名前:
矢車 2008-07-21 23:58
ご無沙汰しております。矢車でございます。
またもや一週間の無聊、お許しください。申し訳ないことに、矢車は生来のマイペースでありますゆえ。
さて、前回のお話の再反論をさせて頂きたく思います。
「ということは、たとえばこのサイト上の「文学」は、矢車さんに言わせれば「文学」ではないという事になりますね。」とのことですが、まさしくその通りです。矢車の立場からすれば、「なろう」内にある小説は(矢車の愚考、即ち「文学とは、後世に影響を与えた文芸である」という定義が真だとするなら)「文学」ではありません。ID25にても指摘しております。
その矢車が拙作「エロ本焼却祭り」、仲里先生もご覧になったと思いますが(ご感想まで頂きましたね、ありがとうございます)、あれの脚注に変な一文が差し挟まれていることに気づかれましたでしょうか。
「文学」というジャンルにしていますが、「あえて」の分類であることをご了承ください。
矢車が「文学」で文章を書く場合、おおむねこの一文を脚注に加えるようにしています。
矢車の論だと、確かに超近視的に「文学」を論じることは出来ません。生まれたばかりの文芸を論じることが出来ないのです。ではなぜ、矢車は「文学」というジャンルを用いているのかというと、有り体に言ってしまえば方便です。「なろう」内に一ジャンルとして存在するのならそれを使わない手はない、例え自分の論理に逆らってでも、というのが矢車のスタンスなのです。ただ、そのスタンスに乗り切れないので、あの一文を挟み込んでお茶を濁している、といった次第です。
ところで仲里先生、お気づきのことと思いますが、仲里先生の「文学」定義も、矢車の論と同じくジレンマに陥ってしまいます。仲里先生の“文学定義”には、“議論”の時間が必要だからです。仲里先生のお言葉を借りれば、「棚作り」の時間が必要なのです。なので仲里先生の論を以ってしても、今日生み出される「なろう」内の「文学」は、真の意味では「文学」ではない、ということになってしまいます。「なろう」で公開されている「文学」ジャンルの小説も、各先生方が己の信念の下に書かれた「その先生にとっての文学」でしかないはずですから。
あと、「「ドストエフスキーの小説を読むこと〜(中略)〜は、“読み手”としてのご意見なのでしょうか? それとも、“書き手”としてのご意見なのでしょうか?」と矢車が質問したのには、理由があります。
もし、仲里先生が「あれは、読者としての意見だ」と仰れば、矢車は何も言う事はありませんでした。しかし、仲里先生は「両方」とお答えになったので、言わせて頂きたいと思います。
チャプター「ドフトフエスキー」における仲里先生のご意見を煎じ詰めると、“小説の権威に寄りかかって本を読むべきではないし、書くべきでもない”というご意見に集約されると思います。しかし、このご意見を書き手として仰っているというのなら、仲里先生の中で矛盾が発生してしまいます。
ではここで、ちょっと思考実験をしましょう。
仲里先生の「書く前に読め!書くよりも読め!」が、これからさらに人気が出て、「「なろう」で文章を書いているなら絶対に読まないといけない作品だよ! 」と囁かれるほどの人気作になったとしましょう(近い将来、そういう風になるのではないかと矢車は密かに楽しみにしているのですが)。
もちろん、人気が出れば出るほど、様々な読者が出てくると思います。正鵠を射た意見を残してゆく読者もいれば、的外れなことを言い捨てて逃げちゃうような人もいるでしょう(矢車のこと? )。
また、仲里先生の作品に「権威」を感じて読まれる読者の方もいらっしゃるでしょう。「皆が読んでいるんだから」と読んで、結局仲里先生のご意見を分かったつもりになって帰っていく読者も出てくるはずです。
さて、ここで仲里先生にご質問です。
そうやって、権威に寄りかかって自分の文章を読んでいる読者に対して、「僕の文章を、権威に寄りかかって読むな! 」と先生は言い放ってしまうのですか?
