第三話 鬼の棲む島 十七
十七
桃樹は丸太の階段を上り、神楽殿へと向った。
その前の松明は焚かれておらず、境内は、まだ月の青い光で覆われている。神楽殿の扉は右側だけ少しだけ開いており、中から蝋燭の炎が揺らめいて漏れていた。
桃樹は、その少し開いた扉に手を掛けた。
中に入ると、昨日の死闘の残骸は、跡形もなく片付けられていた。近づいて目を凝らせば、壁や床のあちこちに傷があるはずなのだが、蝋燭の明かりではそれを見ることは出来ない。
杏は祭壇の前に、なぜか布団を敷いて、その上にちょこんと座っていた。
髪は後ろで束ねられており、服装はいつも寝る時の様に、薄く膝上二十センチぐらいの真っ白な襦袢を着ている。彼女の目はいつもの様に鋭い目付きではなく、まんまるにして笑っているのでもなく、どこか落ち着いて何か恥じらいを帯びたもののように感じる。
その、見違える程の杏の変化に桃樹は驚いたが、それが鬼の生贄になる為のものだと思うと、悲しくなるのだった。
桃樹は、杏が座る布団の前に座り、彼女を見つめた。すると杏は、桃樹と目が合わない様にうつむいてしまう。いつものガサツな彼女の態度とは余りにも違う為、桃樹は少し調子が狂ってしまうが、とにかく彼女を説得しなければならない。
「杏……」
「な、なんだ……」
彼女は、顔を上げずに返事をする。
「杏、鬼の生贄になるなんて事はやめるんだ」
「うん。わかった」
桃樹はその場にコケそうになった。
一体自分は、どんな魔法を使ったんだろう。これじゃ説得も何もあったもんじゃない。杏にしても、そんなに素直に言う事を聞くなら、最初からこんな格好でここに居る事はないだろう。
「じゃあ」
桃樹はペンションに帰ろうと、杏の手を取った。杏はその手をぎゅっと握り締めたが、突然手を離し立ち上がった。
「や、やっぱり恥ずかしいから、蝋燭消すね」
そう言って祭壇まで歩くと、二つあった大きな蝋燭を吹き消した。
その真っ暗な部屋の中で、桃樹は何か二人がずれている事に気付き始めた。帰るから灯りを消すのは理に適っている。でも、どうして恥ずかしいんだ。
しかし、その次に彼女が取った行動は、桃樹をさらに驚かせた。
杏は祭壇の前で紐を解くと、襦袢をその場に脱ぎ捨てた。そして膝を曲げて……きっとショーツを脱いでいる。桃樹は暗くても、それぐらいの事は何となく分かった。
「お、おい……」
桃樹が杏に近づくと、彼女は振向きざま桃樹に抱きついた。その勢いで二人は布団の上に転がり、思わず抱き止めた桃樹の手のひらに、杏の素肌の感触が伝わる。やはり杏は、もう何も身に付けていなかった。
「あ、杏……な、なんで服を脱ぐんだ」
「えっ、桃樹……やっぱり、自分で脱がしたかったか? あたし、初めてなんでよくわかんないんだ。ごめん……」
「い、いや、そういう事じゃなくって……おれは、杏の母さんに言われて……」
「あたしも鬼ババ……母さんに言われて、ほんと言うと最初少し迷ったんだけど、あたしが鬼の生贄にならないように、桃樹がその……あたしを抱いてくれるって聞いて、ここで待ってたんだ。母さんが何を考えてるのかわかんないけど、鬼を倒すのに生贄になる必要はないし、生贄の資格があれば、逆に昨日の綾音のように、ふにゃふにゃにされちゃって戦えなくなるかも知れないし……」
桃樹はようやく事態が飲み込めて来たが、かと言ってどうする事も出来ず、押し倒されたまま天井を仰いでいた。
「あ、ごめん。別に桃樹を利用しようとか、そんなふうに思っている訳じゃないんだ。あ、あたし鬼と戦って死ぬかも知れないし、最後に好きな人に抱かれたいって思って、それで……」
