皇帝の高貴で愉快な遊び
僕の頬をくすぐる、先輩の鮮やかな赤い髪。目の前にいる彼女のバラの匂いと紫色の美しい瞳に、僕は完全に魅了されていた。
先輩の細くて白い指が、僕の輪郭を優しくなぞる。その指は少しずつ首筋まで下りて行き、僕の首に絡みついてきた。先輩は徐々にその指に力を込めていく。ゆっくりと、焦らすように。僕は期待と興奮で、温度の高い息を漏らした。
すると、先輩は薄く笑みを浮かべながら、僕に顔を近づけてきた。お互いの唇が重なる。熱くて柔らかくて、凄く気持ちがいい。快楽でだらしなく開いた僕の唇の隙間からは、濡れそぼった嬌声が、だらだらと零れ落ちてくるばかりである。
十秒ぐらいたっただろうか。先輩はゆっくり顔を離すと、僕の様子をまじまじと眺め始めた。ベッドの上では、熱のこもった僕の裸体が晒されている。その様子を見た彼女は満足気にくすりと笑い、こう言った。
「まぁかわいい。あなたの期待通りこのまま窒息させてあげるわ駄犬。ほら、犬は犬らしく、惨めによだれでも垂らしながら悦びなさいよこのドM野郎!」
「あひぃぃ〜ん! 先輩、嬉し⋯⋯ごほっ⋯⋯!」
「あら、面白い顔♪」
僕は薄れる意識の中、美しい赤髪の彼女、「皇帝先輩」の晴れやかな笑顔を見た。そして僕は白目を剥きながら、ヘブンへと旅立ったのであった!☆
***
皇帝先輩は学校中で話題の美しい先輩だ。彼女の家はかなりの名門らしく、その立ち振る舞いや所持品からは、隠せぬ品が滲み出ていた。
また誰に対しても優しく、特に男子からの人気も高かったため、校内に過激なファンクラブまで出来上がる始末。『皇帝様 近づくものには 容赦しねぇ』をスローガンに、見守りという名のストーカー行為を繰り返している。
しかし入学当初の僕は、彼女に一切と言っていいほど興味が無かった。せいぜい綺麗な先輩がいるな、という感想を抱くのみだったのである。
そんな僕が先輩に興味を持ち始めたきっかけというのは、『西園寺 皇帝』という名前を、委員会の名簿で見かけてからだった。
突然だが僕は生粋の世界史マニアだ。中でも古代ギリシャからローマの辺りが好きで、最近では色々な文献を読み漁ったりしているくらいハマっている。
古代ローマに触れる過程で、僕はとある男性に熱を上げていた。
ローマの政治家、軍人の『ユリウス・カエサル』(ユリウス・カエサルはラテン語読み。英語読みではジュリアス・シーザーという)。
ローマ帝国においてカエサルは絶大な力を得る事になる男だ。文献の中には、彼の様々な逸話も残されていている。そしてそのどれもが、カエサルの偉大さを物語る素晴らしい話ばかりで、驚いたものだった。
結果として、彼の名前『カエサル』は、後に『皇帝』を表す名詞として、代々名乗り継がれる事となる。
そんな訳で僕は「西園寺 皇帝」先輩の名前に過剰反応を示してしまい、彼女に興味を持つようになった。さらに、彼女の名前の「皇帝」はそのまま読むのではなく、「じゅりあす」と読むらしい事も、そそられた理由の一つである(事実上、ジュリアス・シーザー〈=ユリウス・カエサル〉は皇帝ではない)。
♦︎
ある日の事。僕は大好きなSMグッズを物色するために、行きつけの小さなアダルトショップへと足を運んだ。どこを取っても未成年よろしくな僕は、お巡りさんに見咎められるとアウトである。大きめの帽子を深くかぶり、なるべく目立たないよう、地味な服装を心がけて行く。
しかし、今日はいつもより人通りが少ない事もあり、割とあっさり入店する事が出来た。
暑くてじっとりした店内に足を踏み入れる。すると奥の方から僕の名前を呼ぶ、聞き慣れた男の声が聞こえてきた。その男は、右手に怪しいアダルトグッズを持ち、ニヤニヤと笑いながらこちらへと近づいてくる。
