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転校少年
作:菜田出ココ太



第一話 氷が融ける時 十一〜十二


 十一

 体育館の外で、桃樹は空を見ていた。
 六月の空の陽はまだ高く、暮れるまでには時間がある。
 桃樹は最後に見た長岡渚の顔、あの涙で溢れた目を思い出していた。
 ほとんどの男子がそうであるように、桃樹もまた女子の涙には弱かった。姉、さくらの完全に嘘泣きと判る涙でさえ、見せられるとついつい言う事を聞いてしまう。
〈ちょっと、大人気なかったかな……〉
 桃樹は富田に乗せられ、長岡渚とあの異種格闘技戦をしてしまった事を悔いていた。彼はあの長岡の涙が、彼女のプライドを傷つけてしまった為だと思っていたのだ。
 バン!――
 ぼーっと空を見ていた桃樹の尻を、突然道着が叩いた。
「梅田、おまたせ」
 そこには制服に着替え、道着をぶら下げた長岡渚がいた。
 彼女は道場での、あのピリピリとした気はまるでなく、後ろに接近しても桃樹は全く気付かなかった。それどころか今目の前にいても、制服に着替えた彼女は、道着を持っていなければ別人と思う程である。
 唖然とする桃樹の顔を彼女は覗きこんだ。彼女の短い髪が揺れ、少しシャンプーの匂いがした。
「なんだ梅田、ぼーっとして。なに、あたしの事、見違えた?」
「ああ」
 桃樹は言った。こういう冗談は素直に返されると、言った方が恥ずかしい。
「何言ってんのっ」
 長岡は蹴りを入れたが、桃樹は「ひょい」っとよけると、校門に向かって歩き出した。
「行こうか」
 桃樹は笑っていた。彼女が元気なのが嬉しかった。

