第一話 氷が融ける時 十三〜十五
十三
電車から降りると、桃樹は走った。
早く父親に話したかった。外から電話で話せる内容ではない。会って直接話がしたかった。
桃樹は家までの道を走った。
バン!
桃樹は勢いよく自宅のドアを開けたが、そこで彼の動きは止まった。
真っ暗な部屋は、誰もいない事を物語っていた。桃樹は靴を脱ぐと、そのまま玄関の壁にもたれて座り込む。そして目をつむり、長岡渚と見たあの霧を思い出していた。
『……あれは獣の霊だな』
桃樹は嘘をついていた。あんな嘘が彼女に通じたかはわからない。彼の神経は衰弱して、あの後、能力もしばらく使えなかったのだ。
もしかしたら、彼女はわかっていたのかも知れない。
あの霧の塊のほとんどは、長岡渚の恐怖心が見せた虚像だったが、桃樹はその中に確かに人間の特殊な意思を感じた。
彼がそれを感じるのは久し振りの事だった。昔まだ良くわからずその事を話した時、珍しく姉のさくらが、青い顔をしたのが目に焼き付いている。
だから彼は覚えていた。その感覚、いや手触りと言うべきか、明らかに違うそれを……
桃樹が霧の中で感じたのは、山崎あきらの意志だった。そしてその意思は死んだ人間が残すものの感触だったのだ。
それが、長岡渚の家の近くに現れたのは、きっと彼が死ぬ寸前、彼女の事を強く思った為だろう。それが、彼の意志を彼女の家の近くに導いたのかも知れない。桃樹はそんなふうに考えていた。
桃樹は膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。電話でも仕方が無い、とりあえず話さなければならない。
彼は、ポケットから携帯電話を取り出し父をコールした。直ぐに出た。
「桃樹か。どうした」
「オヤジ、山崎あきらの捜索願い、どういう扱いになってる」
「ああ、あれは一応、事件性なし、『一般家出人』扱いだ」
桃樹はなぜ父が、そんな事件にもならない事件を、自分に捜査させようとしたのか疑問に思った。しかし、今はどうでも良かった。
「どうした桃樹、山崎君がひょっこり現れでもしたか?」
「ああ、現れたよ、霧の塊になってな」
「……どういう事だ」
「あいつはもう生きちゃいない。どこかで死んでる。今日あいつの死人の意志を感じたんだ」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
「確実か?」
「ああ」
「しかしなぜ……」
「オヤジ、山崎あきらの交友関係を洗ってくれ」
「それは桃樹、お前が……」
「校内じゃない。そう、たぶん山崎より年上の、男だ。彼はゲイだったんだ」
父、俊松はしばらく考えている様子だった。
「……わかった。所長と相談する。よくやった桃樹」
桃樹は父のねぎらいに、嫌な予感がして黙り込む。
「桃樹、後はこっちでやる。お前はもう学校に行かなくていい。次の指示を待つんだ。おい、聞いてるか桃樹」
桃樹は携帯電話を耳から離した。そこで叫んでいた父は、終了ボタンを押すと静かになった。
桃樹は、こんな結末になるとは思ってもいなかった。警察の本体が動き出した以上、事件は桃樹の手を離れ、彼があの学校に通う意味も無くなる。
『桃樹、あの学校にいつまでいるつもり?』
姉の言葉が脳裏をかすめる。覚悟はしていたが、あまりにも短かった。
「くそっ」
桃樹は携帯電話を投げつけた。それは二、三回床に跳ねた音を残して、暗い廊下の向こうに見えなくなった。
彼は自分の部屋のベッドに倒れ込み、ごろんと仰向けになった。闇に慣れた目に、うっすらと天井が映っている。夕食を摂る気力もなかった。シャワーは朝でいい、このまま寝てしまおう。彼は思った。
そして明日になれば、また学校に行こう。
桃樹の答えは出ていた。水無瀬青葉に出逢ったのは、山崎あきらの失踪を調査する為ではない。
〈最後まで、話を聞かなきゃな〉
桃樹は思った。心のどこかにある、あの冷たい氷のような物が溶けるまで、桃樹の中の事件は、きっと終わる事はないのだ。
十四
次の日桃樹は、遅刻寸前で教室に入った。
