中は、汗と涙と鼻水でグショグショだった。
なんで?
どうしてこうなった?
確かに俺は殺し屋になりたいと夢見てたけど、こんな結末を望んだわけじゃない。手酷い裏切りや、未来の大統領が粉々になる瞬間を見たかったわけじゃない。
俺はただ力が欲しかった。俺を押さえつけ、閉じ込める現実を打ち砕く力が。
だけどその力の行く先がアレだってのか?
無関係の人間まで巻き込んで何もかも焼き尽くす、あの炎が――
「――Oops!」
そのとき全身に強い衝撃を感じて、俺は思わずよろめいた。
何とか踏み留まろうとしたものの、勢いがつきすぎて止まれない。そのまま前のめりに倒れ、地面の上を転がった。
……shucks。何とかアスファルトに手をついて体を起こしたものの、走りすぎたのか何なのか、頭がぐらぐらして立ち上がれない。
「おい、お前! どこ見て歩いてんだ!」
品のない怒声が聞こえた。立ち上がれないまま振り向くと、背後に見知らぬ2人の男がいる。
どちらもスーツに黒い外套姿の男だった。そのうちの1人がおもむろに腰を屈め、地面から何か拾い上げている。
隣の若い男が被っているのと同じ、黒の中折れ帽だった。どうやら俺はそちらの男と激突してしまったようだ。その拍子に帽子が落ちたのだろうが、しかしそのとき、俺は猛烈に気が立っていた。
そう、何故か猛烈に気が立っていたんだ。
制御できない核ミサイルを腕の中に抱いている気分だった。
そしてその核ミサイルは、若い方の男が上げたヒステリックな声で起爆した。
あのとき爆発した感情を何と呼べばいいのか、俺は今もその名前を見つけられずにいる。
「うるせえ! そっちこそちんたら歩いてんじゃねえよ、ホモ野郎!」
地面に腰を抜かしたまま――なおかつフランケンのマスクを被ったままというあまりにもお間抜けな格好で、腹の底から俺は叫んだ。
とにかく叫んで、叫んで、叫び倒して、腹の中で暴れ回っている正体不明の感情をぶちまけてしまいたかったんだ。
だがその欲求に素直に従ったのがまずかった。俺の放った〝ホモ野郎〟という侮辱語を聞いた若い男が、帽子の下で顔色を変えた。
その瞳がみるみる怒りに染まり、懐から何かを掴み出す。
ほんの一刹那の動作で俺に向けられたそれは――拳銃。
俺が目を見開いたそのときにはもう、男の指は引き金にかけられていた。
乾いた銃声が2発。
いや、それは〝銃声〟と呼べるほどたいそうなものじゃなかった。
プシュッ、プシュッと、気の抜けるような音が2回響いただけ。
直後に目の前の男が2人、胸から血を噴いて倒れた。
男のオートマチックがアスファルトの上を滑り、ざらついた音を立てて俺の前で止まる。
その銃に一瞬目を落として、それから茫然と顔を上げた。
倒れた2人の男の背後、約30フィート。
そこにやたらと銃身の長い、細身の拳銃を構えた男が1人。
Fartだった。
Fartはじっと銃を構えたまま、何も言わずに俺を見ていた。
パタッと小さな音がして、地面に転がった銃に水滴が落ちる。
更に1つ、2つ、3つ、4つと降ってきた水滴は、やがて数え切れないほど足早になり、俺たちへと降り注いだ。
乾いたアスファルトが瞬く間に塗り潰され、真っ黒に変色していく。
冷たい雨はニューヨーク中に降り注ぎ、遠いサイレンの音も、街中を包む喧騒も、何もかもを呑み込んでいく。
そうして雨に打たれた俺たちの間に、一体どれほどの沈黙が積もっただろう。
やがて俺は腰を上げ、よろよろと数歩あとずさってから身を翻して逃げ出した。
あのとき無我夢中で駆け去った俺の背中を、Fartがどんな顔で見つめていたのかは分からない。
それからほどなくエドワード・ハートを殺した犯人としてセオドア・ヒンクリーという男が逮捕され、大統領選挙は予定どおり実施された。
本来なら選挙は延期されてもおかしくない状況だったが、犯人が即座に逮捕されたことと、その犯人の動機が倒錯的で選挙戦の対抗馬であるブッシュの陰謀説が否定されたこと、そして何よりそのブッシュがハートの葬儀で涙を流し、アメリカの未来について熱弁を振るった姿が全国民の心を打ったことからそうした判断になったらしい。
その選挙の結果については、敢えて俺の口から語るまでもないだろう。
ただ1つ特筆すべきことがあるとすれば、ハートに続いて一躍時の人となったヒンクリーという男は完全にイッちまったヤク中みたいな顔のやつで、あの日俺の隣で爆弾の起爆スイッチを押した男とはまるで別人だったってことだ。
それから年明けを待たずに『Cinema Anthony』は潰れた。
雪が舞うニューヨークの片隅で、俺は残骸になった『Cinema Anthony』の前に立ち尽くし、しばらくそこを動くことができなかった。
エドワード・ハートが死んだあの日以来、俺はFartと会っていない。
ニューヨーク中どこを探しても、あの男を見つけることはできなかった。
Fartは俺の前から完全に姿を消した。
そして、10年の月日が流れた。
× × ×
木枯らしの吹く広場で、1組の男女が揉めている。
1人は国家にハメられた男。もう1人はハメられた男の元愛人――もとい情報屋。
2人は目下、自分たちの身に何が起きたのかまるで理解できないでいる。だからNSA――国家安全保障局――に見張られているとも知らず、無防備に会話を続けている。
何度観ても間抜けなシーンだ。特にウィル・スミス演じる主人公が馬鹿すぎる。
こいつの短絡的で、頭の悪さをこれでもかと露呈するシーンの連続にはいつもフラストレーションが溜まるものだ。
だがこの映画はそこがいい。観客のフラストレーションを溜めに溜めさせておいて、最後に用意されたからくりでかつてないカタルシスを味わわせてくれる。