桃樹は必死で、頭の中を整理しようとした。
杏の母親は初めて自分に会ったときから、杏と自分をくっ付けようと思っていたのだろう。だから杏を家から追い出し自分の部屋に泊めたりしたのだ。桃樹は正直言って、静子の思い通りになる事はイヤであった。
しかし、それは何の為だ。杏を鬼の生贄にしたくないだけにしては、余りにも手が込み過ぎていないか……。
それに、静子の意思がどうであれ、いつもあんなにガサツな杏が、こんなにもしおらしく見える原因が、鬼に身を捧げる為ではなく、自分に対してだった事を思うと、桃樹は杏の事をいとおしく思わずにはいられなかった。
「桃樹……」
杏の瞳に見つめられると、桃樹の頭の中はパニックになり、それ以上何も考えられない。唐突の展開に、桃樹自信の心の準備は、まだ全く出来ていなかったのだ。押す事も引く事も、肯定する事も否定する事も出来ず、ただ時間だけが過ぎて行く。
しかし、二人は気付かない。
いつの間にか外の松明に火が灯され、ごうごうと燃え盛っていた事を。
桃樹が閉めた筈の扉が、今、大きく開け放たれようとしている事を。
二人が掛けられた罠は、もっと大きなものだったのだ。
杏は桃樹の道着の懐に手を入れると、そのまま袴から引き抜き、その素肌に自分の素肌を合わせた。
「桃樹は脱がないのか……あたしだけ裸なのはちょっとイヤだ……」
「あ、ああ……」
頭がショートしたままの桃樹は、言われるがまま上体を起こし、道着を脱ごうとするが、その動きはロボットの様にぎこちない。それを見た杏は、
「あ、ごめん。い、いつも通りでいいから……へ、変な事言っちゃったか?」
「い、いや、いつも通りって……お、おれも初めてなんで……」
「えっ!」
杏は目が点になった。
「う、嘘言うな。綾音が、いや、ひなたも言ってたぞ。あの顔は相当女と遊んでるから、気を付けろって」
「な、何言ってんだ。こ、こんなこと嘘ついてどうするんだ!」
思わず叫んでしまった後に、沈黙が訪れた。
「あ、ご、ごめん。ま、その方がいいから、いいや……」
「そ、そうか……」
なんだか雰囲気がおかしくなって、先に行けない桃樹は、思わず溜め息をついて天井を見上げる。
その時、彼は気付いた。
神楽殿の周り、その上空付近に、とてつもない気が渦巻いているのを。
桃樹は、自分の身体に乗っかっている杏を横たえて、上体を起こし、その上に被さる様に腕を立てる。
いよいよかと思った杏は、しかし桃樹の叫びを聞いて我に返った。
「こ、これは……鬼だ。杏、鬼が来たぞ!」
慌てて桃樹は立ち上がったが、すっかり受身になっていた杏は、急には切り替われない。
「えっ、そ、そんな、今日は儀式をしないって、母さんが……」
彼女はのろのろと起き上がり、布団の横の薙刀を掴むが、その前に自分が全裸なのに気付き、四つん這いのまま服を探す。
その時、何者かによって、神楽殿の扉が開け放たれた。
表の松明の炎が、暗い部屋の内部を照らす。
その炎が倍近くに膨らんだと思った瞬間、その炎を振り乱し、松明の間を、鬼の気が疾風と共に入って来た。
それは、中の二人に風を叩き付け、上に飛んだ。そして天井付近を、渦を巻いて回りだした。
入口の扉は、何者かによって閉ざされた。
そして、その渦の中心が、激しく回転しながら杏に向けて急降下した。
「いやああああああー」
杏は叫んだ。その渦は、まるで杏に吸い込まれる様に次々と彼女の体内へ入って行く。やがて全ての渦が杏の体内に入ると、崩れ落ちるように彼女はその場に倒れた。
風は止んでいた。
「あ、杏、大丈夫か、何があったんだ」
