君と二人で春を待つ
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
*
「んもぉ!しつこいなまったく!」
目を覚ましながら叫ぶという器用なことをしたリサは、その途端、窓からの日差しに目が眩んで毛布に潜り込んだ。しかし怒りは収まらずに、ベッドの中で怒りに震える。
世の中には、忘れても良い黒歴史というものがあるとリサ・バウニャは拳を握って断言する。
とある公国のとある片田舎の村に住むリサには秘密がある。それは前世の記憶があること。前世と言っても周りの爺さま婆さまの話を聞く限り、五十年くらい前のことみたいだ。
「もう何度も何度も同じ夢を見せやがって。いい加減忘れさせろっ」
同居人がいれば注意されるような暴言を吐いたリサは天井に向かって拳を振り上げる。
「……」
そのまましばらく静止すると、馬鹿らしくなってベッドから降りた。
少し開いているドアからは美味しそうな朝食の匂いが鼻をくすぐっているから仕方がない。
これなら絶対起きれちゃうよなぁ、と思いながらリサは自室を後にした。
リサの予想通り、テーブルの上にはすでに朝食が用意されていた。
かまどには先ほどから食欲を誘いまくる魅惑のスープもある。
リサは手早くよそい終わると、いただきますと手を合わせた。
同居人の狙いに乗った方が美味しいと骨身に染みているリサは、鼻息荒くスープを飲み込み、それからふにゃと表情筋を緩める。
「幸せだなぁ」
スープの後はこれまた胡桃が入った芳ばしいパンをスープに浸してぱくりと四個たいらげる。
飲みきってしまったスープのおかわりを鼻歌まじりによそっていると、玄関のドアが開いた。ようやく同居人が戻ってきたようだ。
「おかえり、ジノ」
リサの幼馴染みであり、同居人であり、台所であり、旦那さまであるジノ・バウニャ。灰が燃え尽きたような髪色。薄緑の瞳は呆れたようにリサの手元を見つめている。
「食べ過ぎるなよ」
「ううん? 」
「どっちだよ」
そう言って、寝癖のついた前髪を整えてくれる。それから頬を緩めるジノを見て、リサは胸に広がる穏やかな気持ちに浸った。
ジノと一緒にいるときだけ、幸せだ、と思える。前世なんて、関係ない。これっぽっちも。そう、信じられる。
*
遅い朝食の後は、ジノと一緒に森へ向かった。
この村で唯一の薬師であるジノは、雪解け間近の森で、薬草の目を探すのが最近の日課だ。
まだ在庫に余裕はあるけれど、いつどんな病が流行るかはわからない。その準備を怠らない真面目さも、リサは好ましかった。
「はーるよ、こい。はーやくこい」
うきうきとした気分で自然と心に浮かぶ歌を歌えば、昔から聴き慣れているジノはにやりと笑う。
「お前は本当に冬が嫌いだな」
「この世で一番ね。でも冬が来ないと春も来ないし。それも困るよね」
雪が解けて水気を含む枝をパシリと軽く叩いて口を尖らせた。
ジノは苦笑を浮かべながらその様子を見た後、ふと視線を川辺に移す。それからスッと目を細めた。
「人が倒れてる」
ジノが引っ張り上げた人は、高そうな装飾をつけた服と腰に付けている剣から、お金持ちっぽいな、とリサは思った。最初は金色の髪で顔が見えなかったけれど、ジノが確認のため髪をどかした途端、リサの全身を寒気が襲い、危うく倒れそうになるのをジノが支えてくれた。
謝りたいのに、口が震えて動かない。
リサが放心状態でいる間に、ジノは脈があることを確認すると、その場を後にした。
家に着くまで、リサはずっと震えていた。
*
前世のリサには、理不尽なことしか起きなかった。ジノはベッドで眠るリサの額にそっと手をやった。
異世界召喚された挙句、監禁。魔法が使えるとわかれば戦場に連れて行かれて最前線で倒れるまで攻撃魔法を打たされる。倒れれば治癒を受けてもう一度。同じことの繰り返し。
すべての始まりは、雪の中に倒れているところを帝国の皇子に拾われてしまったこと。その日からリサの白い悪夢は続いた。
前世のリサの最後の記憶は、牢屋の手も届かない換気口から降る雪を見つめていたこと。
寒くて痛くて寒い。帰りたい。こんな体じゃ帰れない。寒い。もう終わりにして欲しい。
そう思いながら、訳も分からず死んでいった。
最後にリサは暖かな場所に行きたいと願った。
毎日雪が降り続く、こんな白くて寒いだけの帝国じゃなくて、もっと暖かで、緑がたくさんあるところ。
もし、生まれ変われるなら。
「願いは叶ったはずなのに」
ジノは拳を握って目を閉じる。彼女の願いを
聞いていた、雪の精霊。彼は願いを受け入れた。リサが生まれ変わるたびに、ジノは彼女を暖かな場所へ連れて行く。いつまでも。何度でも。
たとえ皇子の息子や孫たちが、彼女を永遠に探していたとしても。
暖かな場所で、きっと彼女を微笑ませる。
*
すっきりとした気分でリサは目覚める。夢を見なかった。それだけで、泣きたいほど幸せだ。
でも、どうしてまた寝てるんだろう。さっき起きた気がするのに。外は暗いし、もしかして、二度寝しちゃったのかな、と少し落ちこんだ。
それに、何やら外が騒がしい。リサは部屋から出るとジノを探した。
ジノを見つけて少し安心していたら、寝坊すけと額を叩かれる。
「何かあったの? 」
リサは不安な気持ちでジノを見上げた。
「なんにもないよ。何の心配もいらない。」
そういって、リサが大好きな春の陽だまりのように微笑んだ。
「木の芽が出ていたよ。もう春だよ」
〈終〉