第三話 鬼の棲む島 十一
十一
稲野誠は、住職から花をもらって本堂を出た。
朝活けてあった筈の花が、風にでも飛ばされたのか、全てなくなっているのに気付いたからである。
叔父に車を借りて、花屋迄往復してもよかったのだが、ここに来たついでに、久し振りに寺の住職を尋ねよう思っていたので、ちょうど良かった。
誠は木の根元に埋めた竹筒に、住職にもらった花を入れ、そこから足元に広がる海に向って手を合わせた。
毎年、彼女の墓参りには行くが、ここに来たのは四年振りだった。もうここに来るのも、彼女の墓に参るのも今年で最後になるかも知れないが、これ以上彼女のような犠牲者を出さない為には仕方のない事だ。
誠は祈りを終え、戻ろうとして振向いた。すると、向こうから近づいて来る者がいる。
その者は、こちらが気付くと小走りでやって来た。
「稲野先生、すいません。向こうからあなたの姿が見えたもので……」
そう言って境内の方を指差す。
「ああ、君は川西さんところでバイトしている、えっと……」
「梅田です。梅田桃樹です」
「そうだ、梅田君だ。川西さんから聞いたんだが、杏が随分と世話になっている様で申し訳ない」
「いえ、そんな、とんでもない」
誠が頭を下げたので、桃樹は慌てて手を振る。
「あいつも年頃になって変わったのかなぁ」誠は頭を上げると、空を見上げ少し笑った。「昔は、恐ろしくてあいつに近づく男なんていなかったんだよ。あいつ、特に男に対しては凶暴で、手が付けられなくてね。少しは女の子らしくなったのだろうか」
「いえ、そんな……」
桃樹は嘘は上手くない。
「ははは、そうか、じゃあ君も大したもんだ」
そう言った誠の足元で、今朝、杏が海にばら撒いてしまった筈の花が、また風に揺れているのに桃樹は気付いた。
「あの、その花はあなたが? その、四年前死んだ女性の供養ですか……」
「ああ、これか……」
答えた誠の目が急に冷たくなったと思うと、彼は桃樹の質問に答えず、代わりに質問を返した。
「君はどうやら、いろいろと知っているようだな。杏にどこまで聞いたんだ?」
桃樹は一瞬迷ったが、正直に話す事にした。彼から話を聞き出すには、こちらのカードも切る必要がある。
「はあ、少し、鬼の……話とか。あなたが鬼になるって事を……」
桃樹は、ゆっくりと彼の反応を見ながら話をしたが、誠は意外にも、彼の話を聞くと笑顔になった。
「そうか、君は杏にかなり気に入られてるようだな」
それだけ言うと、誠は桃樹を通り過ぎ、帰ろうとする。結局何も言わないのか――桃樹が思った時だった。誠は足を止め、桃樹に背中を向けたまま話し出した。
「君が、杏の事をどう思っているのかは知らないが、少しでも好意を持っていてくれるのなら、彼女の事を守ってやって欲しい。なるべく彼女が、私に余計な事をしないように。私は彼女を傷つけたくないんだ。頼む」
そう言って、また歩き出そうとする背中を桃樹は引きとめた。
「稲野先生。それは随分身勝手な言い方じゃないですか。自分から彼女を守ってくれと頼むんだったら、あなた自身が、彼女を傷つけないようにすればいい事だろ」
振り返った誠は、悲しい顔をしていた。
「そうだな……すまん。ただ正直、自分にも自信はないんだ。私はただの『イレモノ』に過ぎないから……」
「イレモノ?」
桃樹には、当然その意味はわからない。
「そうだ、すっかり忘れてた。」
誠は、まるで今までの会話がなかったように、明るい顔でポケットに手を入れると小銭を取り出した。
「はい、お釣り。叔父さんから預かってきたんだ」
「あっ」
桃樹は、おみくじ代のお釣りの事をすっかり忘れていた。誠が手を出したその下に、受け止めるように手のひらを出す。誠はその上にお釣りを置いた。
その時、桃樹の手のひらに誠の指が微かに触れる。
そのほんの瞬間に、誠の記憶が濁流のように伝わった。
女のあえぐ顔。
恍惚とした表情。
その顔が激しく揺れる。
明らかにそれは、性行為の最中だった。
ふと、女の顔が苦痛に変わる。
しかしまた、快楽にあえぐ顔に戻る。
何度かそれを繰り返した後、急に真っ暗になり、女の顔が見えなくなった。
しばらくすると、少しづつ視界が戻って来た。
しかし、それはぼんやりとして、ゆらゆらと揺れている。
肌色をした何かがぼやけ、ゆらゆらと揺れている。
ゆらゆらと揺れながら、その肌色がだんだんと輪郭を帯びてくる。
ゆらゆらと。
