第一話 氷が融ける時 十六〜十七
十六
桃樹はまたテーブルの横に寝転がっていた。腹が空いて動けなかった訳ではない。腹が一杯で動く気がしなかったのだ。青葉はテーブルの上に肘を付いて、少し呆れた顔で桃樹を見る。
「だから言ったでしょ。多過ぎだって」
「ああ」
桃樹が起き上がって壁にもたれると、青葉は、テーブルの食器を重ねて立ち上がった。
「わたし、お皿洗うね」
「あっ、おれも手伝うよ」
「いいから、桃ちゃんは座っててよ。またお皿割られたら大変だから」
笑顔で青葉にそう言われ、桃樹は何も言えず、そのまま座っていた。
あれから二人は食事を作った。二人と言っても、ほとんどは青葉が料理して、桃樹は邪魔をしていただけだった。醤油を取ってと言われてはこぼすし、お皿を出してといえば割ってしまった。あやまってばかりの桃樹に青葉は笑っていた。
そして、どうにか完成した料理を二人で食べた。青葉は、男の子の食べる量がわからないから作り過ぎたと言ったが、桃樹は全部平らげてしまった。
桃樹は全てが心地よかった。胃袋も、座っている畳の感触も、もたれた壁も、窓を開けて入って来る風も、キッチンの水の音も。
やがて、食器を洗い終えた青葉が戻って来た。
「桃ちゃん、何笑ってるの? 思い出し笑い?」
「えっ、いや、別に……」
そう言う桃樹の手を、青葉は引いて起こした。
「ねぇ、わたしの部屋行こうか?」
青葉は奥の襖を開けて、桃樹を引っ張り部屋の中に入る。
そこは少し、彼女のにおいがした。
その部屋は今までいた部屋よりさらに小さい部屋で、学習机と布団と衣装ケースで部屋は一杯だった。制服はカーテンレールに掛けてある。床にはマンガ雑誌が数冊転がっていた。
「なんだ、足の踏み場もないじゃん」
「今、お布団片付けるわよ。どーせトイレ行くのに、この部屋通らなきゃダメだから、先に見せとこうと思って」
そう言いながら、彼女は乱暴に布団を畳む。どうやら押入れの中に畳んだ布団を仕舞う場所はないようで、そのまま部屋の端に寄せて、彼女の言う片付けは終わったようだ。
「あ、そういえば、おれ、トイレ」
「その奥だから、電気は横ね」
桃樹が戻ると、青葉は畳んで端に寄せた布団にもたれていた。彼が青葉の横に、同じように布団にもたれて座ると、青葉の体は傾いて、桃樹に少し寄り掛かる。
「あーあ。ずーと、こーしてたいなぁ、桃ちゃんと……明日も、ずっと」
「何言ってんだよ。明日から、また学校行かなきゃ」
「うん……」
青葉は膝を抱えると、そのまま黙り込んでしまった。しばらく迷ったあと、やがて彼女は、前を向いたまま口を開いた。
「……わたし、もう学校行きたくない」
「どうして……」
彼女はひざに顔を埋めた。
「わたし、もう、淡路先生に会いたくない……」
桃樹は上体を起こして青葉に向いた。彼の心配は、少し当たっていたのかも知れない。
「やっぱり昨日、何かあったのか、淡路先生と……どうしたんだ」
問い詰める桃樹に、彼女は背中を向ける。
「桃ちゃん」
「なに?」
「わたし桃ちゃんに、いっぱい心配かけて悪いと思ってる。だから、ちゃんと話さなきゃいけないと思ってる。でも……桃ちゃん」
「……」
「わたし、今から桃ちゃんにいろんな事話すけど、わたしの事嫌いにならない?」
「……ああ」
「ずるいよね、こんな言い方。わかんないもんね。でも……」
青葉は振り返り、桃樹を見つめた。そしてすぐに視線を落とす。
「わたし桃ちゃんの事が好き。だから嘘つきたくないの。でも、嫌われたくない!」
青葉は桃樹に抱きついた。
倒れそうになった桃樹は、背中が布団に当たって止まる。
彼女は両手を回し、桃樹を強く抱きしめた。
桃樹は彼女の薄いTシャツから、胸の感触を感じた。下着は付けてなかった。
彼は緊張して、どうする事も出来ない。
やがて青葉は腕を緩め起き上がると、桃樹の顔を見つめた。
「桃ちゃん。勇気をちょうだい……」
彼女は目をつむり、自分の唇を桃樹の唇に重ねた。
