第一話 氷が融ける時 十八〜十九
十八
その日、青葉の母親は上機嫌だった。
長年、娘と彼女を縛り付けてきた過去から、やっと抜け出せる気がしていた。最初抵抗のあった夜の仕事も、大分と慣れてきて、今では店の仲間ともうまく行っている。
今日は、店のママの買い物に付き合うだけのつもりだったが、思わず娘の服を買ってしまった。
店でも、何やらそわそわしている彼女を見て、ママは、『今日は早く上がっていいわよ』と、言ってくれた。今日は夕方から降り出した雨のおかげで、お客も少なかったのだ。
彼女は濡れないように、デパートの紙袋を抱えて、塗装のはげ落ちた階段を上った。
娘はびっくりするだろうか。それとも梅田君がまだいてくれてるだろうか。
しかし彼女は、アパートの自分の部屋の前まで来て、異常な事態に気付いた。
入口のドアは、金具が歪んで薄く開いている。
中はシーンとしていて、物音一つ聞こえない。
彼女はゆっくりと、鍵の掛かっていないドアノブを回した。
中を覗くと、誰かが部屋の隅で倒れている。
桃樹だと気付き、彼女は慌てて駆け寄った。
「どうしたの、梅田君。大丈夫!」
桃樹は彼女に抱きかかえられ、薄っすらと目を開けた。
「……お母さん……」
そう言う桃樹の顔には、青アザが出来ていた。
「一体、何があったの。娘は……青葉はどこにいるの」
その名前を聞いた途端、桃樹の目が見開らかれた。
彼女の身体を支えとして、どうにか立ち上がろうとする。
「青葉は……連れ去られた……あの、女に……」
「今、何て言ったの。青葉はどうしたの!」
「青葉は、淡路玲子に連れ去られた。あの女教師に。あいつは狂ってる!」
「そんな、まさか……」
彼女には、桃樹の話はにわかには信じられなかった。しかし目の前の彼が嘘を言ってる様子はない。
「お母さん。警察に……いや、県警本部に電話してくれ。科警研・生特研の梅田俊松を呼び出して、淡路玲子のマンションに急行するよう言ってくれ」
桃樹はフラフラと、玄関に向かった。
彼女は慌てて駆け寄る。
「梅田君。あなたはどうするの。そんな身体で!」
「おれは青葉を取り戻す。あの女教師。絶対にゆるさねぇ」
しかし言葉とは逆に、桃樹はバランスを失い倒れそうになった。まだ彼は、氷の呪縛から完全に抜け出せた訳ではなかったのだ。
思わず倒れそうになり、青葉の母親にしがみついた。彼女は慌てて桃樹を支える。彼女が手に持っていたデパートの紙袋が破け、中から白い服が落ちた。
それは、肩に少しフリルの付いたブラウスだった。
それは、母親が、娘の為に買ってきた物だった。
彼の胸に熱いものがこみ上げた。
次の瞬間、桃樹はアパートのドアを飛び出し、階段を駆け下りていた。
下を歩くジャージ姿の夫婦に思わずぶつかりそうになったが、軽いステップでかわすと雨の中を掛けて行く。
身体の動きは戻っていた。
彼を呪縛する氷は、今、完全に砕け散った。
桃樹は雨の中を走っていた。
淡路玲子の住むマンションは、一つ隣駅の駅前にあった。
隣駅は、この辺りの再開発時に、大きなショッピングモールやマンションと共に新しく出来た駅で、青葉のアパートの最寄駅とは三キロも離れていない。
桃樹は迷わず走った。彼の足なら十分もあれば辿り着ける。
青葉の口ぶりからして、女教師は彼女をいつも自宅に連れ込んでいた。外のホテルを利用する可能性は少ない。
しかし自分は、青葉のアパートで何時間気を失っていたんだろう。
きっとあの女教師には、充分な時間があったはずだ。青葉に何をするにも。
桃樹は、自分のスピードがもどかしかった。
誰でもいい。彼女を、青葉を助けてくれ。
その時、桃樹には姉の顔が思い浮かんだ。
〈ねーちゃん。頼む。何とかしてくれ!〉
彼は、幼い時から何か辛い事があるとすぐに姉にすがっていた。その癖がまだ抜けていないのだろう。しかし、まだ十五の彼に、このどうしようもない事態に、それを幼稚だというのは酷であった。
しかし願いは届くはずもない。
向こうに、隣駅のタワーマンションが雨に霞んで見えた。
もう少しだ。
その霞は桃樹の頭の中で霧を連想させ、多分殺されたであろう、山崎あきらを思い出させた。
なぜ、彼は殺されたのか。淡路玲子が山崎あきらを殺す理由が思いつかない。それになぜ、青葉の身体が目的の筈の淡路玲子が、山崎と青葉を偽カップルにする必要があったのか?