桃樹はまだ、どうやって鬼がイレモノに入るのかを知らなかった。
杏の目が開いた。
「な、なぜ……」
桃樹は思わず後退した。その目はもう杏の目ではない。それは、鬼の目だった。
ボコッ――
杏の背中が膨れ上がった。そして、手足が伸び、身体が膨張する。あっと言う間に、杏は鬼の姿になった。
桃樹は入口へ走った。その向こうには、扉を閉めた者が居るはずだ。
ドンドンドン!――
桃樹は扉を叩く。
「なぜだ! どういう事だ! 何で杏に鬼が入り込むんだ! おい、答えろ!」
「ふふっ。ごめんなさいね、騙したりして」
扉の向こうから、静子の声が聞こえた。
「みんな知らないけど、イレモノの資格は、男も女も関係ないのよ」
「し、しかし、イレモノの第一子がその資格を持つって、先生が……」
桃樹はつい数時間前の、誠の言葉を思い出した。
「そうじゃないの。イレモノの資格は、鬼にはらまされた女の、初めての子が持つものなの。だから、あの女の初めての子である杏は、ちゃんとその資格を持っているのよ、誠には黙っていたけどね」
桃樹は思い出した。昨日鬼が杏を喰らおうとした時、何かを感じ、途中でやめた事を。きっとその時鬼は、杏がイレモノである事に気付いたのだ。
「四年前は、まだあの子が子供を産める体じゃなかったからダメだったけど、今回は大丈夫。そうでなけりゃ、あんな憎い女の子供なんて、今まで育てる訳がないじゃない。一度鬼を殺した女の子供なんてね」
そうだ、杏の母、やよいは、静子の夫であった先代のイレモノと共に鬼を殺した。しかし鬼は滅びず、翌年、次代のイレモノである誠に入った鬼が、やよいを喰い殺し、鬼の復讐は終わった。しかしそれで、憎しみや復讐心が人々の心から消えた訳じゃなかったのだ。
「ふふふ。あの子がイレモノでなけりゃ、とっくに私の手で殺してやってた。でも、我慢して生かしておいて助かったわ。誠があんなに使い物にならないなんて、思ってもみなかったから。そして梅田君。あなたは、生贄なの。鬼の杏にしっかり種を仕込んでやってね。ふふふ、大丈夫よ、男の生贄の場合は、初めてじゃなくてもいいそうだから。でもあんまり下手だと、食べられちゃうそうだから気を付けてね。じゃあ」
静子の気配が扉向こうから遠ざかった。
「このヤロー!」
桃樹は無茶具茶に扉を叩いた。それで開くような扉ではない。しかし彼は叩き続けた。桃樹は悔しかったのだ。
鬼のイレモノにされる為だけに、生かされていた杏。
そうでなければ、殺していたと言われた杏。
彼女の事を思うと、桃樹は悔しくて、そして悲しかった。
「くそう……」
桃樹は閉ざされた扉の前で肩を落とした。
ふいに、その肩を鬼が掴んだ。
そしてそのまま、桃樹を奥に向って投げつける。
どおん!――
桃樹は吹っ飛んだ。
打ち付けた背中の痛みを堪え、桃樹は立ち上がろうとしたが、その上に鬼が乗り掛かった。抵抗しようとした両手を鬼が掴む。
渾身の力を込めて外そうとするが、びくともしない。
しかし、掴まれた腕に不思議と痛みはなかった。いや、そうではない。そこから今まで体験した事のない感覚が桃樹の身体を襲った。
なでられるような、なめられるような、その異様な感覚が、ゾクリと、腕から上半身を伝い、桃樹の下半身に届く。
桃樹は思わず唸った。このままでは数分も持ちそうにない。
――それを救ったのは、桃樹の能力だった。
腕を掴んでいる鬼の手から、その鬼の記憶が濁流の如く、桃樹に流れ込んだのだ。
それは、肉体的感覚に勝り、桃樹の脳に押し寄せる。
桃樹の身体に今、歴史とも言える、鬼の長い半生の記憶が流れ込もうとしていた。 |