桃樹は自分を支えていた腕を彼女の背中に腕を回す。
彼の身体が、布団をずるずるとすべり畳に落ちても、二人の唇は離れなかった。
風がカーテンを揺らしても、二人は動かなかった。
やがて、ゆっくりと青葉の唇が離れると、目が合うのが恥ずかしいのか、彼女は桃樹の胸に顔を埋めた。
二人は無言のまま、ゆっくりと時間が流れた。
「すごい。桃ちゃんの心臓、すごく速くてどきどきしてる」
彼女は桃樹の胸に耳を当てていた。
「当たり前だろ。……こんな事したら」
「ふふっ」
彼女は悪戯っぽく笑う。
「わたしね。男の人とキスしたの初めて」
「……おれだって、初めてだよ」
桃樹は姉のさくらに、寝ている間に度々唇を奪われていた事を知らなかった。
「ふーん。意外」
「そうかな」
「そうよ」
二人は、しばらく、そのまま抱き合って寝転がっていた。
やがて青葉は、桃樹の胸に顔を埋めたまま、話し始めた。
「わたしね。昔……レイプされたの」
桃樹はそれを知っていた。あの映像を。あの部屋での出来事を。
「中学に上がったばっかりの時だった。……お父さんに……無理やり……」
桃樹は目をつむった。彼女の身体。彼女の心。そして彼女の家族。全てを一気に崩壊させてしまう、最悪のシナリオだった。
彼女の母親が離婚した理由。彼女が母親と二人で暮らしている理由。桃樹はなんとなくわかっていた。ただ彼は、自分の中でそのシナリオを組み立てる勇気はなかった。
しかし、それは事実だった。
「それからわたし、変になっちゃって、男の人に近寄れなくなっちゃったの」
桃樹はどんな慰めの言葉も思い浮かばず、ただ黙って聞いていた。今は彼女から話す事が、彼女を楽にする事なのだと、桃樹は思いたかった。
しかし次に彼女が口にしたのは、桃樹も知らない事実だった。
「わたしね。淡路先生が好きだったの」
「えっ」
「好きとか、そんな綺麗な事じゃなくって。愛し合ってた……先生と肉体関係があったの……」
「そんな……」
桃樹にとっては、あまりにも衝撃的な言葉だった。彼女を抱く腕が少し震えていた。
彼女は、もう桃樹に話し掛けようとはせず、淡々とこれまでの経緯を語り始めた。
「クラス委員に勝手に選ばれた夜、わたしは先生の家に行っていろいろ話をした。病気の事やそうなった理由も。先生はとても優しかった。先生はわたしにキスをして、『女同士なら大丈夫よ』って言った。『先生があなたの汚れた身体を綺麗にしてあげる。そうしたら病気も治る』って」
桃樹は、いつの間にか拳を握り締めていた。彼女の心と身体を持て遊ぶ、大人達が許せなかった。
「わたしは、先生の優しさにどんどん溺れて行った。でも身体はどんどん汚れていった。先生にいろんな事を教えてもらったから。でも、それでいいと思った。わたしの身体は元々汚れてたし。いまさら綺麗になろうなんて、思わなかった」
「……青葉と山崎がよく先生の家に行ってたのは、そういう事だったのか……」
「そう。でも山崎君はよくわからない。気が付くといつもいなくて、先生とわたしだけが、部屋のあのベッドで……」
「……でも、もういやなの。桃ちゃんに逢ってから。人を好きになるって事がやっとわかったの。先生なんて好きじゃない。あれはただ欲望を満たすだけの汚い関係なの。もう、嫌なの!」
彼女は叫んだ。桃樹は彼女の顔が見えるように抱き起こした。
「先生に……それを言ったのか、昨日」
「……うん。そしたら、急に先生怒って、身勝手だとか、裏切り者だとか、恩を忘れたのかだとか、いっぱい罵られて、わたし怖くて、ごめんなさいって謝ったの。そしたら先生、今度だけは許して上げるけど、代わりにおしおきだって……」
彼女は黙り込んでしまった。
「何か、されたのか……」
彼女は上体を起こした。そして桃樹の目の前でTシャツを脱いだ。
桃樹は見た。彼女の肩のあたり、そして乳房の上下にすじ状になったアザが走っている。
「これは……」
「ロープで縛られたの。すごく痛くて、もうしませんって、無理やり言わされて……」