角を曲がれば、あの女のマンションだ。
桃樹はスピードを上げた。
その時、桃樹の前に自転車が飛び出した。
キイイイイ!――
自転車は、油の切れたブレーキ音を残して走り去った。
桃樹は思わず立ち止まる。
青葉のアパートの前でぶつかりそうになった、ジャージ姿の夫婦が頭をよぎった。
簡単な事だった。
淡路玲子は結婚していた。
なぜレズビアンの彼女が男と結婚していたのか。
全てはカモフラージュだ。
山崎と青葉を偽カップルに仕立てあげたのも、あの女が結婚していたのも。
偽カップルと組み合わされるパズルは、――仮面夫婦だった。
桃樹がそのマンションの入口に着いた時には、ずぶ濡れになっていた。
入口はオートロックになっていたが、ちょうど帰宅したサラリーマンの後について中に入る。そしてエレベータに乗ると八階のボタンを押した。八〇三号室が淡路夫妻の部屋だった。
桃樹は、重く、硬い扉の前に立った。
十九
彼はドアフォンのベルを押した。しかし応答は無い。
立て続けに三度押す。それでも応答は無かった。
桃樹は、実験でも数度しか成功しなかった事を試そうとした。
もう一度ベルを押す、そして右手をドアフォンに当て、意識を集中させる。
桃樹は確信した。それは、ドアフォンの電子部品を通して、彼の右手に伝わった。
受話器の前で息を潜めてこちらを伺う、あの女の動揺を。
今、桃樹の能力は最大の力を発揮していた。
彼は、ドアフォンのベルの横にあるカメラに向かって言った。
「先生、いるんだろ。入れてくれよ」
しかしドアフォンは沈黙したままだ。
桃樹はこの硬い扉を開けさせる為に、切り札を使う事にした。
「先生、おれ先生といろいろ話したい事があるんだ。青葉の事と、そして殺された山崎あきらの事について……」
その時だった。ドアフォンの向こうに微かに別の気配がした。
桃樹にはすぐにわかった。それは男のものだった。
「先生、ちょうど良かった。今日は旦那さんもいるみたいだね」
ドアフォンのモニタの前の二人は、どこかに自分達を移すカメラがあるのかと疑った。
相手の姿を見ているのは自分達だけで、相手は何も見えないはずだ。
さらにドアフォンの向こうで、桃樹は話す。
「じゃあ本人に聴けるね……なぜ、山崎あきらを殺したのか」
その言葉を聞いて夫婦は決心した。もう一人殺す事を。
ガチャリ――
鍵を開ける音がした。
「入りなさい」
淡路玲子の声が聞こえた。桃樹はゆっくりとドアノブを回し中へ入る。
そこに淡路玲子が立っていた。女教師は警戒して玄関から離れた奥に立っている。
「早くドアを閉めて、鍵を掛けなさい」
桃樹は従った。女教師の手の内には、まだ青葉がいる。
「ゆっくりとこちらに歩いてくるのよ。ゆっくり。変な事したら青葉ちゃんがどうなっても知らないわよ!」
桃樹は靴を脱ぎ、ついでに格闘に備え、雨で濡れた靴下を脱いで裸足になった。そして廊下をゆっくりと歩く。どうやら女教師は、正面のリビングに彼を誘い込むつもりらしい。彼はリビングの入口に立った。
桃樹は、入口の右側に男の殺気を感じた。構わず入った。
リビングに入ると、そこに青葉が仰向けに倒れていた。目を閉じて微動だにしない。
女教師は笑っていた。
「梅田君。遅かったようね」
「まさか!」
桃樹は動揺した。その瞬間だった。入口に隠れていた大男が体当たりをした。彼の動揺は一瞬の隙を生み、わかっていた筈の攻撃を、防ぐ事が出来なかったのだ。
大男は倒れた桃樹の上に乗り、あの細い紐のようなベルトで彼の首を絞めた。
桃樹は、かろうじてベルトと首の間に指を入れ、気道を確保する。