俺はすっかりそのラストの虜になり、もう何度もこの作品を観るために劇場へ足を運んでいた。
『Enemy of the State』。やはりトニー・スコットがメガホンを取った作品はいい。圧倒的に外れが少ない。
俺は座席に置いたフレンチフライを貪りながら、じっとスクリーンの中の2人を見つめた。そう、まるで俺自身、2人を監視するNSAの一員になったような気分で。
まったく妙な話だ。ティーンエイジャーの頃は殺し屋やマフィアといった裏社会の男たちが活躍する映画ばかり観ていた俺が、最近ではこうしたスパイもののサスペンスばかり観ている。
主人公は大抵元CIA局員や軍人で、彼らが知恵や技術を駆使して社会の悪と戦う話だ。俗に言う〝勧善懲悪〟ってやつ。
今回の作品も最終的には元CIAの工作員が主人公の味方について、裏でコソコソ悪事を働いていたNSAの幹部をとっちめる。実に分かりやすい話だ。
自分の嗜好がいつ、どうしてそういう方向にシフトしたのかは俺にも分からない。
ただ、10代の頃に感じていた閉塞感は今も俺の肺を満たしていて、どこにいても息苦しいような、暴れ出したいような、そんな気分をいつも抱えていた。
まったくクソッタレな気分だ。
結局俺はどんな選択をしようと、生きている限りこの現実からは逃れられないのかもしれない。
気が遠くなるほど遠い昔、「人間は生まれながらにして死刑囚である」なんて言った哲学者がいたらしいが、まったく言い得て妙なりだ。
俺たちはこの世に生を受けた瞬間から現実という牢獄につながれ、ただ審判のときが訪れるのを待っている。その真実に気づき、逃げ出そうと足掻いても、俺たちをつなぐ運命の鎖が切れることは決してない。
なら、俺は一体どうすれば良かったんだ? 不都合な真実からは目を背けて、この世は神の愛で溢れていると盲信すれば良かった?
だがそんなおめでたい逃避の中へ飛び込むにはもう遅い。俺は知りすぎたんだ。人の醜さも、この世の汚さも、神の無慈悲さも。
That sucks。
こんな世界、とっとと潰れちまえ。
俺はなおもフレンチフライを貪りながら悪態をつく。
そのときシアターのど真ん中を占拠した俺の3つ隣の席に、黒いフェドーラ帽を被った壮年の男が着席した。
それをちらりと一瞥して、俺は内心舌打ちする。
まったく空気の読めないやつだ。いよいよこれからジーン・ハックマン扮する元CIA工作員が現れて、話が面白くなるところだってのに。
「ダニー・クレイトン」
と、男は言った。
もちろん俺の名前じゃない。その証拠に、男はスクリーンを見つめたまま俺に向かって1枚の写真を差し出してくる。
だから俺もスクリーンから視線を切らず、無言でその写真を受け取った。
シアターが暗いのでよく見えないが、写っているのは見たことのない1人の男だ。髪は白に近い金髪で目は落ち窪み、彫りの深い顔つきをしている。
その骨格からして、たぶんロシア系の男だろう。だとするとダニー・クレイトンという名前は偽名か。つい最近もうちのシマにちょっかいを出してきたロシアンマフィアを2人殺したところだ。
その関係者かどうかは知らないが、この男の目はどう見てもカタギじゃない。鏡に映った俺と同じ目をしている。
……まったく面倒だな。こういう手合いはちょっとやりにくい。
相手も手練れだからってのはもちろんだが、何より自分を殺しているような気分になるからだ。
「場所は?」
「イリノイ州トロイ、ノース・パウエル・ストリート217だ」
「イリノイ州? ずいぶんと遠いな。トロイなんて聞いたこともない」
「ミズーリ州との州境にある田舎町だ。セントルイスにほど近い」
「出張手当は出るんだろうな?」
「その男はうちの組織が長年追っていた裏切り者だ。過去に幹部を殺して逃げた。自分の目が黒いうちに必ず殺せと、ボスが直々に懸賞金を懸けている」
「なるほど。その懸賞金を俺とあんたで山分けってわけか。いくらだ?」
「12万」
ひゅう、と俺は思わず口笛を吹いた。12万と言ったら、ワシントンD.C.あたりで働くエリートサラリーマンの年収よりも上だ。
こいつと2人で均等に分けたとしてもかなりの額。当分は遊んで暮らせる。
「しかし、あのボスが12万もの大金を叩くなんてよっぽどだな。そんなに因縁のある男なのか?」
「俺も詳しくは知らん。ただ、若い頃にボスが拾って育てた男だったそうだ。恐らく目をかけていたんだろう」
「へえ。なのに手を噛まれた、と」
「そのボスももうそう長くない。支度ができたらすぐに出発しろ。ボスの心臓が止まってから標的の頭を撃ち抜いても、弾代は出ないぞ」
じろりと横目で俺を睨んでからそう言って、男はほどなく席を立った。
俺はその黒い背中が扉の向こうに消えるのを見送り、今度こそ本当に舌を打つ。
腐れ野郎め。そんなに金と跡目が欲しいなら、ちったぁてめえの足で稼げってんだ。それを毎度毎度体よく俺に押しつけやがって、気に食わねえ。
俺はそのどうにもならないイライラを、更にフレンチフライを貪り食うことでどうにか消化しようとした。
だがこの量のフレンチフライはさすがに胃にもたれる。昔はこのくらいの量なら平気で平らげていたのに、今では上映終了後に持て余して捨てる始末だ。
だったら初めから買わなければいいのだが、どうにも昔からの習慣でこのサイズのものを買ってしまう。
まったく進歩してるんだかしてないんだか。
俺は自分で自分に呆れながら、ついに無人のシアターを出た。
そこはかつて俺が足繁く通った『Cinema Anthony』があった場所。
現在は『Bleecker Street Movies』というまったくひねりのない名前の映画館が建っている。
客の入りもそこそこの、小綺麗な外観をした映画館だった。