チャプター「評価されること」の中で、読者の評価に怒ったり反論したりする作者の姿勢を、仲里先生は批判しておいでです。そして、こう仰っています。「素人が読み手を選んだり(中略)するほうが、よっぽどおこがましい」と。
書き手である仲里先生が“権威に寄りかかって本を読むべきではない”と仰ると、「読み手を選」ぶことになってしまう懸念があるのではないかと矢車は思います。作者が読者に読み方を強いる、あるいはこうすべきと言い放つということは、作者の設定した枠から外れた読者を切り捨てることになりかねないと不安に思うのです。
一応言っておきますが、仲里先生のご意見には賛成なのです。でも、そのご意見を書き手として言ってしまうのは筋違いに思えます。そのご意見は、一読者として提起すべきもののように思えます。
好き勝手言いまして、申し訳ございません。あと、冗長な文章、お許しください。失礼します。
※これは評価ではなく感想です
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| ▼コメント 『ドストエフスキーの小説を読むことそれ自体に、満足をしている人間(自分も含む)を否定したいのです』と、僕は言いました。 そして矢車さんは、僕にこのような質問をしました。それは、『“読み手”としてのご意見なのでしょうか? それとも、“書き手”としてのご意見なのでしょうか?』と。この質問は、非常にナンセンスです。なぜなら僕は、書き手でもあり、読み手でもあるからです。 ですから僕が『両方』と答えると、矢車さんはこのように言いました。『「読み手」を選ぶことになってしまう懸念があるのではないか』と。 これは、かなり強引な論理だと思います。これを認めてしまうと、僕はどのような意見も口に出来ないことになってしまいます。ですから、これから僕の正当性を証明しようと思います。
そもそも僕は、「ドストエフスキーを読むな!」とは言っていません。『ドストエフスキーの小説を読むことそれ自体に、満足をしている人間(自分も含む)を否定したいのです』と言ったのです。つまり読んだ後、結果の話をしているわけです。矢車さんは、言葉を飛躍させてしまっているのではないでしょうか?(もちろん僕の書き方が悪い上、「読むな!」と、どこかで言ったのかもしれません。そうでしたら、謝罪と訂正をさせて頂きます) 「カラマーゾフの兄弟」を読んで、矢車さんは何かしらの意見をお持ちでしょう。僕がそれを否定することは、決してありません(どのようにも、「読むな!」なんて言いません)。しかし矢車さんが、「カラマーゾフの兄弟」を読むことそれ自体に満足をして、小説それ自体から何も引っ張り出さずに何も得なかったら、僕はそれを否定します。「矢車さん、それは書き手としても読み手としても、ほめられるべきことではないのでは?」という風に。これが、「読むな!」という意味になるでしょうか? 読んだ後の議論ですよね? さらに僕は、『素人が読み手を選んだり評価に怒ったりするほうが、よっぽどおこがましい』と言いました。その言葉通り、僕は読み手を選びません。怒ったりもしません。 僕の小説を、ライオンが電車の中で読んでもいいです。キリンがベンチに座って読んでも構いません。だけど、どのような動物も、線路の上で読むのはやめて欲しい。電車にひかれて死んでしまいますからね。 もう一度言います。「線路の上で小説を読むことを否定する」という言葉が、「小説を読むな!」という意味になるでしょうか? なりませんよね? 読む場所の話しをしているわけです。最終的に、ペンギンが線路の上で僕の小説を読むのであれば、僕はそれを尊重します。(もちろん、説得はしますよ)
矢車さんが、ついてきた部分は分かります。しかし、それを認めてしまっては、我々は語れなくなってしまいます。なぜなら、我々は読み手であり、同時に書き手でもあるからです。 「意見を書き手として言ってしまうのは筋違い」と矢車さんは仰いますが、書き手でもある矢車さんが持つ意見は、自ずと書き手としての意見も含まれてしまうのではないですか?「小説は面白い」と矢車さんが言ったとき、その意見からどのように書き手である矢車さんを排除し、読み手でしかない矢車さんになれるのですか? 書くのをやめますか? 僕は、読んで書く人間です。「意見を書き手として言ってしまうのは筋違い」と僕にいうこと、それ自体が筋違いです。ナンセンスです。
そのようなことはともかく、矢車さんの主張は我々、もしくは小説を苦しめてしまっているように思えます。文学の定義にしても、意見の主張方法にしても。 法律は、何のためにあるのでしょうか? 我々の足かせなのでしょうか? そうなのかもしれません。だけど小説という街では、足かせをはずして歩きたいと僕は思います。 ぜひ僕が矢車さんに聞きたいのは、「矢車さんの文学定義は、我々に何をもたらすのか?」ということと、「矢車さんという書き手の意見が介在しない、矢車さんという読み手だけの意見は存在するのか? するのであれば、具体的にどういったものなのか?」ということです。 この二つが、僕には分かりません。よろしかったら、教えてください。
それでは、ありがとうございました。また、反論をお待ちしています。 名前:仲里[2008-07-22 20:18] | |