結局昨日は、父も姉も家には帰って来ず、ベッドに倒れ込んだまま寝てしまった桃樹は、目覚ましのセットもせず、起こしてくれる人もなく、ギリギリの時間に跳ね起きた。
それでもまだシャワーを浴びるぐらいの時間はあったのだが、ぼーっとしているうちに余裕はなくなり、髪をぬらしたまま家を出た桃樹は、駅から学校まで走るハメとなり結局また汗をかいてしまった。
チャイムは、桃樹が席に着いた瞬間に鳴った。
「ふう」と、桃樹が安堵の溜め息を漏らしたと同時に、朝のホームルームが始まる。しかし彼は教室を見渡し、ある事に気付いた。
そこに空いている席が二つあったのだ。一つは山崎あきらの席、そしてもう一つは、水無瀬青葉の席だった。
桃樹は不安に掻き立てられたが、ホームルームが終わった教室は、別の話題で盛り上がっていた。
「桃ちゃん。また今日も一面トップだね」
淡路先生が教室を出ると、斜め前の相川さんが振り向いた。そういえばいつもうるさい富田の姿がない。彼は早々に教室の前の方へ行き、数人の輪の中心で何か熱心に話をしていたのだ。
相川さんが耳打ちする。
「桃ちゃん。ほら、またあいつの話のネタになってるわよ。昨日、空手部部長の長岡渚を泣かしたって……ホントなの?」
桃樹は、あの場に富田も居た事を思い出した。しかし今はどうでもいい。
「えっ、ああ、まあ……」
相川さんは、生返事をする桃樹の視線が富田ではなく、水無瀬青葉の席にある事に気付くと話題を変えた。
「ああ、青葉、今日は休みだね。それに……学校にも連絡がなかったみたいだし……」
桃樹も、彼女と同じ事を思い出していた。ホームルームで淡路先生が、青葉のいない席を見て首を傾げていた様子を。
「でも青葉、今までだって何回か遅れて来る事もあったよ。ほら、彼女身体弱いから……だから心配ないよ」
「……そうだね」
桃樹はやっと返事をした。
そのうち彼女はやって来て、あの席に座り、またいつもの学校が始まるのだろう。桃樹はそう思いたかった。
しかし授業が始まり、一時間目が過ぎても彼女は現れなかった。
桃樹は、空いたままの青葉の席を見る度に不安が増してゆく。失踪した山崎は死亡していた。そして今日、水無瀬青葉が学校を欠席した。
もしこのまま彼女が学校に来なければ。
もしこのまま山崎と同じように……
桃樹は居たたまれなくなった。
〈とにかく、連絡してみるか〉
桃樹はいつものポケットを探ったが、そこに携帯電話はなかった。全てのポケットと鞄を探したが、どこにも携帯電話はない。
「あちゃ」
桃樹は思い出して頭を抱えた。彼の携帯電話は、昨日父との会話の後投げつけたまま、まだ自宅の床に転がったままだったのだ。
二時間目が終わった時、
「ねえ相川さん。ケータイ持ってる?」
桃樹は小声で言った。学校の規則では、携帯電話の持込みは禁止だが、彼はみんなの様子を見て誰も守っていない事を知っていた。
「うん、持ってるよ。でも青葉のお母さんの番号しかないけど」
相川さんは桃樹の目的がすぐ分り、メモリからその番号を表示させると桃樹に携帯電話を渡した。
水無瀬青葉は携帯電話を持っていなかった。それに彼女の家には固定電話もない。唯一の連絡手段は彼女の母親が持っている携帯電話だった。
「ありがと」
桃樹が電話を受け取り掛けようとすると、慌てて相川さんが止めた。
「だめよ、こんな所で掛けちゃ。ちゃんとボックスに入らなきゃ」
「ぼっくす?」
相川さんは教室の一番後ろの窓際に桃樹を連れて行き、カーテンを指差した。
「ほら、一応ケータイはダメだから。メールはいいけど、しゃべる時はみんなここに入ってやってるんだ」
「あ、そうか」
桃樹は、みんなが窓際のカーテンにくるまって何かしている姿を疑問に思っていたが、その謎が今解けたのだった。
「なるほど、こうするんだ」
桃樹は相川さんと自分をカーテンでくるんだ。
「えっ」
当然、彼が一人でカーテンに入って電話するのかと思っていた相川さんは、自分も一緒にカーテンにくるまれてびっくりした。女子同士ならともかく、あまり男女が一緒に入る事はない。こういう事を何も考えず素でやってしまうから、彼はよく誤解されるのだ。