そこに『Cinema Anthony』の面影はどこにもない。唯一共通点があるとすれば、チケット売り場の店員がよぼよぼのばあさんだってことだけ。
この程度の映画館ならブロードウェイにはごろごろしている。ついでに言えば、店員だってもっと若くてセクシーな女が揃っている劇場がたくさん。
なのに俺が今もこの場所に通い続けているのは、10年前のあの頃に未練があるから――ってわけじゃない。
単にこの劇場が、俺の所属するピンツォーロ・ファミリーの所有物だからだ。
10年前のあの事件のあと、俺はクスリに手を出してどっぷりこちら側に浸かってしまった。
裏社会への憧れがクスリを求めたわけじゃない。当時未熟で繊細なティーンエイジャーだった俺は、アレがないと心の均衡が保てないような状態に追い込まれていた。
俺の人生の設計図が音を立てて引き裂かれたのはその頃だ。
高校は中退し、両親からは縁を切られて、つるむべきでない連中とつるんだ。しかしクスリはタダで天から降ってくるわけではなく、気が狂いそうなほどの苦痛と幻覚から逃れるためには、何に手を染めても金を手に入れなければならなかった。
その当時の俺たちにクスリを回していたのがピンツォーロ・ファミリーだ。
借金するアテもなくなり、ついに万策尽きた俺が売人の膝に縋って「何でもする」と懇願すると、やつらは俺に1挺の拳銃を手渡した。
最初に殺せと言われたのは、余所の組織にピンツォーロの情報を売っていた馬鹿な売春婦だ。俺はその女を0.1インチのためらいもなく殺した。そして報酬にクスリをたんまりいただき、晴れて10代の頃の夢も叶った。
そう、俺は殺し屋になったのだ。
ファミリーの汚れ仕事をひたすら請け負う殺し屋に。
まさか自分が本物の殺し屋になってしまうだなんて、あの頃の俺が想像しただろうか?
しかも夢見ていた孤高の殺し屋とはほど遠い、ケチなマフィアの飼い犬になるなんて。
きっかけになったクスリは死ぬ思いをしながら自力で抜いたが、それで組織からも抜けられるほど世の中は甘くなかった。
かくして俺はずるずると深みにハマり、今もこのアリ地獄から抜け出せずにいるというわけだ。
おまけに唯一の慰めである映画鑑賞すら、最近ではああして邪魔される。
まあ、俺が組織とコンタクトを取る場所として『Bleecker Street Movies』を指定したのだから、仕方がないと言ってしまえばそれまでだが。
この10年でニューヨークの治安は格段に良くなった。それでもまだ好んでレイトショーに足を運ぶような市民は少ない。
だからこの時間帯の『Bleecker Street Movies』はいつも貸切状態で、その方が俺も組織も都合がいいのだった。そういう思惑があって、俺はあの映画館を組織との連絡所に指定した。
だが俺はそれを今、少しだけ後悔している。
どうやら俺は俺が思っていた以上に映画館という空間を神聖視していたみたいだ。
あの場所にやつらが現れる度、俺は俺の思い出を土足で踏み荒らされているような気分になる。そんな感傷はお前には無用の長物だと、お前のような男に救いや赦しを求める資格はないのだと、そう言われているような気分に。
そうするとあの唯一の安らぎの場が、唐突に暗く堅牢な牢獄へと豹変するのだ。
それはさながら俺を閉じ込めている現実の檻のようで。
俺は今もその檻の中で、スクリーンの向こうにありもしない夢を見ている。
「Hi,Cool guy。あたしたちと遊ばない?」
ギラギラとネオンのうるさい大通りを抜け、胸をはだけた女どものお誘いを手を振って軽く躱す。
本当なら今夜は酒でもかっ喰らって女を抱きまくりたい気分だが、そう悠長なことを言っていられないのが実情だ。
俺の上司は殺し屋なんて玩具の兵隊と同じだと思ってるから、ヘマをすればすぐに鉛玉が飛んでくる。ちょっとでもやつの意にそぐわない行動を取れば、殺し屋を殺すための殺し屋が送り込まれてくるってわけだ。
じゃあその殺し屋を殺すための殺し屋がヘマをした場合、殺し屋を殺すための殺し屋を殺すための殺し屋がやってきたりするのだろうか? なんてとりとめもないことを考えながら、俺は咥えた煙草を手で囲って火をつけた。
季節は冬。あと10日もすればクリスマスがやってきて、あっという間にまた年が明ける。
幸い今夜は雪が降る気配はないが、それでも12月のニューヨークはシャレにならないほど寒かった。高層ビルの間を吹き抜けるビル風が容赦なく地上に吹きつけるからだ。
俺は革の手袋を嵌めた両手を擦り合わせながら、マフラーを巻いた首を竦めて先を急いだ。
ブロードウェイを東へ横切り1番街へ。
そこにある軽食屋入りの安アパート。
その3階の角部屋が最近の俺のアジトだ。
「ったく、面倒なことになったな……」
とひとりごちながら、かじかんだ手で部屋の鍵を開ける。丸いドアノブを軽く引っ張ってドアから浮かせ、右に4回、左に3回、右に2回、左に1回……。
これでようやくドアが開く。ドアノブの真ん中についているシリンダー錠はフェイクだ。
俺はこのアパートに入居したその日に自分でドアを改造し、ドアノブの中にダイヤル式の鍵を仕込んだ。金庫のように番号を振るわけにもいかないので、何十、何百回と練習し、自分の手の感覚だけで開け方を覚えたものだ。
理由はもちろん侵入者対策のため。これならたとえシリンダー錠の方がフェイクだと気づいても、俺以外の人間はこのドアを開けられない。
誇っていいものかどうか、この数年で俺はそうした警戒が必要になるだけのキャリアを積んでいた。身元や居場所が割れないよう常に細心の注意を払ってはいるが、それでも完全に安心はできない。
住む場所はころころ変え、その度に名前も変えた。まだ顔までは変えずに済んでいるものの、今の俺の周りに俺の本名を知る人間がどれだけいるだろうか?