そのゆらめきが、水だと気付いた瞬間――
急激に肌色が浮かび上がり、水面から女の顔が飛び出した。
桃樹の眼前にその顔が迫る。
それは、水死体となった女の顔だった。
桃樹の驚愕と共に、誠の記憶の濁流は止まった。
「あれ、足りなかったかい?」
桃樹の驚いた顔を見て、誠は首を傾げる。もし釣が足りなかったにしても、余りにも大げさ過ぎる表情だ。桃樹は必死で自分の意識を現実に戻した。
「いえ、足りてます。どうも……」
「そうか、じゃあ」
桃樹は、女の死顔が鮮明に瞼に焼き付いてしまい、背を向け、立ち去ろうとする誠に、触れる勇気はなかった。
しかし同じ誠の言葉が、逆に彼を奮い起たせた。
『彼女の事を守ってやって欲しい』
そう。その為には、あんたが何者なのか、知らなければならない。
「待ってくれ!」
誠は立ち止まった。桃樹はその背中に問い掛けた。
「あんたが、四年前、この女性を殺したのか」
桃樹は駆引きを知らない。その直接過ぎる質問に答える筈もない男は、しかし歩を進めると同時に、確かな答えを口にした。
「そうだ……」
その背中は、歩きながらさらに続けた。
「ただ、言い訳をさせてもらうなら、私が直接手を掛けた訳ではない。その女性はこの道を錯乱状態で歩き、あの崖から海へ落ち、泳ぐ事も忘れ、そのまま溺れてしまったんだ……しかし、その原因を作ったのは確かに私だ」
桃樹は、誠が嘘を付いているとは思わなかった。確かにその女性の直接の死因は事故だったかも知れない。ただ、彼女を錯乱状態にした原因は何なんだ。
『彼女に残された体液は、人間のものではない』
父はそう言った。
あんたは、人間じゃないのか?
桃樹は意を決し、後ろから誠の肩に手を掛けた。
その瞬間、すぅーと、桃樹の視線は誠の後頭部をすり抜け、彼の視線と重なる。彼の見える物と同じ物が桃樹にも見えた。しかし、それは今現実の景色ではなく、誠の記憶の中の映像だった。
突然、その視界が、急に身長が伸びた様に高くなった。
その視線は、少女を見下ろしている。
その少女を、桃樹は知っていた。
いや、何者かは知らない。
ただ、じいさんの部屋で見た、仏壇の写真の少女である事はわかった。
その少女の両肩に、自分の手が乗せられた。
自分の手? いや、なんだこの手は。
手の甲はゴツゴツと、まるで岩のようであるのに、指の先は長く、さらにその先の爪は鋭く尖っている。
その手は、少女の肩を力いっぱい握り締め、その尖った爪を少女の肩に食い込ませた。
痛みで一瞬少女の顔が歪んだが、少女はその後、目を閉じ、安らかな顔になった。
その顔は、全てを諦め、死を迎え入れる事を決心した顔であった。
桃樹は、次に何が起こるのかを、映像の前に知った。
それは、それを悟った誠の記憶が、先に桃樹に伝わったからかも知れない。
桃樹は慌てて、記憶の伝達を止めようとした。
しかし間に合わない。
恐怖が先に襲いかかる。
その恐怖は、自分自信の心なのか、誠の記憶なのか、混乱した桃樹にはもう区別は付かない。
自分の視線は、ゆっくりと彼女の顔に近づく……
そして――
映像はブラックアウトした。
しかし、その暗闇の中で音だけが聞こえる。
グシャ、グシャ。
グシャ、グシャ。
何かを咀嚼する音。
グシャ、グシャ。
桃樹は今、自分がその少女を、頭から喰っている事を知った。
丸呑みではない。
歯が少女の身体を引きちぎり、咀嚼し、胃袋に収める。
あまりの恐怖に、桃樹の能力の制御は利かなくなっていた。
誠の記憶の流れは、止まらない。
映像はないが、音だけが伝わる。
グシャ、グシャ。
その音は、少女を全て喰い尽くすまで止まらなかった。
気が付くと、桃樹はその場に崩れ落ち、膝を付いていた。
誠の叫ぶ声が、遠くで聞こえる。
「――したんだ。……どうしたんだ」
次第に意識が回復してきた。
「おい君、どうしたんだ」
誠は、自分の肩に手を掛けたと思った瞬間、その場に倒れ込んでしまった桃樹の腕を肩に掛けて、どうにか立ち上がらせた。
「君、どこか具合でも悪いのか?」
桃樹は何か話そうとするが、声にならない。誠は桃樹の顔色を見て、これ以上聞くのをやめた。
「まあいい、もう話すな。とりあえず、川西さんの所まで戻ろう」
誠は桃樹に肩を貸し、ゆっくりと境内への道を歩き出した。
夏の日差しは大分と傾いていたが、まだ夜には遠い。
ただ、それでも、夜は必ずやって来る。
桃樹達は、その儀式の夜を迎えようとしていた。 |