「よう敬司。またお前SMグッズ買いに来たんか? 相変わらずモノ好きやな」
僕は彼を睨みつけた。
「黙って下さい小児性愛者さん。何度SMの良さを説明すれば分かってもらえますか? そんなに言うならSMの素晴らしさを、直接カラダに叩き込んで差し上げましょうか」
「ゆうてお前ドエムやろーが。⋯⋯まあでも、ロリショタに虐められるんやったら、流石のオレでも興奮するけどな。 なんつって~」
「いや、あなただからこそ興奮するんじゃないですか? 変態小児性愛者さん。⋯⋯まあ、分からなくもないですが」
「せやろ〜? ⋯⋯って。 さっきから小児性愛者さん小児性愛者さんって、うっさいわボケ! オレには荒谷閃利っていう立派な名前があるんや、どアホ」
目の前の青年『荒谷 閃利』は、ずっと手に持ち続けているアダルトグッズを振り回しながら、ペラペラと怒りの言葉を僕に投げかけた。
閃利は僕の従兄弟で、このアダルトショップの店員として働いている。小児性愛と言われる性癖持ちで、前科あり。僕はまだ未成年だが、閃利が店にいる日は彼が商品を売ってくれるので、非常に役に立つ男である事は間違いない。
「全く、敬司と話してると、いつか頭の血管何本かイきそうやわ⋯⋯。あ、せや! 昨日新しいSMグッズ入荷したんやけどな。お前が好きそうなどえらいモン入ってるで〜」
「あ、本当ですか!? いやぁ閃利様様万歳! ちょっと行って来ますね」
「おーう!」
そう言うと、閃利は笑いながら僕に手を振ってきた。僕は軽く手を振り返し、足早にSMコーナーへと向かった。
二階に上り、SMコーナーについた僕は、恍惚の溜息を漏らした。ここではソフトなものからハードなものまで、案外幅広い商品が取り扱われているのだが、閃利が言っていた新商品は、非常にどえらいハードなものだった。
これは相当アレがアレだろうな。よし、買おう。
その商品を取ろうと、僕は棚に手を伸ばした。その時だった。
僕の後ろからちょうど手を伸ばしてきた他の客と、手がぶつかってしまった。僕は慌てて謝り、サッと手を引っ込める。
ぶつかった相手の人はというと、何故か「ごめんあそばせ」と貴族風の口調で謝ってきて、慌てて逃げるように踵を返した。
その人は僕と同じくらいの背丈で、体格や声からいって女性だろう。帽子とサングラスとマスクで顔を隠しているが、それでも隠せぬ美人さが滲み出ている。肩にかかった赤色の髪が美しい。僕は逃げようとする彼女の背中に向かって、こう言った。
「おや、綺麗な髪ですね。もしかしてSMプレイお好きです? 実は僕もなんですよー!」
僕はアダルトショップで出会った女性に、突然話しかけるのが趣味だ。何故なら、その相手は心底気持ち悪そうな顔で僕を見るからである。それはもう、非常にゾクゾクする(前に一度、通報されかけた時はさすがに焦ったが)。
すると女性はピタリと足を止め、ゆっくりと振り向いた。僕の顔を見た彼女は、小さく「え」とだけ呟く。僕はさらに畳み掛けるように、言葉を続けた。
「いやぁ、すみませんね突然。あ、そうだ、貴女もSMグッズ買いに来たんですよね? 一緒に新商品でも見ましょうよ〜」
努めて明るく、そして気持ち悪く笑いかけた僕の顔をじっと見つめ、彼女は吐き捨てるように言った。
「なるほど。あなた随分ド変態みたいね⋯⋯気持ち悪いわ」
彼女は突如声を低くし、僕を罵ってきたのである! 脊髄が痺れるような快感に、僕のテンションはだだ上がりだ。ついつい口元が緩んでしまう。
「あら。なぁにその顔? 罵られて喜んでるの? あなた、相当のドMなのね⋯⋯生きてて恥ずかしくないのかしら」
「あ、う⋯⋯だってそのぉ。あっ⋯⋯も、もっと言って欲しいです⋯⋯」