仕事によっても名前を使い分けているから、自分でも時々今の名前が分からなくなったりする。いや、名前だけじゃない。最近ではそもそも自分が何者なのか、それさえも見失っているような気がする。
……らしくねえ。
塗装の剥げたドアを潜って部屋に入り、暗闇の中を歩いた。窓際の机に置いた中古のスタンドランプをつけて、適当に荷造りを始める。
とは言え着替えやなんかは全部現地調達だ。絶対に必要なものはと言えば、金と煙草と免許証くらい。
ここからイリノイ州まで最短で移動するには、やはり飛行機に乗るのが一番だろう。確か上司は、標的のいる町はセントルイスにほど近いと言っていた。
だとすればまずは明日の朝一番でジョン・F・ケネディ国際空港へ行き、そこからランバート・セントルイス国際空港まで飛ぶ。トロイまでの道を調べるのは向こうに着いてからだ。
最近はニューヨーク周辺でしか仕事をしていなかったからこういう手間のかかる仕事は面倒で仕方ないが、これも6万ドルのためだと自分に言い聞かせる。
問題は、今回はどの名前で仕事をするかだ。
立てつけが悪い机の引き出しをガタガタと開けて、乱雑にぶち込まれた書類をあさる。中には数種類のパスポートと免許証。
どれも貼られた顔写真は確かに俺のものだが、横に記された名前がそれぞれ違う。
ブライアン・H・キャクストン。
イサンドロ・グルレ。
オスカー・レイナー。
チェーザレ・オズヴァルド・ポッリ。
どれもこれもファミリーから与えられた偽造品だ。既に使えなくなった古いものはその都度こまめに破棄しているから、今ここにあるものならどれでも好きなものを使っていい。
そういや今回の相手はロシア系だったな。だとしたら俺もロシア系の名前でいくか。そんな遊び半分の感覚で引き出しをあさり、お目当ての免許証を探し当てようとする。
だがそのとき、スタンドランプの明かりが1枚の写真を照らし出した。
その写真が目に入った刹那、俺は乱暴に書類を引っかき回していた手を止める。途端に塗り潰したような沈黙が訪れて、咥えた煙草の火がジリジリと鳴る音だけが聞こえた。
半分ゴミに埋もれるようにして現れたその写真には、憎たらしい顔で笑った1人の男と、その男の肘置きと化したフランケンシュタインが写っている。
俺はほとんど無意識にその写真を手に取り、無言で眺めた。
あれからもう10年が経つ。
Fartの消息はその後も知れず、俺は何度もこの写真を燃やしてしまおうと思った。
だけど結局そうすることができなくて、いつもこうして引き出しの奥、誰にも探られたくない秘密の場所にこいつを封印することになる。
あのジジイも今頃はいい歳だし、とっくにどこかでくたばってるかな。
本当はもう一度会って言いたいことが山ほどあった。
今も俺の中でわだかまっているFartに対するこの感情は憎しみなのか親愛なのか、自分でもよく分からない。
だがあの日のことを思い出そうとすると未だに胸が潰れるようで、俺は小さく舌打ちをした。
正常な思考を奪うこの感情が忌々しく、衝動的に写真の角を煙草の先へ持っていく。ジリッと紙の焼ける臭いがして、俺はそこで手を止めた。
……。
やっぱりこの写真は燃やせない。
同じように何度も燃やそうとした形跡が、写真の四隅に残っている。
俺は苛立ちと共に煙草を灰皿へ押しつけ、写真は再び秘密の場所へと封印した。
もういい。余計なことは忘れろ。
俺は今日からイヴァン・ゼレンスキーだ。
× × ×
俺がミズーリ州セントルイスを出発したのは、ニューヨークを飛び立った旅客機がランバート・セントルイス国際空港に着陸してから3日後のことだった。
到着後すぐに出発しなかったのは、銃の手配があったからだ。自由の国アメリカと言えど、銃を所持したまま飛行機に乗れるほど自由かと言われればそうでもない。ついでに言えば、偽造の身分証を使って簡単に銃が買えてしまうほど都合のいい世の中でもない。
そこで俺は仕方なくセントルイス中のあらゆる店を巡り、使えそうな部品と工具を集めてホテルに籠もった。
目的はもちろん銃を自作するためだ。そのくらいの技術はこの数年でしっかり身についている。
造ったのはルガーMK1をモデルにした減音器内蔵のハンドガン。よく映画でCIAの工作員なんかが使っている暗殺用のアレだ。
一般的なオートマチックに比べて銃身が細長く、見た目はスマートかつセクシー。それでいて発砲音は実に控え目で大人しい。こういう女がいたらぜひ囲いたいと思わせるような色っぽい銃だ。
もちろん弾も自前で用意し、郊外でしっかり試し撃ちもした。
手元に残った銃弾は5発だけだが、その分最後まで微妙な調整を繰り返して精度を上げたから、あとはよほどのヘマをしないことを祈るだけ。いざというときのためにナイフも購入したものの、こいつを使うような事態はなるべく避けたい。
トロイはセントルイスから車で1時間足らずの距離にある町だった。
州道162号線をひたすら東へ。車はセントルイスでレンタルした銀のセダンだ。
州道の両脇に広がる広大な麦畑はうっすらと雪を被っている。クリスマスまであと6日。
俺はトロイ市街地の手前にあるモーテルに部屋を取り、それから今回のターゲットの住まいまでドライブに出かけた。
俺が調べたところによると、トロイは人口1万人にも満たない田舎町だ。
町の真ん中を東西に貫く州道沿いにはスーパーマーケットやレストラン、ガソリンスタンドといった商業施設が並んでいる。が、そこから少し横道に逸れると、その先は人影もまばらな住宅街だ。
生まれも育ちもニューヨークの俺には縁のない、閑静な田舎の風景。町の中には枯れ木が多く、立ち並ぶ民家はほとんどが白壁の一戸建てだった。
どれも似たような色合いの切妻屋根は、今は仲良く雪化粧をしていて寒々しい。夏に来れば家々の白い壁に木々の緑が映えて爽やかな眺めが楽しめるのかもしれないが、曇天を戴いた真冬の今はどうも町全体が沈んで見える。
