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バベル‐後藤詩門編
作者:後藤詩門
企画小説「グループ小説第18弾」に投稿した小説です。(主催、春野天使先生。原案、でん助先生)それではお楽しみください。
 石原美和いしはらみわがその本を初めて手にしたのは、日差しに夏を感じるようになった5月半ばを過ぎた頃である。

 せっかくのデートの約束をキャンセルし、ヘマした上司の尻ぬぐい的残業をするはめとなったその日。
 終電ギリギリの時間になった彼女は、自宅マンションに急いでいた。
 月15万円の家賃は少々高い気もするが、駅から5分の立地条件が気に入っている。
 会社を出てから一時間、ようやくマンションのエレベーターに乗り込むことができた。
 同時に自然とため息が出る。

(……はぁ)

 美和は8階のボタンを押した。
 動き出した低いモーター音を聞きながら、エレベーターの壁にもたれかかり瞼を閉じる。
 このまますぐにでも眠ってしまいそうだ。
 色んな意味で疲労困憊だった。

 実はこの日、彼女は29歳の誕生日を迎えていた。
 珍しく記念日を覚えてくれてた恋人、平井武ひらいたけしから食事に誘われ、二人で誕生日を祝う約束だったのだ。

 本当に珍しい。
 付き合いだして5年、初めての経験だ。
 ようやく、女心の機微みたいなものが分かってきたみたい。

 だが、会社は美和の誕生日など気にしてくれるはずもない。
 あの、馬鹿上司ならなおさらだ。
 上司の元町もとまちは42歳でいまだに独身。
 美和の所属する企画課の課長で、いつもセクハラまがいの真似ばかりする迷惑男。
 彼女を見ればすぐにちょっかいをだしてくる。はっきり言って、元町が大嫌いだった。

 そのムカツク上司から、残業を命じられてこの有り様なのである。
 まぁ、予想通り。
 だが、心のどこかでは期待していたのかもしれない。
 誕生日くらい、なにか奇跡が起こるんじゃないかって。
 だからこそ初めは恋人、武の誘いを断らなかったのだ。

 そんなに凄いことは期待してない。ただ定時で帰れるだけでいい。
 そんなささやかな奇跡を望んだ。

 だけど……
 美和の前には、優しい神様も親切な魔法使いも現れてはくれなかった。

 武に断りのメールを打つ時には、さすがに申し訳なく思った。
 だが、送信後すぐに……

(私じゃなくて悪いのは武の方なんじゃない?)

 と、気持ちが切り替わっていた。

(いくら誕生日とはいえ平日にデートなんて……キャリアウーマンの私をなんと心得てるの? あなたみたいに暇な漫画家じゃないのよ。だいたい、いつまでも売れない漫画なんて書いてるから、いまだに……)

 美和の苛立ちは恋人の職業にまで向けられる。
 まったく、気がきかない男だ。
 いや、武だけじゃない。
 男という生き物はすべからくもっと女に気を使うべし、と美和は思った。

 デートなのに残業するよう命じる上司の元町しかり。
 忙しい平日にデートを申し込む、デリカシーのない武もしかりだ。
 悪いのはぜーんぶ男。絶対に男が悪い!
 まったく、世の中の男どもときたら……

 イライラする美和の耳にチンッという音が聞こえた。
 そして、エレベーターの扉が開く。
 彼女の部屋がある8階についたようだ。
 美和は、もう少しだけ考え事をしていたかった。
 でも、扉が閉まりそうになったので、しぶしぶフロアに降り立つ。

 8階フロアに人の気配はなかった。
 そして、部屋に戻ったところで誰もいやしないのだ。
 そんなことを考えると、思わず寂しさで胸が押し潰されそうになる。

(……はぁ)

 本日、2度目のため息。
 四大を卒業して念願の広告代理店に就職できた。
 だけど、この年まで独身で働いているとは思いもしなかった。
 同期で入社した女子社員は皆、結婚してほとんどが寿退社。
 同じ局、いや同じ会社全体を見回しても美和より年上の女性は数えるほどしかいない。
 おかげで近頃は、「結婚はまだか?」とか「恋人はいるのか?」と冷やかし半分に聞かれる事が多くなった。