彼女は泣きながら桃樹にしがみついた。
桃樹は、怒りと、悲しみと、虚しさで胸がいっぱいになった。
過去は変えられない。彼女に起こった過去の出来事は、もう誰も変える事は出来ない。しかしまた、あってはならない現実を、変えられない過去にしてしまった。彼のいた時間に、たった一日前に。彼は何も出来なかった。
桃樹は目から涙の落ちるのを感じた。もう、どうしたらいいのかわからなくなった。
「もう、学校行きたくない……」
彼女はもう一度言った。
桃樹は両手で、青葉をゆっくりと抱いた。手のひらに、彼女の素肌を感じた。
「わかった。もう行かなくていい。こうしていよう。ずっと、二人で……」
「……うん」
それが、幻想だと桃樹はわかっていた。それが、出来るはずのない事だと。ただ、嘘や慰めではなかった。
彼は一瞬でも、本心から、そうしていたいと思った。
十七
彼女はそのまま眠ってしまった。
きっと昨日は眠れなかったのだろう。
桃樹は腕を伸ばして、たたんだ布団から掛け布団を引っ張り出すと上半身が裸のままの青葉に掛けた。
桃樹はさっきから、いろいろな事が頭の中を駆け巡っていた。ただ、何もわからなかったし、何も出来る事はなかった。
いつの間にか彼も眠っていた。
目が覚めたのは、雨音が聞こえたせいだった。
気が付くと部屋の中は薄暗く、窓の外では雨が降っている。
夕方のニュースでは、今日から梅雨入りだと報じられていたが、桃樹が知る筈もない。
今が何時かもわからなかった。腕時計は昼間料理をする時に外して、テーブルの上に置いたままだ。
青葉はまだ眠っているようだった。顔はよく見えなかったが、規則的な寝息でそれとわかる。
ゆっくりと流れる時間の中で、桃樹はあと少しだけ、この静寂が続いて欲しいと思った。
しかし、それは呼び鈴の音でかき消された。
桃樹の胸の上の青葉が、びくっとして起き上がる。
青葉は、今の状況を把握するのに、数秒を要した。
「あ、桃ちゃん……」
もう一度呼び鈴が鳴なった。
彼女は、その音で完全に目が覚めた。
「あっ」
上半身が裸なのに気付き、慌ててTシャツを拾い上げ胸を隠した。
「お母さんかな」
その一言で桃樹も完全に目覚めた。
青葉がTシャツを被って顔を出した時には、掛け布団はたたまれて、桃樹は正座をして背筋を伸ばしていた。
青葉は目を丸くして立ち上がる。
「すごーい桃ちゃん。神業ね。頭は跳ねてるけど」
彼女は笑って部屋の電気を点け、玄関へ向かう。
「お母さん? お母さんでしょ?」
しかし、ドアの向こうは沈黙したままだった。青葉は自分の推測が間違っていた事に気付いた。時計を見る。まだ八時半だった。母親が帰って来るには早過ぎる。
「……あの、どなたですか」
「水無瀬さん。先生よ、開けてちょうだい」
その声を聞いた途端、彼女の表情は固まった。無言で玄関から後ずさる。二歩、三歩、敷居に足を取られ倒れそうになった彼女の身体を、桃樹が後ろから支えた。
桃樹もドアの向こうの声を聞いた瞬間、部屋から飛び出していたのだ。
「どうしたの、水無瀬さん。いるんでしょ。無断で学校休んだりして、先生心配になって来たのよ」
彼女は無言で首を横に振る。桃樹は青葉の耳元でささやく。
「大丈夫だ。追い返せばいい」
「水無瀬さん、どうしたの」
「……先生、帰って。わたしもう先生と会いたくない」
その言葉を聞いた瞬間、淡路先生の声は一オクターブ下がった。
「そう……まだ、わかってないようね」
その声は、もう教師のものではなかった。
「お願い。帰って!」
青葉は叫んだ。しかし、彼女の願いに答える声はなかった。その代わり、二人を恐怖に陥れる音がドアノブから聞こえた。
その音は、この薄く、頼りないドアだけで守られていた二人を、一瞬にして無防備にしてしまうものだった。
鍵穴に鍵を挿す音、それを廻す音、そして鍵が開く音。侵入者にとってはあまりにも簡単な行為だった。古いアパートのドアには、チェーンロックも無い。
ガチャリ――
ドアはゆっくりと開けられた。