「どう?」
相川さんは無言の桃樹に声を掛けた。どうやら電話は繋がらないらしい。
「だめだ。『現在使われてません』だって」
「やだ、あたし、登録間違えたのかなぁ?」
桃樹はメモリの番号を見た。しかしそれは桃樹が記憶していたファイルのものと同じだった。
「ううん。たぶん番号変えちゃったんだろう」
桃樹は携帯電話を相川さんに返すと、そのまま考え込んでしまった。
「……桃ちゃん。ねぇ桃ちゃん。とにかく出ようか」
相川さんはだんだん顔が熱くなるのを感じていた。
「あっ、ごめん。こうだっけ?」
桃樹は相川さんの肩を持って、一緒にぐるぐる回ってカーテンから出ようとしたが、よけいに絡まった。
「やっだー、桃ちゃん。逆だって!」
相川さんはきゃっきゃ笑いながら、桃樹の腕を掴む。二人は反対に回ると、やっとカーテンから脱出する事が出来た。
しかしカーテンから出た二人を待っていたのは、みんなと富田の白い視線だった。
「……お前ら、二人で何やってんだよ」
「えっ、別に何もしてないわよ」
「その割には、顔が真っ赤で楽しそうじゃないか」
相川さんの顔は確かに富田の言う通りだった。しかし桃樹は富田を無視して真顔でいう。
「おれ、行ってくるよ」
「えっ」
相川さんは、富田に掴みかかろうとしたが慌てて振り向いた。
「行ってくるって、今から?」
「うん。やっぱり気になるから」
「でもちょっと、桃ちゃん。授業は?」
教室を出ようとする桃樹を、相川さんは呼び止める。彼は振り向いた。
「あっ、内緒にしといて。じゃあね」
そう言って桃樹はウィンクをすると、鞄も持たずに出て行ってしまった。どうやら彼は相川さんとウィンクはセットで考えているらしい。
相川さんは、〈こんなに堂々と教室を出て行って、内緒も何もないじゃない〉と、思ったが、ただ、ナイショという響きが、彼女にとっては少し嬉しく感じた。
「なあ相川、梅田のやろうウンコにでも行ったのか? もう次の授業始まるぞ」
富田の中で桃樹の事を『桃ちゃん』と呼ぶブームは早くも去ったようだ。
「ふん。内緒よ、ナイショ。あんたになんか絶対教えてあげない」
「ちぇっ、何だよ。お前ら怪しいなぁ。初日は水無瀬、二日目は長岡、そして三日目は相川か。さすが伝説のナンパ師、恐ろしいぜ」
「そんなんじゃないわよ」
〈桃ちゃんの心の中は青葉の事で一杯なんだから……〉
相川さんは窓の外を見た。
「しかし梅田も、三日目になって急にランクを落としやがって。質より量とは、関心できんな」
「うるさいっ富田!」
富田は相川さんのストレートを顔面に受けてノックダウンした。
彼の空手の修行はまだまだ足りないようであった。
十五
いつの間にか桃樹は走っていた。予感がある訳ではない。ただ不安なだけだ。
もしこのまま彼女が学校に来なければ。
もしこのまま山崎と同じように……
桃樹は、悪い考えを吹き消すように頭を振った。しかし頭に浮かぶのは、彼を不安にする要素ばかりだ。
山崎あきらと、水無瀬青葉には奇妙な共通点が多かった。クラス委員である事、偽の恋人同士であった事、そしてお互いに異性が苦手だった事。
さらに青葉の心情が、失踪する直前の山崎あきらと極めて同じであったのだが、今の桃樹にはそれは分らない。
桃樹は坂道を下りきって、あの喫茶店がある交差点を渡り、駅まで走った。そして線路を越えるのに、彼は駅の階段を上らずに、その先にある地下通路を渡った。その方が少しでも早い気がしたのだ。
そして古い住宅が密集する路地を通り抜けると、やっとその場所に着いた。
桃樹は青葉のアパートの下で、走って荒くなった息を整えた。しかし、心臓の鼓動は速いまま収まろうとはしない。そのまま塗装のはげ落ちた階段を上り、水無瀬青葉の部屋の前で止まる。この前は気付かなかったが表札は出ていない。
桃樹は、ドアの横の呼び鈴を押した。
それからの沈黙が、桃樹には永遠と思える程長かった。
「はい、どなたですか」