 大きなお世話である。
 結婚だけが幸せじゃないと息巻くフェミニストも多いが、その考えが浸透するのはまだまだ先の事らしい。

(頑張れ、田嶋陽子先生!)と、心の中でつぶやいてみる。

 しかし……

 本当は、自分だって早く結婚したいのだ。
 別に仕事命の人間ではない。
 心配症な親を早く安心させてあげたいとも思う。だけど……

 ゆっくりとした歩調で、ようやく自分の部屋にたどり着いた美和。
 疲れきった様子でバッグから鍵を取り出した。
 これは去年の誕生日に、自分へのご褒美に買ったヴィトンだ。
 大手広告代理店に勤める彼女には、無理なく購入できるブランド物。
 だが去年、恋人からのプレゼントは……
 ちゃちな画用紙に書いた美和の似顔絵だった。

 いや、それが不満なんじゃない。でもこれが全ての原因なのだと、彼女は思う。
 つまりは、お金だ。
 それも、自分に必要ってわけじゃない。
 恋人の売れない漫画家、平井武に必要なのだ。
 こればかりはどうしようもできない。

 いまだに武がプロポーズしてくれないのは、彼の経済力のせいだと彼女は考えていた。
 結婚式の費用でも計算してびびっているのだろう。なんと言っても超がつくほど売れない漫画家なのだ。
 もう28歳になるというのに、いつまでもくだらない夢を追い続けるなと言いたかった。

(式の費用くらい私が出すのに……でも男はプライドが高いからなぁ。そんな事、私が一言でも言ったらまた怒るだろうし)

 ガチャっと部屋の鍵をあける美和。
 扉を開くとそこは当然ながら真っ暗な部屋が、静まりかえった音と共に待ち構えていた。
 味気もそっけも、そして人気もない部屋。
 本日、3度目のため息がでる。

 すると……

「結婚ってなぁ、そんなにしたいもんなのかね?」

 突然、低くしゃがれた声がした!
 誰もいないはずの美和の後ろから聞こえてきたのだ。

 一瞬、心臓が凍りつく。
 振り向くとそこには……

 一人の外国人が立っているではないか!

(だ、誰? 何時からいたのよ?)

 マンションの住人ではないと思う。
 少なくとも見たことは一度もない顔。
 最近、引っ越してきたのだろうか?
 だとしても、こんな夜中に徘徊するなんて普通じゃない。
 美和は後退りしながら尋ねた。

「ど、どちら様ですか?」

 すでに体は半分以上部屋に潜り込ませている。
 この体勢なら、いつ男が襲いかかってきても何とか対処できそうだ。
 幾ばくかだが、安心感がうまれる。

 男は美和の質問には答えず、ドアの隙間から半身を出した状態の彼女をただじっと見つめているだけ。

(まぁ、失礼ね! でも……)

 でも、いい男だ。
 そう彼女は値踏みする。
 よく見れば男は背の高い白人で、それもハリウッド映画に出てくるような美形であった。

 輝く光沢をおびた金髪に瑠璃色の瞳、均整のとれた長身。
 どこか浮き世離れした感じもするが、とにかく見たことないくらいかっこいい男。
 そんないい男が、なんでこんな所に?

 だが服のセンスに関しては、思わず首を傾げてしまう。
 彼の身に着けているものといえば、白くて大きいシーツみたいな布だけなのだ。
 それを幾重にも体に巻き付けている感じ。
 まるで絵画や映画で見たことのある哲学者、ソクラテスやプラトンみたい。
 ご丁寧に真っ黒で大きな本も小脇に抱えていた。
 ますます、哲学者のようだ。

(いや、あの時代なら巻物かしら?)