男は桃樹の首を絞め、苦しむ彼の顔に言った。
「どこで調べたんだ。俺達の事を!」
しかし桃樹は目の前の男を無視し、必死で顔を青葉に向けた。
「青葉! 青葉! 大丈夫か!」
「このガキ、自分の心配をしな!」
桃樹の顔を女教師が踏みつける。
しかし桃樹は彼女の足から伝わる記憶から、青葉の無事を知った。彼女は眠らされていただけだった。
桃樹は視線を戻し、まず、この二人の記憶から、事件の全容を知る事にした。
しかし桃樹は感じていた。この二人の感情は何か異常だった。彼に乗る男の身体からも、彼の顔を踏む女の足からも、その感情は桃樹に伝わったと思えば歪み、変形し、まるでヘドロのように溶けていった。
桃樹にはそれが何かわからなかったが、ヒントは青葉のアパートで聞いた女教師の台詞だった。
「……お前ら、ドラッグをやっているのか……」
「うるさい。ガキ!」
女教師は踏みつけていた足を上げ、勢いをつけて桃樹の顔に再び振り下ろした。その目には狂気があった。
「お前はどいてろ。俺が殺す」
男はベルトにさらに力を込めた。桃樹は男に意識を集中した。彼の記憶が、桃樹の身体に濁流のように流れ込む。
「……そうか……このベルトで、山崎あきらも殺したのか」
「うるさい!」
ベルトは桃樹の指ごと彼の首を絞める。桃樹はさすがに息をするのが辛くなってきた。
「山崎が、長岡渚を……女を好きになった事が、許せなかったのか……そして……そうか、遺体を……なんて奴だ、彼女の家の……そんな所に……」
男は首を絞めながら、恐怖を感じた。こいつは、このガキは、知っている事を喋ってるのではない。遺体を埋めた場所など、自分以外は誰も知る訳はないのだ。そう、こいつは、今この時に事実を知り得たのだ。なぜ、どうやって。
「あ、あんた一体、何者なのよ!」
興奮した男は、言葉使いが、女の物に変化した。
男の力が一瞬緩む。
桃樹は指に力を入れ、気道を確保すると、肺一杯に空気を吸い込んだ。
そして彼はなんと、生命線である指を、首を絞めているベルトから離したのだ。
その両手で男の腕を取る。
そして関節を取り、逆にひねった。
大男の身体が右に傾ぐ。
桃樹は自由になった片足を曲げ、男の胸を思い切り蹴り上げた。
バターン!――
派手な音を立て、男は自分の右、桃樹の左側に仰向けに倒れた。
桃樹は男の右腕を取ったまま、すばやく身体を半回転させ、男の腕をまたぐように足を乗せ、腕挫十字固を決めた。
「どうして、遺体を長岡の家の前なんかに埋めたんだ!」
「し、仕方ないから、あの女に譲ってあげたんじゃない山崎くんを。……くっくっくっ……死体だけどね……くっくっ……うぐぐぐぐ!」
桃樹は、もう話が出来ないように、さらに力を掛けた。
その時だった。大男の倒れた振動で、青葉がゆっくりと目を開けた。
彼女は身体を起こし、その視線は、腕を決められ苦しむ大男の顔を通り、桃樹の顔に止まった。
「あ、桃ちゃ……」
しかしすぐに視線は、桃樹の後ろに走った。
同時に桃樹も鋭い殺気を感じた。
腕を決めている場合ではなかった。彼の敵は二人いたのだ。
桃樹はただならぬ殺気に、大男から腕を外すと上体を起こし、自分の頭をかばった。
ドン!――
鈍い音が桃樹の背中を痛打した。
彼はそのまま一回転し、青葉の横に転がった。
立ち上がろうとしたが、息が出来ず膝を折る。
「ふふふ。逆転ホームランってところかしら。梅田君」
そこには、金属バットを持った女教師が立っていた。
「あんたの骨を全部砕いてあげるわ!」
女教師は金属バットを振り上げる。
桃樹は背中の激痛にまだ顔を歪めていた。青葉が桃樹に抱きついた。
「やめて先生!」