俺はセントルイスで買った地図を片手にゆっくりハンドルを切ると、いよいよターゲットの家があるノース・パウエル・ストリートに入った。
まずはターゲットの家の前をさりげなく通り抜ける。東西に走るウェスト・スロップ・ストリートとの角地にある一軒家だ。
こぢんまりとした庭つきの平屋建てで、趣味はそう悪くなかった。走り抜けざま、家の中に問題の人物がいるかどうか覗き見る。
だが生憎、最初の偵察ではターゲットの姿を見つけられなかった。
まあ、焦っても仕方がない。俺は大きくハンドルを切って交差点を左折し、しばし時間を置くための本格的なドライブに出た。ただでさえ人口の少ない町なのに、見慣れない車が何度も家の前を行き来すれば怪しまれる可能性が高いからだ。
時刻は午前11時過ぎ。俺は煙草を片手にカーラジオを鳴らし、陽気なカントリー・ミュージックを聞きながら州道に戻って、適当な店で昼飯を取った。
若いウェイトレスを掴まえて話を聞くと、どうもこの町の夜は暗いらしい。つまりロクな遊び場もなければ日没後に外をうろつく住民も少ないってことだ。こりゃ好都合。
俺はいかにも田舎の娘らしいおさげのウェイトレスに気前良くチップを払うと、店を出てしばらく観光を楽しんだ。
それからウェスト・スロップ・ストリートへ戻り、ターゲットの家がある角を曲がる。
午後2時過ぎ、2度目の偵察。
いた。
ダニー・クレイトン。
間違いない。写真の男だ。
「Bingo」
自宅のポストを覗き込んでいる男の顔を一瞥して、俺はそのままクレイトンの横を通り過ぎた。
2回目でターゲットの姿を拝めるなんて、今日の俺は運がいい。ちょっとした鼻歌も歌いたくなるってもんだ。
とにかくこれで初日の目的は果たしたので、俺はそのまま町外れのモーテルに戻った。
3時間ほどのドライブで町の地理も何となく把握したし、明日からは次のステップに移行だ。俺は景気づけにセントルイスで買ってきたウイスキーを1杯引っ掛けると、安いベッドに潜り込んで眠った。
せっかくターゲットの居場所を掴んだのに、今夜にも強襲をかけないのかって?
馬鹿言っちゃいけない。今回の相手は相当の手練れだ。
それに、いざ殺しに行ってやつが不在だったらどうする?
もしくは同居人がいたりしたら?
俺がダニー・クレイトンについて知っていることと言えば、名前と性別と現住所、そして元ピンツォーロ・ファミリーの一員だったってことだけだ。
俺の上司は殺しの標的についていつも必要最低限の情報しか寄越さない。その上で標的を慎重かつ確実に殺すには事前の情報収集が不可欠だ。
標的の周辺環境、行動パターン、性格、趣味嗜好、対人関係――そういうものをできる限り詳細に調べ上げて、ここぞというときに引き金を引く。殺し屋とストーカーは紙一重ってわけだ。
そんなわけで翌日、俺は普段なら後ろへ撫でつけるだけの髪をいかにも好青年風に整えると、鏡の前でニコッと笑う練習をしてからモーテルを出た。
向かった先はクレイトンの家――のお向かいさん。
セダンは通りの向こうに停めて歩き、家の前にクレイトンの姿がないことを確かめてから、俺は見ず知らずの他人が住む家のベルを鳴らす。
「はい、どちら様?」
出てきたのはずいぶんと歳のいったばあさんだった。
『Bleecker Street Movies』の店員のばあさんとどっちが上かな? くるくる巻きの髪は真っ白で時代遅れの眼鏡をかけている。その眼鏡の向こうから、ばあさんは怪訝そうな顔で俺を見上げた。
だから俺はニコッと微笑み、セールスマン顔負けの営業スマイルを見せてやる。
「ライサ・ゼレンスキーさん?」
このスマイルがあれば俺もセールスマンに転職できそうだ。
そんな会心の笑みを浮かべて話しかけてやっているのに、ばあさんはなおも不審そうな顔を引っ込めようとしない。
「ライサ・ゼレンスキーさんですよね?」
「いいえ。私はエルシー・ウェラーですけど、あなたは?」
そこで俺は初めてショックを受けた――ような顔をした。
「ライサ・ゼレンスキーさんじゃない?」
「そうよ、そう言ってるでしょう。ライサ・ゼレンスキーなんて名前、聞いたこともないわ」
「Oh……これは失礼しました、Mrs.ウェラー。あ、僕はイヴァン・ゼレンスキーといいます。実は、ここへは生き別れた母を探して……知人から、母はここに住んでいると言われたんですが……」
言いながら、俺はジーンズのポケットから1枚のメモを取り出した。そこに書かれている住所に目を落としつつ、ちらりとばあさんの顔色を盗み見る。
――やったぜ。
〝生き別れ〟という言葉が効いたのか、途端にばあさんが気の毒そうな表情を覗かせる。ついでに野次馬的好奇心も。
OK。こうなったらあとはこっちのもんだ。
「あらまあ、生き別れたお母様を? 確かにここに住んでいると聞いたの?」
「ええ、そうです。このメモにも確かに……ああ、いや、そうか。すみません、間違いました。僕としたことが……母の家はあっちですね?」
笑いながらそう言って、俺は向かいの家を示した。
そこそこ趣味のいい平屋建て。もちろんそこはクレイトンの家だ。
すると案の定ばあさんはますます気の毒そうな顔をして、俺の前で首を振る。
「いいえ。残念だけど、あちらはクレイトンさんのおうちよ」
「クレイトン?」
「ええ、ダニー・クレイトンさん。名前で分かると思うけど男性だわ」
「そんな……いや、でも、それじゃあそのMr.クレイトンに奥さんは?」
「いいえ、いらっしゃらないわ。クレイトンさんはお1人なの。3年前に引っ越していらしたときからずっとよ」
へえ――同居人はなし、と。
頭の中のメモ帳にメモ。
こいつはますます好都合だ。
「Oh,Jesus……失礼ですが、それは確かですか? 以前は結婚していて、ここに来る前に別れたとか?」