 そんな事を考える余裕も出てきた。
 すると、またしても急に、男の方から声がする。

「あははは、こいつが哲学者か? そいつはいいや。だけどな、俺様たちはソクラテスやプラトンよりはるか昔から存在してたんだぜ」

 何ともガラの悪い言い方である。品性の欠片も感じられない。
 美和のもっとも嫌いなタイプ。
 だけど、今はそんなことまで気が回らない。なぜなら……

(な、なに? 私の心が読めるの?)

 そういえば最初の時も、まるで美和の心を読んだかのようなセリフであった。

(な、何なのよこいつ?)

 混乱する美和。
 すると、再び男の方から声がした。

「まぁ、気にするな、ねえちゃん」と。

 だがその時の美和は、無表情な男の言葉に奇妙な違和感を感じていた。

「ちょ、ちょっと、今あなた……本当に喋った?」

 なんと、男の唇はまったく動いていなかったのだ。
 美和が驚くのも無理はない。
 まるで腹話術師のよう。

「よく見てたな、ねえちゃん」

 またまたハスキーな声が聞こえる。そして、やっぱり男の唇は微動だにしない。

「俺の名前はバベル。この世に一冊しかない貴重な本だ。んで、こいつの名前は……って聞いてるのか?」

 その時、既にというべきかようやくというべきか、美和は部屋の中に滑り込み鍵をかけていた。

(かわいそうに……あの腹話術師、頭がおかしくなってるのよ。じゃなければ何か企んでるに決まってるわ)

 美和は鍵をかけた玄関にもたれかかりながら、そう結論した。
 あの黒い本が喋っているように見せかけてるのだろうが……
 出来の悪い見せ物である。

 それにしても、自分にいい寄ってくる男は何でこうなんだろう?
 不思議でならなかった。
 やっぱり男は鬼門だとつくつぐ思う美和であった。

「おいおい、ねえちゃん。せっかくお前は選ばれたというのに」

 男はまだ玄関先にいる。
 美和は覗き穴から外を見た。
 あの白人が、綺麗だが無表情な顔で立っている。

(選ばれた?)

 新手のキャッチセールスかしらと美和は首を捻る。
 いずれにしろ、関わりあいはごめんだ。

 彼女が玄関から離れ部屋の奥へと行こうとしたその時、腹話術師の男が再び外で声を張り上げていた。

「突然で薄気味悪いのは分かるが、本当にお前は選ばれたんだ。この俺様、バベルの所有者としてな。俺様が何でもお前の願いが叶えてやろう。最初はサービスだ、ただで願いを聞いてやるよ。心の中でいい。何か願いを言ってみろ」

 そんな事をわめいている。
 まったく近所迷惑な話だ。
 美和は無視して、さっさと部屋の奥へと退いていった。

 男がこれ以上騒ぐなら、五月蝿うるさいと誰かが警察に通報するだろう。
 自分はもうノータッチだと美和はつぶやく。
 やれやれ、疲れた。
 春は頭のおかしな連中が多くなるから嫌だ。

 それにしても、何でも願いが叶うとは……大層な事を言う腹話術師だと美和は笑った。

(でも、もし願いが叶うとすれば……)

 美和はベッドルームに直行すると、メイクも落とさず倒れこむ。
 体力の限界。
 すぐに睡魔が襲ってきた。
 明日は酷い顔になってるんだろうなと、ぼんやり思う。
 ただでさえ、一重まぶたで腫れぼったい目をしてるのだ。
 もっとケアしなきゃいけないのに……

 その時、美和は夢うつつをさ迷いながら、あの腹話術師の言葉をもう一度思い出した。

(そうだ。さっきの願いが叶うってやつ。もし本当に願いが叶うんなら、私を二重瞼にしてよ。そしてもう少しだけ目を大きくしてもらいたいわ。できるものならね、バベルさん)

 こうして美和は完全に眠りについた。


 それと同時刻。
 玄関先に立っていた無表情なあの男が初めて笑った。
 それは、淡麗な顔に似合わず意地悪そうな笑いだ。

「ふん、うまくいったようだな。まぁ、お前は今回何もしてない訳だが」

 そう語ったのは男ではなく、あの黒い本であった。
 白人の男を、からかうような響きがある。

「さぁ、もう俺様一人でも大丈夫だろう。俺様をここに置いてお前は行け」

 その黒い本、バベルの言葉に男が黙ってうなずいた。

 パタン!