その速度は、ハンターの余裕を物語り、獲物である二人の恐怖をあおった。
桃樹は、青葉を自分の背中に回した。
侵入者は現れた。得意げに、指で合鍵のついたキーホルダーを回す。
「こんなドアの鍵、閉めても無駄よ。直ぐに開いちゃうから」
そして侵入者である女教師は、靴のまま玄関を上がり、二人の姿をゆっくりとなめるように見た。口元には陰湿な笑みが浮かび上がる。
「ふーん。そういう事だったの。また男に汚されてたのね、可愛そうな青葉ちゃん。さあ先生の方へいらっしゃい」
青葉は桃樹の背中に隠れ震えていた。
「……先生。どうして鍵を……」
「こんな時の為に、合鍵を作っておいたの。役に立ったでしょ」
「あんた。本当に教師か」
桃樹はその女教師を睨み付けた。
「梅田君。あなたこそ、相川さんから早退したって聞いてたけど、学校抜け出して女の子の家に行くなんて、とんでもない不良ね。内申書にはちゃんと書いてあげるわ」
女教師はゆっくりと視線を桃樹に向ける。
「そもそも、あんたを青葉ちゃんに近づけたのが失敗だったわ。事情を知らないあんたのせいで、青葉ちゃんがまた発作を起こすって思ってたのに。発作の後の青葉ちゃんって、とっても可愛いの。怯えた子犬みたいにね。ふふふふ」
そして女教師の口元から笑みが消えた。
「ガキはとっとと、家へ帰りな!」
その罵声が合図だった。
桃樹は前へ出た。目には怒りが溢れていた。
仕掛けた女教師は、足を肩幅に開き、左手を少し前に出し、右の拳を引く。
彼女は空手部の顧問だった。この童顔の頼りなさそうな男子生徒を、一撃で打ちのめす自信があった。
獲物は無造作に射程に入った。
「せいやー!」
女教師は掛け声と共に、桃樹の顔面に容赦ない正拳突きを放った。
しかしそれは空振りに終わった。まるで最初から、何もない空間を突いたかのように。
次の瞬間、女教師は後ろに吹っ飛んだ。
その時、桃樹は少しだけ身体をずらすと、大内刈の要領で、自分の足を相手の足の間に入れ、軸足を払いつつ、同時に胸を手のひらで突いたのだ。
バン!――
後ろにいた青葉は、桃樹が軽く女教師の胸を押しただけに見えた。
しかし女教師は、まるで下手なワイヤーアクションのように吹っ飛び、派手な音と共に自ら開けたドアに身体を打ちつけ、そのまま外に転がり出た。
桃樹は、手加減する事をやめていた。この女だけは許す事が出来なかった。
玄関から、そこに倒れている女教師を見下ろす。
「先生こそ、家に帰えんなよ。それとも立てないなら、おれが送って行こうか、警察まで」
「あなた……一体、何者なの……」
女教師は腰の痛みをこらえつつ、廊下の手すりにしがみついて起き上がった。まるで、子鹿を追いかけて森に入ったハンターが、熊に遭遇したかのようであった。桃樹の履歴書には武道の経験は一切書かれていない。趣味は確か天体観測だったはずだ。
「二度と青葉に手を出すな!」
桃樹は凄んだ。
しかし彼は甘かった。この女教師を、それこそ立てなくなるまで痛めつけるべきだった。獲物である桃樹は知らない。ハンターが武器を持っている事を。
女教師の口に再び、陰湿な笑みが浮かんだと思った瞬間だった。
「うっ!」
桃樹の目に激痛が走った。
女教師は立ち上がりながら、催涙スプレーを取り出していたのだ。
桃樹の顔めがけて噴射したと同時に、目をかばい空いた鳩尾に突きを放った。力はそれほど入らなかったが、隙を突かれた桃樹には充分だった。
身体をくの字に曲げて、後退する桃樹のこめかみに、女教師はさらに回し蹴りを入れた。
桃樹の顔は横に吹っ飛んだが、身体は持ちこたえた。そのままさらに後退する。
女教師は追いかけ、桃樹に連続で蹴りを入れる。
「やめて!」
青葉は桃樹をかばい、彼の前に出た。
その姿は、怒りで逆上した女教師を冷酷なサディストに変える。
「水無瀬さん、見損なったわ。もう優しくなんかしてあげない。その男を始末したら、あなたもいっぱい痛い目に合わせてあげるわ」