「いいえ。彼はここへ来る前からずっと独身らしいわ。本人からそう聞いたもの。だからたぶん、あなたのお知り合いの言うことが間違いだったんじゃないかしら?」
「Mrs.ウェラーは、Mr.クレイトンとよくお話を?」
「ええ、彼とは礼拝でよく会うから」
「礼拝?」
「セントポール・ルーテル教会の礼拝よ。彼はとても熱心な信徒で、毎日教会に通っているの」
「Whew……なら、その人が母さんの再婚相手ってことはなさそうだ。母さんは敬虔なカトリック教徒だったらしいから」
肩を竦め、さも気落ちしたように振る舞い、俺は弱々しい笑みをばあさんに返した。
するとばあさんも同情したような眼差しを向けてくる。〝かける言葉が見つからない〟といった様子だ。
俺はそんなばあさんの前でメモをポケットに捩じ込み、最後まで一流俳優になりきって演技をする。
「ありがとう、Mrs.ウェラー。話を聞けて良かった。突然押しかけた無礼をお許し下さい」
「いいえ、いいのよ。こちらこそ、何も力になれなくてごめんなさい」
「いえ、気にしないで。空振りはいつものことです。もう慣れました」
「あら、そう……ここまでずいぶん大変な思いをしてきたのね。お母様とはもうずっと?」
「はい、5歳の頃から会ってません。だからもう顔もうろ覚えで」
「まあ。それはかわいそうに……若いのにとても苦労しているのね。私みたいな老いぼれには何もしてあげられないけれど、無事にあなたのお母様が見つかることを祈っているわ」
「ああ、Mrs。その慈悲深い祈りに感謝します。僕の母もあなたみたいな人だといいんだけど」
「大丈夫よ。私にも息子が2人いるけれどね、どんなに離れていたって子を想わない親なんてどこにもいないわ。だからあなたのお母様もきっと、あなたともう一度会えることを願ってらっしゃるはずよ」
「そうですね……そうだといいな。いや、きっとそうだと信じて、またイチから出直します。本当にありがとう、Mrs。良いクリスマスを」
「ええ、あなたもね、イヴァン」
当たり障りのない別れの挨拶をして、俺はばあさんに背を向けた。
そうしてとぼとぼと歩き出しながら、口には〝してやったり〟の笑みを刻む。
そこから先の仕事は単純だった。
ばあさんの証言の裏づけだ。
俺はそれから3日間、クレイトンの監視を続けた。クレイトンの家からは見えない位置に車を停めて、そこからじっと玄関先を見つめ続けたのだ。
至極退屈で骨の折れる仕事だったが、成果はあった。
クレイトンはまるでロボットみたいな男だ。
毎日朝の9時半ぴったりに家を出て、近所にあるセントポール・ルーテル教会の礼拝へ行く。そして11時ぴったりに帰宅し、14時15分になると家を出てポストの確認をする。
極めつけは20時半だ。この時間になると必ずクレイトンの家の玄関をピザ屋のバイトが叩く。
どうもクレイトンは毎晩の食事をピザ屋の宅配に頼っているらしい。ロシア系のくせにピザ好きとは、とんだイタリア野郎だ。
張り込み開始から3日目の晩。俺はそのピザ屋のバイトを車で尾行けた。
俺よりも少し若いくらいの、平々凡々とした顔のバイトだ。この仕事にやりがいを感じているのか、ピザ屋のダサいロゴ入りバイクを上機嫌で走らせている。
勤め先の勤務体制がどうなっているのかは知らないが、この3日間、クレイトンのところにピザを届けたのは毎回このバイトだった。
だとしたら明日のピザを運ぶのもこいつの可能性が高い。俺はバイトがピザ屋へ戻るまでの道を記憶すると、やつが店の裏手でバイクを降りたところに車をつけた。
「やあ、いい夜だな」
運転席の窓を開けて気さくに声をかける。
ピザ屋のバイトもそれに気づいて、ぽかんとしながらこちらを向いた。
「ちょっと道を聞きたいんだが」
「はい、どちらまででしょう?」
「スーパー・エイト・モーテルだ」
「ああ、それでしたら……」
と、好青年は親切に道案内を始める。
ちなみにスーパー・エイト・モーテルというのは、現在俺が宿泊している宿の名前だ。道順なんてこいつに訊かなくても分かる。
「そうか、分かった。ありがとう、助かったよ。こいつはお礼だ」
心にもないことを言って、俺は窓からチップを差し出した。
するとバイトはパッと目を輝かせて嬉しそうに寄ってくる。分かりやすいやつだ。この間のばあさんといい、田舎者は騙しやすくて助かる。
「ところで、ここのピザはうまいのかい?」
「ええ、もちろん。トロイで唯一のピザ専門店ですから。店内には立派なピザ焼き窯もありますよ」
「へえ、そいつはいいな。頼めばモーテルにも届けてもらえる?」
「Sure。喜んで」
「じゃ、店の電話番号教えてよ。明日はせっかくのイヴだってのに、仕事でモーテルに缶詰めなんだ。それならせめてうまいピザでも食べないと、やってらんないよ」
「はは、それは災難ですね。ちょっと待って下さい」
少し多めのチップが効いたのか、バイトはにこにこしながら店の番号を紙に書いてくれた。俺は礼を言いながらそれを受け取って、ときにふとバイトが被っている赤と紺のツートンカラーのキャップを見やる。
「いい帽子だな、それ。イカしてるよ」
「そ、そうですか? ありがとうございます」
「君は明日もバイト? それとも彼女とデートか?」
「残念ながら僕もバイトですよ。せっかくのクリスマスなのに、彼女とは先月別れちゃって」
「Oh,sorry。そいつは悪いことを聞いたな。だが俺としては、寂しいイヴを過ごす同志が見つかって嬉しいよ。まあ、お互い頑張ろうや」
「そうですね。来年のクリスマスこそは、お互いいい相手と過ごせることを祈って」
そう言って笑い合い、手を振って俺たちは別れた。
冷たい風と一緒に粉雪が吹き込んでくる窓を閉め、煙草を咥えて車を発進させる。
我ながらいい演技だった。
転職するならセールスマンより俳優の方が向いてるかな?