 静かなマンションの廊下に本を投げ捨てたような乾いた音が響く。

「痛えよ、もっと優しく置きやがれ!」

 すぐあとにガラの悪い声も響いた。
 だが、声が男に届いたかは疑問である。
 その姿は、現れた時と同じく唐突に消えたからだ。

「ちぇ、あの野郎いつか殺す!」

 シーンとした夜のマンションに、バベルの低い声だけが不気味にこだました。



 次の日、美和はすがすがしい朝を迎えていた。
 セットした目覚まし時計が鳴る前に起き出したくらい。それほど良い目覚めであった。
 ベッドから降りるとすぐに化粧台の前に座る。
 そういえば昨夜、メイクを落とさず寝てしまった事を思い出していたから。

(はぁ、鏡の向こうは凄い事になってるんだろうなぁ)

 ちょっとドキドキしながら覗き込む。

 だが……

「嘘! なによ、これ?」

 そこに映し出されていたのは、予想をはるかに超えた自分の姿だった。

 肌荒れもないし、目の下にくまもない。
 それどころか、二重瞼にパッチリお目目。
 まさに美和の理想の顔になっているのだ!

 まるで整形手術でもしたみたい。
 これは一体どういうこと?
 その時、彼女の脳裏に昨夜の出来事がフラッシュバックしてくる。

(そういえば、変な男が、何でも願いが叶えてやるとか言ってたっけ……)

 てっきり、頭のいかれた男のセリフと思っていたのに。

(確か、二重瞼と目を大きくしてほしいって頼んだのよね。その願いが叶ったってこと? じゃあ、あの男が言った事って本当だったの?)

 美和は鏡台から離れると、急いで玄関に向かった。
 そして、覗き穴から外を見る。
 案の定、男の姿は何処にもない。
 後悔先に立たずだ。
 がっかりしながらドアを開けた。

「それもそうよねぇ。一晩中、玄関に立ってるわけないか」

 自嘲気味につぶやく。
 すると、その時……

「そうでもねぇぜ」

 あのハスキーな声が聞こえてきた。

「うっそー、どこよ? どこにいるの?」

 裸足のまま玄関を出て辺りを見回す。
 まだ朝早い時間帯ということもあり、例の男どころか他の部屋の住人すら一人もいない。
 キョロキョロ辺りを見回しながら尋ねる美和。

「ねぇ、どこなの?」

「こ・こ・だ・よ!」

 その声は美和の下から聞こえてきた。
 そっと下を見下ろす彼女が見たものは……

「昨日言っただろ? 俺様は本だ! バベルって名前のイカす黒表紙のナイスガイさ」

「……マジで?」

 美和の足元には百科辞典くらいの分厚い物体。昨日見た時と同じ、あの腹話術師みたいな男が持っていた真っ黒な本だ。
 しかも、表紙に金色の文字でBabelと刻まれている。
 彼女はさっとかがみ込むとその本を拾い上げた。