「どけ!」
女教師は叫んだ。
しかし青葉は、髪がずぶ濡れになり、顔に青アザを作り、今もバットで殴られボロボロになった桃樹をもう見ている事は出来なかった。
これ以上、自分の為に彼を犠牲にする事は出来なかった。
「お願い先生。わたし先生の言うこと何でも聞くから、もう桃ちゃんを殴らないで!」
今にもバットを振り下ろそうとした、女教師の動きが止まった。
悲しい事に、この女教師の心のどこかでは、今だ青葉の身体に未練があったのだ。
「もう、貸しなさい!」
その様子を見ていた大男が、女教師から金属バットを奪い取った。
「このぼうや、もう許さないわ! あたしがギタギタに叩きのめしてあげる。その醜い女も一緒にね」
大男はバットを振り上げた。
桃樹は残った力で青葉の腕を解くと彼女を後ろに回し、左腕を頭の前にかざす。
腕一本は覚悟した。
「地獄で抱き合ってなさい!」
その時だった。
ドンドンドン!――
ドアを叩く音が、部屋にこだました。
ドンドンドン!――
「開けなさい!」
ドアを叩くのは女性のようだった。
大男は、バットを振り下ろす動きを止めた。
女教師と顔を見合す。
「ちょっと、暴れ過ぎた様ね。きっと下の階の奥さんが苦情で来たのよ。あの人うるさいから」
「なによ。このマンション高いくせにボロなんだから! 完全防音じゃなかったの!」
ドンドンドン!――
なおもドアを叩く音は止まない。
大男は、バットで桃樹をけん制したまま言った。
「ほっとけばいいわ。そのうち諦めて帰るでしょ」
しかし次に、この二人は信じられない音がドアノブからするのを聞いた。
ガチャガチャガチャ――
その音は、明らかに鍵を開けようとしていた。
ガチャガチャガチャ――
――ガチャリ
鍵が開いた。
その直後、バァン!――と派手な音を立ててドアが開けられると、一人の女性が入ってきた。
その侵入者は得意げに、ピッキング用の特殊工具のついたキーホルダーを指で回して、どこかで聞いたような台詞を吐いた。
「こんなドアの鍵、閉めても無駄よ。直ぐに開いちゃうから」
大男が気を取られているうちに、桃樹は立ち上がり青葉を抱いて男との間合いを取る。
侵入者はリビングの入口まで来ると、部屋を見渡した。
「どうやら、クライマックスのようね。あーあ、でも桃樹、派手にやられたわね」
桃樹は、現れた女性の顔を初めて見た。
「ねーちゃん! ……どうして、ここに……」
「あんたが、ぴーぴー泣いて、『ねーちゃん助けて』って、呼んだんでしょ」
桃樹はまだ、姉、さくらの能力について何も知らなかった。
しかし彼女も、何らかの能力を持つ者だからこそ、桃樹と家族として行動を共にしているのだ。
さくらは今、離れた場所から桃樹の声を聞き、そして、ここへ駆け付けた。
さくらは視線を夫婦に移した。
「あんたたち、自宅に未成年者を監禁して、バットで殴ってたの? そりゃあどんな言い訳も出来ないわね。どうやって正当防衛しちゃおうかしら」
さくらは指を鳴らした。
「なによ、小娘。いきなり入ってきて、偉そうな口訊くんじゃないわよ。待ってなさい。順番に叩きのめしてあげるわ!」
「ねーちゃん!」
桃樹は、大男とにらみ合い、つま先で立つ姉に向かった。
「おれがやる。そいつをくれ」
桃樹はさくらが肩に掛けている長い布袋を指した。
さくらは踵を下ろした。
「わかったわ。好きにしなさい」
そう言うと、肩に掛けていた長い布袋を下ろし、桃樹に向かって投げる。
布袋に付いている桃のマスコットが揺れた。
そして姉は、一歩さがり、壁にもたれ腕を組んだ。
――まるで、客席で傍観するかのように。 |