その晩、俺はモーテルに戻ると自作の銃の再点検をしてベッドに潜った。
明日はイヴだ。そして日が沈めばクリスマス。
クリスマスと言えば誰もがサンタクロースを思い浮かべるだろうが、何でもヨーロッパにはそのサンタクロースについてこんな伝説があるらしい。
あの赤服のじいさんは2人の怪人を連れていると。
その怪人の名はクランプス。
半人半羊の化け物だ。
〝クリスマスの悪魔〟と呼ばれるその化け物は、良い子にプレゼントを与えるサンタクロースとは真逆の存在で、悪い子に罰を与え地獄へと引きずっていく。
そう。
つまり俺は明日1日だけクランプスになるってことだ。
かくして迎えた12月24日。
その日、クレイトンは朝の礼拝に出掛けていかなかった。
理由は明白だ。どの教会でもイヴの夜にはクリスマス礼拝がある。クレイトンは恐らくその礼拝に行くつもりだろう。
18時30分。
予想どおりクレイトンが現れた。
これからセントポール・ルーテル教会へ行くのだろう。厚手のコートにマフラーを巻いて、薄く雪の積もった道をすたすたと歩いていく。
その歩き方と言い無表情な顔つきと言い、本当にロボットみたいなやつだ。
そんなやつが毎日熱心に神の教えを乞いに行っているのかと思うと滑稽だが、まあ、珍しい話じゃない。
元殺し屋や元マフィアは、引退すると途端に敬虔なクリスチャンになることが多いと聞く。それまで重ねた己の悪行を数え、死後の裁きを恐れるからだ。
やがてクレイトンの姿が見えなくなると、俺は車のヘッドライトをつけてエンジンをかけた。
相手は追っ手に怯えて暮らす元マフィアのオッサンだ。クリスマスだからと言って自宅でパーティーを開くなんてことはまず有り得ない。この3日間で割り出したあいつの行動パターンから考えても、礼拝が終わったらまっすぐ家に帰ってくるはずだ。
そしていつもどおりピザを頼む。
俺はその可能性に手持ちのチップを全部賭けて、銀のセダンを発進させた。
田舎町をささやかなクリスマス・イルミネーションが照らしている。
ブロードウェイの華やかすぎるクリスマスとは比べ物にならないくらい質素で淋しいクリスマス。
町は静まり返っていて、人影はほとんどない。チカチカと光るイルミネーションだけが唯一の慰め。
だけどたまにはこんなクリスマスもいいのかもしれない。俺はとある路上に車を停めて、シートに身を沈めながらそう思った。
聞こえるのはラジオから流れるお決まりのクリスマスソングだけ。
ニューヨークでは決して味わえない、どこまでも静謐なクリスマス。
窓の外で深々と降る雪が、珍しく俺を神聖な気持ちにさせる。
この仕事が終わったら、しばらくこんな田舎の町で過ごしてみようか。何せ6万ドルが手に入るのだ。
こんな静かな日々に身を浸したら、きっと何か新しい発見があるに違いない。
そしてそれこそが、10代の頃から俺が抱えてきた疑問の答えになるのではないか――そんな気がする。
目を閉じ、煙草を咥えたまま、しばらくそうしてじっとしていた。
端から見たら、神に祈りを捧げているように見えたかもしれない。
だがそんな祈りの時間は唐突に終わった。
聞き覚えのあるエンジン音。
来た。
ピザ屋のバイトだ。
「――よう、色男」
すかさず窓を開け、身を乗り出して手を振った。
するとそれに気づいた相手がバイクを止め、驚いたようにヘルメットを外す。
Bingo。
昨日のあいつだった。
向こうも声をかけてきたのが俺だと分かると、たちまちそばかすを散らした顔を綻ばせる。
「やあ、昨日の」
「その節はどうも。おかげで無事モーテルに辿り着けたよ。儲かってるかい?」
「ええ、そりゃあもう。なんたって今夜はクリスマスですから」
「だろうな。だが、そんなクリスマスに1人でピザの宅配なんて寂しくないか?」
「それはお互い様でしょ?」
「ああ、確かにそうだ。だが俺が運ぶのはピザじゃなくてプレゼント」
「あなた、サンタクロースだったんですか? その乗り物はソリじゃなくて車に見えるけど」
「最近は軍がうるさいからソリで空は飛べないんだ。だがちゃんとプレゼントは持ってるぞ。働き者の君にはこれだ」
そう言って、俺は小さく折り畳んだドル札を差し出した。
描かれているのは200年前の発明家、ベンジャミン・フランクリン。
要するに100ドル札だ。
「こんなに……いいんですか?」
「ああ、昼間届いたピザがうまかったからな。期待以上の味だったよ。さすがはトロイで一番のピザ屋だな」
「あ、ありがとうございます。店に戻ったら、店長にもそう伝えておきます」
「ぜひそうしてくれ。ところで、これからダニー・クレイトンの家に行くのかい?」
「え?」
「ダニー・クレイトンだよ。知ってるだろ?」
「え、ええ、知ってます。もしかして、クレイトンさんのお知り合いですか?」
「まあ、そんなところだ。だがあのじいさんには気をつけた方がいい。あまり大きな声じゃ言えないんだが……」
言って、俺はわざとらしく周囲に目を配る仕草をしてから、そっと口元に手を添えた。万国共通、〝耳を貸せ〟の合図だ。