「良く出来てるわねぇ。何処にスピーカーがあるのかしら?」

 しげしげと眺める美和。
 だが、そんな彼女に黒い本が唸る。

「まったくぅ、まだ信じてねぇのかよ? 俺様は機械でも何でもねぇ! バベルって名前の人格を有した知的生命体だ」

「……嘘?」

 超常現象は初体験。
 その日……彼女は会社を休んだ。




 さて、この喋る黒本を部屋に持ち込んだ美和は、驚くべき事を聞かされた。

「つまりだ、俺様は選ばれた人間の願いを何でも叶える力が与えられてるのさ」

「何でも?」

「そうだ。限界はない」

 その言葉に、美和はあからさまな疑いの眼をバベルに向ける。

「例えばぁ、世界征服とかでも叶えてくれるわけ?」

「ああ、いいとも。それがお前の願いなら叶えてやるぞ」

「本当に〜?」

 どうも胡散臭い。

「お前なぁ、昨日願いを叶えてやっただろ? まだ信じられねぇのかよ」

「うーん」

 懐疑的な様子で黒い本を見つめる。
 確かに願いは叶った。何度鏡を見ても、自分の目は一回り大きくなったし、瞼も二重になった。
 だけど、世界征服ともなると……

「気になるのはさ、なんでたかが本のあなたにそんな力があるのかって事よ?」

 多少、失礼な言い方であった。
 だが、想定内の質問でもあったらしい。
 彼はすぐに答えてくれた。

「その答えは俺様の名前にある」

「名前? 確か……バベルだよね?」

「そう。バベルとは古代アッカド語でバブ・イル、つまり神の門という意味だ」

「神の……門?」

 これまでの29年間、美和は神様などとは無縁の生活を送ってきた。
 実家は禅宗。だが信仰心は皆無。
 神など言われてもいまいちピンとこない。

「そう。だが、お前たち日本人の神じゃないぜ。俺様の力の源は全能にして全ての物の創造者、そして唯一にして無二の聖書の神……ヤハウェだ!」

「うーん、よく分かんない」

 あっさり言ってのけた美和の言葉に、バベルは一瞬言葉につまる。
 美和はあまりにも聖書や、キリスト教に疎かったのだ。
 聞いたことすらない名前に、なんて反応していいのか分からない。

「あ、あのな〜。そこは驚くところだろうが……まぁ、いい。とにかく、俺様の力は神の野郎の力なのさ」

「でも、何でよ? 何で神様はこんな事するの?」

 だって、えこ贔屓じゃないかと美和は思う。
 特定の人間にだけ、こんな力をくれるなんて……

「絶対に贔屓よ!」

 憤慨する彼女にバベルが笑う。

「何がおかしいのよ?」

「クッ、クッ、クッ、だってそうだろう?」

 空気が漏れるような音が黒い本から伝わってくる。

「せっかく選ばれたというのに、面白いやつだ。そんなセリフは選に外れた人間が言うんだぜ?」

「いいから、教えなさいよ」

 バベルは分かったよと小さくつぶやくと続けて言った。

「まぁ、実験だよ」

「実験?」

 意外な理由だ。

「神様が実験するの?」

「ああ。お前たち人間だってそうだろう? 頑丈なマイホームのために耐震実験はつきものだ。新しい薬の開発にも人体実験は必要だ。それと同じ。神の野郎も色々考えてるんだよ……まぁ、そんな事はどうでもいい。それよりも早く願い事をしろ! 俺様はそのために来ているんだからな」

 少し投げやりに言うバベルに、美和は何だか嫌な予感がした。

「ねぇ、バベル?」

「なんだ」

「こういうのってさ、童話なんかだと代償がいるじゃない? 例えば人魚姫は二本の足をもらう代わりに綺麗な声を失ったわ。あなたの願い事も……何かペナルティがあるんじゃないの?」

 その言葉に、黒い本が舌打ちをしたような音が聞こえた。
 どうやら、あまり触れてもらいたくない話題だったらしい。

「まったく、これだから大学卒業したやつは嫌いだよ」

「えっ、何か言った?」

 低いハスキーボイスに素早く反応する美和。
 バベルは、「いや、何も」とつぶやきながら、しぶしぶ語りはじめた。

「確かにペナルティはある。だが、それはお前が気にするような事じゃない。お前の損には絶対にならないからな」

「いいから、教えて!」

「やれやれ」

 それからバベルが教えてくれたペナルティに、美和は驚いた。

「お前の願い事を一つ叶えてやる代わりに……その時、お前を最も憎む人間の魂を一つもらう。なっ、損はないだろ? もらうのはお前を憎むやつの魂だ。ある意味一石二鳥なんだぜ?」

 事も無げに言う。
 だが、魂をもらうって……

「つまり、死ぬってことだ」

 またしても、美和の心を先読みしたバベルが答える。

「ば、馬鹿じゃないの?」

 かなきり声で叫んだ美和。
 冗談ではない。
 確かにムカつくやつはいる。
 殺したいと思う人間だって……いなくはない。だけどだ!