| ▼コメント そうですね。文学として投稿されたものでも、「これが文学?」と思ってしまうことが多々あります。しかし僕は、それで一向に構わないと思うのです。 投稿者が文学の棚に入れたのですから、それは文学として読み手に読まれます(読み手がすべてですから、「文学として読むな」と言っても、絶対的効力はありません)。時間を要さずに文学となっていますね? しかし、それが永久に文学の棚に納まっているのかと言うと、そうではありません。そこから動く可能性もあるし、動かない可能性もあります。時間がかかる部分はここなんです。 ですから、決してジレンマには陥ってはいません。議論をしてるときは、すでに文学の棚に収まっているわけですね。棚に収めた状態で議論をしていくわけです。お分かりでしょうか? それはともかくここで言いたいのは、「利便性を失ってしまってはいけない」という事です。せっかく棚があるのですから、使わない手があるでしょうか? 矢車さんが本屋をやったら大変です。ジャンルが定まるまで、本を床に置いておかなければならないのですから。誰も得をしないと思います。まさにジレンマに陥っていますね。 「エロ本焼却祭り」を文学の棚に置いて、なぜ悪いのでしょうか? 誰かが怒りますか? 誰かが困りますか? とりあえず棚に置いて売るべきです。それが文学であるかどうかなんて、どうでもいいことだし(中身が大事)、やりたければ後でいくらでも出来るからです。 案の定、矢車さんは文学の棚を使ってしまっています。買う人間は、文学だと思って本を買っていくわけです。家に帰って読んでから、巻末に『「文学」というジャンルにしていますが、「あえて」の分類であることをご了承ください』と書いてあっても、困ってしまうし、読み手にとって何の意味もありません(文学だと思い、買って読んでしまったのですから)。 僕の定義は、利便性を礎にしています。矢車さんの定義は、我々に何をもたらすのでしょうか? そこが僕には分からないのです。矢車さんが、自分の首を絞めているようにしか思えないのですが・・・。
『「僕の文章を、権威に寄りかかって読むな!」と先生は言い放ってしまうのですか?』―「読むな!」とは言いません(「読むな!」なんて言ったかな?)。しかし、「そのような読み方(書き方)は、書き手としても読み手としても正しくない」とは思っています。 誰の文章であれ、権威などに寄りかかって読むべきではありません。「大江健三郎はノーベル賞を取っているから、彼の小説は素晴らしいんだ」なんて、絶対に思ってはいけないと僕は思います。「読み手」兼「書き手」の僕は(つまり、「両方」としか答えられなかった)、そのような信念を持ち合わせています。 しかしそれが、矢車さんの言うように「読み手を選ぶ」ことになるのでしょうか? もしそうだとしたら、僕は何も言えなくなってしまいますね・・・。 どうも強引に作られた屁理屈のように思えるのですが、就寝の時間のため、明日にでも熟考して再度コメントさせていただきます。
いつも、ありがとうございます。お陰様で、たくさん考えることが出来ます。もし矢車さんがいなかったら、この思考はあり得なかったわけですね。感謝いたします。 名前:仲里[2008-07-22 03:04] | |
名前:
閉伊琢司 2008-07-20 22:53
仲里さん、こんばんわ〜。
連休、いかがお過ごしですか? (酒飲んで海に入ってはダメですよ〜)
最近の小中学生は、宿題の読書感想文をWEBサイトからコピペして提出するんですってね。社会問題になってるらしいですよ。
今時の子供達って、本読むのがそんなに嫌いなんですかね〜。ボクが子供の頃なんかは、新しい本が買って貰えるって大喜びしたもんですけど……。
このエッセイは、ずうっと更新を楽しみに読ませて頂いてます。完結したら評価しようと思っていたのですが、まだまだ先が長そうなので、ここで一旦、評価してしまいます。
その前に、まずお礼を言わせて下さい。
このエッセイは、本当に為になりました。
もちろん、内容には100パーセント賛同出来ない部分もありますが、色々考えさせられたり、長い間の謎が解けたりして、無料で読んでいいのか? と思うほどボクにとってプラスになりました。
本当にありがとうございます。
さて、褒めてばかりいては怒られそうなので、一読者として、ひとつ注文を……。
カッコを多用しすぎて読みづらいです。しかも「」、()、<>、『』と多種にわたって使用するので、目が疲れます。もちろん、カッコには効果的な使い方も有りますが、このエッセイを読んだ限りでは、無意味な使われ方をしている部分が多いように感じます。
どの部分が無意味だ? と映画『アマデウス』のモーツァルトみたいな事言わないで下さいね。必要、不必要の線引きが出来るほど論理的に読めてないです。ただ漠然と、読みづらいな〜、カッコを減らせよ〜と思っただけです。
続いて部分的なダメ出しです。(最初に謝っておきます。勘違いだったらゴメンナサイ!)
『始めに 』の中で、
>これ書くことによって、「小説」にもっと向き合いたい。
”を”が抜けています。
>そのために僕自信は、面白いと思っても、
”僕自身”の誤字です。
『句点への仮説』の中で、
>句点それ自体が、読者に訴えかけているもの(伝えたいこと)があるのだ。
”〜が〜があるのだ”って、文章的に間違いではないですが、ちょっとスマートじゃないです。”句点それ自体に”とするか”あるのだ”を”なのだ”に変えるべきだと思います。
『段落への仮説』の中で、
>乖離
仲里さん的な立場としては、やはりフリガナを付けるべきではないでしょうか。
『「縦書き」への仮説』の中で、
>右斜線、左斜線
これは、”右車線”と”左車線”の誤字です。
『まとめ』の中で、
>今回は総括的に「それらの様々な文章作法は、結局何のためにあるのか?」、という疑問に仮説をたててみたい。
これ、ちょっと自信ないんですが”あるのか?」、”っていう書き方は正しいんでしょうか? もし正しいとしても、見ていて不格好だと思います。
『形容・描写考察』の中で、
>そんなにその顔を見て欲しいなら、メールで画像を送ればいいことだ。
ここは、”送ればいいだけのことだ”とした方がしっくりきます。
『ラブレターのすすめ』の中で、
>完結な文章で何かを言い当てる人
たぶん”簡潔”の間違いだと思います。
>小説を読むより感想を読むほうが面白い(なんという皮肉!)。
これも”皮肉!)。”っていうところ、変な感じがします。ようするに無理してカッコで括る必要がないような気がします。
『小説におけるリズム』の中で、
>これほどまでに翻訳とい作業がなされてきたのは何故なのだ?
