第三話 鬼の棲む島 五
五
桃樹はその日、彼を起こしに来た加奈子ばあさんの悲鳴で目覚めた。
「ひっ、あ、あんたたち、何やってたんじゃ」
桃樹が寝ぼけた顔で、いつもより重く感じる上体を起こすと、どうりで重い筈で、桃樹の身体には杏が絡み付いている。
「わっ! 杏、何でこっちにいるんだよ」
昨日の夜、桃樹は外で寝ていた杏を、部屋まで連れて帰った。その杏を布団で寝かせて自分は部屋の隅の畳の上で寝ていたのだが、起きて見ると、その部屋の隅の桃樹に杏が抱きついていた。せっかくの布団は誰も寝ていない。
二人の大声に杏も目覚め、むくっと起き上がる。
「あ、桃樹おはよう」そう言って振り向く「あ、ばあちゃんもおはよう」
加奈子ばあさんは驚きの表情から呆れた顔になった。
「杏、あんた夜這いかけたのかい?」
「違うよ、ばあちゃん。あたしは桃樹に無理やりここに連れ込まれたんだ」
加奈子ばあさんの視線は桃樹に移る。
「い、いやそれは……」
桃樹は事情を説明しようとするが、寝起きで頭が回らない。
「大丈夫だよばあちゃん。何もエッチな事してないから。一緒に寝てただけだ」
「そ、そういう問題じゃない」
桃樹は杏を突き放し、罪人になりかけている自分を必死で弁護する。
「昨日、杏が外で寝てたから、それでおれが……」
「無理やり連れ込んだんだろ」
突き放された杏は、もそもそと、またも桃樹に絡み付く。
「そうかい、またあんた静子さんに閉め出されたのかい。一体何しでかしたんだ」
加奈子ばあさんは事情が把握出来たらしく、とりあえず桃樹はほっとすると、絡み付く杏を振り解き立ち上がった。杏はまだ寝転がったままだ。
「わかんない。昨日は鬼ババの機嫌良かったハズなのに、帰ったら鍵掛かってて入れなかったんだ」
「そうかい。静子さんにも困ったもんだけど……。そうそう桃樹、もうすぐお客さんくるから支度してちょうだい」
「はい」
桃樹は、ハンガーに掛けてある道着と袴に手を伸ばした。昨日夕食の時に、川西夫妻がそれを着ていた桃樹の姿を見て、「似合うからそれで接客すればいい」と、言ったのだ。桃樹は剣道着で慣れていたので特に抵抗はなかったし、一緒に働く杏が巫女装束なので、彼女曰く、「桃樹とお揃いだー」と、いう事になった。場所柄なのだろうか、川西家にもそれらの服は沢山あったので、着替えには困らなかった。
「じゃあ、あたしも支度しよ」
と杏は言ったが、彼女は巫女装束のまま寝ていたので、そのままだ。
「杏は先に風呂入んなさい。昨日入れなかったんだろ」
加奈子ばあさんが言うと、杏は「あーそーだ」と言っていきなり袴の紐を解き、その場にバサっと脱ぎ捨て、白衣も乱暴に脱ぎ捨てる。
「わっ」と、桃樹はびっくりした。
杏の袴の下は裾除けもなく、白衣の下には長襦袢でも半襦袢でもない、膝上二十センチぐらいの襦袢一枚きりで、むき出しの細い足の根元はかろうじて隠れているが、少し動くとショーツが見えそうになる。
何食わぬ顔をしていた杏だが、桃樹の反応を見てニヤッと笑った。首を傾げて顔を覗きこむ。
「ももきー、ドキっとした?」
「するか!」
桃樹は正直かなりドキドキしたのだが、彼にも意地はある。
「そっかー、つまんない」杏はくるっと振り返る。「ばあちゃん着替えある? パンツも?」
「あるよ、出しとくから、早く入りなさい」
「あーい」
杏は走って部屋を出て行った。
彼女が廊下の端に消えたのを見送ると、加奈子ばあさんはしみじみと桃樹に言った。
「あの子、こんなに人になついてるの、見るの初めてだよ。桃樹、すまないけど、あの子の相手もしてやってね」
「あ、はぁ」
桃樹は平静を装いつつ、ドキドキしてしまった自分の胸に手を当てて、少し笑った。
ただでさえ朝が弱いのに、四時半という恐ろしい時間に起こされ絶不調の中山ひなたは、船から下りると石ころを蹴飛ばし、靴を引きずってバスへと向った。その顔はその態度と同じく、不満いっぱいで脹れている。
「ほら、やっぱりまたハズレじゃん」
そう言って彼女は、バスの一番後ろの座席の石橋綾音の隣に座った。
「何がハズレなの?」
脹れっ面のひなたとは対照的に、石橋綾音は明るい笑顔でそう聞いた。
「だって三組から五組は大きなホテルで、一組は少し小さいホテルだけどすぐ前が砂浜で、あたし達二組だけよ、ボロっちいペンションで周りなーんにもない所に泊まるのは! このバスだって一番ボロじゃん」
不満たらたらのひなたに、綾音は楽しそうに答える。
「バスなんか十五分も乗ってないわよ。だいたい林間学校って言うからにはホテルなんかじゃなくて、ロッジやそういう施設のある宿舎に泊まるのが普通でしょ。おかしいのよウチの学校は、スケジュールだって自由行動ばっかりだし、これじゃただの旅行よ」
「えー、それがウチのガッコのいいとこじゃん。みんな、そんなウチのゆるーい校風に惹かれてこの学校に来たんだから。誰かさんみたいに、先生目当てで入学するコなんていないわよ。それにいいじゃん、綺麗な方が。あのキャンプ場の虫がいっぱいいるトイレ、考えただけで行くのイヤでおしっこ漏らしちゃうわよ」