「失せなさいよ、このド変態。何故あなたなんかの気持ち悪い趣味に、わたくしが付き合わなきゃいけないの? ほら、早くおもちゃでも買って、お家に帰って、1人で惨めに遊んでなさいな」
「す、素晴らしい! 僕と付き合ってくださいませんか!?」
「黙りなさい駄犬」
そして、気づくと僕は彼女の前で土下座をかましていた。
「お願いします⋯⋯僕を貴女の下僕にして欲しいんです。まさに今、心の底から運命を感じました! お願いです。なんでもするので、どうか!」
奥のお人形コーナーにいた太ったおじさんが、僕たちの様子をじろじろと伺って来た。うん、気分がノッてくるね。 この状況の中でも、赤髪の女性は楽しそうに笑った。
「うっふふっ⋯⋯! まあ、その醜態に免じて、ちょっとくらいなら遊んであげたい所なのだけれど⋯⋯こっちにも事情があるのよ。今日は少し急いでるから、もう帰らなくてはならないんですの。御機嫌よう、名も知らぬ変態さん」
「そう、ですか⋯⋯。さようなら」
「ええ。失礼しますわ」
そう言うと、彼女は優雅に回れ右をして、一階に降りる階段まで歩いていく。名残惜しい気持ちで、僕はその背中をずっと目で追っていた。
しかし、彼女は突然何かを思い出したようにまたこちらへと近づいてきて、僕の後ろにある新商品の棚から、
【新感覚・神秘のホール】
【奴隷拘束! 今夜、身動きが取れない⋯⋯】
の2点を荒々しく引っ掴むと、急ぎ足で階段の方へ戻って行った(どのような商品かは、皆様それぞれの解釈に委ねる事としよう)。
「⋯⋯僕も同じの買って帰ろ」
一階のレジで暇そうに頬杖をつく閃利に商品を渡すと、彼は驚いた顔で「もう⋯⋯戻れないんやな」と呟いた。
何言ってんだこいつ? と思いながらレジの金額表示を見ると、なんとたった2つの商品でありながら軽く六万を超えているではないか。金額を確認しなかった僕が悪いのだが、かなり痛い出費になってしまった。
少し喪失感を覚えながら、家に帰った。自分の部屋に入り、布団の上に倒れこむ。
しかし、買ってしまったものはしょうがない。こんな気分など、快楽で忘れてしまうのが一番だ。そう考え、さっき買った商品を使ってみることにする。
しかし、流石は高級品。安物とは随分と格が違うようだ。さっきの沈んだ気持ちはどこへやら、僕はどきどきしながら、約五時間ほど一人SMを楽しんだ。
♦︎
ヤッホー☆敬司だよ。ただいま絶賛いじめられ中です。
「どこにいったかな、僕のカエサル。可愛い可愛いカエサルよ、出ておいで」
僕の愛読書のローマ文献(カエサルと名付けて可愛がっている)をどこかに隠されてしまった。いくら僕が多少M寄りの人間だとはいえ、嫌いな奴からの、しかも暴力を伴わないねちねちしたいじめは不愉快極まりない。犯人はほぼ確実に、いつも僕を馬鹿にしてくる、クラスのチャラいグループの仕業だろう。
今からそいつらの家に一軒一軒赴いて仕返しをして回りたいくらいだが、しかしこのままカエサルを置き去りにして学校を離れるわけにはいかない。とりあえず、心当たりをしらみ潰しに探すことにした。しばらく学校を彷徨った後でそれを見つける事は出来たのだが、残念な事にカエサルは、1番最悪な場所で僕を待っていたのだった。一階トイレの便器の中に佇む、びしょびしょに濡れたカエサル。僕は便器からそれを拾い上げ、クラスの糞グループを心の底から呪った。
「⋯⋯」
気がつくと僕は、濡れたローマ文献を片手に教室まで来ていた。いつの間にここまで来たかは分からない。教室に差し込む眩しい夕日に目を細めた。
「何やってんだろうな、僕は⋯⋯。すみませんカエサル。僕はあなたを傷つけてしまった。あなたと違って僕は弱いから⋯⋯。あぁどうか、こんなクズ野郎に罰をお与えください!」