”う”の字が抜けてます。
『まとめ』の中で、
>正直、ウンザリするときだったある。
これ、誤字あるよ。
>不存在
こんな単語って有るんですか?
さっと、こんな感じで間違い探しゲームを楽しませて頂きました。ぜひぜひ、更新される度にやらせて頂こうと思います(笑)。もはやライフワークです(大笑)。
こんな挑発的なタイトルの作品を投稿できるって勇気ありますよね。ボクのような小心者には絶対無理です。きっと『閉伊さんの小説書き方講座』くらいにしか出来ません。はなっから心構えが違うんですね。
でも、他の作者さんも、一見、気楽に小説を書いてるように見えますけど、実は結構いろいろ悩みながら書いてるんじゃないかな〜って思います。このエッセイを参考に、あるいは自己啓発のきっかけにしながらも、最終的には、みんなそれぞれが自分なりの信念を持って小説を書ければいいな〜と思いました。
――クラプトンはまっすぐジョージのところに行って「きみの女房に恋をしている。きみはどうするつもりかい?」と言ったのだ。するとジョージが「お好きなように。僕は一向に構わないよ」って言ったんだ。彼は、とても宗教的な態度で「みんなそれぞれに、こうと思うことをすべきなんだ」って言ったね……。
(レイ・コールマン著『エリック・クラプトン・ストーリー』より)
連載ガンバッテ下さいね。微力ながら応援させて頂きます。
でわ……
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文章評価:
★★★★☆ 作品評価:
★★★★★ 出版:買う
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| ▼コメント いやー、凄いですね(いろんな意味で)。どこから話しを始めよう・・・。
えーまず、僕は普段、文章に「傍点」を使用します。しかしながら、このサイト(横書き)でそれをすると、行と行の間に<隙間>が出来ます。振り仮名も同じように<隙間>が空きます。僕は、変なところに神経質なので、行間が均一になっていないと許せないのです。我慢できません。よって、「振り仮名」と「傍点」が振れず、カッコの割合が多くなってしまうのです。 しかしそれ以前に、僕は「カッコマニア」です(カッコが大好きです)。『カッコマニア協会』では、このサイトの横書きは最悪と名高いです。カッコが非常に見づらいのです。しかし、僕は紙の上のカッコにしか興味がないので、ゴーサインを出していました。 そのような自分勝手なカッコの使用が、目の疲れを促進してるとは思いませんでした。このような客観的意見は、大変ありがたいです。目薬を買って差し上げたいところですが、お礼にとどめさせていただきます。
僕は国語が苦手です(特に漢字)。誤字脱字は御手の物です。百回見直しても、出てくる出てくる・・・嫌になりますね。 ご指摘、ありがとうございます(こんなに出てくるとは・・・いや、まだあるな)。国語の勉強になりました。いかに自分が未熟であるか、思い知りました。これを参考に、読み返してみようと思います。 でも、二つだけ。不存在って、不存在なんですか!? 器用―不器用、安定―不安定、一致―不一致、公平―不公平・・・存在―不存在。造語として、成立し得ると思うのですが・・・。 もう一つ、確かに会話文をくくったカッコのあとに句点が来ることは、基本的にありませんよね。でも僕は、結構やっちゃいます。それは、あえてルールを破ってやっています。「ここにしか打てないよ」、という時があるんです。やっぱりダメかな?
クラプトンの気持ちは分かる(パティは死ぬほど綺麗だから)。でも、ジョージの気持ちは分からない(そこまで到達してみたいけど)。普通は自分の愛する人を、「はい、どーぞ」って渡せないよ。僕は、気が狂いそうです。 それにしても、その後に起きたことを考えると、「感慨深い」というか「意味深」というか・・・。『現実は小説より奇なり』ですね。 ジョージの物事に対する傾倒の度合いは、尋常ならざるものがあります。僕も見習わないとな。
それでは、たいへん感動的な感想でありました(これほどまでにして頂けるとは)。ありがとうございました。 ところで、『カッコマニア協会』に入る気は起きましたか?「勧誘手段」として、カッコを多様しました(すいません、手の込んだ冗談です)。目が疲れてなければいいのですが・・・。 名前:仲里[2008-07-21 01:09] | |
名前:
ごはんライス 2008-07-20 00:22
ボクも同感。同感とは少し違うか。共感。同じか?????