女教師の言葉に震える青葉の肩に、桃樹はゆっくり手を置いた。
「青葉、下がってろ」
青葉は振り返った。桃樹の目は回復していた。
「桃ちゃん。大丈夫」
「ああ……」
桃樹は、視線を青葉から女教師に移す。
「……催涙ガス以外は、ちっとも効いてねぇよ」
桃樹は今度こそ、この女をぶちのめす気だった。
しかし女教師は、すばやく作戦を変えた。
青葉の腕を掴むと、無理矢理自分に引き寄せたのだ。
気付いた桃樹は彼女を後ろから抱きしめ抵抗する。
「水無瀬さん。こっちへ来るのよ!」
「いやあ、やめて!」
叫んだ瞬間だった。
青葉をあの時の記憶が襲った。
そして同時に桃樹も襲われた。
あの映像に。
薄暗い部屋。
夕方なのか、早朝なのかわからない。
彼女は裸だった。
男はゆっくりと彼女の上に乗りかかる。
そして彼女の足と足の間に自分の身体をねじ込む。
男が彼女の頭を抱え込んだ時だった。
彼女を激痛が襲った。
大声で叫んだに違いない。
しかし桃樹には聞こえなかった。
映像に音は無かった。
ただ男の動きに合わせて、彼女の口が叫びの形に変わるだけだ。
やがて男の動きが止まった。
これで全ては終わってしまう筈だった。
しかし悪魔は、まだこの幼い少女を許しはしなかった。
男は彼女をうつぶせにした。
彼女は人形のようだった。
またも男は彼女の上に乗りかかる。
何度も何度も行為を繰り返した。
やがて部屋は真っ暗になっていた。
そして時も止まっていた。
彼女は意識を失うことで、この地獄からやっと抜け出す事が出来たのだ。
桃樹は虚しさの中にいた。
一瞬でも彼女を救おうと考えた、自分の無力さが虚しかった。
気が付くと、桃樹の手足は氷で覆われていた。
今、彼女から伝わったもの。そして学校の屋上で伝わり、どこかに追いやっていたもの。全ての氷が彼に襲い掛かる。
桃樹は、指先一本動かす事は出来なかった。
やがて氷は、桃樹の手足から全身に広がり、彼を氷漬けの化石にしてしまった。
青葉は一瞬、またあの氷のようなものの感覚に捕らわれた。
彼女はもう、男性に対してトラウマがあるわけではなかった。青葉の心は、彼女を無理矢理ねじ伏せようとする、女教師の力に反応したのだった。
しかしそれが、背中から抱かれている桃樹の腕に伝わり、またも自分から消えていく感覚があった。
その直後――
ドサッ!――桃樹はその場に倒れた。
彼の目は見開かれ、全身が硬直したまま、全く動こうとはしなかった。
急に抵抗が無くなり、青葉を奪い取った女教師は、一瞬事態が把握出来ない。
しかし捕らわれた青葉は、彼の姿を見てすぐにわかった。
「うそ。桃ちゃん。うつらないって言ったのに! どうして、嘘だったの。桃ちゃん、返事して!」
彼女の叫びは、女教師が彼女の口にねじ込んだハンカチでくぐもり、止められた。
女教師は、さらに用意したおもちゃの手錠を、青葉を後ろ手にしてはめると、勝ち誇ったように、倒れた桃樹を見下ろした。
「ふーん。何があったかよくわかんないけど、男は体が強くなくっちゃねっ!」
女教師は、桃樹の腹に蹴りを入れた。桃樹は硬直したまま、無抵抗だった。
「残念だったけど、青葉ちゃんは私がもらっていくわっ!」
またも桃樹に蹴りを入れると、今度は青葉のあごを掴み無理矢理自分に向けた。
「あとで、いっぱい痛い目に合わせてあげる。もう男も抱けないような身体にしてあげるわ。いいお薬も手に入ったの」
そういって青葉の頬をペロリとなめると、もう一度桃樹を見下ろした。
桃樹は女教師の声を聞く事は出来たが、その体は全く動かなかった。
「じゃあね。あなたは病欠にしておいてあげる。ゆっくりここで寝てなさい!」
女教師はさらに数発、桃樹に蹴りを入れる。
桃樹は無抵抗のまま、ごろごろと転がり、部屋の壁に当たり止った。
青葉は泣き叫んだが、その声はくぐもって聞こえない。後ろ手の手錠を引っ張られ、無理矢理アパートから連れ出された。
乱暴に閉められた薄いドアの内側には、桃樹一人が、ぼろ雑巾のように転がっていた。 |