バシッ!――綾音はひなたの頭を殴った。
「いたーい。殴んないでよ。暴力反対」
ひなたは頭を抱えて抗議したが、綾音の目は冷たい。
「バカは殴っていいのよ。女子高生が『おしっこ漏らす』なんて恥ずかしい事言わないの」
「だって……」
「あのペンションは大丈夫よ、トイレだって水洗だし、お風呂も少し大きくて、ホテルなんかより楽しいよ。それにあそこの裏にはね、神社とお寺だってあるのよ」
「そんなのあってどーするのよ」
ひなたは白けた顔で綾音を見る。
「夜になったらね、肝だめしだって出来るわよ〜」
綾音は手をだらーんと下げてひなたに乗り掛かかった。
「えーそれってちょっといいかも〜。って、ダメダメ!」
ひなたは綾音を押し返す。
「どうしてよ」
「だって、怖がって抱きつく男子もいないんじゃ、肝だめしの意味ないじゃん。ダメよねー女子高って」
「ふーん。そんな事ないわよ――」
綾音は前を向いた。その視線の先には、一番後からバスに乗り込んだ一年二組担任の稲野先生がいる。
「よーし二組、全員乗り込んだか。出発するぞー」
バスは稲野先生の「お願いします」の合図で動き出す。稲野先生は後ろを向いたまま、生徒達に今後の予定を話し出した。
「よし、バスがペンションに着いたら各自決められた部屋に荷物を置いて、三十分程したら朝食だ。それが終わったら、もう一度バスに乗って移動だ……」
綾音は稲野先生の話をじっと聞く。いや、話をしている先生の顔をじっと見つめている。と言った方がいいかも知れない。一方のひなたはその綾音の顔を見て呆れていた。
「綾音ぇー。あんた相変わらずねぇ。あんなクソ真面目で面白くもない男のどこがいいんだか」
そう言われると、綾音はハート型だった目を鋭く尖らせてひなたを睨む。
「何言ってるのよ、男の趣味であなたにとやかく言われる筋合いはないわ。あなたの彼氏なんか、そりゃ面白いわよ、顔が。ブサイクコンテスト一位の漫才師みたいじゃない」
「あ、あんな男、もう関係ないわよ!」
「えっ、ひなた? もしかして、あんなブサイクな男にまで捨てられたの? だいたい前の男だって、そりゃ顔は少し良かったけど、いつもホストみたいなカッコしててさ、案の定さんざん貢いだ挙句に捨てられたんじゃない」
二人の会話を聞いていた周りの女子もクスクス笑い出した。ひなたの顔は真っ赤になる。
「ちょ、ちょっと何でこんな所で、綾音にあたしの男性遍歴をばらされなきゃなんないのよ! 綾音だって『稲野センセー』なんて色目使って近寄っても、先生に全く相手にされてないじゃん」
「ふふふふふー、そんな事ないわよ」
綾音が不敵な笑いを浮かべたので、ひなたはびっくりした。
「も、もしかして綾音、先生ともう、こんな事やあんな事を……」
「ち、違うわよ!」
綾音は手をばたばたさせて否定すると、聞き耳を立てている周りの女子に聞こえないよう、ひなたに耳打ちした。
「わたしと稲野先生はね、この林間学校で結ばれる運命なのよ」
それを聞いたひなたは、つまらなさそうに椅子に深くもたれる。
「なーんだ、いつもの綾音の妄想癖か」
「妄想じゃないわよ。これは古くから伝わる伝説なの。そしてわたしの運命」
綾音は指を組んでうっとりとした目になった。ひなたは「勝手にしろ」と言って肘をつく。
「でもさ、この前雑誌で読んだんだけど、女子の友達って男の趣味が違う方がうまく行くんだって。そりゃまあ男取り合う事ないからね」
「そうね。だからわたしみたいな優等生と、ひなたみたいな落ちこぼれでも、仲がいいのね」
綾音は明るい笑顔で微笑む。
「あたし、あんたの友達やめようかなぁ」
ひなたの顔は、元の脹れっ面に戻ってしまった。
杏はさっきから、ぴょんぴょん跳ねて喜んでいた。
お風呂に入って着替えた巫女装束が、ほぼ新品だったのでとても嬉しいようだ。袴の朱も鮮やかだった。
「どお、ももきー。似合う?」
杏は桃樹の前に立ち、袴の端を持って首を傾げる。
桃樹は、彼女の態度の急変ぶりに少し戸惑っていた。昨日あれだけ攻撃的だった彼女が、桃樹への警戒心がなくなったからだろうか、今日はとても馴れ馴れしい。
「似合うも何も、杏のその格好しか、おれは知らん」
桃樹はぶっきらぼうに言う。
「あーそーか」
「杏、普段どんな服着てるんだよ」
「普段って、学校行ってる時は制服で、あとはずっとこれだ。他に服なんてないよ。鬼ババが買ってくれないんだ」
「えっ」桃樹は、〈こいつの家庭って一体……〉と不審に思う一方、杏に変な事を聞いてしまったと、少し申し訳なく思った。
「そ、そうか。でも、その格好が一番似合ってると思うよ。うん」
「へへへ、そうか」
杏が嬉しそうに笑ったので、桃樹は少し安心する。
そこに、バスの到着する音が聞こえた。
桃樹と杏は、バスを迎えに、いそいそと玄関を出て行った。 |