意味というのはすごく大事です。ボクはナンセンス的なのが好きで、「不思議の国のアリス」とかは大好きなんだけど、作者のルイス・キャロルはロリコンでボクもロリコンで共通するとこがあるというか、それは関係ないか、ともかく、何というのか。ボクの作風というのは「いかに意味から飛躍するか?」というのをテーマにしてる節もある。この場合、多くの人は「無意味なものを書きたいんですね」と言うけどちょっと違う。意味を超えるというか。超える以上は超える対象、つまり「意味」ですね。これを深く追求しないといけないと。しないと底の浅いものになってしまう。
例えば、ルイス・キャロルは数学の教授だった。ボクも塾の講師で。いやそれはもうどうでもいい。とにかく、たぶん、基本的に論理的な思考の持ち主だったんでしょうね。そっから逃れるためにああいう作品を書いたのだろうか????
ボクが反道徳的な作品を書こうとするのも、道徳的でなければならない塾の先生という職業をやってくうえでバランスを取ってるのかもしれないです。要するに道徳に縛られやすいんですよ、この職業。
それはともかく、やはり、繰り返しになるけども、偉大なるナンセンス・ユーモアをやるには徹底的に意味を深く深く追求してかねばならんです。でないと飛躍してるのかどうかさっぱりわからん。
つまり、こういうことですね。
意味という地面があったとします。この地面の範囲が広かったらジャンプしても、してるのかどうかわからない。地面の範囲を狭く狭くすることによって、ジャンプしてことを明確にする。この場合、狭くするというのは、意味の意味の意義を狭めるということではなく、意味という土地の意義を深化させるという意味で。深化という言葉は、進化の造語で故河合隼雄氏によるものです。
あるいは、ジャンプを五十センチから、ドラゴンボールの悟空やクリリンみたいに、何百メートルにさせようとした場合、今度は意味という土地の範囲を拡大してかねば、読者はジャンプに気づかない。あれ? どこに行ったの? てな感じで。
後半、意味不明になってきましたが、結局、意味を究極に探求してくとナンセンス文学に行き着くのではないかなぁというのが持論です。
※これは評価ではなく感想です
30歳〜39歳 男性
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| ▼コメント 「数学ほどファンタジックなものはない」と、僕は思います。数学者が『不思議の国のアリス』を書いても、何ら不自然には思えません。アインシュタインも、バイオリンを弾いてますからね。僕は聴いたことはないですが、ものすごい演奏をやってのけたのだと思います。 『意味を究極に探求してくとナンセンス文学に行き着く』―どうなのでしょうか。僕には難しくて、よく分かりません。しかし、気になることはあります。「意味の探求の末にたどり着いたナンセンス文学は、誰に何を与えるのか?」という事です。またその意味の探求、という事にはなりませんよね?(ナンセンスゆえに) ごはんライスさんの作品は、道徳的私生活の反動なのか! 凄い振り子ですね。振れ幅が尋常じゃないように思えます。ロリコンという事ですし、教職につかれているという事なので、振り子の糸が切れないように気をつけてください。
名前:仲里[2008-07-20 01:32] | |
名前:
ごはんライス 2008-07-19 13:55
翻訳は面白い。字幕でもあるよね。スクリーンで外人が英語でギャグを言った時、タカトシのギャグを字幕に書くとか。小説でもある。英語のダジャレじゃ意味が通じないので翻訳する際、日本のダジャレを挿入するとか。
翻訳者の力量にかかってる。だって、前後のつじつまを合わせないといかん。単に置き換えるだけではダメなのだ。
俳句も面白いね。
古池や 蛙飛び込む 水の音
日本人だと静かな古池に蛙が一匹ぽちゃあんと飛び込む絵をイメージするが、外人の生徒に読ますと、何十匹の蛙が次々と池に飛び込む絵を想像して面白がる、ということもある。
この場合、意味というのはどういう意味を持つのだろうか。確かに、「蛙が飛び込む」という意味は同じなのだが、イメージが読者によってまるで異なる。
ここが小説のおもろいとこかもしれんですね。
※これは評価ではなく感想です
30歳〜39歳 男性
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| ▼コメント 蛙の話は興味深いです。確かに意味は普遍ですが、読み手のイメージは無限大ですね。そう考えると、普遍的意味の連続とか、リズムとか、間拍子的情緒とか、どうでもいいようにさえ感じてしまいます。 でもやはり、文章においてリズムを生み出せるのは、普遍的意味の連続なのだと信じて疑いません。音を頼りにしても、人それぞれ読み方が違うのだし、翻訳されたらそんなもの吹き飛んでしまいますもん。 僕は意味だけを信じます。それでは、いつも面白いコメントをありがとうございます。それでは。 名前:仲里[2008-07-19 23:56] | |
名前:
ごはんライス 2008-07-13 20:34
あっ。なんかちょっとわかった。等間隔というとこが味噌ですね。
だから、あれ革命的ですね。君が代。大和歌を西洋風にアレンジしたという。
もともと恋歌でしょ。短歌だから、57577ですよね。でもそれじゃ国際的な場で演奏でけんちゅうことで、ああなった。のかな?? 君が代も16ビートで演奏することできるかな?????