「やめてくださる? そうやって呼ぶの」
「え⋯⋯?」
突然後ろから声が聞こえ、僕は驚いて振り返った。見ると、廊下に1つの人影がある。顔は逆光でよく見えない。どこかで聞き覚えのある、女性らしい綺麗な声をしていた。
「誰ですかあなた」
「何を言ってるの? あなたが今、わたくしの事呼んだんじゃないの?」
「は? いや、呼んでないんですけど。僕はカエサルに話してるんですから、邪魔しないでもらえますか」
僕はその人影から完全に目をそらし、背を向けた。後ろから誤魔化すような咳払いが聞こえて来る。
「えっと。話が見えないけれど、まさかリアルカエサルの話⋯⋯? あ、あらごめんなさい。勘違いだったみたいですわね⋯⋯。わたくし『カエサル』ってニックネームがあるから、つい反応してしまいましたわ」
「へぇ、凄いニックネームですね。格好良くて良いではないですか。僕は好きですよ、そのあだ名」
「そうかしら。どこが良いのかさっぱり分からないのだけれど⋯⋯。と、ところであなた、よく顔を見せて下さらない?いえ、別に大した事ではないけれど⋯⋯」
「構いませんよ」
そう言うとその人は僕の方に近づいてきた。僕は振り返って彼女を見る。近づくたび、徐々にその端正な顔立ちがよく見えるようになり、しっかりとその姿を確認する事が出来るようになった。目の前の美しい女性は僕の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。そうだ、僕は彼女を知っている。
「あなたは、校内ファンクラブまであるという美人で噂の、『西園寺 皇帝』先輩ですよね?」
「よ、よくご存知ですわね」
「ええ、まあ。⋯⋯実は皇帝先輩の事は、密かに気になっておりました」
僕は皇帝先輩に軽く笑いかけながらそう言った。すると彼女は少し視線を下げ、表情を曇らせる。
「そう⋯⋯気持ちは嬉しいけど、あのファンクラブに入るのはやめて欲しいわ。それと、その名前を呼ぶのもやめて頂戴」
「ファンクラブに入るつもりは毛頭ありませんが、どうして名前を呼ばれたくないのです? 有名な偉人のジュリアス・シーザーみたいで素敵な響きじゃないですか」
そう聞くと、皇帝先輩は肩を落とし、大きなため息を吐いた。
「わたくしはそれが嫌なんですの。ジュリアス・シーザーって、あの無駄にごつい、強そうな感じの⋯⋯古代ローマの皇帝⋯⋯? まあその、なんかよく分からないけれど⋯⋯えーっと、そう、アレよ⋯⋯とにかく可愛くないですわ!」
「⋯⋯世界史の点数相当悪いですか?」
「う、うるさいですわね! 蹴るわよ」
「ああっ、お願いします!」
僕は勢いよく床に這いつくばって土下座をかました。すぐに皇帝先輩がこちらに近づいてきたので、様子を見ようと軽く頭を上げる。すると間髪入れずに、勢いよく振り上げられた皇帝先輩のつま先が、僕の顔面にクリーンヒットした。
「ひゃーんっ」
激しく痛む鼻を押さえた。ぬるっとした感触が、指から手のひらに伝わり、そして手首まで流れ落ちてくる。溢れて抑えきれなくなったそれは、皇帝先輩の靴の先を赤く染めた。
「こうされたかったんでしょう?本当に清々しいほどのドMなのね⋯⋯あなたのせいで靴が汚れちゃったじゃない。さっさと舐めなさいよ変態」
「はぁっはぁっ。ご、ごめんなさぁい!」
徐々に高くなっていく体温を感じながら、僕は皇帝先輩の足にしがみついた。再度蹴られる。そんな折、微かにだが廊下の方から足音が近づいてきた。皇帝先輩の様子をちらりと伺うと、彼女も足音に気づいたのか、焦ったような表情に変わった。
「ちょ、ちょっと変態さん。早くこのハンカチで血を拭いてちょうだい。こんな所バレたらマズイですわよ」
「チッ⋯⋯誰だよ、いい所なのに」