やっと返事があった。しかしその声は青葉のものではなかった。彼女と二人暮らしの母親だと思い、答えようとしたが、なかなか声が出ない。
「……あっ、すみません。ぼく、あの、青葉さんのクラスメイトの梅田と言います」
返事の代わりにドアが開いた。
出てきたのは、やはり青葉の母親らしい人だった。
「あのもしかして、あなたが、も、桃ちゃん?」
「あ、そうです。梅田桃樹と言います」
彼女は、桃樹の返事を聞いて安心したらしく、表情を緩めた。
「あ、どうぞ入って下さい。ごめんなさい。苗字聞いてなかったもので、梅田……君だったっけ……」
「はい」
「一体どうしたの。こんな時間に」
「いえ、青葉さん、今日学校に来てなくて、それで、連絡も取れなかったものですから……」
「それで、わざわざ会いに来てくれたの。ごめんなさい」
彼女は桃樹を玄関に招き入れるとドアを閉めた。
「どうしましょ。まだお布団も片付けてなくて、ちょっと待っててね」
「あ、いえ、それより、青葉さんは?」
桃樹は、玄関に彼を残して、奥の部屋に行こうとする母親を呼び止めた。
「あの子ね、まだ奥で寝てるの。ほんと、しょうがない子ね、今起こして来るわ」
とりあえず彼は安堵した。最悪の事態ではなかったようだ。そしてまたも奥へ行こうとする母親を呼び止める。
「あの、寝てるのならいいんです。いるのなら、それで。ぼく学校に戻りますから」
「そんな、せっかく青葉に会いに来てくれたんでしょ。もうちょっと、ゆっくりしていって」
結局母親は、奥の部屋に入ってしまった。
玄関に残された桃樹は、仕方なく辺りを見渡す。
青葉のアパートの間取りは、奥に細長くなっているようだった。桃樹がいる玄関はすぐ三畳程のキッチンになっていて、彼の左からアパートの通路に沿ってガスレンジと流し台があり、壁には冷蔵庫や食器棚が並べて置いてある。すりガラスの引戸の向こうでは、青葉の母親がバタバタと多分、布団を片付けている。その奥は彼からは見えなかったが、青葉が寝ている部屋があるのだろう。
「どうぞ、狭いところだけど入って」
母親は、すりガラスの引戸を開けた。
桃樹が今は布団のないこたつテーブルの前に座っていると、母親はお茶を入れた湯のみを持って来た。
「あら、足崩してくださいね。どうぞ」
青葉の母親は、桃樹の向かいに座ると、湯のみを彼の前に置いた。そして自分の湯のみを飲むでもなく眺めると、視線を少し上げる。
桃樹はなんとなく、青葉の仕草が母親に似てる気がした。
「梅田君。あの子から聞いたんだけど、その、あの子のね、病気の事は知ってる?」
「はい、知ってます」
青葉の母親は、娘を起こそうとはせず桃樹に話掛けてきた。
「今迄もね。別に男の人に触れたからって、急に倒れるとかする訳じゃなかったの。でもね、いつそうなるかわからなくて怖がってる内に、あの子は全く男の子に近寄ろうとはしなくなったの。それがあの子ったら桃……梅田君に会って病気が治ったって言うものだから……それに変な事言って、梅田君に病気を吸い取ってもらったとか、それで消えちゃったとか、そんなふうに言うものですから……その、あの子の言う事が信じられなくて」
桃樹は、きっとこの母親が安心出来るような言葉を言えたら一番いいのだと思ったが、そんな気の利いた言葉は急には思い浮かばない。ただ彼は、自分にも言い聞かせるように、思っていた事を口にした。
「青葉さんの言葉は、彼女の心の中を言ってるので他の人にはわかりにくいかも知れません。ただ彼女がそう思うなら、きっと病気は治ったんだと思います。そもそも、その病気というのも、彼女の心の中にあったものですから」
母親は桃樹の顔をじっと見た後、少し声を明るくして「そうね」と言った。
「梅田君、あなたしっかりしてるのね。びっくりしちゃたわ。あ、そうだ、青葉起こさなきゃね。その為に来たんだから」
母親が立ち上がろうとすると、奥の部屋の襖がガタガタと鳴った。
「お母さん。どうしたの?」
どうやら青葉は、二人の話し声で目が覚めたらしい。彼女は襖を少し開け顔を出すと部屋の様子を見た。テーブルには、いつもの見慣れた母親の顔と、その隣に、こちらを振り返った桃樹の顔があった。