キヨシローがやってたように記憶するが。
そうか。確かに、小説は等間隔のリズムを刻んでないね。でも、間はあるね。
おお! これは難しい!
でもちょっとわかったぞ。少し考えてみます。
※これは評価ではなく感想です
30歳〜39歳 男性
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| ▼コメント リズムについては、まだ続きを書くつもりです。あと間拍子の説明と、小説においてのリズムを、翻訳小説に絡めて書こうと思います。(変更あり) 「君が代」だって、ロックのビートにのせて演奏できます。しかし、もともと備わっていた<間拍子>を失ってしまいます。 たとえば、松尾芭蕉の俳句を8ビートにのせて歌って見て下さい。そこで獲得したものが<リズム>で、失ったものが<間拍子>です。次回、詳しく書こうと思います。 というわけで、今回はこの辺で失礼します。 名前:仲里[2008-07-13 21:05] | |
名前:
四夜 2008-07-13 08:24
このエッセイに出会えてよかった。共感出来る事が多いし、何より小説に対する考えをより深める事ができました。この場を借りて、礼を言いたい。もし、出版とかされるなら、真っ先に買ってしまう。
俺も、某個人サイトで小説を公開している身で、いずれはこの“小説家になろう”にも載せる予定で、載せたら誰よりもアナタに読んでいただき、意見や批判が聞きたい。
出会った時には、是非とも宜しくお願いします。
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文章評価:
★★★★★ 作品評価:
★★★★★ 出版:買う
[S5] 18歳〜22歳 男性
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| ▼コメント お読みいただき、ありがとうございます。少しでもお役に立てれば、それは何よりです。しかしながら、これは僕の独断的意見なので、必ず反面教師的にご利用なさることをお勧めします。鵜呑みにすると、痛い目にあうかもしれません。 僕は、読むことを信条にしております。「書く前に読め!書くよりも読め!」というわけです。小説を投稿されましたら、是非ご一報下さい。それでは、また。 名前:仲里[2008-07-13 12:01] | |
名前:
ごはんライス 2008-07-13 00:34
短い感想でごめんなさい。
矢車さんのコメントの返信に書いてあったの、すげえ、わっかりやすい!
店員「もっこり太郎の「もっこもっこ冒険記」? その本は後世に何の影響も与えてないクソ小説なんだよ。だから文学じゃない。向こうのコーナーに置いてくれよ」
バイト「は、はい。わかりました」
店長「おいおい。文字が書いてあるから立派に文学じゃないか。元に戻してくれたまえ」
バイト「は、はい。わかりました」
店員「こらっ。君。ダメじゃないか。それは文学じゃないんだよ。置くなアホ」
バイト「は、はい。す、すみません」
店長「おいおい。君。なんだね、君ィ。それは文学だろう。ちゃんと置けバカ」
バイト「は、はい。ただいま」
店員「仲里くん! いいかげんにしないか!」
店長「仲里くん! ふざけてるのか君は!」
バイト「いいかげんにしろおおおおおおおおお」
思わずコントもどきを書いてしまった。いや、わかりやすいです。あの例え。確かにそうやって論議してくなかで文学というのは定義づけられていくのかもしれんですね。時代によって変化してくというか。ロックだって、チャック・ベリーの時代とビートルズの時代じゃまた違うし、今と60年代じゃまるで違うもんなぁ。となれば、やっぱ、漱石の時代と現代では違うわけで。なるほど。おもしろいですね。
※これは評価ではなく感想です
30歳〜39歳 男性
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| ▼コメント 追伸 ある感想のやり取りに、第三者が入り込んでくるのは、とても良いことです。革命と言ったら言いすぎだけれど、あまり見る光景ではないですよね。新しい、一つの良い流れだと思います。 この場では、そのようなことを、皆さんにどんどんやって欲しい。みんなの為になると思います。 それでは、ありがとうございました。 名前:仲里[2008-07-13 02:27] | |
