第三話 鬼の棲む島 十六
十六
次の日、岡町女子学園一年二組は朝食を終えると、そのままバスに乗って夕方までペンションには帰って来なかった。ひなたも綾音も朝食の時は寝ぼけた顔で、夕食の時は眠そうな顔で、終始ぼーっとしており、桃樹に話し掛けては来ない。
杏にしても何かよそよそしく、昨日の話題になると、あからさまに話をはぐらかせた。
桃樹は、まるで昨日の出来事が夢だったような錯覚に陥りそうだったが、あれが夢でない事ぐらいは判っている。ただ、みんな、その事に付いて話さないのは、それを夢であって欲しいと願っているからなのだろうか。
それでいいのか――鬼の襲撃は、一夜限りのことなのだろうか。
夕食の片付けが終わり、ペンションの裏でぼんやりとそんな事を考えていた桃樹は、稲野誠が丸太の階段を下って来るのに気付き、立ち上がった。
誠も桃樹の姿を認め、立ち止まる。
「昨日は、すまなかった」
一言だけで立ち去ろうとする誠の背中を、桃樹は呼び止めた。
「先生、鬼は……鬼は今日も来るのか」
誠は、昨日鬼と死闘を演じた桃樹に対し、知っている事は話す義務があると思っていた。しかしそうすれば、さらに部外者の彼の身を危険にさらす事になる。だが、
『彼女の事を守ってやって欲しい……』
昨日自分は、彼に杏の事をそう言った。既に自分のせいで、彼を巻き込んでしまっていたのだ。誠は自分の義務を、果たす事に決めた。
「私は今、母の所に行って来た。彼女が教えてくれたのは、今夜の儀式は行わないという事だけだ」
「じゃあ、もう鬼は来ないって事なのか?」
「すまんが、それは私にも分からないんだ。母は伝説に付いて、余り私に多くを語ろうとはしない。ただイレモノの使命だけをまっとうしろと、いつも言われるだけなんだ」
「その、イレモノって先生だけなんですか」
「そうだ。鬼に乗り移られたイレモノの第一子が、代々イレモノとしての能力を引き継ぐんだ。十六年前に死んだ私の父も、鬼のイレモノだった。そして、その父が鬼になって母と交わり、産ませた初めての子供が私なんだ」
「じゃあ、もし先生がいなければ、鬼は来ても何も出来ないんじゃあ……」
「それは、出来んのじゃ」
別の声に二人が振向くと、そこには正雄じいさんがいた。彼は浴場のボイラーの様子を見て、戻って来たところであった。
「鬼が来てイレモノがなければ、鬼は怒り、なり振り構わず周りの人間に入り込もうとする。イレモノでない者が鬼に入られると、その身体の変化に耐え切れず、鬼が抜けた後、絶命してしまうんじゃ。その上、入った鬼もその身体に満足出来ず、無茶具茶に暴れ何人もの人を殺す。これは何百年も前に一度あった事の言い伝えじゃ」
「そんな……じゃあ必ず、一人は犠牲にならなきゃダメなのか?」
「一人だけで済むんじゃ」正雄じいさんは、桃樹に諭すように話した。「鬼はな、昔、一年に一度イレモノに乗り移り、何人もの人を殺していたんじゃ。じゃがな、先祖の人間は鬼と契約を結ぶ事に成功した。生贄に一人、捧げるだけで済むようにな。それが処女なら、子を産ます為に関係を持ち、そうでなければ喰らう。この契約を変える事は出来ん」
「違う。私は契約を守るつもりはない。私は鬼を、鬼の魂を滅ぼしてみせる!」
誠は、正雄じいさんに、いや、自分自身に言ったのかも知れない。
その誠に、正雄じいさんは、少し悲しい目を向けた。
「お前さんも、鬼に逆らった者の末路を、知らん訳じゃなかろう。確かに生贄を捧げる事は、悲しい事かも知れん。しかしそれをしなければ、もっと悲しい事が起こる。それを考えるんじゃ」
「川西さん……それが分かっていても、私の考えは変わりません」
誠はそれ以上何も言わず、無言で背を向けると、その場を離れていった。
「あやつが鬼を憎むのは、仕方のない事だが……。しかし、鬼に逆ろうても、所詮人間には何も出来ん」
彼の姿が見えなくなると、正雄じいさんも勝手口に向かおうとする。
桃樹は、その姿を呼び止めた。
「待ってくれ、じいさん。おれは、あんたの気持ちの方が解らない。あんたは鬼が憎くないのか。自分の娘を喰われて、それでも鬼を野放しにするのか」