 桃樹はまた、交差点の本屋の二階にいた。昨日水無瀬青葉と行った、あの喫茶店である。
 彼は二日続けて同じ店には行きたくなかったが、長岡渚に「どーしても行ってみたい」とせがまれ、やって来たのであった。
「当然、おごってくれるんでしょ」
 長岡は桃樹に釘をさしてから、メニューを見る。
 ウェイトレスが来ると、長岡はメニューを指差し、「これと、これ、それから紅茶はこれで」とテキパキと注文して、桃樹を見た。
「あ、ぼくコーヒーだけでいいです」
 ウェイトレスにメニューを返すと、桃樹は長岡渚に向き直った。
「おれ、実は長岡に聞きたい事があって……」
「あ、そう言ってたね」
「うん。山崎あきらの事なんだけど」
「そうか、やっぱり山崎くんの事気になるのね。青葉ちゃんを横取りしようと企む梅田としては」
「いや別に、青葉と山崎はその、偽カップルなんだろ」
「なんだ知ってたの。そうよ、だから青葉ちゃんのは梅田のものよ」
「いやそういう話じゃなく……ああっ!」
 桃樹はウェイトレスの運んで来た物を見て思わず叫んだ。
「長岡、お前ケーキ二つも食うのか」
「いいじゃない。誰かさんのせいで、胸にぽっかり穴が開いちゃって……」
「腹だろ」
 桃樹が言った瞬間、彼のむこうずねに向かって長岡の蹴りが飛んだが、桃樹の足はもうそこにはなかった。
「それより長岡、お前こそ山崎と付き合ってたんじゃないのか?」
「えっ。変な事知ってるのね。富田が言ったの?」
「あいつじゃないけど。あいつの言うことはほとんどウソだから」
「まあね。でも実は、あたし山崎から告白されたんだ。初めて女を好きになったって。でも別に付き合ってた訳じゃないんだ。山崎って他に付き合ってた……その、人がいたみたいだし……」
「そうなの?」
「そうなの。あっ。梅田! もしかしてあたしと青葉ちゃんと、二股かけようって気?」
「違うって。それより、付き合ってないにしても、山崎がずっと休んでるの気になんないのか?」
「そりゃあ気になるけど、彼、きっと家出したんじゃないかと思う。あたし、彼の家の人が捜索願いを出したって聞いたの。だからきっと……」
 彼女はなぜか、自分に言い聞かせるように言った。
「それに、人間関係でも悩んでたし」
「人間関係って……学校の?」
 桃樹は少し確信に触れられる気がして身を乗り出した。
「その、そうじゃないんだけど……」
「もしかして、男……とか?」
 桃樹は昨日、青葉から別れ際に聞いた言葉を思い出した。
「そこまで知ってるんだ。じゃあ、梅田には本当の事話すけど、彼、クラス委員とかで週に二、三回しかクラブに来れなくて、でもその帰りにね、あたし山崎の悩み聞いてあげてたんだ、いろいろと、今付き合ってる人と別れたいだとか……」
「付き合ってる人と別れたい……」
 桃樹は重要なキーワードに、思わず反応した。
「どんな奴か知ってる。その、山崎が付き合ってた人って」
「えっ。どーして?」
 長岡は桃樹のこだわりを不審がったが、彼の真剣な顔に押された。
「……うん。でも、あまり知らないの。なんか大人の人だったみたいだけど。あたしもそっちにあまり踏み込みたくなかったし」
「はは、ま、そうだね」
 桃樹はつい熱くなった自分を冷ました。
「後ね、クラス委員をやめたいとか言ってた」
「クラス委員を……」
「そう。何か大変だったみたい。よく先生の家まで行ってたみたいよ。青葉ちゃんと一緒に」
「淡路先生の家に……」
「そう、あの先生、あたし達のクラブの顧問のクセに、部活にはちっとも顔出さずにクラスの事ばっかり妙に熱心で……」
「ふーん。淡路先生……か」
『……今日ね、クラス委員の仕事で淡路先生に呼び出されてるから……』
 桃樹は放課後の青葉の言葉を思い出していた。
「さっ。お腹もいっぱいになったし、そろそろ帰ろうかな」
 ケーキを二つ平らげた彼女は、大きく伸びをしながら言った。
「えっ。もう帰んの。ちょっと待ってよ」
 桃樹は立ち上がりかけた長岡の手を掴んだ。
 その時、彼に何かが伝わった。――それは多分、恐怖心だった。
 道の奥、霧、気配……いくつかの言葉の断片が通り過ぎてゆき、桃樹は静かに手を離した。
 桃樹の顔が急に暗くなったので、長岡渚は自分の態度のせいだと思い、少し困ってしまった。
「どうしたの。まだどっか行く? そう、約束だもんね、今日付き合うって。ケーキ食べただけじゃね……」
「ううん、ごめん」
 桃樹は立ち上がった。
「ありがと。家まで送ってく」
「えっ。いいよ、あたしん家、凄い所にあるんだから、悪いよ」
 長岡渚も立ち上がる。
「遠慮すんなって。帰りながら、も少し話そうか」
 桃樹はレジへ向かった。
 長岡渚の心を見た彼は、彼女をひとりで帰す訳にはいかななった。