| ▼コメント すいません(ばれたか)。勝手に名前を使いました。 短くても、もちろん構いません。ありがとうございます。ただ正直な気持ちを言うと、感想の量と質が小説を超えるのが理想だとは思っています。現状の作品の数と感想の数が、ひっくり返らないかなー。個人的には、「十作品感想を書けば、一作品投稿できる」みたいな決まりがあっても良いように思います。あっ、そういえば、読まない自由も、感想を書かない自由もあるんだよな。 と言いつつ、短い感想と、長い感想が同じ一回というのも納得がいかない。評価貢献は、字数(+内容)で判断すべきでは? 評価にも評価があったら面白いな・・・なんて、まあいいか。とにかく、短い感想も長い感想も、どちらも大歓迎です。 それにしても、もっこり太郎の「もっこもっこ冒険記」なんてパンク小説は、文学の片隅にも置けないな。しかし、どんな内容なのだ? 名前:仲里[2008-07-13 02:17] | |
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矢車 2008-07-12 09:26
お久しぶりでございます。矢車でございます。
こちらから勝手にコメントを送っておきながら、一週間あまりの無聊、お許しください。ようやく先生から頂いたご返事へのお答えを書けそうです。
さて、矢車の論について「正直、難しすぎる」「文意が取れない」等のご指摘がありましたが……。スイマセン。矢車も一週間ぶり自分の文章を読み返してみて、「これは意味が分からないはずだわ」と頭を掻いてしまいました。あまりに観念的ですし、あまりに説明が足りませんでした。なので、もう一度説明させていただきます。
前回の矢車の主張を端的に言いますと、
「“文学”という“ものさし”は、ある程度の客観性がある」
という点と、
「その客観性とは、“他に対する影響の多寡”なのではないか」
という点に集約されます。
例えば、夏目漱石の書いた小説の多くは「文学」とされています。多分、街頭アンケートなどを取ったとして、100人中90人以上は彼の小説を「文学」と認めるでしょう(きっと)。では、90人以上が夏目漱石の小説を「文学」と認める背景にあるものは何なのか、というのが、矢車の論のスタートなのです。
無論、教育などもその背後にあるのかも知れませんが、“各人が各人自己流の文学定義を持っていて、その重なり合う部分が「文学」として人々に共有される”という仲里先生の論を適用するには、この世界の人々には多様性があるように思えます。多様性を持った読み手や書き手たちが「文学」という概念で縛り付けられている、といったイメージでしょうか。
では、読み手や書き手を縛っている「文学」とは何なのか。
その答えを、矢車は“影響”に求めているのです。
小説家は、まったくの無から小説を書き出すわけではありません。先人達の小説を読んだ上で影響を受け、作り上げるものだと考えています。そうして文芸(「文学」でないのに注意)の世界は成長していったのだ、というのが矢車なりの文芸史観なのですが、時折その史観の中に、とてつもなく大きな影響を与えた作品が見つかることがあります。矢車は、これを「文学」だと言いたいのです(前回の説明の際、“太い幹”と表現しましたね)。
この説明でお分かりの通り、矢車の言う「文学」とはジャンルではありません。たまたま後世に影響を与えてしまった、という立ち位置を示すに過ぎません。「Aが「文学」ならば、BもCも「文学」であるという事ですよね?」との仲里先生のご質問には、NOと答えるほかありません。矢車の論において、「文学」というのは受け継がれるものではなく、ただの立ち位置なのです。
また、「では、そもそもAは、なぜ「文学」なのでしょうか?」とのご質問ですが、矢車の論においてその質問は意味を為しません。矢車は、「後に強い影響を与えた文芸」を「文学」と定義つけているので、後世に影響を与えたという事実がAを文学たらしめてしまうからです。
「ドストエフスキーは、何故「文学」なのか、矢車さんの考えで説明していただけますか?」との仲里先生のご提案ですが、実は前回にその答えを示しています。「太い幹」、つまりは後世に影響を与えたからだ、と。
あと、細かいことで申し訳ないんですが、「 矢車さんには、矢車さんの文学定義がある。その一方で、僕の考える文学定義もある。・・・ほら、やっぱり文学定義って、あいまいですよね。制約なんてない。矢車さんの存在が、僕の文学定義を証明してくれているわけです。」とのことですが、ちょっと論理に難があるように思えます。矢車は「文学定義には制約がある」と主張し、仲里先生が「(各人の中では)制約はない」と主張なさっている以上、仲里先生の論が、矢車の論を内包できるはずがありません。
あと、「ドストエフスキーの小説を読むことそれ自体に、満足をしている人間(自分も含む)を否定したいのです」とのことですが、これは、“読み手”としてのご意見なのでしょうか? それとも、“書き手”としてのご意見なのでしょうか?