チップを受け取るためにバイクを降りていたバイトは、まんまとその合図に乗って身を屈めた。
次の瞬間、俺はそのバイトの頭を掴み、渾身の力で車のルーフに叩きつける。
虚を衝かれたバイトが悲鳴を上げ、その場に倒れた。直後に俺は車を飛び出し、倒れたバイトの首に腕を回して締め上げる。
気道を圧迫されたバイトは顔を真っ赤にしてもがき、何とか腕の中から抜けようとした。だが俺はそれを許さじと押さえ込みながら、如才なく周りに目を配る。
大丈夫だ。昨日こいつが通った道から、多少騒ぎが起こっても人目につかない場所を選んだ。あたりに人の気配はない。
ほどなく若いバイトはぐったりと腕の中で動かなくなった。
それを確かめた俺は素早く後部座席のドアを開け、そこにバイトを放り込む。
そうしてバイトの着ていたピザ屋の制服を脱がし、代わりに俺の着ていたジャケットを被せて手足を縛った。
更に口にはテープを貼り、脱がせた制服に手早く着替える。
それから車の鍵をしっかり閉めると、傍らに停められていたバイクに飛び乗り出発した。
もちろん銃はズボンに差してある。完璧な変装だ。
俺はそのまま迷わずクレイトンの家を目指した。
ピザの配達は毎日20時30分。早すぎても遅すぎてもいけない。
途中の信号で止まる度、俺は右腕に嵌めたROLEXの腕時計を確かめた。
目的地に着いたのは20時29分17秒。
クリスマスでも渋滞がないってのは田舎の利点だな。
俺は神の計らいに感謝しながらバイクを降り、ピザの入ったボックスを開ける。
中には箱入りのピザと伝票、そしてツートンカラーのキャップ。
俺はヘルメットを外してサッとそのキャップに被り替えると、伝票に記されている宅配先を確かめる。
イリノイ州トロイ、ノース・パウエル・ストリート217。
ダニー・クレイトン。
間違いない。
ふーっと1つ息を吐き、余計なものは全部そこで吐き出した。
ここまでの仕事はパーフェクト。だが油断するな。相手も元マフィアだ。
悪魔は人が油断した隙に付け入ってくる。
だが今夜は俺が悪魔だ。
ピザを片手に玄関へ回る。
ベルを鳴らすと同時に腰から拳銃を抜いた。
ドアの向こうから足音がする。
玄関が開いた。
標的と目が合う。
「メリークリスマス」
俺はそう言って微笑みかけ、次の瞬間引き金を引いた。
1発。2発。3発。
気の抜けるような音と共に発射された弾丸が、クレイトンの右足と右脇腹、そして左胸に命中する。
ちくしょう。
心臓を少しだけ逸れた。
だが俺が思っていた以上に終わりは呆気なく訪れた。
白い玄関のドアの向こうで、クレイトンが仰向けに倒れている。
「期待外れだな」
もっと派手な抵抗があるかと思ってた。だがクレイトンは生まれたての子ウサギみたいに無抵抗でか弱かった。
こんな男がファミリーの幹部を殺して逃げただって?
何かの間違いじゃないのか?
そう思いながら、俺はなおも銃を構えてクレイトンの家に上がり込む。
――殺し屋なら、普通は自分が撃った相手が確かに死んだかどうか確認するだろう。
それはかつてのFartの言葉だ。
俺は何故だかその言葉が今も耳に残っていて、よほどの緊急時でない限り必ずターゲットの生死を確認している。コーエンのようなヘマはしない――でないとあいつに笑われるから。
俺は銃口をぴたりとクレイトンの額に向けながら、無感情にその顔を見下ろした。
廊下は明かりがついていなくて薄暗い。開け放たれた奥のドアから差し込む明かりが唯一の光だ。
その光の下で、クレイトンは目を開けて俺を見ている。
まだ息があった。
やっぱり最終確認は大事だな。
そう思いながら、俺は引き金をファーストステージまで引き絞る。
「久しぶりだな」
そのとき、聞き覚えのある声がした。
瞬間、俺は凍りついた。
驚愕のあまり体が動かない。
だが、今、確かに。
血塗れのクレイトンが、俺を見上げて笑った。
「やっと俺の正体に気づいたのか」
低く、憎たらしく、どこまでも人を小馬鹿にしたようなその声は。
「待ちくたびれたぞ、Brat」
そう言って、クレイトンは呼吸をやめた。
俺が4発目を撃ち込むまでもなかった。
けれどその瞬間、俺の手からピザと拳銃が滑り落ちる。
床に当たってぶちまけられたマルゲリータの上に、俺の愛人がダイブした。
俺はそのまま壁に背中をつき、愕然として目の前の男を見つめる。
クレイトンは笑っていた。
立ち竦む俺を見つめたまま。
だが、嘘だ。
そんなことあるはずがない。
そう思った俺は弾かれたように駆け出し、奥の部屋へ飛び込んだ。
慎ましやかなダイニングキッチンに、使い古された浴室、トイレ、洗面所。
それからクレイトンの寝室に飛び込み、必死で壁のスイッチを叩いた。
電灯がつき、俺は無我夢中で部屋の中をあさる。まるで殺し屋ではなく強盗にでもなった気分で。
そして、見つけた。
ダニー・クレイトンという男の正体を示す証拠。
俺はベッドサイドに置かれたそれを茫然と手に取った。
小さなフォトフレームの中の写真には、憎たらしい顔で笑った1人の男と、その男を殺したフランケンシュタインが写っていた。
BGM:『Extreme Ways』(Moby)