皇帝先輩から受け取ったハンカチで顔を拭いていると、足音は教室の前で止まり、そしてドアがガラリと開いた。そこに立っていたのは、うっすらと見覚えがある教師だった。世界史と体育以外真面目に受けた試しがないから、正直名前までは覚えていない。
「おい、お前らこんな時間に何をしている」
「ま、まあ先生。実はこの方が転んでいらしたから、大丈夫かと伺っていただけですのよ、おほほ」
皇帝先輩は、魅惑のおしとやかスマイルを浮かべながら、いけしゃあしゃあと嘘をついた。それを聞いた「名前忘れた先生」は僕に、そうか。大丈夫か犬島。と聞いてきたので、犬島姓である僕は「はい」と答える。
それからその教師に二、三質問された後に僕たちは解放された。熱はすっかり冷めてしまった。皇帝先輩は「危なかったわね」と言い、くすくすと笑っている。
「わたくし、興奮すると周りが見えなくなっちゃう所があるのよ。学校でこんなことするのは流石にまずかったですわね、ごめんなさい」
「じゃあホテル行きましょうよ、先輩」
「あらあら性欲強いのねぇ。えーと、犬島さん⋯⋯って言ったかしら? 良かったら下の名前も教えて頂戴」
「敬司です。犬島 敬司と申します」
皇帝先輩は「そう、ありがとう」と言い、優しく微笑んだ。美しい。僕は心からそう思った。過激なファンクラブが出来るというのも、あながち分からないでもない。話に聞いてきた皇帝先輩と実際とでは、イメージにかなりのギャップがあったが。
「さて、そろそろ帰ろうかしら。少し急がないと、ファンクラブの豚共に見つかって、付け回されてしまうのよね。ほんと迷惑極まりないわ」
「あぁ⋯⋯なるほど」
僕は何となく納得がいった。皇帝先輩は、普段は随分と忙しいらしい。プライバシーなんてほとんど無いのだろう。学校にいる時も、たとえ休日でも。
「じゃあ問題行動なんて起こせないですもんね。見つかったらすぐに噂が広まっちゃうんですから」
「え? ええまあ、そうね。でも誰であってもそうじゃないかしら」
皇帝先輩は気まずそうに僕から目をそらし、窓から入る風で乱れた、長い赤色の髪をかき上げた。
♦︎
「敬司! また新商品出たで! さあ全財産携えて今すぐ買いに」
「はい、行きます」
言葉を全て聞き終わる前にさっさと返事をし、電話を切る。あの六万の買い物以来、閃利から頻繁に連絡が来るようになった。良いカモだと思われているのだろうが、そうだと分かっていても買いに行くのをやめられないのだから、ほとほと困り果てているのだった。
靴を履き、家から出る。外は少しだけ雨が降っていた。
店の前に着いた僕は、人に見られていないか周りの様子を窺ってから、急いで入店した。なんとか今日も無事だったようだ。
僕の来店に、大層上機嫌な様子の閃利に軽い挨拶を済ませた後、二階のいつものコーナーへと向かった。新作の2点を手にとって眺める。
【アナ◯があったら入りたい⋯⋯】
【肉欲の戦慄迷宮ver.4~もっと奥まで進んじゃおうよ~】
毎度のことながら、素晴らしいネーミングセンスである。この玩具制作会社の知能レベルがうかがえる辺り、親近感的な意味で好感を持ってしまいそうになる。一応、これでも褒めているつもりだ。
しばらく棚の商品を舐め回すように見ていると、ふと右斜め後ろの方から視線を感じた。少し場所を移動してみたが、僕の動きに合わせそれも移動する。やはり、この熱い視線は僕に向けられているようだ。しばらく気配を伺っていたが、一向に動き出す気配がない。僕はその人物に話しかける事にした。
「そこの貴女、僕に何かご用ですか? せっかくなので一緒に楽しみますか?」
「⋯⋯」
「返事は無しですか。うーん困りましたね。てっきり、あれから考え直して僕を奴隷にしてくれる気になったのかと思いましたよ先輩。⋯⋯もうとっくにバレてるんですから、こそこそしないでください。西園寺皇帝先輩」