 十二

 駅前から出たバスは、そのまま市内の大通りを北へ走った。T字路で東に折れたかと思うとすぐに左折し、細い道に変えて結局北へ向かっていた。
 桃樹はそのバスの狭いシートに、長岡渚と並んで揺られていた。バスはエンジン音を大きくして、坂道を登る。
「ほら、凄い所でしょ」
 長岡は喫茶店で言った事を繰り返した。
 さっきからバスは、ずっと坂道を登り続けている。窓から見る景色も街中とは違うものになっていた。
「ウチのお父さんもバカなんだから。こんな所に家買っちゃって、山の手、山の手って言うけど、ほとんど山の上よねこれは。そう思うでしょ」
 桃樹は同意を求められたが、席の周りに同じ所に住む人がいると思うと、うかつな事は言えなかった。
「でもよかった。今日梅田に送ってもらって」
「えっ。何で」
「ほら見て、また霧が出てる」
 長岡は窓の外を指差す。
 山の南斜面に陽が落ちるのにはまだ時間があるはずだが、なんとなく薄暗いのは、長岡の言ったとおり霧が出ていたからだった。
「この辺。よく霧が出るのよね」
「長岡、お前、霧が怖いの?」
 桃樹は喫茶店で彼女から伝わった、恐怖心の理由がまだ分らなかった。
「何言ってんのよ。そんなの怖いわけないじゃないっ」
「いてててて……」
 彼女は桃樹の太ももをパチパチ叩いた。普通の女子がすると可愛らしいのだが、彼女がやると結構痛い。
「あっ。ここで降りなきゃ。早く」
 バスが止まると、窓側に座っていた長岡は、通路側の桃樹を尻を使って押し出し出口へ向かう。定期券のない桃樹は慌てて小銭を取り出しばたばたやっていたが、なんとか後から降りる事が出来た。
「なんだ意外と近いじゃん」
 桃樹はもっとバスに乗ってるものだと思っていた。
「そう思うでしょ。甘いわね。これからまだ、徒歩がありますから」
「そうなの」
 すたすた前を歩く長岡に、桃樹は慌てて付いて行った。
「あのバスは途中で巡回しちゃうから、ウチの近くまでは来てくれないんだ。でも上まで来るバスは一時間に一本しかなくて、だいたいここから歩いてるの」
「ふーん」
 桃樹と長岡は歩道を歩いていた。歩道には街路樹を植える為の枠があったが、まだ木はなかった。車道のアスファルトもまだ艶が残っているほど新しい。そういえばさっきから車は一台も走っていなかった。
「すごいでしょ。いかにも山を切り開きました。って感じで」
「そうだね」
「この道だって少し前迄は舗装もしてなかったんだよ。あたしの家の前の道もつい最近したばっかりで、家の裏なんかまだ砂利のままなんだから」
 桃樹は周りを見渡した。確かにこの辺りまで来ると、住宅用の区画整理は終わっているが、その上に建っている住宅は疎らだ。建っているがまだ人が住んでない家もあるようだ。
「ああ!」
 桃樹は後ろを振り返って、つい大声を出してしまった。
「あれ、ウチの学校じゃん」
 桃樹の立つ位置から南を見ると、そこには街の景色と、みんなが通う学校が見えた。
「そうよ。こうやって見ると近いんだけど、通うと遠いんだよね」
 桃樹は昨日、屋上から見た景色を思い出した。
「そういえばこの辺り、学校の屋上から見えてた。なんか家が押し寄せて来るって感じだったんだよな」
 桃樹はただ思った事を言っただけだが、長岡渚は別の事を考えていた。桃樹の横にぺたっとくっつくように並ぶ。
「ふーん。屋上って、青葉ちゃんと抱き合いながら見てたんだ」
「ちがうよ」
 桃樹はその話題でからかわれる事にすこし慣れたようだった。逆にその攻撃に対し、少し意地悪な話題で反撃した。
「それよりさ、長岡。お前道場で、なんで泣いてたんだよ」
 彼女はくるっと振り返ると歩きだした。桃樹は一瞬彼女が怒ったのかと思ったが、そうではなかった。
「んー、なんでだろ。わかんないけど、なんか感動しちゃったのかな」
「感動?」
「そう。梅田に投げられた時って、ふわっと体が浮いたと思うと、天井が見えてて、頭が真っ白になって……」
「ふうん」
「負けちゃったのに、なんか気持ち良かった。クセになりそう。また投げられたいなって」
 彼女は足を止め、桃樹を振り返り笑っていた。
「変な事いうなよ。そう簡単に行くか。こっちだって必死なんだから」
「ウソ。梅田は強いよ。あたしなんか全然だめ」
 彼女は追いついた桃樹の胸にしがみついた。
「ショックだったな。もう空手なんかやめちゃおうかな……」
「えっ……」
 桃樹は一瞬、彼女がまた泣いてるのかと思った。彼女の表情は見えなかったが、しがみついた胸から彼女の表情が伝わった。桃樹に伝わる彼女の顔は……顔は、舌を出していた。
 気付いた時には遅かった。桃樹は腹筋に力を入れるのが精一杯だった。
「どん」
 桃樹の鳩尾に長岡渚の正拳突きが入った。桃樹はよろよろと二、三歩後退する。
「いてててーっ。おい、おれだって殴られたら痛いんだぞ!」