スイマセン、長々と失礼しました。
※これは評価ではなく感想です
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| ▼コメント なるほど、良く分かりました。小説が後世に多大な影響を与えて初めて、「文学」という看板が与えられるという事ですね。ということは、たとえばこのサイト上の「文学」は、矢車さんに言わせれば「文学」ではないという事になりますね。後世に影響など与えていないわけですから。かなり突飛な考え方だと思います(決して、悪いわけではありませんが)。その考えを用いると、誰も「文学」に投稿出来なくなりますね。あれ? 矢車さんは「文学」に投稿していませんでしたか? それは、後世に多大な影響を及ぼした作品だったのでしょうか?(自分の首を絞めているように思えます。少なくとも、看板が利便性を失ってしまっている。) そして、その矢車さんの定義は、僕の定義にちゃんと内包されます。「制約はない」ということは、「制約があってもいい」と言うことだからです。「ネクタイをしめる、という決まり(制約)はない」。つまりは、「ネクタイをしても、しなくてもいい」という事ですよね? ネクタイを否定、除外することにはなりません。それと同じように、「文学に制約はない」ということは、「制約があってはならない」という意味にはなりません。「あっても、なくても、どちらでもいいよ。制約なんてないんだから」と言う意味で、「制約がない」と言ったのです。「制約」が二重構造になっているわけですね。『「(各人の中では)制約はない」』なんて限定的に書いた覚えはないのですが・・・どこかで書いたのかな? だとしたら、訂正させていただきます。 僕が本屋を開いたら、僕が本を並べます。それを買いに来た矢車さんが、「これは後世に影響を与えていないから、文学じゃないよ」と言います。それを聞いた僕は、その本を隣りの棚の移しました。それを見ていたごはんライスさんが、「それは文学の棚に置いといてくれないと困るよ。文字があれば文学なんだから」と言います。そのような繰り返しで(利便性の追求を伴い)、「文学」の棚が定まると僕は思うのです。矢車さんの意見も、僕の本屋の棚作りに無関係ではないのです。しっかりと、内包されています。
『「ドストエフスキーの小説を読むこと〜(中略)〜は、“読み手”としてのご意見なのでしょうか? それとも、“書き手”としてのご意見なのでしょうか?』―これは両方です。特に自分に対して、「書くことそれ自体、読むことそれ自体に満足するな」と戒めているつもりです。このように僕が書いて、矢車さんが読んでいるという事実よりも、二人がどのように感じ、何を得て、何を失っているのかが大事だと思うのです。まあもちろん、読むこと(書くこと)それ自体に満足しても、何ら悪いことではないのですが。
このような性質の文章は、「道案内」に似ていると思います。いかに分かり易く、的確に相手に伝えるか。無駄をそぎ落とし、スピードも要求される。そして何より、相手を目的地に到着させなければならない。 しかし、文章と道案内では異なる点があります。それは、「到着したのかをお互いに確認できる」という事です。つまり伝わったか伝わっていないかを、言葉で確認し合えるわけです。自分の「道案内」がどれほどのものか、何があり何が足りないのかが確認し合えるわけです。 そういった意味で、これほど文章の勉強になることはありません。今一度、お礼を申し上げさせていただきます。 長い文章、大歓迎です。むしろ、僕が見かける限りでは、感想が短すぎると思います。「道案内」に的確な情報量には思えません。 それでは、ありがとうございました。何かありましたら、何時でも、何でも、心してお待ちしております。 名前:仲里[2008-07-12 14:03] | |
名前:
ごはんライス 2008-07-12 00:35
リズムと間拍子の違いがようわからんので楽しみです。となると、やはり、西洋の小説と日本の小説の違いもそれで少し説明が?????
ラテン・アメリカ文学と日本の文学は全然違うみたいですね。環境によるものもあるだろうか? 例えば熱いとか寒いとか。
※これは評価ではなく感想です
30歳〜39歳 男性
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| ▼コメント 『リズムと間拍子の違いがようわからん』―これこそが、日本人の弱点なのです。だから日本人が音楽家を目指す場合、リズム練習は不可欠と言われるのでしょうね。 『環境によるものもあるだろうか』―いや、絶対ありますよ。気候が芸術に及ぼす影響は多大だと思います。ロシアでサンバは絶対に生まれ得なかったはずです。 ラテン・アメリカ文学、良いですよね。ガルシア・マルケスは、最高に面白いです。 名前:仲里[2008-07-12 01:18] | |
名前:
ごはんライス 2008-07-07 16:22
手塚治虫、めちゃくちゃですねえ。60で亡くなってしまったけど、ベッドの中で画板ひろげて「まだ描き足りない! まだ描き足りない!」て。15万枚描いておいてよく言うよ、と思ってしまう。晩年は震える線が多く、身体的にやばいなというのはあったみたいですね。でもアイデアはバーゲンセールしていいほどあると。
ビートルズも筒井康隆もそういうわけのわからないエネルギーみたいなものを感じます。業、というか。
これで満足、というラインがない。
いやもう手塚先生は生活がメチャクチャですわ。タクシーに乗ってる時も飛行機に乗ってる時も電車に乗ってる時も描いてる。じゃあ、漫画描いてない時どうしてるってアニメ作ってる。海外から(ファックスのない時代ですね)電話で「Aには1やって、Cには5やって」とかアシスタントに指示してる。Aてのはページの場所で1てのは絵のパターンですね。
下書きなしで見開きのカラー原稿描き始めてしまうとか。エピソードが愉快ですね。
※これは評価ではなく感想です
30歳〜39歳 男性
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| ▼コメント 書き方より、生き方が大事なのかもしれない。生き方が、書き方を決めていくのかもしれないですね。 それでは、ありがとうございました。 名前:仲里[2008-07-07 17:54] | |