「じゃあ、私は願い事を叶えてもらう度に人殺しになるってことじゃない!」

 冗談でしょ、絶対に納得いかない。

「あのなぁ」

 呆れたようにバベルが言う。

「お前が殺すんじゃねぇ。神の野郎が殺すんだ」

「神様が……? 何で神様がそんな酷いことをするのよ?」

「そこまでは知らねぇよ。だがなぁ、人間はみんな最後は神に殺される運命なんだ。寿命っていう名目でな……遅いか早いかの違いだけなんだぜ?」

「そ、そうなの?」

「だから気にするな。そんなことより、俺様の表紙を開いてみろよ」

 バベルが誘う。
 美和は言われるままに、居間のテーブルの上に置いた真っ黒な本をゆっくりと開いた。
 その本の中は……なんと何も書いていない。真っ白なのである。

「なによ、本のくせに何も書いてないじゃない?」

「そりゃ、そうだ」

 当然とばかりに言うと、彼は得意気にこう続ける。

「ここは、お前の願い事を叶えてやる度に犠牲となった魂の名前を書き込む所なんだ。余白がこれだけあるってことは……お前の願いをいくらでも聞いてやれるって事さ。さぁ、さっそく何か願ってみろよ」

 楽しそうにバベルが笑う。
 だが、美和にはこの黒い本が神様のギフトというよりは、悪魔の贈り物のような気がしてきた。
 願いが叶うたび、犠牲になっていく人間の名前を書いていくなんて趣味が悪い。

 だけど……

「どうした? 願い事を言う気になったか?」

 悪魔の囁きが耳に届く。
 確かに、美和には叶えて欲しい願いがある。
 それは恋人、平井武の事だ。

「ねぇ、バベル。例えばよ……ある特定の人が出世して金持ちになるなんて願い、叶ったりする?」

 つまり、武の仕事さえ軌道にのればお金も入るだろうし、自分との結婚も……きっとうまくいく。
 そうなればもう、願い事なんてなにも無い。
 美和は永遠の幸せを手に入れるのだ。

 その時、またもや心を読んだ黒い本が話しかけてきた。

「確かにできる……だが言い忘れたがな、この俺様バベルは所有者が満足しちまうと消えてしまうんだ。それに俺様に関する記憶も失う。そんなの勿体無いと思うぜ? もっとさ、色んな願い事をしろよ。真に満足するのはそれからでも遅くはない。な?」

「へぇ、そんなルールがあるんだ。でも、その度に人が死ぬんでしょう?」

「だから、さっきも言ったように、それは神の野郎のおぼしめしなんだ。気にすることはねぇ」

 バベルのしゃがれた声が、甘い囁きとなり美和の心を支配する。

(そうよね、神様がくれたチャンスだもん。私の誕生日をお祝いしてくれたのよ! 一回……そう、一回だけなら大丈夫。それに、私を憎んでいる人が死ぬんだから、いい気味よ! たぶん、私の会社の上司、あの元町が犠牲者になると思うわ。私も嫌いだけど、あいつも私を嫌ってるに違いない。だったら、バベルじゃないけど一石二鳥……)