「ははははー仕返しー」
 彼女は無邪気に笑って走り出す。
「悔しかったら、またあたしを投げてよ。ばあんって。ほらっ」
 彼女は車道を渡って住宅街の通りに入る。どうやら彼女の家はその奥のようだ。
「待てよ、本当にやるぞ!」
 追いかけた桃樹だったが、彼女が通りの入口で急に立ち止まったので、そのまま彼女を押し倒しそうになった。
「どうしたんだよ急に」
 しかし桃樹は、その答えを聞かなくてもわかった。
 いつの間にか霧が濃くなっていた。
 陽は落ちていたが、西の空はまだ少し明るい。
 しかし霧はその光を微妙に遮り、辺りの色彩を微妙に変えていた。
 気が付くと、街灯が点いていた。
 ただそれも、霧に霞んで淡く頼りない。
 彼女は立ち尽くしていた。
 鞄と道着は足元に転がっている。
 彼女はじっと通りの奥を見ていた。
 まるでそこに何かがいるように。
 桃樹は目を凝らしたが、そこには何も見えなかった。
 見えなかったが、確かにそこには何かがいた。
「見えるのか」
 問いかけた瞬間、彼女は金縛りから解けたように、はっとして桃樹の顔を見た。
「梅田も……見えるの?」
 桃樹には具体的な何かが見える訳ではなかった。彼の能力がそこに何かの意思がある事を伝えるだけだ。
「手を……おれの手を握るんだ」
 桃樹は鞄から手を離し、彼女の両手を自分の両手で握った。
 桃樹自身が感じるものと、彼女の身体で感じるものが、桃樹の中で合わさった。
 二人は気配を感じ、もう一度通りの奥を向いた。
 そこには霧が凝縮し大きな塊となっていた。
 彼女の見ているものを、桃樹も同時に見ていた。
 その塊が、そろり、そろりと彼女に向かって移動する。
 そして、その塊がゆっくりと止まった。
 二人は、それが何の合図かを知った。
 塊は疾風となった。
 高速で二人に襲い掛かる。
 彼女は手を解き桃樹にしがみつく。
 桃樹は彼女を抱きしめ、かばうように疾風に背を向けた。
 バン!――
 疾風は桃樹の背中に激突し、髪を振り乱し、そのまま風となって消えていった。
 数秒が経っただろうか、気が付くと霧は薄くなっていた。
 街灯が抱き合ったままの二人を照らしていた。
「今の、何だったの……」
 長岡渚は、桃樹にしがみついたまま聞いた。
 彼はゆっくり腕を解いた。
「ああ、でも、もう行ったよ」
 桃樹が言うと、彼女は自分が桃樹にしがみついたままなのにやっと気付いて、慌てて手を離した。
「ちょっと、もう。こんなとこ近所のおばちゃんに見られたら大変なんだから!」
 そう言って桃樹から二、三歩離れたが、足はまだ竦んでふらふらしている。
 桃樹は足元の自分の鞄、そして彼女の鞄と道着を、片手で器用に拾い上げた。
「ほんっと梅田って、女子に抱きつくのうまいんだから! 抱きつき魔、スケベ」
 罵声を浴びせられる桃樹だったが、なぜか聞いてない様子で、
「ほら」
 桃樹は鞄を持ってない手を彼女に差し出した。
 彼女は手を握らずに、そのまま桃樹の腕にしがみつき、そして、強がるのをやめた。
「ごめんね」
 二人は通りを歩き出した。
「いつもはね。気配だけだったり、塊がふわふわしてるだけなんだけど……今日みたいなのは初めて」
 彼女は少し落ち着くと話し始めた。
「お父さんに言っても取り合ってくれないし。梅田だけだよ、わかってくれたのは。……あれ、一体何だろ」
「……たぶん、あれは獣の霊だな」
 桃樹はわざと確信したかのように言う。
「けもの?」
「ああ。山に登るとたまに出くわすって言ってた。でも人を驚かすだけで、そんなに害はないって。この辺はまだ山なんだよ。人間様が住むにはまだ少し早過ぎたんだ。でも人が多くなるとその内消えるらしいよ、霊だって住みにくくなるそうなんだ」
「でも……」
「武道とかやってるとね。気に敏感になるんだ。それでそんなものがたまに見えるって言ってた。おれの柔道の先生がね」
「ふーん。じゃあ今日大きな塊が見えたのは、梅田のせいなの?」
「ははは、そうかも知れないな」
「なんだ、じゃああたしが梅田に抱きつくハメになったのは、そもそも梅田のせいじゃない。やっぱり、スケベ」
 桃樹はまた拳が飛んでくると思ったが、彼女の腕は桃樹の腕から離れなかった。
「ほら、ここだろ、長岡の家は」
 桃樹は表札を見て立ち止まった。
「うん。そうだね」
 彼女は変な返事をすると、腕を解いて桃樹から離れた。そして鞄と道着を受け取り門を入ると、「ふう」と、ため息をついて、桃樹に振り向く。
 少しためらってから、
「ありがと……あたし青葉ちゃんが羨ましいよ。じゃね」
 彼女は子供のように、走って家の中に入って行った。












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