彼にはもう分かっていた。仏壇の写真。誠の人を喰らう記憶。神主の言葉。そして杏の中に眠るもう一人の女性。
「杏の母親は、じいさんの娘なんだろ。杏に自分達の事をじいさん、ばあさんと呼ばせるのは、本当にあんた達が杏の祖父母だからだ。あんたは自分の娘を鬼に喰われて、杏の母親を奪われて、まだ鬼の言いなりになるのか」
正雄じいさんは何も答えず、代わりに、勝手口に入るのをやめ、その横に置いてある椅子に腰掛けて星空を見上げた。
「お前さん。いろいろと、知ってしまったようじゃの」
彼は、煙草を取り出し火を点けた。深く吸い込み、ため息と共に吐き出す。
「わしの娘、やよいは、十六年前、鬼の生贄になった。まだ先代のイレモノ――誠の父が健在だった時だ。しかしその時、やよいは鬼を滅ぼそうと、古くからの伝説の通り、鬼を先代ごと薙刀で串刺しにしたんじゃ。神楽殿の壁にな。その光景は凄まじいものじゃった。発見した神主が、その後一週間以上寝込んでしまった程じゃ」
桃樹は昨日、杏の姿にやよいの幻を見た時の、あの神主の取り乱し様が目に浮かんだ。
「だがその時、やよいは鬼の子をはらんでいた。そして十ヵ月後、生まれたのが杏。誠と杏は異母兄弟という事になる。そして、その三ヵ月後、今と同じ八月に再び鬼は現れた。イレモノを先代から誠に代えて。伝説は嘘じゃった。鬼を滅ぼす事なんて出来んかった。やよいは絶望のあまり、再び鬼の生贄になり、そして喰われたんじゃ……」
「ま、まてよ、鬼の生贄は処女でなけりゃ喰われるって、分かってたんじゃないのか。それなのに、なぜやよいさんを生贄にしたんだ」
「鬼と交わったからと言って、誰もが子をはらむ訳じゃない。相性と言うか適正と言うものがあるんじゃ。だから鬼と交わり子を産んだ女には、鬼は何度も関係を持とうとする。実際、静子さんがまだ子を産める身体だった時は、毎年、静子さんが鬼と交わり、他に誰も生贄を取る事もなく、儀式は静かに行われていたんじゃ。やよいも、その役目を負う者だとわしは思っていた……。しかし甘かった。一度鬼を殺そうとした者を、鬼が許す訳がなかった。鬼はやよいと交わる事をせず、やよいを喰い殺した――」
桃樹は誠の記憶の中にあった、あの「人を喰らう音」がまた蘇りそうになり、必死で堪えた。
「あの時は悲惨じゃった。もちろん鬼に娘を喰われた、わしらの悲しみもあった。だが心の中で、半分は覚悟していた所もあったんじゃ。それよりも、喰った誠の方が悲惨じゃった。彼は鬼が抜けた後も、気が狂ったようになり、誰もがもう駄目だと思っていた。無理もない、初めてイレモノになった誠が、初めての生贄で人を喰ってしまったんじゃ。その時誠は、まだお前さんよりも若い、確か中学生だった筈じゃ……」
正雄じいさんが、まるで昔の思い出話を語るように淡々と話すおかげで、桃樹には彼の気持ちが結局解らなかった。いくら覚悟していたからと言って、自分の娘を喰われて、悲しみや怒りが無い訳はない。しかし、それをどこにも、やりようがなければ、自分ならばどうするだろう。きっと彼らには彼らの葛藤があり、そして今を迎えているはずだ。桃樹は、正雄じいさんに返す言葉が思い浮かばなかった。
「桃樹……」
正雄じいさんは煙草を仕舞うと、そこに突っ立ったままの桃樹の目を見た。
「わしはな、お前さんや誠の考えが間違っとるなんて思っちゃいない。特に誠が、鬼に怒りを抱くのはもっともな事じゃ。だがな、これは鬼に限った事だけじゃない。人間の社会にはな、不条理な事が山ほどあるんじゃ。国や警察、あらゆる権力や暴力、全てが時として、不条理に自分に襲い掛かる事がある。だからと言って全てに命がけで戦える訳じゃない。不条理と思っても、間違っていると思っても、それを呑み、生きてゆかなければならん時もある。死んだら全ておしまいなんじゃ」
そう言うと彼は、立ち上がった。
正雄じいさんの言葉は重く、桃樹の心にのし掛かる。そして、彼は勝手口の入り際でもう一度振向いた。
「鬼はな、今日も来る。言い伝えでは、鬼は目的を果たすまで幾晩もやって来るんじゃ。誰も止める事は出来ん」
ドアを閉める音が小さく響き、正雄じいさんの姿が消えた。
桃樹は何も言えず、夜空を仰いだ。そこには上弦の月が出ていた。