「くっ⋯⋯! やはりバレてましたのね。そこまで言われては仕方がないですわ⋯⋯堂々と現れさせて頂きますわね」
男性用お一人様おもちゃコーナーの陰から、怪しげな黒の変装スタイルで現れた人物。それは優しくて美しい、汚れを知らぬ純粋無垢! みんなの憧れの西園寺皇帝先輩であった! なんてピュアすぎるシュチュエーションでの出会いだろう。
「えへへ、先輩⋯⋯今日はどうされましたか?」
「来て早々、失礼を承知で申し上げますわね。実はあなたにお話がありますの」
先輩は毅然とした態度で僕を見つめ、こう言った。
「わたくしの犬になりなさい」
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西園寺家はかなりの金持ちで、この辺りでも有名な名家だというのは、周知の事実であろう。そこの一人娘である皇帝先輩は、見た目や立ち振る舞いに品があって、人を惹きつける魅力があった。そのせいで、好きでもない連中につけまわされたり、名家の娘としての体裁に縛られるあまり、相当息苦しい思いをしていたそうだ。
しかし、いい加減そんな生活もうんざりだという。そのため、僕にこうして頼み事をしてきたという事らしい。
先輩が言った事はこうだ。
今日以降学校で、僕は先輩の彼氏として付きまとう事になる。そして先輩はそんな僕に対し、ドSな本性で接する。すると、どうだろう。ストーカー連中はそんな先輩に幻滅し、付きまとうのを辞めるのでは? そんな寸法だそうだ。
「逆にマニアが付きそうな気もしないでもないですが⋯⋯まあ良いんじゃないでしょうか。僕で良ければ、喜んでご協力しましょう」
「助かりますわ、ありがとう。さあ、お父様になんて言われるかしらね、うふふ。⋯⋯まあそんなの、もうどうだって良いのよ」
ほんの一瞬だけ、先輩は表情に影を落としたように見えた。しかし、次の瞬間にはすぐに凛とした態度に戻り、僕に微笑みかける。
「なんだかんだ言って、あなたのお陰で決心がついたんですのよ。あなたみたいな裏表のないバカを見てたら、なんかどうでも良くなっちゃって。わたくしはわたくしらしく。それで良いんじゃないかって、ね」
「褒めていただき光栄です」
「⋯⋯うふふ、気に入ったわあなたの事。じゃあ、うんとご褒美をあげなきゃね。わたくし専用のわんちゃん♪」
僕達は新作のSMグッズを買って店を出た。どうやら、皇帝先輩と閃利は以前から面識があったらしく、レジで二人が仲良く話す様子を見てかなり驚いた。未成年の皇帝先輩がアダルトグッズを購入するには協力者が必要だから、当然といえば当然なのだが。
しかし、念願叶ってその日から僕は西園寺先輩の犬になる事が出来た訳で。しかも先輩もこんな僕の事を気に入ってくれているのだ。もちろん嬉しくない訳がない。
店から出ると、先輩はカバンから、黒いリボンがついたヘアゴムを取り出した。するといきなり、僕の左側頭部の髪をいじり始める。しばらくすると、先輩は満足したように「出来ましたわ」と呟き、髪から手を離した。
「あら、かわいいじゃないの。あなたにこのリボンは差し上げますわ。わたくしの犬であるという証ですから、無くしたら承知しませんわよ」
「ありがとうございます⋯⋯! 絶対無くさないです。毎日結びます!」
「うふふ。良い心がけね、わんちゃん」
僕は小さく「わん⋯⋯♡」と呟いて、先輩に飛びついた。次の瞬間、僕の目に映ったのは、視界いっぱいの美しい大地。全身の強い痛みを感じて、心が弾んだ。
これから始まる先輩との主従生活は、想像通り波乱を極めるわけだが、それはまた別の話である。
~つづく〜