「あっ。えっ、何で桃ちゃん!……ああっ!」
青葉は、あまりにもびっくりしてずっこけて、襖が外れそうになりながら、部屋を飛び出してきた。
「ちょっと、お母さん。桃ちゃん来てるなら起こしてくれたらいいのに」
そういうと彼女はちょこんと座り、まだ眠そうな顔を桃樹に向けてテーブル置いた。
「桃ちゃん。久しぶり」
彼女の変な挨拶に桃樹は「ああ、久しぶり」と言った。桃樹も同じ気持ちだった。昨日の放課後から、とても長かった気がする。
「何言ってんの青葉。そんな事より早く着替えて来なさい」
「うん」
やっぱりまだ眠そうな青葉はゆっくり立ち上がった。
「ほんとに、寝てたんだ」
桃樹は彼女の姿を見て思わず吹き出した。彼女に会えて急に気が抜けたからかも知れない。いつも綺麗に梳かれている彼女の髪は、今はボサボサで、上下はパジャマ代わりのジャージを着ている。胸には変な犬の絵が描いてあった。
「やだ桃ちゃん。笑わなくても……」
青葉は、ふらふらと襖の奥に入っていった。
「ごめんなさい。恥ずかしいところ見せちゃって。あの子ったら、ホントだらしなくて」
そう言って立ち上がった母親は娘とは違い、淡い色のワンピースを着て化粧もきっちりとしている。その理由は彼女の口から出た。
「梅田君、わたしこれから用事があって出なくちゃならないから、失礼するわ。お構い出来なくてごめんなさい」
「いえ、そんな。ぼくの方こそ急にお邪魔して……」
「お母さん、もう行っちゃうの。今日もお仕事?」
奥から出て来た青葉は、顔を洗って髪は梳いていたが、上はジャージを脱いだままのTシャツ姿で、下はジャージのままだった。Tシャツにはジャージと同じ変な犬の絵が描いてあったが、桃樹にはそのキャラクターが何かわからなかった。
母親はキッチンに置いてあったハンドバッグを持つと、玄関に向かう。
「そうよ、今日はお店のママとお買い物の約束があるの。その後、直接お店に行くから遅くなるわ。それより青葉ったらまだそんな格好で……」
「別にいいじゃない。一階の滝川さんの所なんて、夫婦そろってお買い物だってパチンコだって、ジャージで行ってるじゃない」
「あそこのご夫婦はジャージが正装なの。あなたはパジャマでしょ。起きたのなら着替えなさい」
「もう、文句あるなら、たまには娘にも服買って来てよ。お母さんばっかりずるいよ」
「はいはい、わかったわ。また今度ね」
母親は時計を見ると、桃樹が見えるように首を傾ける。
「梅田君はゆっくりしていってね。そのほうが青葉も喜ぶから。じゃあね」
そう言うと、玄関の薄いドアから出掛けて行った。
母親を見送ってドアを閉め、内側から鍵を閉めて玄関から戻って来た青葉は、部屋を見て、テーブルに桃樹の姿がない事に気づいた。
「あれ、桃ちゃん?」
「なに〜」
間延びした声はテーブルの下から聞こえた。どうやら桃樹は寝転がっているらしい。
「ちょっと、どうしたの。急に力抜けちゃって」
「おれ心配したんだよ。青葉、学校来ないし、電話掛けても繋がらないし。学校抜けて、走って来ちゃったよ」
「……ごめんなさい」
「いいよ、別に。おれも学校居ても仕方なかったし」
桃樹は顔を出してテーブルにあごを置いた。
「それより、どうしたんだよ。学校休んで」
桃樹は責めるふうでなく、自然に聞いたつもりだった。しかし青葉は目をそらして沈黙した。部屋の空気が急に重くなる。
桃樹はまたテーブルの横に「バタン」と、わざと大きな音を立てて寝転がった。
「あー、腹減ったなー。そういや、おれ昨日の昼からなんにも食べてないんだよなぁ」
「えっ、そうなの!」
青葉はテーブルに乗っかって、寝転がった桃樹を覗き込んだ。
「じゃあ、朝ごはん作ろうか。二人で食べよ」
青葉は笑顔を取り戻すと、キッチンへと向かう。
「もう昼だろ」
桃樹は起き上がり、青葉の後を追った。
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