―― そして、第二夜が訪れた。
桃樹は風呂から上がり、自分の部屋に戻ったが、そこにも杏の姿はなかった。彼女は夕食の片付けが終わると、どこかへ行ってしまい、その後は姿を見ていない。自分の部屋に戻ったのだろうか。
桃樹は布団の上に、ごろんと横になった。
居たら居たでうるさいが、居なければ少し寂しい。桃樹は杏の事を少し想うと、
「ま、でも、そもそも一緒の部屋で寝ること事態が変だから……」
自分に言い聞かす様に声を出すと、杏の布団とは反対側、部屋の奥に向いて寝返りを打った。
そこに、ドアをノックする音が聞こえた。
「開いてるよ」
桃樹は言ったが、入って来る様子はない。どうやら杏でも、ひなたでもないようだ。
「あの、開いてますけど、どうぞ……」
桃樹は言いながら立ち上がり、自らドアを開けた。
そこには、静子が立っていた。
「少しお邪魔してよろしいかしら……」
「あ、はい。どうぞ……」
桃樹は静子を招き入れると、慌てて布団を畳んで、座布団を差し出す。
「あら、ごめんなさい。もうおやすみだったかしら」
「いえ、まだ、眠るわけにはいきませんので……」
桃樹は、静子に警戒しながらそう言った。彼女が神主側の人間である事は分かっている。昨日の事、それとも今からの事で、自分に何か言いに来たに違いない。
静子は座布団に座ると、直ぐに話し出した。
「実は、杏の事でお願いがあるんです」
〈ほら来た!〉桃樹は心の中で身構えた。すると、
「梅田君に、杏を助けて欲しいんです」
彼女が話し始めた事は、桃樹の予想とは違ったものだった。
「昨日、儀式が失敗に終わり、杏は今日、自分が生贄になろうとしているのです。」
「えっ……」
杏が今日、自分と余り話したがらなかったのは、その決意の為だったのだろうか。
「梅田君は、私が杏の本当の母親でない事を、もう知っていらした?」
「は、はあ。昨日少し、その、神主さんが言ってましたので」
「そう。でもね、あの子の実母が死んで、私はあの子を引き取り、我が子同然に育ててきたつもりなの。そりゃ、多少厳し過ぎる所もあったかも知れないけど、それはあの子を思っての事、立派な女性になって欲しかったから……」
「はあ」
桃樹は少し変だと思いつつも、一応彼女の話を黙って聞いていた。
「だから、あの子が鬼の生贄になるなんて、母親として耐えられないのです」
「で、でも、あなたも鬼と、その、交わって誠さんを産んだんじゃ……」
「そうです。そして杏の実母もです。誠と杏は、母親は違うけれど兄妹なんです。いくら誠が鬼になるとは言え、兄妹同士で交わるなど、許せる訳がありません」静子は、手を握り締めた。「鬼と交わったからといって、鬼の子をはらむ女性は稀なんです。死んだ夫も、何人もの女性と交わって来ましたが、私が誠を産むまでは、鬼の子をはらむ女性にめぐり逢わなかったのです。鬼の子をはらむのにも適正があって、それは遺伝すると言われてます。だから杏は、非常に鬼の子をはらむ可能性が高いんです。杏に誠の子を産ます訳には行きません……」
〈結局は、そんなところなんだろ……〉
桃樹は、彼女が何を言いたいのか解って来た。
静子は、杏の身を案じている訳でなく、昨日の様にまた杏が鬼を殺そうとするか、それが失敗しても、兄妹同士で交わり、誠の子を作るのが嫌なのだろう。誠に今日は儀式がないと嘘を言ったのも、その為なのだろうか。
桃樹は、彼女との会話を早く終わらせたかった。
「で、おれにどうしろと……」
「杏は今、神楽殿にいます。鬼が来るには、まだ時間があります。それまでに杏を説得して、生贄になるのをやめさせて欲しいんです」
「そう言う事なら、解りました」
桃樹は同意した。静子の本心はともかく、目的は桃樹も同じだ。杏を生贄にする訳には行かない。
立ち上がり、深々と頭を下げると、静子は部屋を出て行った。
彼女の足音が消えた後、桃樹は寝転がり、杏をどうやって説得しようかと思案に暮れた。しかし、唯でさえ突拍子もない態度を取る彼女に、どんな言葉で説き伏せれば良いのかなんて、彼に思い付く訳はなかった。
〈最後は力ずくか……〉
桃樹は立ち上がり、身体に杏の歯型がまた増える事を覚悟しながら、部屋を出て行った。 |