 美和はついに覚悟を決めた。

「バベル?」

「決めたか?」

「一度だけ、一度だけお願いするわ!」

「何だ、たった一度かよ? まぁ、いい。じゃあ、願い事を言え」

 ちょっと落胆したような黒い本に、石原美和は大きな声でこう答えた。

「私の事を最も愛してくれている人が、仕事で成功してお金持ちになれますように!」

「はいよ」

 あっけらかんとバベルは承諾する。
 煙が出るとか輝く光が部屋を包むとか、魔法につきものの何らかの変化があると期待していた美和には拍子ぬけする対応だった。

「……終りなの?」

「終わりだよ」

 ニヒルな口調でバベルが言った。

「これでお前の願い事は叶った。明日はきっと驚くぜぇ」

「本当に? ありがとう!」

「なぁに、いいってことよ」

 喜ぶ美和が黒い本を見ると、なんと彼は端の方から消えかけているではないか。
 彼女が満足したら消える、これも本当だったのだ。

「ねぇ、バベル……最後に……誰が犠牲になったのか教えてくれないかな?」

 消え行く本に美和が尋ねた。

「だって、気になるからさ」

「……いいぜ」

 皮肉な声でバベルが言った。
 すると、触れてもないのに真っ黒な表紙がパタンとめくれ、真っ白な中身が出てくる。
 その空白の片隅にアルファベットで一つの名が刻まれていた。
 どんどん透明になっていくその本を、目を凝らして覗きこむ。
 すると、そこに書かれていたのは……

「ひ、平井武ですってぇ?」

 愕然とする美和。

「アハハ、今お前を最も嫌っていたのは、恋人だったみたいだな。ケンカでもしたかのか? 付け加えておくけどお前を最も愛しているのは……実は元町ってやつだぜ? やつは専務に昇格した。じゃあ俺様は行く。あばよ〜」

 こうして、全てが終わった。
 後にはただ記憶を失った美和が……呆然と立っていた。

 後日談。

 石原美和のマンションの入り口付近。
 その植え込みのある階段にその本は落ちていた。

「よう、迎えに来たか」

 その本、バベルがしゃがれた声を発する。
 彼の視線の先にあるのは、例の白人男だった。

 美和との最初の出会いとまったく変わらぬ姿。
 服装もあの白い布のままだ。

「意外と駄目だったなぁ、今回の所持者は……魂取れたのたった一人だったよ」

 よく喋る黒い本と違い、男は無言でバベルを拾い上げた。

「次はもっと欲深いやつの所に行こう。じゃないとノルマがこなせねぇ、あのお方……サタン様のな」

 黒い本の言葉に、男は黙ってうなずいた。
 そう、彼は神のギフトでもなんでもない。悪魔の作りし呪われた本だったのだ。
 ちなみに男も悪魔の一員である。

 さて、相棒の素直な反応に機嫌良くなったのか、バベルが明るい(ハスキーではあるが)声で言う。

「まぁ、俺様にまかせておけ。悪いようにはしねぇから」

 男はまたしてもうなずく。
 どうやらバベルとこの男は先輩後輩の間柄にあるようす。

 バベルを小脇に抱えた男は、汗でもかいたのか、服(ただの白い布きれだが)の袖で額を拭う。
 すると、それを見たバベルが、急に眉をひそめる。
 もちろん、雰囲気でだが……

「なぁ、お前の服装なんだけどよ。前から気になってたんだ」

 そして、言いにくそうにこう続ける。

「そのファッションさぁ、1000年以上前に流行が終わってるんだ……お前、知ってた?」

 その言葉に一瞬、息を呑んだ白人姿の男。

「何度も言おうとしたんだがな……お前があんまり気に入ってるみたいなんで、言いそびれちまった。すまん」

 バベルの詫びの言葉に、男はただうなだれるだけ。
 何故か知らないがかなりショックの様子。

「ま、まぁ、気にするなよ。それよりお前の新しい洋服でも買いに行こうぜ。今は何が流行りなのかな?」

 そんな会話をしながら男と黒い本は雑踏の中に消えてしまうのであった。



 以上でバベル‐後藤詩門編は終了です。

 あっと、読者の皆様に一つお知らせが……

 バベルとは、神の門以外にも別の意味があります。聖書ではこちらを採用してますが。

 それは……混乱。


 どうぞ、皆様。お手元に、もしバベルの本が届いても願い事なんてしませんように……

 悪戯好きの悪魔の手で、人生の混乱を経験することになりますよ。
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